PLEASE

 電話が鳴った。帰宅したばかりだった俺は溜息をつき、無視してしまおうとも思ったが、患者になりたい誰かからの電話だったら申し訳ない。営業時間外ではあるが。
 はい、と日本語で出る。名乗りはしない。職業柄、それとも商売柄か。長年、俺は電話で名乗ったことがなかった。
 受話器の向こうから聞こえた声で、俺は僅かに笑ったかもしれない。正確に言えば笑いたかったのかもしれない。
連絡もせず長く家を空けていたことは責められなかった。ただ、自分に紹介できることではなかったのかとは問われた。俺はまともな応えをする気になれず、相槌を打ちながら聞く一方だった。
 やがて諦めたのか、溜息を隠そうとして失敗した声が聞こえる。
『だから──』
「今日はまだ忙しくてね」
 まだ少しばかり、するべきことが残っている。それが済むまでは俺の仕事は終わらない。
「また電話するよ」
 いつもなら愛しているよと必ず言ってから電話を切る。でも今日は言わない。あいつだって分かっているはずだ。だから言わなかった。
 そう、今この瞬間、俺は恋人を愛しているとはとても言えない。
 診察室にこもり、今回の仕事で違う次元に案内した患者のカルテを読み直す。スペイン人、病気、家族構成、好きなもの、嫌いなもの、幼い頃の思い出、幸せだった瞬間、そうでもなかった瞬間──患者が俺に自由に語ったすべてを記したカルテを詳細に、隅々まで読んだ。何度読んだことか。案内する前に俺に自分を知って欲しい──誰かに自分を知って欲しいと望む患者がいれば聞くし、カルテに記す。
 患者の人生のほんの一部だ。生きた全てなど語り尽くせるものではない。満足するまで語りたいなら語ればいい。俺は聞きたいから。他の誰にも聞かせたくないのなら二人だけで。誰かに聞かせたいのなら皆で。だが大抵、俺に語る患者は身内がいない。本当かどうかは知らない。だがいないと言う。俺だけに語る。俺は全ての愛をもってその話を聞く。そして患者を愛する。
 何度も読み返し、カルテに記された名前を最後に指でなぞる。
 今までエスコートして来た患者たちと同じように、診察室のシンクでカルテを燃やした。炎は穏やかに、患者の人生を綴った文字と患者の名前を灰にしていく。
「おやすみなさい」
 俺の言葉は自己満足かもしれない。きっとそうだろう。だが愛した患者へ囁く、さいごの愛の言葉であることは間違いない。
 この瞬間までが俺の仕事だ。誰にも話したことはなくても、俺だけが知っていればいい。
 診察室の鍵を閉め、バスルームへ向かう。長旅の疲れを癒やしたかった。俺のものではないソープを見つけて、そしてユリのものではないと気付いて、ああそうか、と呟いたかもしれない。苛立ったりすることはなかったが、ああそうか、そう言えばいつもはいるのだから、来るのだから、と漠然と思った。
 直すつもりはない。いいや、直すって何だ? 俺は間違っていない。こればかりはどうしようもない。だから直す、じゃない、変更するつもりはない、と考えるべきだ。そう、変更するつもりはない。俺のやり方を──愛の在り方を変更するつもりなどない。
 エスコートする患者に全ての愛を与える。俺が持ち得る愛の全てを。空っぽになるまで。だから仕事を終えた時、俺の中に愛は何もない。少しずつじわりじわりと取り戻して行く。いつも忘れる。どうやって愛を再び取り戻しているのか。──思い出しているのか。
 22時。俺にとってはまだそこまで遅い時間でもない。だがするべきことがない。したいことも特にない。移動疲れもあることだし、少し食べて寝酒を飲んで寝るのが一番だ。インテリアを兼ねたリビングのディスプレイからいつもの酒を取り、グラスを用意するためにキッチンへ行く。
 カップボードの中に北欧風のマグがあった。色違いで2個。ああ、俺のとあいつの。俺はこんな柄は好きじゃない。あいつが喜びそうだから買っておいただけだ。俺とペアで使いたいだろうから2個。
 クラッカーとチーズを用意するために少しキッチンを歩くだけで、ああ、と思うことが多い。甘ったるいキャンディにグミ、チョコレート、クッキー。俺は食べない。あいつがいる時に口に放り込んでやるために買い置きしてあるだけだ。冷蔵庫の中の桃のネクターもザクロのシロップも、俺は飲まないし使わない。あいつに酒を作ってやる時にだけ──もういい、考えるのも面倒だ。どうせ洗面所に行けば俺が使わない歯ブラシがある。洗顔フォームも。寝室に行けば服も下着も。
 閑静な地域だ。そんな場所の静かな夜の中、遠くに車の音が聞こえた。近づいて来る。勝手に敷地内に停める音もした。放っておいた。どうせ勝手に入って来る。
 それでも少し意外だった。いつもなら取り敢えず電話なりで文句を言うだけ言って満足した後は、俺が連絡するまでおとなしくしている女なのに。俺に愛を向けてもらえない時間が嫌なんだろう。あいつは愛に臆病で、弱い。
 やっぱり勝手に入って来た。リビングにいる俺に挨拶もしない。どうせ俺も返さないからどうでもいい。別に意図的に返さないわけじゃない。どうでもいいからだ。
 いつもの服といつもの医療鞄、それから何か荷物を持っている。相変わらず化粧っ気がない。俺は洒落た女と遊ぶのが好きだったのに、綺麗な顔立ちとはいえどうしてこんな女と──ここまで考えて何かが引っかかった。愛がない時間でも考える必要がないことなんだと思い出した。
 荷物の中から取り出されたのは弁当箱だった。流石に面食らった。俺の家に弁当を持って来たのか。しかもやたら大きい。ハイスクールのスポーツ少年なら平らげるだろうってそれをどんとコーヒーテーブルに置いて、俺の向かいで蓋を開ける。
 今度は呆れた。肉だ。
 肉しか入っていない。馬鹿でかい弁当箱には焼いた肉、ただそれだけがぎっしりと詰まっていた。
 何だこいつ、と呆気に取られている俺の前で、BJは今度は箸箱を出す。日本の弁当グッズはいちいち便利で品がいい。こいつの仕事の顔しか知らない奴ならギャップを感じそうな可愛いウサギ柄の箸が出て来た。
「いただきます」
 俺に言っているわけじゃないから放っておく。BJは俺の目の前で姿勢良く、そして勢い良く、だがそれなのになぜかうまいこと品良く肉を食べて行く。一言も喋らずひたすら食べる。俺はすることもなく、酒を飲みながらその姿を見る。
 箸を持つ手の指、弁当箱に添える手の指に、絆創膏がいくつも貼ってある。珍しい。それから気付いた。肉の形がいやに不揃いだ。幼女の顔をしたあの女が作ったとは思えないほど不格好と言えばいいのか。
 ああ、そうか。そう思った。肉もろくに切れないのか、この女。いっそメスで切った方が安全なんじゃないか。料理全般が絶望的なことはよく知っているが、それにしても酷いもんだ。──そうか、よく知ってるか。そうだな。こいつのことは大抵。全てではなくても。
 肉の脂がついた唇は丸みを帯びている。睫毛が長い。きめ細かい肌。
 ぼんやりと見ている、眺めていると言ってもいい俺の前で、肉は次々と唇の中に消えていく。よく食うもんだ。そうだ、こいつはよく食う。最初は驚いた。でもすぐに分かった。頭の回転が速すぎてエネルギーが異様に消費される。そんなタイプだ。要は天才だ。甘いものをやたらと食べるのもそれが関係──多少はあるだろうが、まあ、単に好きなんだ、こいつは。
「ごちそうさまでした」
 俺の目分量でゆうに400gを平らげたBJは箸を置き、目の前で手を合わせて弁当箱に挨拶をする。そして弁当箱と箸箱を持ってキッチンへ行った。すぐに水音が聞こえたから洗い物をしたんだろう。
「風呂に入る」
 キッチンから戻って来た女はなぜか俺に宣言する。勝手にすればいい。形だけでもどうぞと言っておいてやろうかと思ったら、またBJが宣言した。しかも今度はなぜか偉そうに。
「私を食べていい」
 偉そうに言った次の瞬間、耳まで赤くなった光景は中々の観物だった。
 だが特に反応しない──いや、多少ならず驚いたのは事実だが──俺に業を煮やしたのか、真っ赤なまま勝手に説明を始めた。
「肉を食べると元気が出る」
「……トリプトファン」
「あ、喋った」
「悪いか」
「別に」
 自分でも分かる程度にはいつもより無愛想な声に、BJは唇を少し噛んでから──何かを我慢する時の癖だ──言った。
「トリプトファンを摂取するとセロトニンが出る。幸福物質。つまり私は数十分の間に幸福物質を平均的な女性より多く含有することになる」
「馬鹿か」
「馬鹿で結構。とにかくそういうことだ。おまえさんは食べるべきだ」
「論旨不達」
「──わたしと! 目一杯! セックスしろってこと!」
 耳までどころか縫い傷まで真っ赤にして、BJは怒鳴った。驚いた。
 驚いた。急にじわりと何かを感じた。ああ、これは──
「食べさせてやろうって言ってるんだから。だから、あれだってば。食べないと死んじゃうから食べさせてやろうって!」
「……求愛給餌?」
「それ」
 いつだったか、そうだ、そんな話をした。鳥のつがいの習性にかこつけて、いい女をものにしたい時には美味いものを食わせるって話。
 BJはまだ真っ赤だった。俺は半ば唖然としたままその赤みを眺めていた。それから、ああ、そうか、そうだよな、と思った。
 俺が口を開く前にBJはくるりと身を翻し、リビングから出て行った。ほどなくしてバスルームからシャワーの音が遠く聞こえる。
 煙草に火を点けて、深く吸う。じわりと感じた何かはいつの間にか大きくなっていた。煙と溜息を混ぜ合わせて吐き出した。
 飲み終えたグラスをキッチンのシンクへ持って行く。洗い終えた大きすぎる弁当箱と、妙に可愛らしいウサギの箸があった。
 洗ったグラスをカップボードへ戻す。北欧柄のカップが目に入る。
 じわり、が、広がる。
 俺が好きじゃない柄のカップ。俺が食べないキャンディにグミ、チョコレート。冷蔵庫の中には俺が飲まない桃のネクター、使わないザクロのシロップ。
 寝室には。洗面所には。バスルームには。
 思い出すたびに広がるそれは──ああ、随分と早かった。今回は随分と。
 ひとつひとつ、家の中にあった愛をなぞっていた。無意識に。
 弁当箱とウサギの箸を片付ける。
 今回は随分と早かった。
 バスルームへ行った。服を着たまま、声もかけずにドアを開けた。高い位置のフックにシャワーを掛けて頭から湯を浴びていた女が振り返るのと、俺が女を抱き締めるのはほぼ同時だった。
 振り返った女が泣いていたことは知っていた。リビングを出る前から涙を堪えていたことも。
 今回は随分と──早く、そう、早く思い出した。
「ごめんね」
 持ち得る全ての愛を欠乏させた俺に、持ち得る全ての愛を集めて、叩きつけるように、それでも必死で与えた女は何も言わなかった。ただ、絆創膏だらけの指で、ぎゅう、と俺の濡れたシャツを強く掴んだ。
 酷いことをした。
 仕方ない、変更する気はなくても確かにそう思った。事実だった。
 愛に臆病で弱い女が、どれほど勇気を振り絞ったのか。分かっていてもろくな返事をしない俺にどれほど不安を感じたか。どれほど怖かったか。
「指、後で診てあげる」
「うん」
「痛い?」
「うん」
「怖かった?」
「うん」
 シャワーの音でかき消されそうなほどBJの返事は細く、泣き声だ。俺にしがみついたまま顔も上げない。だから俺はキスができない。俺が抱き締め続けているからかもしれない。
「ごめんね」
「うん」
 馬鹿キリコ、と普段なら減らず口のひとつも返ってくるのに、今はただ泣き声で頷くだけだ。不安だったろう。怖かったろう。おまえをこんな目に遭わせた奴が俺だなんて、酷い話だ。
 酷い話だ。もっと早く思い出すべきだった。いつもより早く思い出したからと言って、それは決してこの女にとって早いはずがない。ほんの数時間でもひどく長く感じただろう。
 それでも必死で俺に愛を与えた。死んでしまうから。勝手にそう思って。馬鹿な女だ。いつものことなのに。分かっているくせに。本当に馬鹿な女だ。
 やり方を変えられない馬鹿な俺に相応しい、馬鹿な女だ。
 こんな求愛給餌、他の誰にできるって?
 おまえしかいないよ。
 馬鹿だね。
 可愛いね。
「クロオ」
 名前を呼ぶと顔を上げた。降り注ぐシャワーの湯でも流し切れない涙が痛々しかった。安堵のあまり止まらなくなったんだろう。
 言ったらきっと声を上げて泣いてしまうだろう。その程度には俺は俺の女のことを分かっている。それでも言わなければいけないことがあった。
「ありがとう。──愛してるよ」
 ほらやっぱり、途端に声を上げて泣き出した。
 酷いことをして泣かせたのに俺は幸せだった。
 ごめんね、愛してるよと繰り返しながら俺は目元に、頬にキスをする。何度もする。愛してるよと何度も言う。幸せだった。酷いことをしたのに。
 酷いことをされていると分かっていても必死で愛をくれた女が愛しくて愛しくて、俺が持ち得る全ての愛で愛したかった。
 きっとまた、そう遠くない日、俺は他の誰かに全ての愛を与え尽くすだろう。
 それまではおまえが全てだ。馬鹿な俺に相応しい、いいや、俺にはもったいないほどのおまえが全てだ。おまえに全ての愛を。その日までは。

 おまえしかいないよ。
 馬鹿だね。
 可愛いね。
 愛してるよ。
 ありがとう。
 愛しているよ。


 ごめんね。