思い出すなら

 雪の積もった寂れた私有地を使う人間など珍しい。むしろ怪しまれても当然だし、ややもすれば警察を呼ばれる。
 いかにも近所の人間だという服装の初老の男性が大型犬と共に二人を見つけ、しばらく考えていたが、やがて訝しむ感情を隠し損ねた顔をしながら、犬を横に従えて敷地内に入り、声をかけて来た。
「どこから来た?」
「ワシントンから来ました」
 厚手のアウトドアコートに身を包んだキリコは答え、冬の海上整備兵もかくやと言うほどの完全防寒姿のBJはキリコの背中に隠れるようにして男性を見た。BJの様子に気付いた男性はやや慌てて「悪いことはしない」と言った。
「奥さんかな。驚かせたら悪かった。俺はこの近くに住んでるんだ。いわば地元民でね」
「そうですか、それはどうも」
 奥さんじゃないけど、と言う言葉を飲み込み、BJはキリコが男性に対応してくれるままに任せた。こういう対応はキリコの方が上手い。
「ワシントンか。物好きだな、こんな場所まで。キャンプを?」
「そのつもりですよ。一泊か二泊、気が向いた方で」
「風邪に気を付けて」
「ありがとう」
「ただ、ここは私有地なんだ。持ち主の許可は?」
 雪深い田舎町では目立つ余所者がキャンプ装備を持って現れれば、この対応は当然と言えば当然だ。むしろ二人に声をかけた男は勇気があると言ってもいい。
「ええ。──普段は管理を頼んでいるだけなんですがね、今年は使おうかと思って」
「管理? え?」
 キリコは地元の男の勇気に敬意を表し、微笑んでみせた。自分自身が同じケースに遭遇したとて、見なかった振りをするか、よくて警察に通報する程度だ。
「ここは私の土地なんですよ」
「──ドクター・キリコ?」
「イエス」
「神よ」
 男は天を仰いだ後、忠実に待っていた犬に「行け」と雪原を示して言った。犬はたちまち尻尾を大きく振り、雪原へは向かわず、なぜかキリコの後ろのBJにふんふんと鼻を寄せる。男が再び待ての命令を出そうとしたが、先にBJが犬を受け入れて構い出したので注視に留めた。それよりも土地のオーナーに見当違いのことを言った自分を恥じる。
「失礼した。とんだ無礼だ。出過ぎた真似を許して欲しい」
「いいえ、何も。あなたは治安を守ろうとしただけだ。こんなに怪しい二人に声をかけるなんて勇気のいることですよ。尊敬します」
「ありがとう、救われるよ。──二人だけで?」
「ええ」
 犬は訓練された大型犬ならではのじゃれつき方でBJを喜ばせ、二人で少し離れて遊び始める。横目でその姿を見たキリコは、BJが大型犬の扱いに慣れていることに気付いた。
「奥さんは大型犬を飼ったことがあるのかな」
 男性も同じことを思ったのか、感心した顔をする。キリコは曖昧に頷き、実用的な話に変えることにした。
 ここの管理人には連絡をしてあること、食料や水、燃料、宿泊装備には問題がないこと、何より自分が冬のキャンプに慣れていること、だがいざと言う時にはあなたたち地元の人に助けを求めてもいいだろうか。最後のそれは男性の顔を立てるための申し入れだったが、男性は崇高な義務を得たかのように重々しく頷き、自分の名刺を差し出した。キリコはつい「おや」と言ってしまった。
「ドクター?」
「動物専門のね」
「あの犬は幸せだ」
「だといいんだが。キャンプの用意を手伝おうか?」
「そこからやるのが楽しいので。お気持ちはありがとう」
「良い休日を。楽しんでくれ」
 厚い手袋越しに握手を交わす。獣医の男性が呼びかけると、犬は忠実に駆け戻って来た。
 獣医を見送ってからキャンプの支度に取り掛かる。BJはテントの設営を手伝おうとしたが、慣れている人間がやった方がいい、命に関わることだから、と言われて手を引いた。
「ああ、そうだ。マフィン、雪の踏み固めだけやってくれないか」
「踏めばいい?」
「平らに。家の床だからな。最近増え気味の秘密の体重をうまいことかけて均すんだ、Go」
「oink oink!(ぶうぶう!)」
 豚の鳴き真似をしながらキリコを叩き、それから言われた通りに雪の踏み固めを始めた。いわば地ならしだ。スノーブーツの下でざくざくと鳴る。普段の生活ではあまり聴かない音が面白かった。
 それ以外は特に仕事がなかった。煙草でも吸ってろよ、とテントの準備を始めながらキリコが言う。
「ううん、いい」
 都会にはない清冽で冷たい、そして澄んだ空気をまだ汚したくなかった。いつも追い立てられるように呼吸をする日々の中、きっと今、この場所でしか吸えない空気だ。気管支を冷やし過ぎないことに気を付けながら息を吸い、煙草の煙と似た見た目の、だがずっと綺麗な息を吐き出す一人遊びに興じた。その姿を見て少し笑い、キリコは準備を続けた。
「そう言えば、大型犬に慣れてるんだな。飼ったことでもあるのか」
「昔ちょっと。ラルゴっていう奴がいたから」
「そうか」
 過去形にしたということは既に別れを済ませている。キリコはそれ以上訊かなかった。
「あっちは森? 動物はいる?」
「森だ。鹿が出る。小さいのならウサギやリス」
「見たいな」
「運が良ければね」
「少し歩いて来る」
「森には入るなよ、行くなら準備がいるから」
「うん」
 暇を持て余したBJは気の向くままに歩き出した。キリコの私有地だと言うこの土地にあるのは森と小川、そして雪だけだった。退役時の恩給で買った、それっきり放っておいたとだけしか聞かされなかった。語りたくない横顔だったからそれ以上訊かなかった。彼とふたりきりで過ごせる場所ならそれでいい。
 雪を踏みしめ、ざくざくと言う音をまた楽しむ。空気の冷たさに根を上げてフードを被った。プライベートでこんなに厚手のコートを着るのは初めてだった。誰かとプライベートでキャンプをするのも初めてだったし、少しだけ手伝える仕事をくれて、後は何もさせない男も初めてだった。
 雪はそこまで深く積もっていない。足首ほどもなかった。中にムートンを敷き詰めた防水のブーツはあたたかく、空気に触れる顔以外は全く寒さを感じない。
 雪原を進む。そこまで積もっていないとはいえ、それなりに雪が歩みの邪魔をした。少し先の森の中から繋がっている小川を覗くと凍っていた。氷漬けになった魚を見つけ、つい「うわ」と声を出してしまった。知識としては知っていたが、実際に見ると驚くものだ。試しに凍った水面を軽く叩いてみたが、魚はびくともしなかった。
 それからも少しふらふらと気の向くまま歩き、鼻の頭の冷たさに気が付いて、自分の足跡を辿りながらキリコの元へ戻る。他に足跡は何もなく、今ここにいるのは自分とキリコだけなのだと実感した。悪い気分ではなかった。むしろいい気分だった。今はわたしと彼以外いらない、と思った。
 テントの設営はあらかた済んでいて、キリコが全体に防水スプレーをかけているところだった。特に出入り口となる開閉部には念入りにかけている。
「凍ると開かなくなるんだよ」
「ふうん。魚が先に凍ってた」
「小川で?」
「うん」
「よく見付けた、お手柄だ。非常食にできる。急速冷凍だから新鮮だぞ」
「やだ、あの状態じゃ絶対生臭い」
「確かにな。遭難した時に世話になろう」
 テントは大きかった。まるで小屋のようだ。内部でストーブが焚け、アウトドアベッドが2つ置ける。天井は高く、空間も広い。雪の地面には断熱マットが幾重にも敷かれていて、冷気が一切忍び寄れないようになっている。ストーブとベッドの並べ方を見て、BJは満足げな笑みを漏らした。
「素敵」
「それは良かった」
 労働の成果を最高の言葉で褒められた男は嬉しかった。キリコは我ながら昔ながらの感性の男性だと思う。愛する女が喜べば労働の甲斐があったと感じるたちだ。
「ストーブが真ん中だったら嫌だなって思ってたから」
「うん?」
「ベッドは並べたかったら、これがいい。ありがと」
「同じ気分だったんだろうな」
 本来ならストーブをベッドの間に置くものなのだろう。その方が効率よくテント内が温まることも確かだ。だがBJは並んで眠りたかったし、キリコもそうだったのだなら、セオリーとは異なる置き方でも問題なかった。言葉にしなかった意見が一致したことを喜び、軽くキスをする。二人とも経験したことがないほど冷え切ったキスで、つい笑ってしまった。
「冷たい」
「中々ないキスだな」
「冬でもこんなに冷たいのって、したことなかったよね」
「寝る前と起きた時もこれくらいだ。寝る時にはストーブを消すからな」
「寒くない?」
「シュラフで充分だよ」
「ふうん」
「しっかりあったかくして寝ろよ。流石に寒くてもあっためてやれないから」
 にやりと笑う男の言葉の意味などすぐに分かる。BJは睨み付ける顔を作り、この寒い中、頬が熱くなる感覚に恥ずかしくなった。キリコが笑い、おまえは可愛いね、と言ってまたキスをくれた。先ほどのキスよりはあたたかかった。
「本当は薪ストーブを入れるつもりだったんだ。対応の大型テントも出てるしね」
「薪ストーブ? キャンプで?」
「不便を楽しめないキャンパー向けにね。あと、ちょっとばっかりロマンチックだ」
 BJは少し考え、そして想像し、そうかも、と笑った。キリコも笑った。
「でも薪ストーブだと真ん中に設置するしかなくてね。煙突をテントの天井中央の排気口にドッキングさせるから」
「じゃあ駄目」
「知ってる」
 またキスをする。誰もいない時にはいくらでもキスをする。誰がいたっていいのにとキリコは思うが、誰かがいたら恥ずかしいとBJは思う。
「森に行く? もう疲れた?」
「キリコが行くなら行く」
「それはもちろん。森は雪がもっと深いはずだからスノーシューをつけて」
 雪原を歩くにはちょうどいい補助器具をブーツにつける。日本のかんじきだ、とBJが言うと、かんじき知らなかったキリコは首を傾げた。
 先ほどとは比較にならないほど歩きやすかった。厚い手袋ごしに手を繋いで雪原を歩く。息を吐くたびに白い湯気が顔の周囲にまとわりつき、あたたかいのに冷たい、不思議な感覚を味わった。
「鹿、いるかな」
「いても見るだけだ、近付くなよ。蹴られたら死ぬぞ」
 森は雪に覆われていた。スノーシューを履いていなければ足がすっかり埋まっていたかもしれない。まだ明るい日差しが木々の間から差し込み、雪を照らした。BJの日常生活にはない光景に見惚れながら歩いた。
「あ」
「可愛い」
 お伽噺の中にしか存在しないと思っていた、赤い目の白い兎が木陰から二人の侵入者をまじまじと眺めた後、すっと森の奥へ消えた。キリコが木の上を無言で示した。見上げるとリスがいた。可愛い、と小さく感激の声を漏らすBJを見て、キリコは我知らず微笑んでいた。
 動物が貯め込んだ冬の食糧庫を見付け、キリコが持って来ていたクルミを少し足す。さっきの兎が食べるかな、リスかな、とBJは楽しみになった。
「日が暮れる前に戻ろう」
「まだ日が高いのに?」
「日暮れはあっという間だ。近くても方向感覚が狂ったら危ない」
「何事にも先達はあらまほしけれ」
「うん?」
 日本語で突然古典の一節をそらんじたBJに、キリコはまた首を傾げることになる。何でもない、とBJは笑っておいた。
 キリコの言は正しかった。テントに戻る頃には日が傾き、あっという間に闇が雪を覆ってしまった。テントの中の灯りとストーブの炎が揺れる。闇の中にぼんやりと浮かび上がる雪原の白と、その向こうに見える森の黒がいやに印象的だった。
「鹿に会えなかった」
「明日があるよ。俺も会ったことはないんだが」
 キリコが食事の支度を始める。キャンプなんて携行食だろうと思っていたBJは、キリコがきちんとした食材と調理器具を用意していたことに驚いた。
「乾パンみたいなの、食べると思ってた」
「遭難しに来たわけじゃあるまいし。食事もキャンプの楽しみだ」
 テントの中はすっかり温まり、ストーブ周辺にいれば出入り口を閉じなくても寒さを感じなかった。キリコは手袋を取って調理を、BJはおとなしく待つという仕事を始める。
「何作るの」
「簡単なやつだよ。野菜と骨付き肉をトマトで煮込むだけだ。カマンベールチーズも入れよう」
「美味しそう」
「先に飲んでていいよ」
「やだ、一緒に飲みたい」
「じゃあ俺も飲むから。好きなの出して」
 ドリンクケースをしばらく眺めて悩んだBJは、結局白ワインのボトルとステンレスのカップを取り出す。受け取ったキリコはストーブの上に小さな鍋を置き、小分けの袋から取り出したハーブをワインと一緒に放り込んだ。
「ああ、やっぱり夕飯時か」
 不意に先ほどの獣医が顔を出した。隣にはあの犬がいる。指示通りお座りをしたが、BJを気にして嬉しそうに尻尾を揺らめかせていた。
「家内がさっき焼いたばかりのパンだ。良かったら」
「ありがとう、嬉しいですよ」
 一杯やっていかないかと勧めたが、獣医は笑った。
「二人の時間を邪魔されたくないだろう。私もそうだったよ」
 BJが犬にハグをしてから、一人と一匹を見送る。白ワインとハーブがとろけるような香りを放ち始め、やっぱり一杯くらい飲んで行けば良かったのに、とBJは思った。キリコは彼が自分たちを監視しに来たことを知っていたので、そうだな、と相槌を打つに留めておいた。
 ストーブからワインの鍋を降ろし、代わりに食材を詰め込んだ鍋を載せる。あとは待つだけだ。その間にチーズとハム、ピクルスを小皿に並べてホットワインと共に楽しむことにする。たった今もらったパンを少し切った。
「すごい、ナッツがぎっしり」
 パンの切り口を見たBJが喜んだ。キリコも感嘆していた。監視の手土産にしては上等すぎる。数種類のナッツを練り込んだパンは素晴らしく美味しかった。白ワインで正解だった、とBJは笑う。キリコも同意の笑みを見せた。
 鍋がことことと音を立てて煮込まれて行くにつれて、少し寒さが忍び込む時間になった。ストーブによる一酸化炭素中毒を防止するために上部を少し開け残し、出入り口のファスナーを上げる。急に世界から隔絶されたような気分になり、BJは思わず見えない空を見上げた。テントの天井とぶら下がるランタンしか見えなかった。
 マットの下が雪とは思えないほど温かい床に並んで座り、温かいハーブワインを飲みながら、温かい食事の出来上がりを待つ。チーズもハムも美味しい。パンは素晴らしく美味しい。
「さっきのクルミ、誰が食べるんだろう。ウサギとリス、どっちだと思う?」
「あそこはウサギの餌場だよ。リスは地面に埋めるから」
「ふうん。雪ばっかりで、どこに埋めたか忘れちゃいそう」
「案外忘れるらしい」
「そうなんだ?」
 BJは笑った。キリコも笑った。
「木の実を埋めたままにして、そこから発芽する。そうやって森が広がって行ったんだ」
「聞いたことあるかも。でもせっかく埋めたのに食べられないなんて、わたしならがっかりしそうだな」
「食べ物のことをおまえが忘れるもんか」
「反論できないからむかつく」
「食いっぱぐれがなくていいじゃないか」
 話しながら何度もキスをした。世界から隔絶された空間の中、ことことと食材が煮込まれる音と、恋人の声、息遣いだけが聞こえる。嬉しい──BJはそう思った。キリコもそう思っていることを知っていた。
 やがてテント内の気温が上がる。汗をかく前にコートを脱いだ。
「結構あったまるんだ? 意外」
「20℃程度までは上がる。寝るまではストーブをつけておくから風邪もひかないだろう」
 また取り止めもない話をする。仕事の話だけはしなかった。今は必要のない話題だった。家族のことや近所の猫のこと、仕事で離れていた間のこと、次の休暇はいつにしよう、どこに行こう。そんな話をすることが楽しかった。数えきれないくらいキスを繰り返した。
 もう何度目かも分からないキスの後、キリコの指が不埒な動きを始める。セーターごしに敏感な場所を撫でられたBJは思わず熱い息を吐き、その吐息がキリコの唇に飲み込まれるに任せた。
「今日はあっためてくれないって言ったくせに」
「ストーブを消してからはね。まだついてる」
 キリコは笑い、セーターの裾からてのひらを潜り込ませる。脱がせないまま下着の金具を瞬時に外し、押し込まれていた乳房をセーターごと揺らした。こうなればもうBJに抵抗の気力はなくなる。否、そもそも抵抗する気などなかった。
 キスを繰り返しながらベッドにゆっくりと寝かされる。いつの間にかセーターがたくし上げられて、背中の金具を外された下着と胸が露わになっていた。テントの外が夜の雪景色とは思えないほど、肌に触れる空気は暖かかった。
「っと、まずい」
 不意にキリコが身体を離した。珍しいことだ。初めてかもしれない。少し不安になって──自分の悪い性質だとBJ自身も分かっていた──キリコを見ると、ベッドを降りて天井に吊り下げたランタンを消してしまった。ストーブの小窓から見える炎だけが空間の灯りになった。
 キリコが再び戻り、唇にキスをくれる。どこかへ行ってしまうと思いそうになった不安を拭われる気がして、BJは安堵してキスを返し、首にしがみついた。何かを察したのか、ああそうか、ごめんね、大丈夫だよとキリコが小さく呟く。ううん、とBJは答えながら、この男はひとの心に敏感過ぎるから今の道を歩んだのかもしれないと思った。
「どうして消した?」
「浮かび上がるんだ」
「何が?」
「影絵みたいにね。テントの布に」
 途端に暗闇の中で赤くなってしまう。たとえ私有地、人が通るような場所ではなくても、獣医のように散歩に来る人間がいないとは限らない。
「生地が厚いテントだから平気だとは思うんだけど──万一があっても嫌だしな」
「やだやだ、絶対無理」
 暗闇と言ってもストーブの小窓から小さな灯りは取れる。僅かに開いた上部のファスナーの隙間から夜空が見えた。澄んだ冬の空が言え隠れする。やがて目が慣れた頃、キリコがまたキスをしてくれた。
 鍋からいいにおいがした。それも僅かな瞬間で、すぐに自分を抱く男のにおいしか感じられなくなった。少し甘い、重い香水と男の香り。このひとがわたしのにおいだけしか感じなければいいのに、と思った。
 肌を探る指も唇も、いつもより穏やかで、そしてやわらかくて優しかった。アウトドア用の簡易ベッドなのだから当たり前のことだった。こんなふうに抱かれるのも悪くない、これすき、と思った。だから、これすき、と言った。男は優しく笑って、またやわらかくて優しい、そして少し深くした愛撫をくれた。
 穏やかに、身体の奥底の熱がゆるやかにあたためられるようだ。じわりと生まれた熱がやがて熱すぎる渦のように沸き上がって、だがそれもまたゆるやかな沸き上がり方で、こんな感じ方が初めてで少し戸惑う。
 戸惑いを見抜いた男が俺を中に入れてと懇願する振りをし、BJはそれを受け入れ、深い場所から抱き締めてくれる男が好きだと思った。
 快楽に喘ぐいつもとは違う。吐息と共に小さく声が漏れる。ゆるやかな熱と波が気持ちよかった。きもちいい、と言う自分の声も、可愛い、俺の、といつものように言ってくれる男の声も、いつもより甘く、まるで蕩けてしまいそうに聞こえる。
 何度もキスをして何度も囁き合い、蕩けるように抱き合った。いつもよりも近い場所にいるような錯覚に陥った。互いの熱が静かに弾けるまでその錯覚は続いた。しあわせ、とBJは思った。
「寒くない?」
 抱かれた後の心地よい気怠さが好きだ。小さな灯りと僅かに見える夜空の星の光だけの中、生物的にとうに醒めているはずの男はそんなことを僅かでも感じさせることはなく、少し長い時間甘やかしてくれる。
「ちょっと寒い」
 嘘だと見抜いたキリコは笑って抱き締めてくれる。BJも笑う。嬉しかった。この男に抱き締められると嬉しい。
 乱れた服を直してからランタンをつけて、人工的な明るさを取り戻した中で同時に煙草を咥える。ここに来てから初めての煙草だと同時に気付く。
「禁煙ならず、だな」
「する気もないくせに」
「おまえに言われたくないね」
 忠実に仕事をしていたストーブの上の鍋の蓋を開けると湯気が立ち上った。わあ、と思わずBJは感嘆の声を上げ、キリコを得意な気分にさせた。
「美味しそう!」
「美味いよ。間違いなく」
 小洒落たシチューボウルによそう時点で、とろけて伸びるカマンベールチーズと、それに巻き込まれた芽キャベツがトマト色のスープに纏わりつき、その見た目だけでBJをうっとりさせた。
 可愛いな、と思いながらキリコは食事の用意をする。先に食べていたパンや肴はほどよい空腹感の中に消えていた。何だかんだで寒い場所では腹が減るものだ。
 持って来たバゲットを添えるつもりだったが、獣医からもらったパンがいいとBJが言ったので変更になる。シンプルに煮込んだだけのチキンのトマトシチューと赤ワインが夕飯だ。美味しい美味しいとBJは終始ご機嫌で、キリコをますます得意にさせてくれた。
 食べ終えても取り止めのない話ばかりをして時間を過ごす。二人して時計を見ていないことには気付いていたが、見ようとも思わなかった。
 やがてBJが欠伸をし、簡易ベッドを本来の用途で使いたいと言い出す。要は寝たい。キリコも異存はなく、ベッドの上にシュラフを用意した。シュラフに潜り込んで数分も経たないうちにBJは寝息を立て始め、寒さと普段とは違う環境への神経の高ぶりで疲れていたことをキリコに教えた。
 キリコはストーブの火を落とし、出入り口のファスナーを完全に閉じる。それからランタンの灯りを消し、眠るBJにキスをしてから隣のシュラフへ入って目を閉じる。
 しばらくBJの寝息に眠気を誘われていた時、外に人と動物の気配を感じた。あの獣医だろう。監視もご苦労なことだと思った。
 テントのファスナーに外側からスプレーを吹きかける音が聴こえた。ああ、とキリコは目を閉じたまま己の邪推を反省した。獣医は凍結防止のスプレーをかけてくれたのだろう。監視ではなく、本当に心配して様子を見に来てくれていたのだと知った。
 起きたらBJに話したいと思った。


 夢見が良かったのか、悪かったのか。密林の中、生命の行先を案内した誰かが雪原を眺めていた。ありがとう、と彼は振り返り、微笑んでいた。俺の自己満足からの幻想かもしれないと思いながら目を開けると、何よりも誰よりも愛する女が眠り込んでいる顔が一番に見えた。
 幸せだと思った。
 BJを起こさないようにシュラフを出て、寒気に身を震わせながらコートを羽織る。ストーブに火を入れ、出入り口のファスナーを少し開けた。無償の親切をくれた獣医のお陰で凍り付くことはなく、スムーズに開いた。
 昨夜のシチューの残りが入った鍋をストーブから降ろし、シナモンの欠片を放り込んだ湯を沸かす。沸騰する頃にはBJが緩慢な呻きを漏らして起き上がった。おはよう、と声をかけるとシュラフから腕を出して延ばしてみせたので、笑いながら今日最初のキスをして抱き締めた。
 沸かした湯でインスタントコーヒーの粉末を溶かし、まだ寝惚け眼のBJに飲ませる。途端に目を覚ました顔になる女が可愛かった。
「何これ、美味しい」
「シナモンウォーターでインスタントを溶かしただけだ」
「ふうん」
 自分の生活の中にはない飲み物に驚き、そして喜び、BJは笑う。キリコも微笑んだ。
 そしてふと、テントの外に気配を感じる。獣医と犬の気配ではない。人間の生活など何ひとつにおわせない何かがいる。キリコはBJに向かって唇に人差し指を立ててみせ、静かに、極力まで音をさせないでテントのファスナーを半ばまで下げる。そして思わず笑いそうになった。
 何事かと心配そうな顔をしているBJに笑顔を向け、しかしもう一度「静かに」と示してから手招きをした。音を立てずに寄って来たBJに外を見るよう仕草で教える。
 ファスナーの向こうを覗いたBJが満面に喜色を湛えた。それからキリコを見て、声を出さずに「鹿だ!」と唇を動かしてみせる。キリコも笑って頷いた。
 テリトリーに入り込んだ無礼な人間たちを品定めに来たのか、それとも単に散歩の延長か。森にいるはずの鹿とその子供が、テントから少し離れた場所にいた。
 しばらく観察していたが、やがて鹿たちは侵入者たちを無害と判断したのか、また森の方向へ歩いて行った。
「──可愛かった!」
「そうだな」
 喜ぶ女にキスをして、防寒準備をさせてからファスナーを降ろし、空気を入れ替えて朝食の支度にかかる。支度と言っても簡単なものだ。昨夜のシチューにショートパスタを放り込み、煮込みが終わるまで待つだけだった。
 その間に獣医が防水スプレーをかけに来てくれた話をした。BJは驚き、後でお礼に行こうと言った。キリコは曖昧に頷いた。きっと彼はそれを望んではいないだろうと思ったからだった。ただ、帰り際に挨拶くらいはしてもいいかもしれない。彼のような男はそれで満足してくれる。
「今日帰るか? ゆっくりしたければ明日でもいいし。燃料と食料はあるから」
「キリコは?」
「うん?」
「わたしともう一晩、ふたりでいたい?」
 だから俺は安心できないんだ、とキリコは内心で苦笑した。男に選択権を与える振りをしながら、あなたと長く一緒にいたいのよ、と確実に伝える顔と声。これが無意識なのだからたちが悪い。様々な人間から愛される理由がよく分かる。
「いつでも」
 キリコはBJの左手を取り、言った。心から言った。
「いつでもいたいよ。一生ね」
 それから、その薬指に口付ける。いつからか、たまにこんなことをするようになった。
 互いが選んだ生きる道では、そこに確実な何かを刻み付けることは難しいのかもしれない。それでも抑え切れない感情は確かにある。言葉にできない、もしかするとしてはならない感情を持て余しそうになった時、この指に唇を寄せるようになった。そのたびにBJは泣きそうな、それでも歓びを隠し切れない顔を見せる。
 今もそうだった。
「やっぱり」
 BJは言った。僅かに泣き声だったことに、キリコは気付かない振りをした。
「キリコ、やっぱり」
「うん?」
「今日、帰ろう」
 帰れなくなってしまうから。BJはそう言った。
 そうだね。キリコはそう答えた。
 隔絶された雪の世界とあたたかいテントの中だけで、ふたりだけで、そんな時間を長く過ごしてはいけない。
 帰れなくなってしまうから。二人を必要とする世界に。神の指と生命の案内人を求める人々の世界に。
 異なる場所へと生命を歩ませる二人が、添っていながらも、譲り合えない世界に。
 おいで、とキリコは言って手を延ばした。BJは黙って男の腕の中に隠れた。
 あとしばらくは、帰るまでは。
 そう思った。同時に思った。


 正午前、テントを片付ける二人の元へあの獣医がやって来た。彼の医院へ寄るつもりだったキリコは予定を変更し、彼にスプレーの礼を言った。彼は肩を竦め、起きていたなんて残念だよ、秘密の小人になりたかったのに、と言って二人を笑わせた。
 犬がBJに纏わりつく。BJはラルゴを思い出し、獣医に「ちょっと一緒に散歩したい」と言った。獣医は断らなかった。
 スノーシューを履いたBJが犬と雪原に歩き出してから、獣医はテントの撤収を手伝ってくれた。そして不意にぽつりと、キリコを見ないまま言った。
「ここは俺の弟の土地だったんだ。祖父の遺産でね。若い頃に受け継いだ」
「そうですか」
「ベトナムでね」
「ええ」
「テト攻勢の少し前、戦死した」
 キリコはやはり獣医を見ないまま、小さく、ある男の名前を呟いた。
 獣医は返事をしなかったが、人生全ての驚愕を詰め込んだかのような勢いで振り返り、その名前が亡き弟のものであるとキリコに分からせた。キリコは振り返った彼を見ないまま続けた。
「最期にこの土地のことを話していました」
 獣医は答えない。だが言葉をひとつも聞き逃すまいとしていることが、キリコにはよく分かった。残された家族の多くはこうだ。だからキリコはそのたびに思うのだ。
 ──どうぞ安らかに。
 患者だけではなく、どうぞご家族も、あなたも。
 私が役目を果たしたことを、あなたがたにご報告できれば良いのに。
 あなたのご家族を、愛するひとを、安らかに、穏やかに、神がお待ち給う苦しみのない世界へ、私は全ての愛をこめてご案内致しました。
「彼は私に、この土地をくれると言いました。お兄様たちに差し上げるには税金が高くて、きっと負担にしてしまうと。けれど、誰かに渡すことは嫌だと。だから私が買い取ったんです」
 あの密林の中、死神の案内を求める彼は言っていた。だからキリコはそれを全て伝えた。
「お祖父様が残して下さった土地で、お兄様と小川で釣りをして、森で鹿を探して、ウサギの餌場にクルミを足して。つまらない、代わり映えのない毎日だった。でもそれが、本当はとても楽しかったと」
 彼は言っていました。キリコは夢の中で久し振りに会った彼の兄を見ないまま、告げた。
「とても愛していたと。彼は最期まで、そう言っていました」
 それから。キリコは静かに言った。
「愛する女性をあなたに紹介したかった、と、言っていました」
 それきり、キリコは黙った。獣医も何も言わなかった。
 やがて獣医はしゃがみ込み、呻くような、何かを恨むような、だが確かに愛した感情を忘れられない人間の声で泣いた。それは慟哭だった。死神が幾度も聴いた魂の悲哀と愛の声だった
 犬を連れたBJ戻って来ても彼は泣いていた。主人の痛ましい姿に心を傷めた犬が寄り添う。
 BJはキリコを見た。キリコはBJを見なかった。だからBJは何も言わなかった。
 わたしには受け入れることができない生命の案内で、それでも、ここで、きっと──救われたひとがいたのだろう。
 BJはそう思いながら愛する男を見た。
 ひとを愛しすぎるこの男に、どうすれば心から愛していると伝えられるのだろう、と思った。


 ワシントンのアパートメントで、ピノコとユリが出迎えてくれた。ウサギがいた、リスがいた、鹿がいた、とBJが話すと、ピノコとユリは喜びながらも羨ましがり、それでも男の人がいないと冬のキャンプなんて無理、と口々に言い合ってキリコとBJを笑わせた。
 それからキリコとBJがいなかった二日間、二人がどれほどワシントンを楽しんだかを話し出す。ショッピングに観光に、好きなものだけを食べる食生活で。それはそれで羨ましいじゃないかとBJは本気で言う。
 女たちが姦しく、だが可愛らしく盛り上がる喧騒の中、キリコはキャンプ用品を片付けて行く。背後で聞こえる会話はいかにも女、いかにも可愛い。隔絶された時間がもう遥か昔のような気がするほどに、彼女たちの声は現実を明るい色で彩ってくれた。
「ちぇんちぇい、こんろはピノコとユリしゃんも行くのよさ。ちゃんとお手伝いするのよさ!」
 愛する女のある種の愛を独り占めする娘が言う。愛する妹も前向きにそれに同意している。
 そして愛する女がいった。
「じゃあ、違う場所に行こうね」
 ああ、と思った。
 ああ、愛しているよ、と思った。
 あの場所には他の誰かを連れて行きたくはないことを、自分とだけ時間を分け合う場所なのだと分かってくれた女を、愛している、と強く思った。