Nail & Cat

 うちの猫じゃないのにな、とぼやくキリコの声の中、ぱちん、と爪を切る音が響く。身だしなみを整えられているマダムの飼い猫は別荘に住む下僕の膝の上で呑気なものだ。その周囲を子猫がうろうろと歩き回る。母猫は爪の手入れが嫌いではなく、一方で子猫はどうにも苦手らしい。看破したBJは子猫が逃走しないようにすっと抱き上げてしまった。
「うちの猫じゃないなんて言ってるくせに、その爪切り、猫専用のだし」
 ソファの上で猫を抱き、その爪を切ってやるキリコを見てBJは笑う。キリコは嫌がらない猫の爪を素早く、だが丁寧に切っていく。
「寝室のカーテンがほつれたんだ、仕方ない」
 インテリアにこだわるキリコの顔は苦々しい。その時のことを知っているBJは、そうだねえ、わるいこだねえ、と腕に抱いた子猫に額をつけた。子猫はばつが悪いのか、むぎゅ、と妙な声を挙げて顔を逸らせる。カーテンに飛びかかることを禁じられているのは分かっているものの、どうにも衝動が抑えられなかったと言わんばかりだった。
「よし、お母さんはおしまいだ」
「うにゃ」
 ありがとね、と言うように尻尾でキリコを叩き、するりと膝から飛び降りる。
「次はお嬢さん」
「はーい、ちょっとちくっとしますよー」
「注射か」
 そこは流石の名医、猫相手といえど見事な抑え付けをするBJに姿勢の保持を任せ、キリコは母猫の時よりも素早く爪を切る。爪切りが嫌いになったらマダムに申し訳ないという気持ちはあるが、他人の家にも入っていると知っている飼い主が基本的なケアを怠るのが悪いという結論もある。
 とはいえ飼い主の裕福な女性は決して飼い猫たちを愛していないわけではなく、普段は完璧に世話をしていた。今回はたまたま爪が長い時期、まだルールを覚え切れていない子猫が悪戯をしてしまっただけだ。
「はい、おしまい」
「にゃご」
 不満そうな呻きを漏らしてBJの腕から逃げ出し、子猫はテラス窓でひなたぼっこをしている母の元へと逃げてしまった。母猫が我が子の毛繕いをする光景をしばらく堪能してから、キリコはBJにキスをして一度リビングを出る。手を洗って来るのだろう。その間、猫たちと一緒にひなたぼっこを楽しむことにした。盛夏まではまだ遠い。充分に陽射しを楽しめる季節だった。
「うーん?」
「にゃご」
「うにゃ」
 同じ目線で絨毯に転がると、猫の母子はごろごろと喉を鳴らしてすり寄ってくる。可愛くて嬉しくてまとめて抱き込み、陽射しと猫の毛皮と絨毯の感触を堪能した。可愛いねえ、と言うとまるで人間の言葉が分かっているように顔を擦り付けてくる生き物のなんと愛おしいことだろう。
「家にいる猫は2匹のはずなんだがな」
 背後から笑いを含んだ声がかけられる。BJは笑い、猫たちを離して起き上がった。振り返ると好きな男が立っていた。
「にゃーん。美味しいおやつが食べたいにゃーん」
「先に爪の手入れだ」
「さっきしたのに」
「3匹目の爪はまだだよ」
「にゃーお」
 自分が3匹目と言われたことはすぐに分かる。誰が猫だ、と表向きの悪態をつきつつ、ソファに腰掛けたキリコの膝を狙った。狙い違わず膝を獲得し、笑ってキスをしてから寄りかかるように座り直す。
「何これ、買った?」
「前からあるよ。俺が使ってる」
 膝の間、腕の中に抱き込まれるように深くソファに沈みながら、キリコが持って来たものを検分する。爪切りに爪やすり、それからBJには使い方がよく分からないものが並べられた小さなケースだった。爪のケアをする道具だろうということだけは分かった。
「おまえも少し伸びてるから。仕事が入る前に整えておいた方がいい。触診の時に邪魔になる」
「爪切りと裏側のやすりでいいよ、こんなの分かんないし」
「俺が分かれば問題ないだろう」
 その答えにBJはつい頬が緩みそうになり、誤魔化すために唇をひん曲げた。──キリコがいつもやってくれるってこと? そう言えばきっと恥ずかしくなるくらいに甘い言葉をくれることは分かっていても、どうしても言えなかった。2人がふたりになってからそれなりに時間が経っているのに、いまだ素直に口にできないのは損な性格なのだろうと自分でも分かる。だがそれなりに対応策も身につけた。顔だけを後ろに向け、軽くキスすると、少し笑ってキスを返してくれる。嬉しくて笑い、しばらくじゃれ合うようなキスを繰り返した。
「おまえ、仕事が入らないとあまりケアしないだろう」
 まずは爪切りを手に取ったキリコが言った。
「そうかも」
「だから俺はたまに背中が痛くなる」
「何、──……あ、そう」
 何を言われたのか少し遅れて分かり、BJはつい顔を赤くする。背後から抱くようにして手を取った男が笑ったことが何となく悔しくて、気付かない振りをした。そんなの、キリコがきもちよくするから──そう言えば男を喜ばせるだけだと分かっている。悔しいから言わない。
 優しく包み込まれた指先で、ぱちん、ぱちんと金属が爪を弾く音がする。器用な男の丁寧な仕事は少しずつBJの指を綺麗にしていった。爪切りの後には長い金属のやすりでゆっくりと磨かれる。包み込まれた手があたたかく、BJは身体を預けてその感触を堪能した。
「何これ」
「甘皮。取った方がいい。指が長く綺麗に見える」
「ふうん」
 1本の指のケアが終わるたびに髪にキスをしてくれることが嬉しかった。背後から抱かれる身体から伝わる体温があたたかい。キリコのにおいがして愛おしい。窓際で眠り込んだ猫たちが可愛いらしい。それを言うと、そうだな、と答えてくれる声も愛おしい。
 やわらかくてあたたかい空間の中で、少しずつ爪が整えられていく。普段の自分のケアよりも明らかに美しく、そしてきっとこの指を待つ患者が安心するであろう指先が形作られる時間が愛おしくてたまらなかった。
 仕上げに花の香りがするオイルを塗ってくれた指先もあたたかい。礼を言う代わりにキスをねだった。応えてくれる男が愛おしかった。
「キリコは?」
「うん?」
「わたしもやってみたい。キリコの指」
 ──こんなふうに、わたしが思ったみたいに、愛おしいと思って欲しい。
 するとキリコは「ううん」と呻き、ちゅ、と音が響くような短いキスをする。何なの、とBJが言う前に、その顔の前に指を広げてみせた。すぐに理解したBJは溜息をつき、勢いよく、思い切りキリコに寄りかかる。うお、と呻かれたが聞こえない振りをした。
「なあんだ、つまんない」
「そう言うなよ」
 キリコの爪はこの上なく丁寧に、そして彼の患者が見れば安心するであろう形に整えられていた。
「ちょうど伸びてたから、おまえが来る前にやってたんだ」
「ずうっと伸ばしてりゃいいのに。患者に嫌がられて逃げられればいいんだから」
「馬鹿言え、って言いたいが、確かに俺の患者はこういう部分も結構気にするからな。定期的にやってるよ」
「人殺しのポリシーなんか訊いてませーん」
「俺が人殺しじゃないってことをいつになったら理解できるんだ、マフィン?」
「永遠に無理」
 とはいえ、この時間が壊れることを互いに望んでいないことは分かっている。BJからキスをすることによって、第三者からは不毛な、本人たちにとっては医療従事者としての根源に関わる話を一度切り上げた。
 キスは少しずつ深くなり、やがてBJはキリコに仕向けられたように、キリコはBJが自らそうしたように、向かい合って座りながら深く舌と吐息を絡め合う。ベッドで与えられるようなキスにBJは陶然とし、唇の端から熱と湿り気を帯びた吐息を漏らした。それが男を煽るのは当たり前だ。
 熱を与え合うようなキスの合間にいつの間にかはだけられた胸元に気付き、えっち、とわざと甘え声で言うと、おまえもね、と言い返された。
「指」
 ゆるやかに優しく触れる男の指先を取り、熱くて湿った息を纏わせながら舐め上げる。キリコが少し息を呑んだことが分かって楽しい。そして嬉しい。
 指先が綺麗に手入れされていることが嬉しい。
「わたしが来るから綺麗にしたんでしょう」
 いつもしている。患者のため。
 そんな言葉、今はいらない。たとえそれが真実だとしても、口にするような男ではないことも分かっている。
「そうだよ。おまえが来るんだから」
 案の定、男は言った。
「いつもより丁寧に。時間をかけてね」
 手入れをしたよ。
 甘い声が身体の奥まで震わせてくれた。それなのに愛おしいあたたかい感情が駆け巡るのが不思議だ。不思議で、そして幸せだ。
 じゃあ、それなら。BJは自分でも呆れるほど甘い声で言った。
「おんなじくらい」
 丁寧に、時間をかけて、かわいがって。
 ノーと言われないと知っている。答えはイエスという言葉ではなく、また重ねられた唇の熱さが教えてくれた。唇と指が肌をさぐり、その指先が柔らかくて優しいことが嬉しい。甘く鳴く。男が好きな声だ。甘く呼ぶ。キリコ。──すき。きもちいい。ねえ、もっと──
「にゃあ」
 飛び上がらんばかりに驚くとはこのことだ。BJはまさにキリコの膝の上で飛び上がった。キリコはそこまでではなかったが、うお、と妙な声を出したのも事実だ。
 それから苦笑し、ソファの下から可愛らしく見上げる子猫を見返した。
「やあ、どうも」
「にゃご」
 何してるの、なかよしね、遊んでるの? そんな無垢な感情をのせた無垢な瞳に見上げられ、BJは相手が人間ではないと分かっていても一気に後ろめたさと遣る瀬なさに襲われる。
「き、キリコ、猫、どこか……」
「別に猫ならいいんじゃないか」
「や、それは、あの」
「にゃあう」
 子猫ほど無垢ではなく、どこか呆れたような鳴き声が小さく響く。そしていつの間にかやって来ていた母猫が我が子の後ろ首を咥え上げ、すたすたと姿勢良くリビングの外へと歩き去って行った。猫。BJは呻く。猫。猫すごい。賢い。
「可愛いね」
 キリコが笑った。BJは我ながら顔が熱くなっていると分かり、猫相手に、猫相手なのに、と自分が情けなくなる。それを見たキリコがまた笑う。
「可愛い猫だ」
「ね、猫だし」
「そうだね。──でも俺の女ほどじゃない」
 ますます顔が熱くなる。いつの間にかまたやわらかくて優しい指が肌を探り始めたことに気付いた。もうそんな気分じゃない、と言おうと思った。言えなかった。
「可愛いね」
 男の手入れされた指がやわらかい。心地良い。とても優しい。
 だから言った。ねえ。──ねえ。

 わたしのために綺麗にした指で。
 わたしのために綺麗にしたんだって、今は信じさせてくれる指で。

「かわいがって」

 このあたたかくてやわらかくて優しい空間の中で、その優しい指で、わたしのためだけの指で、かわいがって。

 今だけは、わたしだけの優しい指でいてちょうだい。