忌憚なく言うと俺はセックスが好きだ。公言して回ることじゃないが、誰かに訊かれれば言葉を選んでイエスと答える程度には恥じない。むしろ嫌いな奴とは話が合わない。
かと言って誰が相手でもいいってわけじゃない。理想の言い方としてはBJだけがいい、ってのが正解だろう。もちろんあいつは俺の人生最後の女だ、当然の解答だ。
しかし現実を言えば、まあ何だ、機会があれば。日本の諺で言うなら据え膳食わぬは男の恥。俺の国なら「竈がパン生地に近づいて来たならパン生地を竈に突っ込んでやれ」と言うやつだ。日本の諺のセンスがいいことを知らしめてくれる好例だろう。とにかくそういうことだ。
とはいえ積極的に他の女に手を出したいわけじゃない。据え膳なんてものは早々ない。たまに闇関係の仕事先で女があてがわれることはあるが、BJと一緒になってからは一切手を出していない。理由は単純だ。どこであいつの耳に入るか分からない。闇の世界は狭いし、俺とあいつが一緒になってからと言うもの、なぜか互いの情報を勝手に知らせてくれる親切なシステムが出来上がっている。いつの間にか担当も同じになっていた。闇の方にも事情があるんだろう。俺たちは一種のドル箱だし、管理しやすい状態にしたいんだと思う。
それはともかく闇の据え膳なんてとてもじゃないがもう食えたもんじゃない。普通の女だって烈火の如く怒って当然の話だし、究極まで病んだBJがそれで済むはずがない。むしろ怒りもしないでお得意の「どうせわたしなんか」が始まって、いっそ烈火になってくれた方が罪悪感を抱かなくて済むような状況になる。
何よりあいつは男女の恋愛、特に性愛については精神的な問題が大きすぎる。俺と一緒になってから徐々に改善されているが、医学的にPTSDの領域だった。最悪の経験ばかりなのだから当然だ。
初めて抱いた時は互いに夢中だった。はっきり言えば勢いでやった。だが実際、あの勢いがなければBJはセックスができなかったんじゃないかと今になれば思う。それくらいあいつの男性恐怖症、ひいては性愛への不信感は根深い。正直、俺じゃなければほとんどの男は恋人じゃいられないだろう。
一緒になってからしばらく、ベッドの中でのあいつの緊張は可哀想なほどだった。俺がレイプしてるんじゃないかって錯覚を起こしそうになるくらいには。セックスは怖いものじゃない、2人だけの空間を一番近い場所で分かち合う素晴らしい方法だ、と何度言ったか分からない。
回数を重ねるうちに慣れた様子を見せるようになった。俺の努力の結果である。はっきり言うと滅茶苦茶可愛い。何度暴走しそうな自分を制したことか。今まで抱いた女が思い出せないくらいに可愛いし、年甲斐もなく夢中になっていると認めざるを得ない。仕方ない、可愛いから。
恥ずかしがって声を堪えているあいつに、恥ずかしいことじゃない、声が聞きたい、と言うと顔を真っ赤にして涙目になる。でもその後、まだ恥ずかしそうに、だが声を漏らすのがとにかく可愛い。今までセックスと言えばオーイエスカモンファックミーな女を相手にしてきた俺が夢中にならないはずがあろうか、いやない。実際はオーイエスカモンファックミーも嫌いじゃないがそれはまた別の話だ。
ただ最近、自省するべきではないかと思うことがある。あいつが少しずつセックスの中で快楽を拾うようになってきたから調子に乗っていたかもしれない。ぶっちゃけあれこれやった。いや、特に変なプレイってわけじゃない。むしろ一般的なセックスの中でも控えめな方だ。PTSD持ちで性に消極的な女相手にプレイなんかできるか。そこまで外道になれない。ただし積極的になれたらやる。外道じゃない、同意があれば。無論俺は同意をとる。楽しいセックスは1人の意思では成立しない。
外道はともかく、とにかく俺は反省するべきなのだろうか。
妙に避けられる。
いや、俺を避けてるんじゃない。
セックスを避けている。
別に嫌がる様子を見せられるわけじゃない。俺といる時は可愛い。とにかく可愛い。俺の家でしか着ない可愛い服で俺に甘えてくる。可愛い。そのうち自分の家でも2人で出かける時にも着て欲しい。想像するだけで可愛い。些細なことでよく喧嘩になる。可愛い。自分が悪いのに意地を張って謝れなくて葛藤する姿。可愛い。
いやまあ、可愛いのはともかく。いや可愛いんだが、まあそれは置いて。
可愛けりゃ抱きたくなる。ソファでくっついてキスを繰り返していたらそんな気にならないか? なるだろう。ナイティに着替えて寝支度をしている恋人を見てそんな気にならないか? なるだろう。断言する、ならない奴は不能だ。お医者さんの俺が断言するんだ、間違いない。ならない奴は不能だ。大事なことだ、2回言わせろ。
BJは嫌がるわけじゃない。ただ何かと言い訳をして──あの本が読みたいと言ってソファから書斎へ逃げたり、明日は早いからと言って毛布でがっちり自分をガードしてベッドの端に寄ったり──セックスを拒否する。
これは地味に重大な問題である。
実際のところ、反省と言うよりは危惧だ。まさか怖がらせたか。嫌な記憶を思い出させるような真似を知らないうちにしたのだろうか。もしそうなら過去の俺を半殺しにした後にジャパニーズ土下座をして全力ケアに入らなければならない。
「キリコ、コーヒー飲みたい」
今日もBJは可愛い。都内での仕事の後は俺の家に寄るようになった。大抵は泊まっていく。俺の家にも慣れて診察室以外は勝手にどこにでも出入りする。私物も少し増えている。何かとキスをするとはにかんで、でも嬉しそうに笑う。可愛い。いずれ慣れたらこんな顔も見られなくなるんだろうが、その時はきっと別の可愛さがあるだろうから構わない。
コーヒーを入れてやる。ローズマリーの枝を入れて温めたミルクと蜂蜜を加えたアレンジコーヒーが気に入ったらしい。美味しい、と言う顔も可愛い。
ソファで身体を寄せてくる。肩を抱いてキスをするとまた嬉しそうだ。可愛いね、と言うと照れたように唇をひん曲げるがそれでも嬉しそうだ。
なのに。
だのに。
セックスだけは拒否する。
ほら今日も、ソファでじゃれていたら少し本気のキスになる。唇の端から零れる吐息すら可愛い。腕の中で俺にしがみつく姿なんて可愛いどころじゃない。下半身直下型だ。一応年上の恋人として自分を制するが、ベトナムに行く前の俺ならとっくに押し倒してる、間違いない。
ところが、いや、予想通りか。不意にBJが身体を離し、いやによそよそしく視線をそらせて立ち上がる。
「コーヒーのお代わりしてくる。キリコは? いる?」
「──ああ、いや、俺はいいよ」
「分かった」
マグカップを持ってどこかぎくしゃくとした足取りでキッチンへ消える。俺はソファの背もたれに寄りかかり、思わず溜息をついた。今も明らかに避けられた。
仕方ない。腹を括ろう。
話を聞くべき時だ。
BJがキッチンから戻るのを待っていようかと思ったが、もし怖がらせていたら可哀想だし、いつでも逃げていいよと──まあ俺の手元から逃がす気は皆無だが──示すために庭へ続くテラス窓を開けた。そろそろ傾き始めた夕陽が庭の花を照らす。交感神経と副交感神経が交代を始めようとして精神がざわつく時間だ。特にBJのような不安定な人間は不安を覚えやすい時間帯だとも言える。多少荒療治かもしれないが、今のうちに話すことにした。
「キリコ?」
戻ってきたBJが庭に出た俺を見て首を傾げる。可愛い。自然と笑みが零れるのが自分でも分かる。
「マフィン」
「ん」
「おいで。ちょっと話をしないか」
季節の花が咲く美しい庭で、ちょっとばかり恋人同士のロマンティックな光景を想像したのか、BJは「うん」と嬉しそうに言って庭へ降りてくる。
背の高い立葵の花が鮮やかだ。夕陽を受けてオレンジがかった花弁が新鮮だった。立葵を見上げて花を数えるBJの横顔が可愛い。
「マフィン」
「何?」
さて、あまり取り乱さないでくれるといいんだが。敷地の外からは見えない庭なので人目の心配はないが、だからって──怖がって泣き出す姿を見たいわけじゃない。
「怒ってるわけじゃないし、絶対に怒らないから聞かせて」
「……何?」
明らかに戸惑いと警戒を浮かべ、BJは立葵から俺に視線を移す。夕陽の中の女はひどく可愛い。それでもそんな顔をさせたいわけじゃなかった。BJが顔に浮かべたそれは明らかに男性に対する警戒心だった。俺もまだそのカテゴリーなのか、それとも何かをしてそうなってしまったのか。
「最近、避けてるだろう? その──」
はっきり言うかな。BJがやたら恥ずかしがるから普段は避けてるんだが。でも今は言った方がいい。
「俺とセックスすることを」
俺を見上げていたBJの顔が、夕陽の中でも分かるほどじわじわと、しかしはっきりと赤くなっていく。こんな時に非常に申し訳ないが──可愛い。プレイ・イノセント、非常によろしい。可愛い。
ただ、この後どんな反応を見せるか。恋人として心配半分、心療内科医として仕事半分の気持ちで好きな女を見る。
やがてBJの唇が震え、それから、──あまりにも予想外だったが、両手で顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。さすがに予想外だ。
「マフィン?」
「やだ、──やだ」
まずい。肝を冷やして俺はBJの前にしゃがむ。怖がらせたか。違う、そうじゃない、怖いことをしようとしたんじゃないんだ──そう言う前にBJがまた「やだ」と言った。
「マフィン、何が嫌?」
「キリコ、あの、──やだ」
立葵に隠れるように身体を縮こまらせている。俺はひたすら焦る。まさかこんな反応をするなんて──怖がらせるなんて──
BJが顔を上げる。耳まで真っ赤にして目を潤ませ、今にも泣きそうだ。立葵の花びらが髪に落ち、ツートンの色の上で揺れていた。
「あの」
「うん。──うん、聞かせて。どうしたの」
「あの。──あの」
言いにくいんだけど、とBJが消え入るように呟く。そして更に消え入りそうな声で、夕陽の中でも分かるほど真っ赤な顔で言った。
「キリコと、その、……すると」
「うん」
「その」
俺は覚悟する。怖かったとか痛かったとか、その他俺に責任のあることを言われるんだろう。甘んじて受けてジャパニーズ土下座から始めるべき時が近づいている。
「あの」
あのね。あの。BJは真っ赤なまま何度も言う。
「最近、なんだけど」
「うん」
「……き、きもちよくなりすぎちゃって……」
声、出ちゃうし。
BJは言う。
俺は唖然とする。
何だ。
唖然とするしかないだろう。
何だ。
何だ、この可愛い生き物は。
「だから、その、……は、恥ずかし、くて……」
俺は地べたに座り込んでうつむいた。BJはまた顔を覆って俺と似たような体勢になった。いい歳をした男女2人が何をしているのか。だが俺はどうにもならず、神よ、と呻いてしまった。俺の呻きを呆れたものだと勘違いしたんだろう、BJは顔を上げて慌ててまた喋った。
「だって、何だか、あの」
涙目になっていた。俺は焦る。そうじゃない、呆れたんじゃないだ、おまえがあんまりにも可愛いものだから──言い訳をしようとする俺より先にBJがこれ以上ないほどに顔を真っ赤にして、半ば叫ぶように言った。
「はしたないって、キリコに思われたら嫌で、だから、は、はず、恥ずかしくって……!」
神よ。俺は心の中で呼ぶ。神よ。天にまします我らの父よ。我に素数を数えさせたまえ。One、間違えた、1は素数じゃねえ。
素数を数えて冷静になろうとしたが即座に諦めた。そんな余裕を持っていられるはずがなかった。持っていられるはずがないだろう。──可愛いを通り越すにもほどがある。分かるか? 世界の誰に言うべきなのか分からないが言いたい、分かるか?
顔を真っ赤にして涙目で、セックスで悦ぶ姿を俺に見られるのが恥ずかしいと言う恋人の可愛さが分かるか!?
「マフィン」
我ながらまだ余裕のある優しい声だった。もちろん死力を尽くして絞り出した演技力だ。BJは本気で恥ずかしいんだろう、今にも本格的に泣き出しそうな顔で俺を見る。目尻に浮かんだ涙を指で拭ってやるとますます泣きそうになって可愛かった。しかし泣かせるのは可哀想なので結論から伝えることにする。
「俺が今、どんなに嬉しいか分かってくれる?」
「……意味分かんない」
「分かれよ」
俺は笑い、BJの手を取って立ち上がる。BJは少し鼻をすすり上げ、素直に立ち上がった。抱きしめると素直に腕の中に収まった。可愛い。
「俺はおまえとセックスするのが好きだし、してる時のおまえは最高に可愛いし、おまえが気持ちいいと思ってくれるなら最高に嬉しい」
「……みっともなくない?」
「みっともない? 何が?」
言いたいことは分かる。だが同意できない俺がいる。愛し合ってる同士がセックスして気持ちよくなって何が悪い? むしろこの2人でしかできないことをして2人だけが気持ちいいのを共有するんだ。おまえと俺しかいないのに誰に遠慮するんだ、誰がみっともないなんて思うんだ? 俺はまったく思わないね。
そう説明するとBJは俺の腕の中でもぞもぞと落ち着きなく動く。まだ赤いし困り顔だ。それでも涙目ではなくなっていて、それが俺を安心させてくれた。安心ついでに軽くキスをする。
「すぐ恥ずかしがるのをやめろなんて言わないけど、俺はおまえがみっともないなんて思ってないってことは分かって。可愛くて仕方ないし、もっとしてあげたくなるってことも」
しばらく沈黙した後、困り顔のままBJは小さく頷いた。それも恥ずかしかったのかまた赤みが増したような気がする。それとも立葵の陰から立ち上がった俺たちを逃がすまいと照らし上げた夕陽のせいか。
「マフィン」
それから俺は大事なことを確認する。俺にとって大事なことだ。
「大事なことなんだ。気を遣わないで正直に答えて」
「何?」
「怖かったり、痛いっていうのはなかった?」
「──ない、全然ない!」
俺が自責の念に駆られていると思ったんだろう、BJは俺を見上げて首を激しく横に振った。それから必死に──俺のために必死に。何て可愛いんだろう! ──なって言い募る。
「キリコとして1度も怖いとか痛いって思ったことないし、いつも大事にしてくれるし、大事にしてくれすぎてキリコはいいのかなって思うくらいだし、わたし、いつも嬉しくて、あと、きもちよく──……っ」
BJが勢いで言ってしまった言葉に自分でショックを受けてまた顔を隠すのと、俺が笑いながらBJを抱きしめるのはほぼ同時だった。
うう、うう、と呻きながら俺の胸に顔を押しつける女が可愛くて仕方ない。どうしようもなく可愛くて愛しくて、俺は髪に何度も唇を落とした。髪についた立葵の花弁が邪魔だったが、払う暇も惜しくてそのままにしてキスをする。やがて顔を上げたBJの顎をくいと指で持ち上げて唇を重ねると、やっと落ち着いたように吐息を漏らす。それがどれだけ男を煽るか分かっていないことは明白で、このプレイ・イノセントめ、と俺は苦笑したくなった。
可愛いね、と心から言ったらBJは唇をひん曲げで、それでも嬉しさを隠し切れないと言うように顔を上げてキスをねだる。断る理由はない。
角度を変えながら何度もキスをして、BJが恥ずかしそうに、でも嬉しそうにはにかんで笑う顔が可愛くてたまらない。少し深いキスに変えると驚いたように少し身動きをして、それでも逃げようとはしなかった。
ああ、可愛いな。本当に。抱きたくなる。
だから俺は言った。敢えて軽く、まるでコーヒーでも飲まないかとでも言うように。
「一緒にどう?」
何を、なんてことは想像にお任せする。
BJが夕陽よりもまた真っ赤になって、それでも小さく頷きながら「うん」と言って、俺を喜ばせてくれたことだけがここにある事実で、そして幸せだった。