01:三日月に乾杯
現代って便利なもので、回線が繋がっていれば好きな男といつでも話ができる。同じ国にいれば最高、電話代が安くて済むから。
今日は何となく日が変わる頃に声が聴きたくなって、寝てたら起きろって思いながらコールした。3回の呼び出しで出た好きな男は私の声を聴いた途端に声を柔らかくしてくれて、よかった、仕事のことを考えてない時間だった、って安心できた。考えてる時に電話をすると、ごめんね、今は話さない方がいいよ、って言われて切られる。大抵その後、私は死神の棲み家に車を飛ばして押しかけて大騒ぎをする。
でも今夜はそんなこともなくて、窓から見える有明月を見上げながら声を聴けた。優しい声がとても好き。受話器越しでも何て甘いんだろう。
回線を挟んだ遠い距離の声なのに、形のいい薄い唇が思い浮かぶ。あの唇から零れる声を今、私は独り占めしている。何て心地良い。何て優越感。誰に? さあ? でも持ってしまう私を責める人なんてきっといない。
今日は三日月だね、って言われた。ううん、これは有明月。三日月と有明月の違いを知らなかったみたいで──たぶん日本独特の言い方なんだろうし──、説明したら相槌を打ちながら聞いてくれた。でもちょっと心ここにあらずみたいな声音で、私は途中で説明するのをやめてしまった。
説明するのをやめた私に、どうしたの、って言う。その声も優しいし、甘い。さっきより甘くなった気がして、私はちょっとくすぐったい。くすぐったいし、それから──ちょっとでいいからキスしたいな、って思う。今日はできないから今度会ったら絶対しよう。会ったら必ずするから心に決めるまでもないんだけど。
別にって私が答えたら、受話器の向こうから少し笑う声が聴こえて、何がおかしいのかと私が怒る前に言われてしまった。
これから行くよ。キスしたくなったから。
もう寝るから無理、って言って電話を切った。頬が一気に熱くなったのを認めるのは悔しい、いつになったら慣れるのかって情けない。
有明月──三日月って言うんだったら三日月でいいや。テラスのテーブルに寝酒を──もう寝るんだからね。寝酒のワインを置いて空を見上げる。夜中の空気は澄んでいて、ゆるやかな海風の中、少しふっくらした三日月が眠そうに浮かんでいた。
煙草に火を点けて月見酒。もう寝るんだからね。車の音が聴こえたなんて関係ないし、玄関からじゃなくてテラスに直接入って来た男なんて関係ない。
テーブルにグラスを2つ出していたのは私の間違い。
何も言わずに勝手にワインを注いで、隣に座った男が言った。
「乾杯」
ワイングラスを合わせるなんて野暮はしない。月に向かって綺麗に掲げてみせるキリコが本当に素敵で、いい男で、そのくせひとつ忘れてるんだから、ううん、忘れてる振りをしてるんだから腹が立つ。
それなら酒で口を塞いでやろうとグラスを傾けたら、指で私のグラスを抑えて、ちょっと首を傾けて、すごく丁寧で優しい、私が大好きな甘いキスをくれた。
ああ、もう、何て憎々しいくらいにいい男。月が見ていた? 冗談じゃない、独り占めしたいから月も見ないで。
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02:キスするつもり
セックスが終わったすぐ後に煙草を吸う男なんて最低、なんて言う女性もいるらしいけど、わたしはそうでもない。それはたぶん、わたしが喫煙者だからなんだろうけど。
第一、キリコは終わったすぐ後に煙草に火を点けるなんてことはしない。わたしを存分に甘やかしてくれてからようやく、って感じ。
この男はセックスの雰囲気を作るのも、終わった直後の男の冷めた感情を隠すのも上手い。最近なら賢者タイムって言うの? ああいう様子は一度も見たことがない。きっと隠してるんだろうな。わたしみたいに面倒な──ええ、自覚してますとも──相手には重要なスキルだと思う。
しばらくしてから自然に、本当に自然に煙草を手に取ることがほとんど。わたしもそれで煙草を思い出すことが多い。ベッドの上で裸で、しかも好きな男と煙草を吸うのって結構いい気分になれる。
「あ」
ベッドボードに置いたシガーケースを手に取ったキリコが、ちょっと間抜けな声を出した。普段は格好いい死神なのに、わたしの前ではこんな声を出す。誰にも言ったことないけど、実は嬉しい。
「何?」
「切れてた」
煙草が切れていたらしい。そりゃあ残念、とわたしは悠々と自分の煙草を咥えて火を点ける。
「チェックインの時にフロントに頼もうと思ってたんだ。すっかり忘れてた」
「間抜け」
「ロビーにいたおまえが可愛すぎて、頭から吹っ飛んだんだよ」
駄目。何度言われたって、いきなりこういうことを言われると駄目。照れる。煙草をリネンにつけないように気を付けながら枕に顔を押し付けてしまうわたしを責める誰かがいたら、特別に無料で口を縫ってやる。
キリコが少し笑って、枕に顔を埋めたままのわたしの指から煙草を奪った。わたしは顔を上げてキリコを見る。
「新しいの、出せばいいのに」
「おまえのは軽いから」
わたしよりも重い煙草を吸う男は、言った通りにわたしの煙草を一口軽く吸っただけで、灰皿に灰を落としてからわたしに返した。それからわたしを見て、自分がイイオトコに見える角度で笑った。
「この煙草、ひと箱買うのもいいかもな」
「軽いのに?」
「おまえが煙草を吸ってる時のキスと同じ味がする」
……ちょっと、不意打ちが過ぎると思うんだけど。
「離れてる時にキスしたくなったら、これで我慢するよ」
何を言えって? 何をどう言えばいいのか分からない程度には、今のキリコはちょっと格好よすぎたし、わたしはとどめをさされた気分。
たぶん、わたしはちょっと──ちょっとだけ!──赤くなったと思う。キリコの笑みが深くなったから、たぶんそう。
何だか悔しくなって、灰皿に煙草を押し付けた。
「新しいの、早く買って来れば?」
「外に出るのも面倒だし──」
「フロントに言えば買って持って来てくれる」
「ああ、そうか」
「二箱頼んで」
「二箱?」
首を傾げつつ、唇は笑ってて、本当は分かってるくせに、ってわたしに分からせるこの男に腹が立つ。──いい男すぎて、なにひとつ太刀打ちできないわたしに腹が立つ。
「キリコに一箱、わたしに一箱。何か文句ある?」
「おまえは可愛いね」
わたしにキスをしてからキリコは電話を取り、フロントに煙草を頼む。
二箱。
電話をしながらもわたしから視線を逸らさないんだから嫌になる。嫌になるでしょう。──ああ、何ていい男なんだろう、触って欲しい、つまりそういうこと、って思っちゃうわたしがいるなんて、嫌になるしかないじゃない。
電話を切ったキリコが相変わらずわたしを見ている。わたしは新しい煙草に手を延ばそうとして、やめた。
「ねえ」
「うん?」
腹が立つ。分かってるくせに。
フロントから煙草が届けられる前に、その前に。
「キスしてよ」
代わりの煙草なんかより、目の前にいるわたしにキスをして、恋人のキスの味を教えておくべき。
分かってたくせに、わたしにわざわざ言わせたキリコはやっと、軽く触れるだけのキスをしてくれた。
「続きは煙草が来てからね」
憎たらしいくらいのいい男の宣言に同意するべきだって分かっていても、わたしはちょっと腹が立って、今度はわたしからキスをして、ついでに軽く噛み付いてやった。
痛いよ、ってキリコは笑った。
ああ、何てイイオトコ。
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03:幸せなるパブロフ
雨音で目が覚めた。規則正しい雨音ではなく、それなりに強い降り方だと分かる不規則で叩き付けるような音だ。俺はあまりこの音が好きじゃない。密林のスコールはいつもこんな音だった。
四六時中つけている腕時計で時間を見る。午前3時。外からは雨音しか聞こえない。いくらワシントンでも繁華街にいない限り、真夜中は静かなものだった。
見ていた夢は思い出せない。大した内容じゃなかったんだろう。悪夢を見るよりは夢を見ない方がいい。いまだに密林の夢を見ることにはもう諦めがついているものの、進んで見たいわけじゃない。
毛布から出した腕がひやりとしたせいで、妙に目が覚めてしまった。眠くなったらまた寝ようと決めて起き上がり、煙草に火を点ける。
深く吸って長く、細く吐き出した。その途端、あの女を思い出した。おまえさんの煙草の吸い方って暇な人間の吸い方だ、と言われた。
少しあいつの機嫌が悪かった時に──おおむね俺が失言した時だ──ちょっとした嫌味を投げ付けられたんだと思う。暇と言われることを嫌がる人間の方が多いものだから。俺としては事実なので特に腹を立てなかった。
ひとつ思い出すと関連付いたように思い起こすのだから、あの女はたちが悪い。これじゃ眠れない。朝から仕事で出掛ける予定なのに。
雨音も記憶を引きずり出したがっていた。たまにこの家に泊まりに来ると、あいつは当然のように俺のベッドに入って来る。もちろん俺としても拒否する理由がない。
いつだっただろうか。雨が降っていた夜、こうやって俺がふと目を覚まして同じように煙草を咥えていたら、煙のにおいで目を覚ましたあいつが寝惚け眼で、それなのにしっかり怒った。──早く寝てよ、朝までくっついてたいんだから。
俺は少し笑った覚えがある。分かったよと言って煙草を消して、また毛布に潜る頃には、あいつはもう眠っていた。抱き締めて目を瞑りながら雨の音を聞いているうちに俺も眠った。
関連付けられた記憶は厄介なものだ。あいつの声を思い出すと、今度は別のことを考えてしまう。
もう一度、腕時計を見て時間を確認する。ワシントン、午前3時。日本は──まあ、怒られる時間帯じゃない。家にいない可能性はあるけれど、それならそれでいい。
煙草を咥えたままリビングへ行き、受話器を上げた。コール音は短かった。もしもし、と日本語が言った。あの子が出るかと思ったらあいつだった。
「いたのか」
俺がそう言うと、息を吐いてからあいつは返事をした。いちゃ悪いのか。俺はそれで満足した。もう目的が達成されたのだから。
目的が達成されて満足だったはずなのに、雨音が俺を引き留める。そうだな。俺は思った。電話を切ったら雨音しか聞こえなくなる。もう少し、と思ってしまう自分の浅ましさが嫌いじゃなかった。
「声が聴きたかったんだよ」
あいつは少し黙る。手に取るように分かる。きっと赤くなってるんだ。いつまで経っても慣れないあいつが愛しくて仕方ない。
愛しくて仕方ないと思ったら、もう雨音は関係ない。それでも関連付けられた言葉が俺の唇から勝手に零れた。
「愛してるよ」
いきなり何言ってんだか、馬鹿みたい。
そう言った後、小さな声で、わたしも、と言うのだから、俺はまた電話を切れなくなった。
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04:求愛給餌
確かめたことはないけれど、キリコは私に食事をさせるのが好きなんだと思う。食事と言うより、何かを食べさせる、という行為が好きなのかもしれない。
二人でいる時にキャンディのような小さなスイーツを口に放り込まれることは当たり前だし、食事は必ず、それこそ大喧嘩をしている時でも必ず声をかけてくれる。どこかに食べに行ったり、キリコが作ってくれたりと様々だけど、どんな時でも全部、確実に美味しい。
喧嘩をしている最中に食事だと言われると、正直言って私は助かる。これで手打ち、そういう意味だから。この時の食事は大抵いつもよりちょっと良い店だったり、キリコが作るならいつもよりちょっといい食材を使ったりで、まあいいかな、って気分になれて、店からの帰り道や食べ終わった後にごめんって言いやすくなる。キリコがごめんって言う時もある。
喧嘩はそれで終わり。その後にキスをすると、食べたばかりのスイーツの味がしたり、食後の煙草の香りがしたり、それはその時々だけど、凄く安心できる味なのは間違いない。
別に喧嘩なんかしてない時でも、キリコが食べさせてくれる料理は何でも美味しい。連れて行ってくれるレストランに外れはないし、テイクアウトができる店ならドギーバッグにピノコの分まで用意してくれる。流石ロクター、って言いながらピノコはお土産の料理を食べて、いつも美味しくてうっとりした顔になって、それが可愛い。
キリコが作る料理はいかにもアメリカ人男性の料理って風体で、でも想像以上に美味しい。仔牛のポットローストは舌が蕩けちゃうかと思ったくらいだし、それからケイジャン料理がすごく上手。定番のジャンバラヤはもちろんだけど、揚げた牡蠣と新鮮な野菜とバゲットで作ってくれるサンドイッチは美味しすぎて、何度ねだって作ってもらってるか分からないくらい。
口にひょいと入れられるキャンディもグミも小さなチョコレートも絶対に私が好きな味で、味蕾までもがもう、あ、キリコがくれたやつ、ってすぐ理解するようになった。
細いのに節くれだったキリコの指が小さいスイーツをつまんで、私の唇をつついて開かせて中に滑り込ませて、美味しい、って感じるのと同時にキスで唇を塞がれるのがいつものこと。他人様にはとても見せられない。慣れるまでちょっと時間がかかった。
初めてされた時は驚いて、耳まで凄く熱くなって、滑り込んだキャンディが喉に詰まっちゃって、ちょっとした騒ぎになったのも良い思い出だ。たぶん。
……放り込まれるスイーツがチョコレートの時は、したいのかな、って分かる。別にいつもじゃないけど、でもそういう時が多い。
チョコレートが溶けるまでずっとキスを──触れるだけのものじゃなくて──するんだから、そう思っちゃうのは仕方ない。その間にどんどん私の身体が熱くなっちゃうのだって仕方ない。
だってキリコがそう仕向けるんだから。ただのキスなのにただのキスじゃなくって、チョコレートの味が口の中からすっかり消えた時には、もう私の首からリボンタイは消え失せてるし、ベストとブラウスのボタンも外されてる。
その頃にはもう肌も息も恥ずかしいくらいに熱くなっちゃって、下着ももう湿っちゃってて、恥ずかしくって、でも恥ずかしいなんて言ってないのにキリコは分かってて、俺しかいないんだから恥ずかしくないよ、って、チョコレートの香りがする言葉で私を宥める。
そうなれば後はキリコがきもちよくしてくれるだけ。恥ずかしいのはどこかに飛んで行って、キリコの指と唇にぐずぐずに蕩かされて、私は馬鹿みたいに何度もきもちいいって言うばっかり。でもキリコは信じられないくらいに何度も可愛いって言ってくれる。
チョコレートの味はいつも違う。でもいつでも私が好きな味。
今日は夕飯が終わって二時間くらい後、放り込まれたのはアプリコットジャムが入った甘酸っぱいチョコレート。美味しいって思ってたのはやっぱりいつも通り、キスの途中まで。
ベッドまで行く余裕がなかったのか、それとも単にキリコがそこでしたかったのか、したのはリビングのソファだった。終わってもそのまんま二人でごろごろしてる。
きもちよさの余韻が残って動くのが億劫な私のためにキッチンでコーヒーを淹れて来てくれたキリコが、テレビをつけてから私の隣に座る。私は何となくまだ甘えたくて膝枕をしてもらう。だらけた時間。最高に好き。
髪を撫でてもらいながらテレビ画面を見た。キリコはニュースが見たかったみたい。つけたチャンネルはリベラル系のCNNだった。
CNNのアンカーの米語はちょっと早口で、でもキレがいい。でも今はそれより恋人の膝枕で髪を撫でてもらうほうが大事。
キリコはそうでもないみたいで、煙草を咥えてそこそこ真面目にニュースを見ていた。キリコの日課だから仕方ない。片手間でも髪を撫でてくれるから寂しくない。あと、ニュースを見ているキリコがかっこいいからいい。
アメリカ国内の色んなニュースの後、ちょっと明るいトピックになった。綺麗な色の鳥たちの映像だ。羽ばたきの練習をする雛とその親鳥、卵を抱く雌に餌を運ぶ雄。可愛い。難しいニュースの後にはちょうどいいのかも。
雌に餌を食べさせている雄を見て、キリコがちょっと笑った。
「求愛給餌」
「え?」
私が仰向けになって見上げると、キリコは私を見降ろしてふっと笑った。うん、かっこいい。
「鳥の雄が雌に食事させるのをそう言うんだ」
「食事させる? 何で?」
「抱卵中の雌が餌を探せないから、つがいの雄が運んでやるんだ。放っておくと飢え死にするからな」
「いいな。頼れる旦那」
「だな。他にもあって、まあ──おまえもよく知ってるよ」
「え?」
キリコは少し笑って煙草を消し、私の唇を指でなぞる。
「ものにしたい女に美味しいものを食べさせるんだ。俺といたらこんなにいい思いができるんだぞ、ってアピールにね」
私は少し考えて、それからアメリカ人よろしく、わーおって言ってみた。そうしたらキリコが本物のアメリカ人ならではの発音でWowって言う。二人して笑ってしまった。
起き上がろうとする私を抱き起こしてくれたから、私は私に求愛給餌する男にもたれかかる。腰に腕を回しながらキスをされた。煙草の味がするキスだった。それからキリコはまた笑いながら言った。
「何か食べる?」
私もまた笑った。まだしたいんだ? って訊くと、またしたくなった、って言われた。だから私は答えた。
「牡蠣のサンドイッチ」
「牡蠣がないな」
「買って来てよ」
「神よ」
それこそアメリカ人、オーマイゴッドを本場の発音で呟いて、ソファの背もたれにもたれて天を仰ぐ。天って言っても天井だけど。
「もう店やってねえよ」
「ふうん」
天井を仰いだままのキリコに乗り上げる。青い瞳と潰れた目を見降ろして、にやりと笑ってみせた。だって私もしたくなっちゃってるから。
「まだ給餌してくれなくても明日の朝くらいまでなら死なないから、先にするのもありだと思わない?」
「Sweet!」
やったぜ、なんてわざとらしく、でも思いっ切り嬉しそうに言って飛び起きて私を抱き締めるものだから、私も嬉しくって抱き締め返してキスをした。
スイートなんてスラング、わざと言ったのはすぐ分かる。いつもこんな時はオーマイゴッドって言うんだから。でもこんなところがすごくかっこよくって好き。
また難しい話を始めたアンカーにテレビを消してさよなら。二人の煙草を持ってだらしなく、他人様どころか神様にだって見せたくないくらいくっついて歩きながら寝室へ──その前にサイドボードのチョコレートをひとつ取って、キリコの口に放り込む。逆だろ、って笑われた。でも私は言ってやった。
「ベッドで返してよ」
たくさんキスしてよ、って意味。
すぐに分かった男はもう一回、スイート! って大袈裟に、でもかっこよく言って、私を勢いよく抱き上げた。大丈夫、って私は笑いながら思った。
大丈夫、飢え死になんかしないから。だってこれからキリコを食べちゃうんだもの。最高の求愛給餌だと思わない?
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05:「……more?」
酒に弱いわけじゃない。むしろ一般的な女性よりも強い自負はある。今だってそこまで飲んだわけでもない。
それなのに頬は熱いし、何だか頭がぼうっとして、まるで飲み慣れない酒を飲んでしまった時のように、身体も意識もふわふわしている。
目の前にいる銀髪の男はいつ見ても素敵で、でもこんなふうに二人きりで向かい合って飲むのは初めてで、だからかもしれない──いやだ。どうしてこんなに格好いいんだろう。
きっと少し、わたしは飲みすぎている。でもこれはわたしが酒にだらしないからじゃない。テーブルを挟んでワイングラスを片手に、いろんな話を穏やかに、でも時に楽しく、時に真剣に話してくれる男がいつの間にか、本当にいつの間にかわたしのグラスを満たしている。
最初はワインを注いでくれていたはずのウエイターはとっくにいなくなっていて、知らないうちに目の前の男がボトルを自分のもののようにスマートに操縦して、わたしのグラスは空く瞬間がない。
男の視線はずっとわたしの目から外されることがない。わたしはそれが少し気まずい──ううん、恥ずかしいんだと思う。そう、恥ずかしくて、そこから意識を逸らせたくてグラスに口をつけてしまう。だから男はまたわたしのグラスを満たす。
これ以上は。そう思った。頬が熱すぎて、身体が熱すぎて、ふわふわしてしまって、これ以上はもう飲まない方がいい。
空きかけたグラスの上に手を置いて、もうたくさん、ってわたしが示すと、スマートでマナーをわきまえたはずの男は少し笑って、そう、わたしはもうたくさんって示したはずなのに、キリコはボトルを手に取って、当たり前のようにわたしの手の甲の上で傾ける様子を見せて、わたしの目から視線を逸らさないまま、それから言った。
「……もう少し、飲む?」
もうたくさんって分かってるはずなのに。
頭がぼうっとして、ふわふわして、だからこれはきっとわたしのせいじゃなくって、だから──グラスから手を外したのはわたしのせいじゃなくって、あんまりにも格好いい、目の前の男のせい。