五千万。もちろんびた一文負けない。それを告げると院長は顔をどす黒くして怒りに震え、目の前の女が人生において既に聞き飽きた悪口雑言を吐き散らした。BJは平然と聞き流す。オリジナリティがない、と評価する余裕まで持っている始末だ。
「つまり、この依頼は無かったことにしてよろしいんですかい。私は全く困りませんぜ」
「この女狐が! 足元を見てふざけたことを!」
「女狐に足元を見られるような依頼をする院長もどうかって話ですよ。あなたの代わりにオペ、そりゃあ構いません。あなたがオペしたことにするのも構いません。しかしね、それならそれなりに相場ってもんを知っておくべきじゃあないですかね」
「だからと言ってその金額は無茶苦茶だろう!」
「私は知りゃしませんて。患者や世間に嘘をついてオペをするんだ、口止め料も入っているとお思いなさい。報酬にご不満があるなら話は終わりだ、他を当たるんですな」
それ以上相手にせず、BJは院長に挨拶もせずに部屋を出た。人目を避けたいからと言われて深夜に足を運んでやったと言うのにとんだ無駄足だ。少々ならず腹が立ち、乱暴な足音になってしまっていたことに気付く。深夜の病院に相応しくはない。ほんの少しだけ静かに歩いた。
大病院の駐車場は広いが、BJはそこには停めないよう前以て連絡されていた。とにかく目立つようなことをしないで欲しい、出来る限り静かに来て欲しい。そう言われた。だったらこんな見てくれの人間に頼むもんじゃあない、と思いはしたが、伝えてやる義理もなかったので言わなかった。
裏口から出て一度足を止め、ええと、と考える。車を停めたコインパーキングはどちらの方向だったろうか。最近、稀にぼんやりとしてしまう瞬間があることを自覚していた。ロンドンから帰ってから時たまこんなことがある。原因は分かっていたが敢えて考えないようにしていた。
「──間さん?」
やっと思い出して歩き出そうとした時、背後から声をかけられた。本名だと気付き、やや用心して振り返る。BJと言う名前より本名で呼ばれる方に違和感を持つとは面倒な人生だ、と妙に冷静な部分で思った。だがそこにいた白衣の男を見て、ああ、面倒だ、聞こえない振りをすりゃ良かったと思考全体で後悔した。
「やっぱり。久し振りだね。どうしてこんな時間に」
「……おまえさんこそ」
「俺はここの勤務医だからね。間さんは──噂には聞いてたけど、随分、うん。似合ってるね」
患者に愛されるであろう清潔感を持った見目の良い男は、BJの姿を見て馬鹿にするではなく素直に笑ってみせた。久し振りに会う同窓生への笑い方だ。
だがBJは彼から距離を取るように一歩後ろへ下がった。気付いた同窓生は笑顔のまま、その分一歩を踏み出した。
「休憩中なんだ。一緒に煙草でもどう? もうやめちゃった?」
「──私と一緒にいるところを見られたら院長の不興を買うよ。話しかけるな」
「そんなことないよ」
「さよなら」
「待ちなよ」
普段のBJなら腕を掴まれることなどなかったはずだ。だがその声で一瞬怯んだのは確かで、結果として逃げ遅れた。この男から逃げたかったのだ。
「久し振りなんだし、話がしたい」
「思い出に浸るような間柄でもないだろうよ。離せ」
振り払おうとする。だができなかった。笑顔を浮かべたまま、男は強すぎる力でBJの腕を掴んでいる。離せ、ともう一度言って身を捩ったが無意味だった。
「連絡先は? 依頼じゃなくてさ、個人的な。また話をしたいんだよ」
「私は話すことなんか何もないし、連絡もいらない。離せ」
「話はたくさんあるよ。俺はね。楽しかったじゃないか、俺たち」
「──離せ!」
今度こそ渾身の力で身を捩り、掴まれた腕を離すことに成功した。しかしそれも束の間にすぎず、同窓生は身を翻そうとしたBJの身体を引き寄せた。男の容赦のない勝手な力は性差として膂力に劣る女の抵抗をあっさりと封じ込めた。
「離せ──離せ、触るな」
「ああ、相変わらずだね。今もこの傷、あるんだね。整形で消さないんだ」
顔の傷を見て相変わらず笑顔のまま、同窓生は半ばうっとりとした声で呟く。ブラウスの襟から覗く傷にも同じ視線を向け、可愛い、と言った。
「可愛いね。相変わらず。間さん、可愛い」
「離せ、って、──離して!」
過去に経験し、忘れようと努めてようやく封じ込めた気味の悪さが蘇り、遂にBJは女の顔と声で言った。男を喜ばせるだけだと分かっているのに、どうしても堪えられなかった。同窓生はそれすらも可愛いと笑い、手を離そうとしない。左腕で痛いほどにBJの身体を強く抱き締め直した後、右手を紅いリボンタイに延ばす。今度こそ本気でBJは女の悲鳴を上げた。
「離して!」
「声が大きいよ。患者さんが起きちゃったらどうするんだ」
「やめて! やだ、──いや!」
リボンタイが解かれてまた悲鳴を上げる。ここが深夜の病院の裏口などと配慮できる余裕がなかった。本気で嫌悪し、女として恐怖する。身体が竦む。
「これはBJ先生、お熱い夜で」
BJは別の意味で身を竦ませ、同窓生は笑顔を収めてBJから手を離した。この場には不似合いなほど品のある声と言葉がかけられた今、男の無体を続けられるはずがなかった。
「──キリコ」
どうしてここに、と考えるまでもなかった。彼の仕事を知っているのなら当然分かる。まさか、そんな──乱暴されかけた混乱と死神の思わぬ登場への混乱に、BJは自分でも分かるほどパニック前兆に陥っていた。
「お邪魔で失礼。通れなかったものですからご寛恕を」
裏口から出て来た銀髪の男はちらりと同窓生の白衣のネームプレートに目をやり、それからBJの乱れかけた胸元を見てから、わざとらしく肩を竦めてみせた。
「こんな先生がいらっしゃるような病院ではね。仕事を断って良かった」
「……断ったのか」
「BJ先生からすれば褒めて頂いても良さそうな決断ですよ」
「──間さん、また。今度電話する」
同窓生がまた笑顔でBJに声をかけ、BJは理性で抑えきれない本能からの恐怖で身を竦ませる。そして同窓生はキリコを一瞥し、そのまま病院の中へ戻って行った。
「クソビッチ、俺に礼は?」
煙草に火を点け、BJに声をかける。面倒くさい、とキリコは思った。キリコの侮蔑の言葉に気丈に睨み付けて来るBJの身体が、小刻みに震えていることに気付いてしまったからだ。そしてあの男が最後に声をかけた時、確実にBJは虐げられた女の顔で恐怖していた。
「それじゃ運転できないだろう」
煙草を咥え、乱れた襟を直してやろうとして手を延ばす。途端、BJがびくりと震えたことに舌打ちしたくなった。キリコに怯えたのではない。あの男への恐怖と嫌悪の余韻がそうさせたのだ。
「悪かった。触らないよ」
「……うん」
「送ってやる。乗れ」
「大きな世話だ」
「それで運転したら事故るだろうが」
腕を引こうとしたが、それはやめた。また身体を震わせるような気がしたし、何より、彼女にはもう触れないと決めたことをようやく思い出した。ロンドンで泣かせた日からそれほど時間が経っているわけではなく、気を抜けばまたあの遊びの中に戻ってしまいそうだった。
「先生の車は明日にでも取りに来ればいい」
BJは返事をしなかったが、不意に響いた背後の物音にキリコが驚くほどびくりとして振り返る。その姿に沸き上がった怒りを抑えようと努力しながらキリコは言った。
「俺の車に乗るんだ」
BJへの怒りであるはずがなかった。だが声に怒気がこもったことは否定できなかった。
「帰って風呂に入って、触られたところを全部洗ってから寝るんだ」
唇を引き結び、BJはキリコを見る。睨んでいると言ってもいい目付きだった。だからキリコも睨み返した。そしてBJが吐き捨てるかのごとき荒い口調で言った。
「馬鹿みたい」
キリコは今度こそ舌打ちして制御しきれなかった感情を見せた。馬鹿みたい。俺を愛するなと突き放した女に何を言っているの。馬鹿みたい。女が全身でそう訴え、男を責めていた。
「馬鹿で結構」
苦々しさを隠さない男の声に満足し、ようやくBJはキリコの申し出を受け入れ、持ち主よりも速足で駐車場に歩いて行った。リボンタイはその場に捨てた。
BJもキリコも、車の中でろくに口を利かなかった。うんざりするような沈黙の中、崖の上の家に送り届ける頃には深夜の0時を回っていた。
「いくらだ」
ドアに手をかけ、BJが不意に言う。キリコは一瞬理解できなかったが、次に恐ろしく腹が立ち、怒鳴り付けそうになる自分を抑えるために数秒を必要とした。
「20。明日、車を取りに行く足にするなら50」
「9時に」
短く言い、BJはそのまま車を降りた。キリコは彼女が家に入る姿を見届けることなく、出来る限り丁寧に、家で眠っているであろう幼女を起こさないために静かに車を発進させた。朝になればまたここに来なくてはならない。あの女は50万円を用意して待っているだろう。久し振りに、恐ろしく気分の悪い金を手にしそうだと思った。そして明日の運転を申し出た数分前の自分を殴ってやりたくなった。
馬鹿みたい。女の声が脳裏に蘇る。
馬鹿で結構。心の中で彼女を、そして自分を罵った。
翌朝9時、時間ちょうど、エントランス前に停まった車の助手席に、やはり時間ちょうどに家から出て来た女が無言で乗り込み、同時にやや厚みのある封筒を運転席に投げる。男はそれを改めることもなく、そのままドアポケットに投げ入れてからサイドブレーキを降ろした。いつもの紅いリボンタイがないことに気付いたが、指摘しようとは思わなかった。
「事故るんじゃねえぞ、早漏」
「早漏じゃねえ、このクソビッチ」
わざと言われた汚い言葉に同じく汚く返し、彼女が昨日よりは軟化した空気を求めているのだと理解した。それならその程度に合わせてやることにする。居心地の悪いドライブなど御免だった。元々一切会話をしないという取り決めをした覚えもない。あの遊びさえしなければいい、女を愛していることを思い出しさえしなければいい。あとは昔のように、商売敵として生きて行けばいい。
「人殺し」
「人聞きの悪い呼び方をするな」
「じゃあ早漏」
「放り出すぞ」
「昨日、誰の依頼を断った?」
「名前は言わない」
「症状」
キリコは淡々と説明する。ふうん、と言ってBJは眉を顰めた。
「私に依頼した患者だな」
「先生で駄目なら俺にって? そんなこと言ってなかったが」
「違う。主治医の教授が私にオペを依頼して来た。患者の同意を取ったと言っていたはずなんだが──くそ、やっぱり本人以外の話なんか聞くもんじゃねえな。五千万じゃ割に合わない面倒になるところだった」
話を理解したキリコは思わず笑う。BJはしばらく不機嫌顔を貫いたが、やがて一緒になって笑い出した。
「あの患者はまだ生きられる。俺の患者にはなれない」
キリコが言った。BJはそうかと返事をした。そしてそれきり二人は黙った。夜中のような息が詰まる沈黙ではなく、それぞれの時間を同じ空間で過ごすことに慣れた二人の沈黙だった。良くないことだとキリコは思ったが、この沈黙を破るきっかけがどうしても見付けられなかった。
あの男は誰だ、他に被害はなかったのか、と、少し前の自分なら訊いていたかもしれない。だが今はそれができない、してはいけないと自分で決めている。BJも語ろうとしない。結局はそういうことだ、俺の言ったことを受け入れたんだ。キリコは思った。俺を愛さないでと言ったあの言葉を、BJが受け入れてくれたのだと思った。
「雨が降りそうだ」
空を見たBJがぽつりと言った。視線の先に厚い黒雲が見える。BJが勝手にラジオを操作し、天気予報を探す。大雨の予報が車内に流れ、多くのドライバーをうんざりさせようとしていた。
「あ、ごめん」
病院の駐車場に停車してから思い出し、BJは珍しく本気でキリコに謝った。
「ここじゃなかった。近くのコインパーキング」
「は?」
「ここに停めるなって言われてさ。──まあいいや、歩いて行く」
「別にいい、そこまでは送ってやる。もらうもんもらってんだし」
「これで50か。いい仕事しやがって」
「クソビッチの子守り代込みだ、足りねえよ。──ちょっと待ってろ、捨てて来る」
吸い殻が溜まった車内の灰皿を取り、キリコは一度車を降りた。BJもそれなりに長めの乗車で疲れ、身体を伸ばしたくて一度車を降りる。駐車場の隅、自動販売機の横にあるゴミ箱に向かって歩くキリコを見て、いつ見ても姿勢が良いと感心した。長身で隻眼、銀髪の外国人は目立つ。すれ違う人たちが必ずキリコを見ていた。
思わず見惚れそうになった時だった。二度と聞きたくないと、ずっと昔に思った声が聞こえた。
「やっぱり来た。残業して良かったあ」
自分でも滑稽だと思ってしまうほど身を震わせ、横から声を掛けて来た男を見た。紅いリボンタイを手に笑顔で立つ同窓生は嬉しそうで、また会えたね、と言った。昨夜と、そして学生だった頃の同窓生の記憶が蘇り、BJは震え出した。止まれ、と自分で命じても震えを止めることができない。声も出せない。こういった件の被害女性が声を出さなかったことを責める輩がいるが、そんなのは不可能なんだ、だってこんなに怖くて声なんか出るもんか、と、恐怖の中でも妙に冷静に思った。
車の中に逃げ込めばいい。それは分かっている。だが足が竦んで動けない。
「間さん、これ。忘れて行ったでしょ。落ちてたよ」
返事などできない。何とか後ずさることはできたが、よりによってキリコの車にぶつかった。後ずさった分、同窓生は歩を進める。来るな。来るな──声が出ない。怖い。怖い。──怖い!
「汚れちゃったね。新しいの、買ってあげるよ。俺の車に乗って」
同窓生は笑っている。BJは震えている。同窓生は言った。昔も買ってあげたじゃない。あの服はもう捨てちゃった? ねえ?
服なんて。BJは思った。思い出した。そんなもの。服なんて。おまえが。おまえが破いたじゃないか。笑いながら破いたじゃないか。だが何ひとつ言えなかった。声が出ない。怖い。
笑ったまま、同窓生は手を延ばす。おいでよ。行こう。
「──Don't fxxk around with me!」
おまえ、ふざけた真似をするんじゃねえ! 突然響いた怒鳴り声に、BJの身体から呪縛が弾け飛んだ。同時に同窓生が笑みを消し、怒鳴り付けた男を──銀髪の外国人を見る。キリコは触れないと決めたはずのBJの腕を掴み、車のドアを開け、叩き込むように押し込んだ。そしてドアを閉めながら同窓生に向かい、日本語で「彼女に近付くな、次は警察を呼ぶぞ」と強く言う。シートに倒れ込んだまま、BJはその声をドア越しに聞いた。
動悸と吐き気に今更気付く。呼吸が浅くなっている。医者で良かった、何とか対処できる、とどうにか自分を冷静に宥めながらシートに深く座り直し、呼吸を整えることに専念した。「行け!」とキリコが同窓生にまた強く言う声が聞こえる。こんなに強く、怒りに任せた声を出すキリコは珍しいと思った。初めてかもしれなかった。
キリコが運転席に座り、彼にしては乱暴にドアを閉める。ロックをかけてからBJを見た。呼吸を整えようとしている姿に眉を顰める。
「話したいか?」
BJは少し考えた。答えはすぐに出た。この男に話したくなかった。だから首を横に振った。そうか、と呟き、キリコはサイドブレーキを降ろしてアクセルを踏んだ。この女は二度とこの病院に来るべきではないと思った。話さなくても分かる程度には歳を取ってしまっている。
「昔の男だろ」
BJは答えない。キリコはギアを変えてから綺麗にした灰皿を定位置に押し込み、煙草を咥えてシガーソケットで火を点ける。
「誰にも話したくなきゃ、もう忘れろ」
昔の男なんてそれでいいんだよ。キリコはそう付け加えた。助手席でようやく呼吸を整えたBJが皮肉な笑いを漏らした。
「じゃあ、おまえさんのことも忘れなきゃ」
キリコは煙草を深く吸い、煙を長く吐き出した。
「先生の男になった覚えなんか、ないね」
馬鹿みたい。BJが言った。馬鹿で結構。キリコが言った。
大粒の雨が窓を叩き始め、すぐに激しい雷雨に変わった。車に身を叩き付ける雨粒の音があまりにもうるさくて、それを言い訳に、二人はそれきり何も言わなかった。
コインパーキングの場所を訊く前に、BJはうたた寝を始めていた。キリコは溜息を吐き、これじゃ来た意味がないじゃないか、と独りごちる。しかし今の状態のBJを叩き起こす気にもなれなかった。
BJが異性に性的な目を向けられ、卑怯な暴力を退ける姿を何度か目にしたことがある。そのたびに彼女は強く、震える姿など想像もさせないほど強く、昨夜からの様子がとても想像できなかった。
──あの男だけか。ネームプレートは──覚えておく義理もないが。まともな目じゃなかった。あの目は──俺はあの目を知ってる。
BJの車をどうするか考えながら、適当に道を走る。雨の日の運転はあまり好きではなかったが、停まっていたい気分でもなかった。
国道に入る頃、急に道が混雑する。エスケープするかと考え始めた時、完全に渋滞が始まり、くそ、とキリコは呟いた。BJは浅い眠りなのか、たまに身動き、目を開き、そしてまた閉じることを繰り返している。
ただの渋滞ではなかった。前方の車が少しずつ脇道へ入り、引き返そうとしている。ワイパーを強くして様子を窺っていると、レインコートを着た警官が一台ずつ順番に声をかけている姿が見える。この時点でうんざりして深く溜息をついた。
ハンドルを指で叩いて時間を過ごしていると、やがて警官が窓をノックする。キリコが外国人だと気付いて一瞬戸惑った顔をしたので、窓を少し降ろして先に「何かあったんですか」と達者な日本語で質問してやった。警官は安心した顔になり、何度も繰り返した説明をまた口にした。
「この先、冠水で通行止めになったんです。危険なので水が引くまでは迂回して下さい。順番に誘導しますから、ちょっと待ってて下さいね」
「ああ、どうも。分かりました、お世話様」
窓を閉め、くそ、とまた呟いた。BJは眠っていた。
指示された迂回ルートを通り、通行止めになった国道から出たものの、この辺りの道には詳しくない。だが車に積んだ地図を見る気にもなれない。あの病院に戻ってしまうような道だけは避け、キリコはあてもなく車を走らせた。
BJは深く眠ってしまったようだ。昨夜眠れなかったのかもしれないとキリコはようやく思い至った。あれほど怯えていたのだから当然と言えば当然だ。
最近ちらほらと見かけるようになったコンビニエンスストアを見付けた。煙草の本数が心もとないことを思い出し、駐車場にハンドルを切った。車を降りようとして助手席をちらりと見やり、馬鹿げていると自分で呆れながらもエンジンを切り、キーを抜いてから降りてロックした。あの男がこんな場所まで来るはずがないのに。
雨ざらしの駐車場から店内に入る短い距離で随分濡れてしまった。気分が悪い。
自分の煙草と少しの飲み物、それからまた馬鹿げていると思いながら、BJの煙草も買った。
店を出ようとした瞬間、自動ドアが開いた。店に駆け込んで来た人物は、青ざめ、雨に濡れたBJだった。キリコを見てあからさまに安堵の溜息をつき、それでも何も言わず、また車に戻って行く。
キリコは息を吐き、沸き上がる後悔を馬鹿げていると思い込もうとした。一人にするべきではなかった? 可哀想なことをした? なぜ自分の女でもない相手にそんな後悔をしなければならないのか。馬鹿げている。とても。
互いに随分濡れたままシートに収まり、ほぼ同時に煙草に火を点ける。雨で窓を開けられない車内の中、空調を調節してもすぐに白い煙が充満した。
「大丈夫か」
これくらいは訊いてやってもいいだろう。もし変調があったら面倒だ。車を汚されるような変調があれば尚更だ。
「別に」
BJは短く答えた。それならそれでいいさ、とキリコは思うように努めた。大丈夫じゃないだろう、と言いたかったが、言うべきではないと自分を戒めた。──大丈夫じゃないだろう。震えてる。目が覚めて俺がいなかったから、一人であいつを思い出して、ひどく怖がったんだろう。
「国道が通行止めになった」
沈黙を嫌って状況を説明する。ロンドンでもやはり沈黙を嫌った時間があった。あの時はどうしただろう──沈黙を埋めるように何度もキスをしたのだと思い出して、考えることをやめた。馬鹿げていると思った。
「通行止め?」
「冠水だとさ。この辺の道に明るくないから適当に走ってた」
「地図は?」
「見てない」
「何で」
「面倒だった」
「ふうん」
馬鹿かと罵られるかと予想していたのに、BJはそう答えただけだった。
「ピノコに電話して来る」
「濡れるぞ。電話ボックスにしろ」
店頭にあった公衆電話は雨ざらしだ。電話ボックスを探してやると言ってキリコは車を発進させた。道路標示を頼りに市街地の中央へ向かえば必ずあるはずだ。
大雨のせいか人通りも車も少ない。まだ昼を過ぎたばかりの時間なのに見通しが悪く、対向車のライトが鬱陶しかった。
電話ボックスはすぐに見つかった。雨を避けられるよう限界まで横に車を停めてやり、BJが電話をかけに行く姿を見送る。薄暗いボックスの中で受話器を取りながら、濡れた髪が邪魔なのか、首を傾げながらコインを入れるBJを可愛いと思いそうになり、視線を空に向けた。重苦しい雨雲が陽光を遮り、まるで夜の中にいるのではないかと錯覚させようとしていた。
僅かに悲鳴が聞こえたような気がした。BJに目を向け、次の瞬間、車を飛び出していた。
「先生!」
BJの手から取り落とされた受話器がぶらぶらと宙を泳ぎ、そしてコインが散らばっている。ボックスからよろめき出たBJは一点を見詰めて震え、口元を抑えてうめき声を殺していた。キリコはBJの視線を追い、眉を顰める。ただのゴミだ。マナーの悪い利用者が菓子袋を開けたゴミでも捨てて行ったのかもしれない。だがキリコは口の中で「クソッタレ」と呟き、BJに車の中に戻るように言った。
「お嬢ちゃんには俺が電話しておいてやるから」
赤い、長い紐のように見えるゴミにすぎなかった。だがキリコには痛いほど分かった。追い詰められた女が、忘れて来た自分のリボンタイだと錯覚してしまったということ。──まさかあの男が置いたのでは、と、有り得ない恐怖を抱いてしまったということ。
「ああ、お嬢ちゃん? こんにちは」
女の家で留守番をしている小さな娘に、できるだけ優しい声で話しかけた。
「冠水で足止めでね。今日は遅くなると思うからって先生が。──うん、大丈夫」
ピノコは何かを訊きたい様子を窺わせた。そりゃあそうかもな、とキリコは思った。ロンドンでBJを泣かせた後、キリコはすぐにホテルを出て帰国した。ピノコが起きた時にはもう機上だった。それ以降一切連絡をしていなかったし、会うこともなかった。あれだけ密接な時間を過ごした男が突然消えた理由を、きっとBJは説明していないだろう。優しい、そして賢い娘はBJに訊くことができなかったのだろう。
かと言ってキリコから説明するつもりもなかった。女への心を切り捨てなければならないように、この小さな、しかし賢い娘への興味も切り捨てるべきなのだ。
互いに白々しいと分かるほど上っ面だけの会話を終え、キリコは電話を切った。赤いゴミを踏み付けてから車に戻る。ロックがかかっていた。女の怯えようにうんざりした。──いいや、違う、と思った。うんざりしているのは俺に対してだ。俺自身にだ。
「先生、開けてくれ」
ノックはしなかった。きっとまた怯えるはずだから。
ずぶ濡れになってしまっている。気分が悪い。車内を覗けばBJも先ほど以上に濡れ鼠だ。先生、俺だよ、開けてくれ、と少し大きな声で言った。あの男と勘違いさせないように、わざと英語にした。BJが弾かれるように顔を上げ、安堵の息を吐いてからロックを解除する。優しい言葉をかける義理はないと考えながらキリコは運転席に滑り込む。
「風邪を引きそうだ。シャワーを浴びたい」
濡れた髪をかきあげながらキリコが言うと、BJは鼻で笑った。だからキリコは乱暴に吐き捨てた。
「俺の女でもねえくせに、自惚れてんじゃねえよ」
BJがまた笑った。何かを嘲る笑いだったが、キリコはそれが自分に向けられたものではないと分かっていた。
一番最初に見付けたビジネスホテルに部屋を取り、キリコは「先に使え」とBJにバスルームを示す。同じように雨を避ける飛び込み客のせいでシングルルームは満室で、ツインかダブルしか空いていないと言われ、もちろんダブルでしょうと言う顔をしたフロントマンの予想を裏切ってツインルームを取った。泊まることになったら俺は車で寝ればいい、と思った。同じ部屋にいてはいけない気がしていた。
先にBJがバスルームから投げておいてくれたタオルで簡単に拭い、あとは彼女のシャワーが長いことを思い出して風邪を覚悟する。そんなことまで知っている自分が本当に馬鹿げていると思う。
キリコの予想よりかなり早く、バスローブ姿のBJが短い時間でバスルームから現れた。ああ、とキリコは思った。──ああ、俺に気を使ったのか。
アイパッチもずぶ濡れだった。一度外せば乾くまで着ける気になれない。どうせ見られたことがある傷だ、少しの間、晒しておいても構わないだろう。
シャワーで肉体的な不快感を流し、部屋に戻る。BJが窓際の粗末なテーブルの上に安いビール缶を置き、ぼんやりと外を眺めていた。最後に会った時には英国屈指の高級ホテルで馬鹿高い酒を楽しんでいたと言うのに、今はどうだ。小さな冷蔵庫から安いビールを引っ張り出した。一気に半分ほど飲んだ後、ああ、しまった、と本気で焦った。
「先生、ごめん」
「え」
「飲んじまった」
車の運転ができなくなったことを、キリコは心から詫びた。BJは肩を竦めただけで、何も言わずにまた窓の外に顔を向けた。開き直ったキリコは持っているビールを飲み干し、冷蔵庫からまた一本引っ張り出してしまった。後のことは少しの間、考えたくなかった。
BJはじっと外を見ている。窓に叩き付ける雨粒で滲むどころか霞む景色の中に何があるのか、窓から遠いベッドで酒を飲みながらキリコは不思議に思った。
「キリコ」
「うん?」
BJは窓の外から視線を移すことなく、言った。
「私の裸、見たいと思ったこと、あるか」
さて、どう答えるべきか。男としてではなく、医者として意識が切り替わった。患者の心に添うことが多いキリコは、近年研究が進んでる心療医学に対しても多少以上の心得がある。今この瞬間、BJに対して軽率な発言をしてはいけないと分かった。そんなの知ったことか、俺の女じゃないと喚く男の自分は医者の自分が黙らせた。
「ロンドンで何度も思ったよ」
「今は?」
「思わないようにしてる」
「そうか」
「うん」
「じゃあ、謝る」
「うん?」
BJが立ち上がり、窓際からゆっくりと、キリコが腰掛けるベッドへ歩いた。キリコの頭の中で警鐘が鳴った。やめろ。駄目だ。何を考えてる。近づくな。警鐘はそう告げているのに、動くことができない自分を酷い愚か者だと思った。
キリコの前に立ったBJはひどくあっさりとバスローブを脱ぎ捨てた。場末のストリップにしても酷過ぎる、とキリコは言いたくなった。それほど簡単に脱ぎ捨ててしまった女は何の躊躇いもなく全裸を男の目に晒していた。
傷だらけであることは良く知っていた。服の襟刳り、袖口からいつも大きな傷が見えていたし、グマの時には手術着から覗く背中も見た。ロンドンのホテルの寝室で後姿の全裸を見た。そのたびに、ああ、この女にはどれだけの傷が、どんなふうに──想像したことがなかったとは言わない。医者なのだから、そして男なのだから、当たり前だ。言い訳ではなくそう思う。
「相変わらず、頭がおかしいな。どうしたんだ」
できるだけ穏やかな声で問う。少しでも性的な色を見せれば女が怯えると分かっていた。
「この傷が好きな男がいた」
「ふうん」
誰、と訊く気にはならなかった。紅いリボンタイと、まともではない色を湛えた目の男を思い出しただけだ。
「ベトナムに行く前、少し。言い寄られていい気になって。馬鹿を見たよ」
「そうか」
「随分、一緒にいた。愛してるってしょっちゅう言われてね。こんなツギハギ女に愛してるって。初めて言われたよ」
「ふうん」
巧く感情を隠せただろうか。キリコは突然不安になった。確かに今、感情が揺れたことを認めざるを得なかった。
「有頂天だったよ。愛されていると勘違いした。寝てもいいって思ったくらいにね。──でもあいつはそうじゃなかった」
「そうか」
キリコはBJから目を離さないまま頷いた。BJはバスローブを脱いで初めて、少し笑った。自嘲だった。
「本間先生の芸術作品を自分のものにしたかっただけの、気が触れた男だった」
酷い目に遭わされたよ。BJはそれから少しばかりの時間をかけて語った。キリコが医者としての平常心を忘れたくなるような話だった。もういい、やめろ、服を着るんだ、と何度言いかけたか分からない。だが言わせてやるべきだと分かっていた。医者の自分はそれを受け止めた。男の自分は憤慨した。
「キリコ」
初めてBJの声が揺れた。
「愛してるって、何なんだ?」
愛してるよ。ロンドンでの最後の夜、キリコはBJに何度も言った。
「愛してるって言って、笑って服を破いて、泣いても喚いても哀願しても笑って抑え付けて、笑って犯して、笑って傷の写真を撮るのが愛しているなんて、おかしいって、私だって分かる」
あの時、隣にいるBJが泣いていると知っていながら何度も言った。俺を愛さないでと言いながら、それでも何度も自分の心だけは告げた。言わなければ良かった。キリコは今、酷い後悔をしていた。
「でも、愛してるって言って、それなのに突き放して、それなのに今ここにいる男の愛してるって、何なんだ」
「先生──」
「謝ったら殺してやる」
ごめんと言いかけた男を、泣き声が遮った。
「先生、──服を着てくれ。風邪を引く」
「卑怯者」
「言い訳できないよ。服を着るんだ」
「どうして、愛してるなんて言った」
あの日よりも悲痛に、女が泣き声を零した。キリコは自分まで泣きそうになったことを自覚し、必死で堪える。泣いていいはずがない。
「泣いて嫌がる私を抑え付けて犯しながら愛してるって言う男と、愛してるって言うくせに、そのくせ自分を愛するなって言う男と、どっちが残酷なんだ」
キリコは分かっていた。どれほど残酷なことをしたのか、しているのか。そんな自分が泣いていいはずがないのだ。医者としての自分が消えた。身勝手な男に成り果てた。
「俺たちは愛し合っちゃいけないんだ」
「それも聞いた」
「何度ぶつかった。これからもぶつかるだろう。俺も先生も、ひとつだけ譲れないことがあるだろう」
口にするまでもなかった。BJも分かっている。人生の根源、生きる意味、譲れぬ生き方、選択。
今までもこれからも、どれほど近くに在ると思っても、決して添えないものがある。
「シンポジウムで分かったんだ。俺と先生は愛し合ったらきっと苦しむ。愛した人の全てを、しかも最も大切なものを、受け入れられないなんて」
そんなの、ただの悲劇じゃないか。キリコは静かに、だが身勝手な男の声で、女を気遣う振りをした。
「勝手な男!」
女は男を詰った。滑稽なほどヒステリックで、男をうんざりさせるもので、だが確かに、ああ、俺はこの女を愛しているのだ、と思い出させる詰り方だった。
「じゃあどうして、愛しているなんて言ったんだ」
「愛してるからだよ。先生。本当だ」
「ふざけるな」
「ふざけてない。本当だ。愛してるよ」
今だってそうだよ。愛してるよ。キリコは言った。あの男を殺してやりたいくらいに愛してるよ。
「先生」
覚えているだろうか。忘れているはずがないだろうけれど、確認するのが怖かった。それでも言わずにはいられなかった。ああ、俺は身勝手だ。何て勝手な男なんだろう。こんな俺に愛されちまた先生って、物凄く可哀想だ。
「見付けるのが遅くなって、ごめん」
「──何が?」
「ベトナムまで、先生を見付けられなかった。もっと早く見付けたかったよ」
あの男に、そんなに酷い目に遭わされる前に、見付けたかったよ。守りたかったよ。キリコは言った。ごめん。何度も言った。ごめん。ごめんね。ごめん、先生。守りたかった。ごめん。
「……何、それ」
「そのままだよ」
「無茶苦茶なこと、言ってる」
「分かってる。でも本当だから。ごめん」
俺の方が頭おかしいよね、とキリコは自嘲した。BJは泣いた顔のまま、そうだな、と言った。
「服を着てくれよ」
縋るように言った。傷だらけの身体から目を離さずに、その身体が、全てが、目の前の何もかもが信じられないほどに愛おしいと思いながら、縋るように言った。
「俺が先生を抱きたいって言わないうちに、着てくれよ」
「愛してるのに?」
「愛してるから。だから、もう」
「──私が、愛してるのに?」
堪え切れなかった。
キリコは笑い出した。
「知ってる。──知ってた」
泣きながら、笑った。
知っていたよ。本当は知っていたよ。何度も呟いて、笑って、泣いた。あのロンドンで、きっとそれ以前から、必死に言い聞かせていたのは自分だけではなかった。ボーダーラインで愛している振りをして、遊んでいるだけだと言い聞かせていたのは、愚かしいまでに現実から目を逸らす二人共だった。
「駄目だろう。苦しいだけだ。先生だって分かってるだろう」
「じゃあ、愛し合わなきゃいい」
「馬鹿言うなよ。はいそうですかって、いきなり愛することをやめられるのか」
「愛したままで」
私がキリコを、キリコが私を。BJは言った。泣きながら言っていた。
「愛したままで何が悪い。愛し合わなきゃいいだけだ。シンプルな話だ」
「馬鹿みたいだよ」
「馬鹿で結構だよ。自分で言ってたくせに、今更馬鹿みたいなんて、それこそ馬鹿みたいだ」
だから、分かり合えなくたっていい。受け入れられなくたっていい。受け入れなければいいだけ。愛し合わなければいいだけ。BJはそう言った。キリコは馬鹿みたいだ、馬鹿みたいだよと繰り返した。二人で泣いて、何て馬鹿みたいなんだろう、とまた泣いた。
「抱けよ」
泣きながら女が言った。
もっと可愛く言えないのかよと男は笑い、泣いた。
それから、抱かせてよ、と、泣き声で言った。
闇の仕事をマネージメントする有能な男に連絡を取った。できるだけ早く殺してくれ、と何の躊躇いもなく言える自分が馬鹿みたいだと思った。電話の向こうで対象の名前を聞いた男は、ちょっと待って下さい、と言って手元の書類をめくる音をキリコに聞かせた。
『ドクターが殺しの依頼って初めてじゃないですか?』
「そうだったかな」
『ああ、あった。──病院の、──ですよね?』
「そう、そいつ」
『ああ、はい、確認しました。──あまり聞いちゃいけないかとも思うんですが、ちょっといいですかね。何かあったんですか』
「俺の女に手を出そうとしてね」
電話の向こうで口笛が聞こえた。あの冷徹で冷静な死神が女のことで、と言わんばかりの口笛だ。あっという間に闇の世界に噂が広がるだろうが、キリコはそれでも構わなかった。
『もしかしなくても、BJ先生ですよね?』
「そうだな」
『やっぱりできてるって噂、本当だったんだ。結婚式は呼んで下さいよ』
「それは無理だな。結婚は愛し合える女としかしたくない」
茶化したつもりが妙に真面目に返され、しかも少し理解し難いが複雑な事情を感じ取りそうになり、男はその話題からすっと身を引いて有能さを示し、話を本題に戻した。
『失礼なこと言ってすみません。──こいつなんですけどね、やばいんですよ。だからドクターにお聴きしたいんですよ。何か知ってるんじゃないかと思って』
「やばいって?」
『何人か殺してます。一部の患者には安楽死医を名乗った可能性もあります。小物過ぎて放っておいたんで、あまり闇で話題になってないんですが。──遺族も感謝するから明るみに出てなかったか、それかあそこの院長ですね、知ってて隠蔽してる可能性も高くて』
「ああ、そうなると病院ぐるみだろうな」
あの目を思い出した。BJにしたことを思い出した。
殺意を思い出した。
「患者のためじゃない。快楽殺人だ」
安楽死医をきっちり名乗らずこそこそ殺しているのがその証拠さ、とにかく数を殺したくて仕方ないんだろう、と誠実な死神が言うと、電話の向こうの男は息を呑んだ。死神の声は静かだったが、依頼内容とは別の理由で、今、対象の男を憎んだことを隠し切れていなかった。
『……心当たりは?』
「キチガイの目なんて散々見てる。見た瞬間に殺してると思ったよ」
『ドクターが言うと信憑性しかなくて、怖いですね』
「すぐ振り込む」
『本当に珍しいですよね。──いえ、いい情報頂いたんで、情報料ってことで割引します。半額でいいですよ。入金確認次第、すぐ手配します』
「それはありがたいね。よろしく」
電話を切り、キリコは思わず笑った。安楽死医を気取る殺人鬼。あの目はそうだった。見た瞬間に知ったのだ。
欲に任せて人を殺した目だ。まともな目ではなかった。
BJは気付いていなかったのだろう。余程の闇を見ても簡単には気付けない色なのだ。キリコは戦場で正気を失った振りをし、狂気と快楽に生きる者を何人も見た。だから分かっただけの話だった。
あの男が歪み、狂って行った経緯は知らない。知る必要もなかった。ただ、自分の女と自分の仕事を穢した事実さえあれば良かった。
金の手配を始めた時、電話が鳴った。愛し合わないと決めた、愛する女だった。
「どうした、先生」
あの日、泣きながらキスをして、安くて堅いベッドにもつれあうようにして倒れ込んだ女の声を待つ。
『ああ、うん』
「熱はもう引いたのか?」
『……うん』
ばつの悪い声での返事にキリコは笑った。ベッドに倒れ込んだ後、腕の中の女の身体が異常に熱いことに気付いた。女の発熱を確認した途端に慌てて医者の自分と彼女が顔を出し、今日は無理、駄目だろう、とお互いに一瞬で冷静になってしまったのだ。
濡れ鼠になっただけではなく、短い時間でシャワーを終えた上にバスローブ一枚で窓際に居座り、その後は全裸で長時間話し込んだのだから、当たり前と言えば当たり前の結果だった。
『笑うな、馬鹿キリコ』
「ごめん。で、どうしたの」
『気になることがあって。あの病院の──』
あの男がいる、もうすぐそれが過去形になる病院の名前をBJが言った。
『結局依頼をどうするか気になったから、訊いてみたんだ。おまえさんとブッキングした患者』
「うん」
『亡くなってた』
「……まだ生きられる患者だったと思ったけどな」
言いながら、俺の選択は間違っていなかったようだと確信した。あの男は死ぬべきだ。医者であるべきではない。さりとてもう人間に戻ることなどできない。ならば死ぬべきだ。死神はいとも簡単に断罪した。
「俺の見立て違いだったかな」
『いや、実際のとこ、オペをしなくても薬物療法で良かったくらいだったと思う』
「死因は? 教えてくれなかったんじゃないか? 最近は情報管理も厳しいしね」
『うん』
でも、とまだ訝しむBJに、キリコは優しく言った。
「もうあんな病院なんて忘れていいだろう。必要なら俺が考えるよ」
遠まわしに、あの男が関わる病院のことなんか考えるんじゃないよと伝える。BJは素直に「うん」と言った。
「ちょっと忙しいんだ、落ち着いたらすぐ連絡する」
『うん』
「じゃあ、また」
私も、と言われたくなくて、愛する女に愛しているよとは言わず、静かに電話を切った。