アイスクリーム哲学

 キリコがフォート・デトリックで仕事の期間だったから、ボストンで依頼を片付けたわたしは帰国前に当然ワシントンのキリコのアパートメントへ数日寄る。帰国は一緒。ワシントンで合流するといつもこうなる。長期間になりそうな時はピノコとユリさんが来ることもある。
 大抵は日中、キリコはフォート・デトリックで仕事。何をしてるのかよく分からないけど、ホワイトハウスのテロの後始末(数年単位でかかる)だから炭疽菌関連のはず。キリコ曰く、政権が俺を監視したいから仕事を作られてるだけだよ、だそうだけど、それでも遣り甲斐があるから契約を続けてるんだと思う。
 普段はそんなに忙しいわけじゃないみたいだけど、今回は炭疽菌に関係する新規の論文やデータをインプットしなきゃいけないらしくて、家に帰って来ても結構放っておかれてる。ずっと論文を読んでたり、データと首っ引きになってたり。
 不満がないって言えば嘘になる。そりゃ仕方ない。わたしは病的に嫉妬深いので(自覚あり)、仕事にだってもちろん嫉妬する。家に帰ってまでやらないでよ、って怒る前に、あのクソ忌々しい赤毛が物凄く、ものすごーく嫌そうな声で電話をかけて来て、「持ち出し禁止の論文とデータなんだ、持ち出し許可を取るまでに半端なく苦労した、邪魔しないであげて」ってわたしに釘を刺したから我慢することにした。
 たぶん持ち出し許可の手続きに奔走しただろう赤毛のために理解してやるわけじゃない。当たり前だ、あんな最低野郎。精々苦労しやがれ。
 でもそんな手回しをしたってことは、キリコがアパートメントに持って帰りたがったってことだし。つまりそれは本来、泊まり込みになってもおかしくない量の仕事を家でやる、突き詰めるとわたしを一人にしないようにしてくれてる、ってことだから、まあ、邪魔はしないでおこうかなって。
 二階の奥にキリコが本棚を入れている部屋があって、普段はそこで読書をするはずだけど、今回はリビングか寝室で論文やらデータやらと首っ引きになってる。わたしはキリコの手元を見ないようにしながら(うっかり内容を知って関わりたくないからね)くっついて、自分が読みたい本を読んだり昼寝をしたりしてる。
 会話は全然しないけど、くっついてキリコのにおいがするから我慢できてるし、合間合間にキリコが顎の下をくすぐってくれたり軽くキスをしてくれたりするから寂しくない。
 重要かどうか分かんないけど、まだえっちしてない。キリコが脳の疲れで寝ちゃうから。わたしも本やデータに集中するとそういうことがあるから理解する。……納得はしてないのでそのうちめいっぱいえっちしたい、っていうのはまだ言ってない。
 そんな感じで数日、くっついてるのに違う時間を過ごしているような、でも特に寂しいと思わなくていいような空間にいた。
 ただ、一日だけどうしてもキリコが集中的にデータを扱いたい時があって、ごめんね、ってランチの後に先に謝られた。
「何がごめん?」
「とても仕事をしたい。取り敢えず15時まで集中的に」
「あ、うん、分かった」
 本気で申し訳なさそうな顔をされる。つまり家の外に出ていて欲しい、ってこと。同じ家にいても部屋を分ければいいって話じゃなくて、キリコはたまにこういう仕事の仕方をする。何も雑音を入れたくない、物音すら聞きたくない、っていうような。
 キリコがわたしに言うのは凄く勇気が必要だったと思う。うん、昔のわたしだったら結構傷付いただろうな。
 傷付いた振りって言えばいいのか。自分で言うのも何だけど、自分が被害者になるタイミングを逃さない女ですので。
 あの人が仕事だからってわたしを家から追い出したのよ! ……なんてできちゃう素材だったけど、今のわたしはそうしたいと思わない。理由はよく分からないけど、キリコがわたしを雑に扱うはずがないって、いつからか理解できていたからだと思う。わたしを雑に扱わない男がこの世にいるなんて信じられなかった頃は理解できなかったけど。
「一応監視はつく。ごめん、それも我慢して」
 またキリコの申し訳なさそうな顔。お気になさらず。政権の機密を握ってるらしい(はっきり聞いたことはないけど確実にそう)キリコのパートナーなんだから、必ずデルタの監視があるのは納得してる。
 それに元々わたしはロンのお気に入りだから、ワシントンに入れば行動を把握されるし。どうってことない。
「デルタでしょ。ボディーガードにちょうどいいよ」
 そう言うとキリコは笑った。
「世界最強だよ。こき使ってやれ」
 会ってからずっと仕事のことで頭がいっぱいだったのか、あんまり笑ってくれてなかったから、笑ってくれた顔がちょっと嬉しくて、わたしも笑い返した。それから少しゆっくりキスをした。
 ワシントンに来てから一番ゆっくり、ちゃんとわたしを見てキスをしてくれた気がする。ごめんね、ってキリコが言って、今度は抱き締めてもっと深いキスをくれた。きっとキリコも同じことに気付いたんだろうな。
 あんまりくっついてるとえっちしたくなっちゃいそうだから、……いや、わたしはそれでもいいんだけど、キリコにはさっさと仕事を片付けて欲しいから今は我慢。いつもの格好で家を出た。
 家を出た途端にものすごーく嫌そうに眉をひそめて道路の向かいの街頭に寄り掛かってる私服のグラディスを見付けたけど、並んで歩く気はなさそう。わたしの見てくれとあいつの赤毛は目立つから、並んで歩くなんて絶対嫌。そもそも並ぶこと自体が嫌。
 でも実はちょっと、あいつでよかったって思ってた。デルタの隊員たちはみんな紳士的だけど、やっぱりわたしはまだ潜在的に男性恐怖症が残ってる。だったら気心が知れたと勘違いするくらいに嫌いな赤毛が一番ましだ。少なくともキリコのパートナーである限り、あいつはわたしに危害を絶対に加えないって分かってる。もしかしたらキリコが赤毛を指名したのかもしれない。
 それにしてもどこへ行こうかな。大体3時間くらい。このアパートメントは凄くいい立地にあって、繁華街にも広い公園(アメリカの公園は日本の公園とは規模と意味が違うと中学英語の教科書に書いておくべき!)にもショッピングモールにも近い。永遠に行く予定はないけどフォート・デトリックも近い。
 ちょっと考えて本屋に向かった。パターンと言えばパターン。でも一人で行動する時、わたしが一番楽しいパターン。本って素敵じゃない? ページをめくるだけで新しい知識が増えるし、どこかへ連れて行ってくれるし、美味しいものを食べた気分にしてくれるし、ピノコに買ってあげたい服が増えるし。
 夏の足音が聞こえる少し汗ばむ空気の中、自分のペースで歩く。これはこれで気分がいい。ずっと家の中でキリコにべったりくっついてたから、ちょっと運動した気分になれる。
 キリコとたまに一緒に来る、レストランと本屋が併設されてるショップへ向かう。大通りに面したテラスは開け放たれていて、汗ばむ陽気を程よい日陰と風の中に拡散させていた。バーカウンターの背後を覆うような大きな壁画は前衛的で、うん、わたしはさっぱり分かんない。でもカラフルだから気分がよくなるのは確か。
「あら、お久しぶり!」
 エントランスにいた女性の店員はわたしを覚えていて、すぐに笑顔を向けて「旦那さんは?」って訊いてくれた。旦那じゃないけどもう訂正するのが面倒くさい。
「仕事で家にいる。わたしは15時まで時間ができちゃったから」
「結構長いわね。でもあなたが好きそうな本が入ってたからちょうどいいかも」
「そうなの?」
「ええ、新刊コーナーのDにあるわ。席を取っておく?」
「お願い」
 読書のためにレストランの席を予約して、本のフロアに向かう。教えてくれた本は平積みになっていてすぐに分かった。わたしが好きそう、って言った彼女は接客に向いているんだと思う。本当にわたしが好きそうだったから。要は医学書の新刊。
 この店は本を買わなくても、レストランで読みながら食事ができる。キリコとわたしは大抵買っちゃう。医学書を全部読み切るまでレストランの席に居座るのもちょっとね。ちなみに禁煙だけど、本を読む時は煙草を吸わないから気にならない。
 店員の彼女がわたしが手にした本を見て、それよ、と笑い、テラス席に案内してくれた。キリコのパートナーじゃなければきっと醜い傷があるアジア人が座らせてもらえない席なのは分かってた。そういう時代だし、これからも少し長くそういう時代が続くと思う。
 途中でアイスコーヒーを前にして座っている赤毛の前を通りがかって──今の今まで気配を感じなかったのは流石だな、存在を忘れてた──14時45分に教えろクソ赤毛、と日本語で言ったら、イエスでもノーでもなく、死ね、って小さく返って来た。こいつのこれは挨拶だから気にしない。
 テラスで吹き抜ける風を楽しみながら本を読む。知っていること、知らないことがページの中から躍り出るようにわたしの中へ入り込もうとする。わたしはこの瞬間がとても好きなんだ。オーダーした紅茶と一口サイズのサンドウィッチを店員の彼女が置いてくれたことも気付かないくらい、文字と紙の中にしかない世界を歩き回った。
 昔から、それこそ神様がわたしを縫い合わせてくれた時から、ひとりで手指を動かせるようになってから、わたしは本の中にある世界をひとりで歩き回ってばかりだった。隣にいてくれた間久部を置いて行ってしまうこともよくあって、幼馴染はそんな時、決まって苦笑いをしてわたしを呼び戻したものだった。
 でも最近はひとりで歩き回るばかりじゃなくなったんだ、って不意に気付くことが増えた。ここはキリコならきっとこう言うだろうな、って思う時がそう。同じ本を読んで感想を言い合ったり、違う意見をぶつけ合うことが多い。それはそれですごく楽しい時間。
 キリコの膝の中で同じ本を読むのも好き。英語の本だとわたしより読むのが早くて、先にページをめくられそうになるとわたしは怒る。日本語だとその逆で、キリコはわたしに怒らないけど、待って、ってわたしの頬に自分の頬をぎゅっと押し付ける。あの瞬間も好き。
 わたしにしては珍しく、あまり本に集中しなかった。キリコのことを思い出しちゃったからだと思う。本から顔を上げて小洒落た人たちが行き交う大通りを見て、それからまた何となく本に目を落として字を追う。でも本の中の世界を歩き回る気にはなれなくって、文字を目で追って、また大通りを見て。
 そんなことを繰り返しているうちに、赤毛の男が仏頂面でわたしのテーブルの前に立った。
「お時間です、クソビッチ」
「そいつはどうも」
「もう帰れば。ドクター、とりあえず目的が達成できたらしいから」
「あ、そう」
 集中的にやりたい作業が終わったってことか。どうせアパートメントを見張ってる部下から報告が入ったんだろうな。でもそれならもう帰ってもいいか。──と思ったけど、ううん、どうしようかな。
 ちょっと考える。案外、わたしはワシントンでひとりで買い物をしたことがないんだな、って気が付いた。この街に来る時は必ずキリコと一緒に歩いていたから。
「赤毛」
「赤毛って言うな。場所が場所だけに冗談にならない、めんどくさい」
「場所?」
「ワシントンだよ?」
 肩を竦めるしかなかった。行き過ぎたポリコレの聖地。だったらアジア人のわたしにも適用して欲しいけど、なぜか無視されちゃう不思議なスキンカラー。
「アイスを買いたい」
「アイス? アイスクリーム?」
「他に何があるんだよ」
「氷」
 その単語だけ日本語で言ったグラディスに、ああそうか、ごめん、ってわたしは素直に謝る。米語じゃ確かにそういう区別があるはずだ。
「アイスクリーム。家で食べるやつ」
「買って帰れば?」
「どこで売ってる?」
「何言ってるの、頭大丈夫?」
「食料品の買い物なんて一人でしたことがないのよ、彼が何でもしてくれるんだもの!」
「神様、この女性をどうぞおそばに」
 要は死ねって言われたんだけど、まあいい。
 様子を窺っていた店員の彼女にグラディスが合図をして、わたしが全然手をつけていなかったサンドウィッチをテイクアウトにするように言ってくれた。こういう時、キリコがこいつを嫌いでも否定しない理由が分かるような気がする。基本的にキリコは他人のために自然に何かをする人間を否定しないから。だからわたしもこいつを否定する気はない。
 キリコが否定しないなら、それはきっと善人の部類──わたしを害さない部類に入る人間の証明だって分かってるから。
 きっとキリコのことを愛してるって思わなければ、それから、キリコがわたしを愛してるって教えてくれなければ、こんなことは知らないままだった。
 本の世界の中ばかり、それから神様とほんの少しの友人たち、愛する娘しか信用できなかったわたしは、いつの間にか本と限られた人たちの間から顔を出して、愛してくれる男が見る世界を覗けるようになっていた。
 赤毛は案外親切で──まあ、本当は親切な性質なのは知ってるんだけど、とにかく嫌いだからあんまり認めたくない──わたしが行ったことがないような、地元の人が買い物をするマーケットのアイスクリーム売り場に連れて行ってくれた。
 骨の髄まで日本人のわたしから見れば理解できないくらい広いアイスクリームの売り場には、これまた理解できないくらいにたくさんの種類のアイスクリームがあって、何を買えばいいのか分からなくなったくらいだった。
 でも買いたいと思っていたアイスクリームがすぐ見付かった。そんなのがいいの、とグラディスは呆れてたけど、これがいい、と言ったら変な顔をしながらも買ってくれた。別に買えなんて言ってないからびっくりしたけど、自分が食べたかったらしいアイスキャンディ(ポプシクルって言うらしい)と一緒に領収書を切ってたからお礼を言う気がなくなった。
 店を出てすぐにポプシクルの袋を開けて、なぜかわたしにくれる。二本買ってたみたいで自分ももう食べ始めてる。遠慮なくもらった。
 ポプシクルは初めて食べる。日本のアイスキャンディより大きくて、フルーツの香りが強い。バナナとオレンジとストロベリーの三層が一本の棒になっていて、美味しいんだけど何だか味覚が忙しくて落ち着かなかった。
 素直にそう言ったら、グラディスは「一応ステイツの隠れ名物だから」とだけ言った。わたしがこの国の隠れ名物を食べたことがないって察して、わざわざ買ってくれたんだってやっと気が付いた。お礼を言う気が復活したから言っておいた。グラディスは自分の口をポプシクルで塞いで返事をしなかった。
 ポプシクルを食べ終わる頃、アパートメントに着く。送ってくれてありがとうって言うべきか、ボディーガードをご苦労さんって言うべきかちょっと迷ってる間に、わたしにサンドウィッチが入ったドギーバッグとアイスクリームが入ったショッピングバッグを押し付けて、デルタフォースの隊長はさっさと姿を消してしまった。
「マフィン?」
「あ、ただいま」
 ちょっと失礼なことしちゃったかな、と思ったけど、ちょうどわたしの帰宅に気付いたキリコがドアを開けて迎えに出て来てくれたから、赤毛のことなんかどうでもよくなった。大体あいつは任務なんだし。うん。どうでもいい。
「仕事は終わった?」
「重要な部分はね。今日はあと一本読んで終わりにする」
 追い出してごめんね、って言いながらキスをしてくれる。嬉しい。
「アイス買って来ちゃった」
「氷? 冷凍庫になかったか?」
「アイスクリーム!」
「ああ、そっちね」
 そういや生粋のアメリカ人だった。ずっと一緒にいるとたまに忘れる。ポプシクルを買ってもらった話をしたら笑ってた。
「名物は名物だけど子供の食い物だ。おまえ、馬鹿にされたんだよ」
「何それ!」
 やっぱりお礼なんか言うんじゃなかった! むかつく!
 それからちょっとポプシクルについて教えてくれた。元々は商品名だったけど、今じゃ棒アイスクリーム全般を指す言葉になってるんだって。あと、アイスキャンディは和製英語だとか。ふうん。
「着替えろよ。二人の時は可愛くする約束だ」
 すごく嬉しくなって、キリコに飛びついてキスをする。やっとわたしを見る余裕ができた! わたしの服を気にするなんてそういうこと!
「冷凍庫に入れといて。サンドウィッチは食べたかったら食べていいよ」
 自分でもおかしいくらいに上機嫌になって、アパートメントに置いてあるわたしの服を見繕いに二階の寝室へ上がる。いつもの服を脱いでキリコが好きそうな服に着替えてからリビングに降りると、キリコはソファでサンドウィッチをつまみながらまた論文を読み始めていた。でもわたしに気が付いて「いいな、可愛い」って当たり前のように褒めてくれる。前にも着たことがあるし、当然覚えてるはずなのに、いかにも初めて見たように褒めてくれるのが嬉しい。
 冷凍庫からアイスクリームを引っ張り出して、キリコに寄り掛かって、勝手にテレビをつける。わたしが抱えたアイスクリームを見たキリコが笑った。わたしも笑った。
「アメリカって感じじゃない? 一度やってみたかったんだ」
「学生の食べ方だ。──ポプシクルも食べたのに。腹が冷えるぞ」
「いいの!」
 日本じゃ見かけないような大きなアイスボックス──パーティペールって言うらしい──を抱えてスプーンを突っ込んで、好きなだけビターチョコレートのアイスクリームを食べる。
 本当はクッキークリームが食べたかったんだけど、キリコが好きなアイスクリームはビターチョコだからこれにした。
 キリコが論文を読んで糖分を消費しちゃう頃、Say ahh、あーんしてって口に運んであげたかったから。キリコとくっついていられるし、きっとキリコが喜んでくれるし。好きな男が喜んでくれそうなことくらい分かってますって。
 プライベートのこのひとは、昔ながらの分かりやすい男だから、くっついてちょっと尽くしてくれる女の仕草が好きみたい。わたしがそんなことをすると機嫌が良くなるのがその証拠。
 わたしはこの男の女になるまで自分がそんな女だなんて知らなかったけど、他の男には絶対やりたくない、でもキリコにだったらいくらでもできちゃう。自分が好きなアイスクリームより、好きな男が好きなアイスクリームを買っちゃうくらいにはいくらでも。
 キリコが論文を半分くらい読み終わる頃、わたしはちょっと寒くなってた。体温で周囲が柔らかくなったパーティペールの中身は、途中でキリコに何口かあーんしてあげたことを考えても減り過ぎている。
「寒い」
「そりゃそうだろ」
 わたしからパーティペールとスプーンを取り上げて一口食べて、キリコは冷凍庫にアイスクリームをしまいに行く。中々戻って来ないと思ったらあったかいシナモンティを淹れて来てくれた。ああ、なんていい男なの、惚れちゃいそう。惚れてるけど。
 お茶を少し飲んでアイスクリームの猛攻に冷え切った内臓を温めて、また論文を読みだしたキリコに寒い寒いって言いながら身体をぎゅうぎゅう押し付ける。邪魔なら反応しないはずだから遠慮しない。
 最初はうん、うん、って生返事をしていたキリコが、そのうち溜息をついて、うるさいな、って言ってわたしを抱き寄せながら論文を伏せた。してやったりで嬉しくて、ひひ、ってわたしは笑う。邪魔するなよ、って言いながらキリコも笑ってキスをしてくれる。
 論文が消えた空間でするキスが深くなるなんて当たり前で、むしろわたしからしちゃったりして、そこからキリコが本格的にいやらしい、でもきもちよくって、わたしがキリコのことを胸が痛くなるくらい好きって思うキスをしてくれる。
 好きって思うとすぐ愛してるって思い出して、もっと近くに行きたくなる。
「ねえ」
 キスの合間に漏らした声は、自分でもうんざりするくらい甘えて蕩けた女の声。でも好きな男はこの声を聴くと可愛がってくれるって分かってる。だから言う。
「可愛がって。いっぱい」
 もちろんだよ、ってキリコが囁いてくれた。もちろんだよ、可愛いね、って。それだけでからだの奥から熱くなって、ああ、好き、本当にこの男が好きって思った。本の世界の中にいた頃には知らない感覚だった。
 本の世界の中でたくさん見るだけのお伽噺だったはずなのに、本の外にいた好きな男はいとも簡単にわたしを外の世界で、現実で愛してくれた。
 他の誰にもできないことで、他の誰にもして欲しくないことで、だからわたしはこの男が愛おしくて、胸が痛いほどに愛おしくてたまらない。
 本当に久し振りにいっぱい可愛がってくれて、それでも身体を離さないで、甘い言葉をくれるのも幸せでたまらない。お伽噺にも書いていなかったような幸せ。現実にしかない幸せ。
 今度は、ってキリコが急に少し笑いを含んだ声で言った。
「今度はビターチョコレートじゃなくていいよ。クッキークリームにするといい」
 おまえが好きなアイスクリームを買えばいいんだよ。そういうこと。そう言ってくれたことが嬉しくて嬉しくて、たかがアイスクリームなのに嬉しくて、また買いに行かなくちゃ、絶対に行かなくっちゃ、って思った。