風の住む星

 患者が来ない日だからと言って暇ではない。読みたい本と論文は山ほどあるし、誰かが読むわけではなくとも書いておきたい自分の論文もある。
 それから家の掃除、これはピノコがいつも頑張ってくれているが、彼女の小さな身体では行き届かない部分を念入りに。今日は天気がいいからピノコは洗濯を頑張る、私は掃除を頑張る、と役割分担をして、間家はそれぞれの作業に取り掛かった。
 BJが掃除をする間、ピノコは洗濯だけではなく、ちょこまかと家の中を動き回っては仕事を見つけ、あれもこれもと見事に片付けて行く。状況判断と場のマネージメントに優れている、とBJはいつも思う。いつか本来の年齢に足りない精神部分の一部を経験で手に入れ、大人の身体を与えた時、どれほどの人物になるだろうかと今から楽しみだった。
 一通りの作業が終わり、洗濯物が青空の下にはためく頃、普段と違うチェスターコートとストールを纏った死神が現れた。脱いだコートの下はジーンズとセーターで、アイパッチもしていない。問うまでもなく仕事をしない日だ。
 かっこいい、とBJは思った。かっこいい、と思われたと分かったキリコは唇の端を笑いの形に持ち上げてやる。たちまち少し赤くなる恋人を可愛いと思いつつ、手土産のケーキの箱をこの家の主婦に渡した。
 キリコがくれたケーキに飛び上がるように喜んだピノコは丸っきり子供で、ちょうどお茶を淹れるところだったのよさと言ってキッチンへ消えた。
「うーん、まだまだ大人の身体は早いかな」
「何の話だ」
 勝手知ったるリビングへ行き、キリコは話を聞く。BJが話すと少し笑い、だが当然のように大人の身体を作る、作れると思っている天才外科医への畏怖を抱いた。だがそれもピノコがリビングへ来る前に、BJがこっそりねだったキスで忘れる振りができた。
 家に来たからと言って特別なことをするわけではない。リビングでコーヒーを前に他愛ない話をし、キリコは母子(と聞いたらピノコは怒るだろう)がケーキを分け合う姿を眺めて視覚で楽しみ、ピノコは昼食をどうしようかと悩み出し、BJはボンカレーでいいじゃないと言ってピノコの主婦としてのプライドを傷つけて叱られる。
「昼も夜も冷蔵庫にあるものになるのよさ。お買い物の日は明日なんらから」
「何なら今行こうか、天気もいいし。昼を外で食べてもいいし」
 BJの提案にピノコは顔を輝かせた。それで決まりだ。キリコは自分の車と財布をあてにされていることをよく知っていたが、文句を言う気など微塵もなかった。人生の必要経費だと思える程度にはBJを愛しているし、ピノコを心底受け入れている自覚があった。
「キリコ、アイパッチは? する?」
「ああ、大きい店に行くならした方が──家に置いて来たか」
「玄関のキーケース」
「おまえは本当に可愛いね」
 予想外の気遣いをくれたBJに後でキスをしようと決め、キリコは先にコートを着込み、玄関のキーケースで新品のアイパッチ──明らかに外科医ならではの縫い目の手作りだった──を手に取って感謝しながら、とりあえずテラスのテーブルで煙草を吸うことにした。
 出掛ける支度をすると言って寝室に消えた母子を待ちながら海を見る。今日の海は穏やかで、冷たい風を運びはするが、陽光に煌めく水面はそれを耐えて眺める価値があった。風ですぐに煙草が燃え尽きることにだけは閉口だった。
「キリコ、早く」
 普段よりも少し時間をかけて準備をしたBJが声を掛けて来る。今行くよと振り返り、おや、とつい眺めてしまった。BJは唇をひん曲げて照れ隠しの顔を作り、だってピノコが、と呻いた。
「ちぇんちぇい、しぇっかくロクターに買ってもらったのにもったいないのよさ。ピノコが選んだのわよ!」
「とても素敵だし、お嬢ちゃんと並ぶともっと素敵だ」
「れしょ?」
 してやったりと笑い、ピノコはさっさと玄関へ向かう。ピノコを見送ってから改めてBJを眺め、「いいね」とキリコは言った。BJはようやくひん曲げた唇を戻し、はにかんだ笑いを漏らした。
「たまには着てもいいかなって」
「予想以上だよ。投資の甲斐があった。可愛い」
 あの黒いコートを羽織っているのはいつも通りだが、キリコと揃いの色と柄のストールを着けていた。その下に着ていたのは英国風のクラシカルなワンピースと厚手のカラーストッキングだ。旅行先のロンドンでキリコが買ってやった中の一着だった。母子でペアデザインがあるブランドで、今ピノコが着ている分も一緒に買ったことは言うまでもない。
 少し熱を込めたキスを交わしてから玄関へ向かうと、「大人」の男女二人が何をしていたか想像もつかない幼女の振りをした女が笑顔で待っていた。だがキリコはいい加減、彼女が恋敵であることの意味を重々承知している。
 BJが戸締りをしている間に並んで車に歩きながら、ピノコは恋敵ににやりと笑って言った。
「ベルンのミルフィーユとピエスモンテのアップルパイ、ろっちれもいいのよさ」
「──都内まで参りましょうか、お嬢様」
 近場では手に入らない店舗の菓子を指定され、報酬を払わねばならない男は頭の中で素早く運転ルートを検索する。遅れてやって来たBJに都内まで行くと告げると、BJは少し驚いた顔をした。
「都内に?」
「そんな気分でね」
「買い物とランチだけなのに?」
「ミルフィーユとアップルパイなら?」
「え、何?」
「夕飯のデザートに食べたくなるのは?」
「えっと、アップルパイかな」
「だそうだ」
「ピエスモンテなのわよ」
「かしこまりました」
「何の話?」
 恋人と愛娘がハイタッチをする姿に更に首を傾げつつ、まあいいか、キリコの運転だし、と思いながらBJは助手席に乗った。
 道中は気楽なものだ。ピノコが何くれとなく喋り、BJもまた喋り、何だかんだで女が集まってるわけだからな、とキリコは相槌役に徹しながら昼食の店を頭の中でピックアップして行く。見た目は子供のピノコを連れて、かつジーンズの自分が入れる店となると──考えている横で母子は楽しそうにあれこれと話していた。途中で元素記号と元素名を交互に言い合う遊びを始めた時、これが遊びか、恐ろしい家だ、と男がやや背筋を震わせたことには誰も気付かない。
 冬の日差しが入り込む車内は少し暑かったが、エアコンの温度を下げればちょうど良くなった。後部座席のピノコが日差しと振動でうたた寝を始め、キリコとBJは小声での会話になる。
「カジュアルフレンチ」
「見た目が子供でも入れる店?」
「ランチなら。俺もジーンズだし、今日は敷居が高いところは無理だ」
「いや、我が家からするとカジュアルフレンチも充分敷居が高いんだけど」
「もう少し外食したらどうだ。お嬢ちゃんも味とマナーを覚える」
「連れてってよ」
「承りました。和食は知らないからおまえが探せよ」
「鮨しか知らないんだよなあ。親分に訊いてみようかな」
 かつての患者の極道は今や大口のパトロンだ。こいつの人脈は大したものだよと思うキリコに、BJは事も無げに言った。
「キリコも今度一緒に親分のとこに行ってよ」
「何でだよ。仕事は干渉無しだろうが」
「キリコのことを誰かから聞いたらしくて、連れておいでってうるさいんだ。一回行ったら満足するから」
「ロンに来てもらえ、俺よりいい男だ」
「ちょっと」
 米国大統領の名前を出した途端、BJが噴き出した。キリコも笑う。まあいずれ、と言って話を終わりにした。どうせ連れて行かれることは確定だ。
「ロンもそろそろ任期が切れるな。二期目だから再出馬はできないし、完全引退だろう」
「そう言えばそうだなあ。あの人、随分大変な時期にやったから少しゆっくりできるといいんだけど」
 それからしばらく米国の話になった。現政権からの依頼として請けているキリコのフォート・デトリックでの仕事をどうするかと言うことにも話題が及ぶ。
「どうだろうな。継続要請があればある程度は続けるが──俺は今の副大統領に嫌われてるからな。どうなるか分からないよ」
「バート? やっぱり次はあの人が大統領かな」
「だろうな。他にめぼしい候補者がいないし」
「でもロンとバートって、親しいんじゃなかったっけ。キリコのことも理解してくれるんじゃないかな」
「どうして理解してもらう必要があるんだ。俺は彼らに飼われてるわけじゃない。俺がバートを理解できなけりゃ離れるだけだよ」
「アメリカ人の考え方だ」
「アメリカ人ですからね」
「よく忘れるけどそうだよね」
「忘れるなよ」
 苦笑しつつ、確かにそうだとキリコは認めた。国籍はあの国であっても、フォート・デトリックでの仕事以外ではほとんど別の国にいる。今や日本が拠点だ。日本にいる時は自宅か崖の上の家に入り浸りで、日本式の生活にすっかり慣れたことも事実だった。広い世界に生きているように見えて、実は仕事先と自宅に閉じこもって生きる時間がほとんどのBJが忘れるのも無理はない。
 都内に入る少し前、ピノコが目を覚ました。喉が渇いたと言うので道すがらで見付けたコンビニへ車を停める。
 ピノコはコンビニに初めて入ると言って目を輝かせ、そう言えばそうだった、とBJは思い出した。こんな形態の店は全国的にまだ少ない時代であることに加え、ピノコとはあまり遠出をしない。
「キリコが来た時ばっかりじゃなくって」
「うん?」
 楽しそうに会計をするピノコと愛想よく付き合ってくれる店員を眺めながら、BJは溜息混じりに呟いた。
「ピノコと二人だけでも少し出掛けないと駄目だなあ。世間知らずになっちゃう」
「そうしろ。街中の本屋でもどこでもいいんだから。あとはデパートなんかもな」
「ハロッズ行った」
「国内の話だよ。極端なんだよ、おまえたちは」
 苦笑するキリコと不本意ながらも納得した顔をするBJの元へ、初めてのコンビニショッピングを終えたピノコが上機嫌で戻って来た。
「コンビニって楽しいのわよ! ちぇんちぇい、今度から飲み物はコンビニで買うのわよ!」
「割高だから嫌だ、コンビニにあるものだけ買いなさい!」
 あれだけ稼いでおきながら、とキリコは呆れかけたが、教育としては正しいのかもしれないと思い直す。そしてわあわあと言い合う二人がとてつもなく可愛いことは間違いなく、騒がせて失礼、と店員に目で謝ってから二人を車に誘導することにした。
 姦しい女たちを座席に押し込んでから、コンビニ店頭の公衆電話から都心にある目当ての店に電話をかける。子供が一人、と言うと、ちょうど個室が空いている、ただし個室代がかかると丁寧に教えられた。
 それで快適な昼食が楽しめるのなら構わない。しかもピノコは一般的な子供とは違い、大人の社交場で求められるマナーを理解できる女性だ。そんな彼女を含め、多少の出費で確保したプライベート空間で昼から食事ができるのは、キリコのようなタイプの男にとって嬉しいことだった。
 カジュアルフレンチのランチは申し分なかった。夜は豪奢な照明で重厚な雰囲気を醸し出す店内も、昼の明るさの中では程よく気軽に客を出迎える。小洒落たランチにピノコは大喜びで、それでも行儀よくする姿は店員の心証を良くし、結果として忙しいランチタイムでもきめ細かいサービスを受けることに繋がった。良い子だ、とBJは心からピノコを褒め、キリコはピノコのテーブルマナーと、それを教え込んだBJに感心していた。
 今日のBJと自分の服装なら特に問題はないだろうと判断し、キリコは二人を少し連れ回すことにした。サロンでもない限り、昼間なら子供に見えるピノコがいても大丈夫だ。BJが都心の散策をあまり好まないことは知っていたが、ピノコのためなら多少ならず我慢することも知っている。
「後で甘やかしてやるから」
「別に。ありがと」
 ピノコがよそ見をした隙を突いて囁き合う。BJとしてもピノコに都心ならではの時間を経験させられるのであれば構わなかった。しかもキリコが後で甘やかしてくれると言う言質を得たのだから既に気分がいい。わたしの男は最高だ、とにやけてしまいそうな頬を意志力で抑えた。
 都心と言っても観光をするわけではない。ピノコが、つまりいわゆる「女子」が喜びそうな場所を散歩するだけだ。だがピノコは彼女の日常にはない光景と賑やかさにまたもや大喜びで笑顔を振り撒き、大人たちを満足させた。あまりの喜びようにBJが「具合が悪くなるから」と切り上げさせたほどだった。
 それから、家を出る前に恋敵二人が取り決めた報酬を獲得しに目当ての店舗へ行く。名物のアップルパイはちょうど午後の焼き上がりの時間で、厨房から一番に出してもらえたことは今日最大の幸運だった。その香りと昔ながらの重厚な味を想像させる見事なパイにBJとピノコは見えない尻尾を全力で振って喜ぶ。その光景に気を良くしたキリコは、隠れ名物のクッキーの詰め合わせを一緒に購入した。
 せっかくだからと新宿御苑まで少し足を延ばした。アップルパイは車に置き、クッキーを持って御苑内を散歩する。都心の中では豊かすぎる自然の中、穏やかに歩きながら取り止めのない話ばかりをした。
 庭園の池で渡り鳥を見付けたピノコが歓声を上げる。珍しいカワセミがキリコの肩に停まり、鳥と目が同じ色、とBJが楽しそうに笑った。カワセミは綺麗な青色の鳥だった。
 プラタナスの並木を歩く途中で、BJが思い出したかのように英語を話し始め、気付いたキリコも普段の米語よりは英語に寄せて会話をする。BJがピノコに英語を教えたいことを知っていたからだ。ピノコは既に達者な英会話能力を身に着けつつあり、ほぼ不自由のない会話ができた。たまに単語を思い出そうとして悶えるように考えるピノコを見てBJが「可愛い」と呟き、キリコは「二人まとめて可愛い」と思う。
 ピノコが歩き疲れる頃、英国風の芝生広場へ出る。日差しはあたたかいが、じかに芝生の上に座るには寒かった。数少ないベンチが運良く空いた。持って来ていたクッキーをつまみながら休憩を取る。
 やがてピノコはBJの膝枕で眠ってしまった。BJがストールを外してかけてやった。キリコもストールを外し、BJの首に巻いた。寒いのに、と言いながらも、BJは嬉しそうに笑った。キリコはそれで満足して笑い返した。
「車でも寝てたのに」
「振動があるからな。車は案外疲れるよ」
 可愛らしい寝顔を見て満足するBJにピノコ越しにキスをし、「日本でそういうことするな」と赤くさせてから、キリコは腕時計を見る。15時だ。
「そろそろ出ないと渋滞するな。ユリにはおまえの家にいるって言って来たんだが」
「え、じゃあ夜に来る?」
「先週、男と別れて暇そうだし、来るだろうな」
「……年末に付き合ったんじゃなかった?」
「そうだな。クリスマス休暇の少し前か。横須賀米軍基地の奴だった」
「バレンタインにもなってないってのに、もう別れたんだ……?」
「年越し用の男だったんだろ」
 さらりと言うキリコに「理解できない」と溜息をつき、それでもBJはユリの積極性、解放性をやや羨ましく思うことも確かだった。自分にはできない生き方であることは間違いない。そしてユリはどんな恋をしても、いつも綺麗に終わりにする方法を知っていた。
「家にいるなら電話すれば? 拾って行くのもいいし」
「いるかな。出掛けてても留守電が入ってるかもしれない。ちょっと電話して来る」
「うん」
 電話を探しに行ったキリコを見送り、眠るピノコの髪を撫でながら、BJは冬の日差しを再び堪能することにした。天気がいい日は気分も良くなる。日光の健康効果は──考えかけたがやめた。理屈抜きで気持ちいいのだからそれでいい。
 午前中から大切な娘と好きな男とずっと一緒にいて、それだけでも幸せだ。その上でこんな穏やかな時間が持てるのは休日にしかできない経験だった。
「すみません、自分、こういう者なんですが」
 不意に声をかけられ、思わず剣呑な目を向けてしまった。声をかけて来た男がいかにも無遠慮な、BJの経験からすればいわゆるジャーナリスト崩れに見えたからだ。差し出された名刺をちらりと見ると、フリーライターだの何だのと、最近見かけるようになった横文字の職業と名前が書かれていた。受け取らず、返事もしない。男は勝手に喋った。
「今、シングルマザーの生活について話を集めてるんですけど──あの、そのお顔は?」
「起こしたくない。遠慮して欲しい」
「いや、起こさないように話しますんで──お嬢さんはおいくつですか? あなたのお仕事は? いえ、働いてらっしゃる? シングルマザーは夜のお仕事が多いって話なんだけど、もしあなたがそうなら──その傷だと嫌なご経験なんかも──」
 BJは溜息を押し殺した。この時代、まだそんな偏見は無くならない。むしろ今が全盛期なのかもしれないと思った。あと僅かな年数で訪れる新世紀でも、そんな目は受け継がれてしまうのかもしれない。
 BJは答えず、以降は無言を貫いた。男はしつこく話しかける。BJはただ待つ。もう少しすれば、と思った。もう少しすればキリコが戻って──
「うちの女たちに何の用だ?」
 案の定、見た瞬間に何かを察した銀髪の男は米語でそう言った。BJは笑いを堪えた。わざと米語で話しかけるあたり、流石日本に詳しいガイジン、と思ったのだ。この時代の日本人は外国人に構える傾向がある。さっさといなくなればいいのにと思った。
「悪いことはしていない、話を聞いていただけだ、私はジャーナリストだ」
 男は明らかに動揺したが、片仮名英語と揶揄される、だがしっかりと意味が通じる発音で答えた。BJはやや見直す。大抵は逃げて行くものなのに、この男は多少プロ意識があったようだ。
「ジャーナリスト?」
「そうだ」
「用事があるとは思えないね。家族団欒中なんだ、消えてくれ」
「あなたは彼女の恋人か? 話を聞きたい。日本のシングルマザーの地位は低すぎる、色んな声を集めて啓発したいんだ。協力して欲しい」
 キリコが呆れた視線をBJに向ける。BJは苦笑した。この男の本音かどうかなど分かりはしないが、不遇な立場を強いられがちな女性たちの味方をしたいと言う言葉が本当であれば良いと思った。だから米語で、そして不遇な女を求めるジャーナリストが喜びそうな女言葉で言った。
「名刺を頂戴。わたしはあなたが期待するほど不遇なシングルマザーじゃないけど、役に立てるようなことがあれば電話をするわ」
「ありがとう。名刺はこれ」
「わたしの名刺はないけどごめんなさいね」
「仕事は何を?」
「医者よ」
「──なるほど、その仕事でこんな恋人がいるんじゃ全然不遇じゃないね。そう言えば服の仕立てもいいし、見誤ったかな」
「もう行け」
 男の言葉に静かな怒りを覚えたキリコが低い声で言った。男は隻眼の男の怒りを感じ取り、BJに「電話待ってるよ」と言って足早に立ち去った。BJは肩を竦め、名刺をポケットに押し込む。その様子にキリコが不機嫌そうに眉を跳ね上げてみせた。
「そんなもの捨てろ」
「何かに使える。ジャーナリストって案外、役に立つんだ」
「ったく」
 溜息をつきながら、キリコはピノコを抱き上げる。BJは食べ残したクッキーを持って立ち上がった。車を停めたコインパーキングまで多少歩くが、それはそれで良い時間だ。樹々が覆う午後の散歩道をゆっくりと歩いた。途中でBJが眠るピノコを抱くキリコの腕に遠慮がちに自分の手を添えた。これは日本でも許されるんだな、とキリコは思った。
「ユリさんは?」
「家に留守電が入ってた。16時まで渋谷の──にいるらしい。迎えに来いってことだろう」
「あ、じゃあちょうどいいんじゃない? 渋谷なら高速に乗りやすいし」
「大井から湾岸線に乗りたかったんだがな。まあ仕方ないか」
 車に乗せると同時にピノコは目を覚ました。寝惚け眼でBJに甘えたがり、甘やかしたいBJは後部座席に乗ることにする。恋敵に運転をさせてBJを独り占めできると知ったピノコは喜び、更に甘えた。
 焼き林檎が有名なオープンエアのカフェで衆目を集めつつ兄を待っていた美貌の妹は、カフェの前の通りに停まった車の後部座席からBJとピノコが手を振っている姿を見て笑って振り返し、明らかに買い過ぎた大荷物を運転席の兄に示した。
 呆れながら車を降りたキリコは、まず焼き林檎と紅茶の会計を済ませ、兄妹揃って少なからぬ衆目を集めながら、服や靴が詰まったショップバッグを手に妹を促し、車に乗り込んだ。
「え、先生とピノコちゃん、お揃い? ロンドンで買ったやつよね! 素敵!」
 かく言うユリも同じロンドン旅行で買った服だと言い、タイミングの一致に笑い合った女たちはあっという間に盛り上がる。キリコは自分の聴覚に家まで耐えろと命じた。
「先生とにいさんのストールもお揃いね。ロンドンで買ってたジョンストンズよね? いいな、素敵」
「今日はピノコが全部選んだから」
「ふうん?」
 いかにも悪戯げに、そして楽しげに言う妹の声と、照れ隠しに失敗して足掻くBJの声が対照的だ。ユリはBJを怒らせないでからかうのが上手い、とキリコは思う。
「わたし、助手席でいいの?」
「うん。ピノコが甘えん坊だから、私は後ろ」
「あらあ、ピノコちゃんったら珍しく甘えん坊ちゃんなのね」
「違うのよさ! 奥たんだからちぇんちぇいの隣なのは当たり前なのよさ!」
 来る時はロクターに譲ったんらから、とピノコは堂々と駄々を捏ねる。ユリは笑いながら助手席へ滑り込んだ。キリコも笑い、アクセルを踏み込む。車の中で女子会が開かれることは覚悟し、クッキーが残っていて良かったじゃないか、女子会にスイーツは必須だからな、と思った。


 予想通り、クッキーは車内の女子会ですっかりなくなった。俺もまだ食べたかったのに、と思いつつ口には出さない。あの店の焼き菓子をつまみながら昼下がりの白ワインを楽しむのが好きだった。今度近くへ行くことがあったら自分用に買って、自宅の戸棚に入れておこうと決めた。BJかユリに見つかればあっという間に消えることは分かっていても。
 食材の買い出しに寄った──今日の本来の目的のひとつだった──間家の最寄りの大型ショッピングセンターに女たちを放牧し、会計に呼ばれるまで後ろから見守る仕事に励む。夕方の食品フロアは混雑していたが、ユリとピノコは嬉々として食材ハントに勤しんでいた。やがて放牧から脱落したBJがキリコの元へやって来た。
「何買ってるか分かんない」
「おまえがいかに自炊をしないかがよく分かる台詞だ」
「ボンカレーなら誰にも負けない」
「誰と勝負するんだよ」
「これ欲しい」
「買え」
 商品を確認もせずに要求を受け入れる。一般的な食品フロアなら妙なものもないだろう。ノルウェーの発酵魚の缶詰でもなければ何でもいい。
「後で食べよう」
「何を」
「これだってば」
 BJは欲しいと言ったものをキリコに見せる。最近日本の食品フロアでも見かけるようになった、イギリスの焼き菓子だ。
「クッキー、全部食べちゃってごめん。あそこの好きなのに」
 代わりにこれ、と示す姿が可愛くてたまらず、日本なのにと叱られることを覚悟でついキスをした。案の定BJは赤くなって怒り、ショッピングカートを押していた中年の主婦があらあらまあまあと言いながら足早に横を通り過ぎて行った。
 家までの車内はまた騒がしい。今度は夕飯のメニューの打ち合わせだ。主にピノコとユリが意見を出し、BJはうんうん美味しそうと相槌を打つことが仕事になっていた。結局メニューは決まらなかった。これだけ話してどうして決まらないんだろう、とキリコは不思議でならなかった。
 ようやく帰宅した頃、日はすっかり暮れていた。海風が寒いから早く家に入れとBJとピノコに言い、車から荷物を降ろしながら、キリコはユリに声をかけた。
「お嬢ちゃん、結構疲れてるはずだ。俺とおまえで作るぞ」
「最初からそのつもりよ」
「たまにおまえがいい女に見える」
「いつも、の間違い。鶏と大根の中華煮込みと、海老とキノコの紹興酒炒めね。あとはナッツと香味野菜のサラダ。にいさん、このサラダ好きでしょ」
「まあな」
「鶏大根は先生とわたしが好きだし、海老はピノコちゃんが好きだし。簡単だけど昼がフレンチだったならいいでしょ。煮て冷ます間にピノコちゃんがちょっと眠れるしね」
 知らない間にいい女になっていたものだ、とキリコはユリが産まれた日のことを思い出しそうになったが、早く行ってよ、海老の下処理して欲しいんだから、ときつく命じられ、意図的に忘れることにした。
 リビングに入ると、ソファでピノコが既に船を漕ぎ始めていた。BJが揺り椅子でいつも使う膝掛を上にかけてやっている。二人で夕飯を作るとキリコが言うと、BJは頷いた。手伝う気など毛頭ない顔だ。兄妹も手伝わせる気など毛頭なかった。人には向き不向きがある。
 兄妹が夕飯の支度、愛娘は昼寝と言うには遅い二度目の午後寝、BJは読みたかった雑誌を書斎から持って来て、眠るピノコの隣で開く。キッチンから聞こえる。兄妹ならではの会話があたたかくて心地よかった。
「次、読ませてくれよ。まだ買ってないんだ」
「うん」
 一通りの仕込みを終え、ユリに「もういいわよ」とキッチンから追い出されたキリコが、BJの手元の雑誌を見て言った。少しばかり社会派に寄った雑誌だ。医療系や人道に関する記事も多く、二人がよく買う雑誌でもあった。
「ねえ」
「うん?」
 BJとピノコの向かいのソファに腰を下ろそうとしたキリコは動作の予定を変更し、BJが示したページを覗き込む。『記者は見た! 医療現場の卑劣な看護婦差別!』
「何だ、この雑誌にしちゃゴシップ的だな。看護婦ってのはわざと書いてるのか」
「その方が差別的だからわざとだろうね。内容は告発系だよ」
「こういう記事、増えて来たな。俺の世代じゃもう同調するのがきついよ」
「ユリさんの前で言わない方がいいと思う」
「分かってますとも」
「いや、これ」
「うん?」
「名前」
 記事の最後に記されている、記者の名前を指で示す。それを見たキリコは思わず苦笑した。
「偶然だな」
「名刺、捨てなくてよかった。ムカつく病院があったらこいつに連絡すれば面白いことになりそう」
「ったく、おまえの人脈は意味が分からないくらいに広がるよな。人見知りのくせに」
 新宿御苑で会ったジャーナリストの名前を指でなぞり、人見知りだろうが何だろうが、とキリコは思った。
 ──人見知りだろうが何だろうが、こいつの周りには人が集まりたがる。こいつが背を向けていても追いかけたくなるんだろう。俺もそんな記憶があるよ。
「人見知り人見知りって言うけどさ、キリコには人見知りしたことないと思うんだけど」
「そう言えばそうだな。って、あの初対面じゃそんな余裕もなかっただろう」
「じゃあ、キリコにだけは人見知りしない運命だったってことじゃない?」
 BJの言葉に他意はない。それは顔を見ていれば分かる。いかにも世間話、日常会話の延長にすぎない顔だ。だがキリコは言葉の意味を考え、反応するまでやや間を置かざるを得なかった。
「──あの時の俺が聞いたら喜ぶよ、間違いない」
 そうなの、とまた何の気なく返事をし、それからBJはゆっくりとキリコを見た。自分で言った言葉にぽかんとする人間も珍しいが、確かにBJはそんな顔をした。それからはキリコの予想通りだ。自分の言葉の意味を理解して、頬が赤みを帯びて、それから──ぼん、と音がしそうなほど急速に顔中を真っ赤にする。それが面白くて、そして可愛くてキリコは笑った。
 笑わないでよとBJが真っ赤なまま怒り、だって可愛いからと臆面もなく答えるキリコの言葉に更に赤くなり、今のなし、今のなし、とまるで10代の女の子のようなことを呟きながら脚をばたばたさせる。そのたびに滅多に着ないワンピースの裾がひらひらと揺れ、普段の彼女にはない光景でキリコの目を楽しませた。
「今のなしね」
「なしにするのか」
「だってなしだし」
「俺はありだと思う」
「そう?」
「そう」
「そうかな」
「そういうことにしないか? 麗しい奥たんが起きる前に決めちまおう」
 キリコの提案をBJはしばらく検討していたが、やがて小さな声で「うん」と返事をする。
 それから上目遣いになって、唇を尖らせた。
 おまえは可愛いねと言って、キリコはその唇にキスをした。
「大根の煮込み具合を味見して欲しいんだけど、口が塞がってるみたいで残念だわ」
 キッチンから顔を出したユリの一撃にBJは恥ずかしさのあまり悶絶し、キリコは涼しい顔でキッチンへ行った。
 やがてピノコが短い眠りから目を覚まし、夕飯をキリコとユリが作ったと聞いて眠り込んだ自分を責めながらも、自分は知らないレパートリーの料理が並んだ食卓を見て感動する。料理の味はどれも申し分なく、ランチもクッキーも随分食べたはずのBJとピノコの胃に速やかに移動して行った。
 食後にはピノコの報酬のアップルパイの登場だ。まだ食うのか、そういや母子は午前中にケーキも食べてたはずだよな、ユリも焼き林檎を──嬉しそうにコーヒーとパイを用意する女たちを見て、キリコは自分の分を辞しながら、「女の胃袋って凄い」と思った。
 その後はまた女子会で、今度はユリが買い込んだ服とコスメ用品のお披露目が行われる。リビングはまるでファッションショーの会場だ。
 キリコは早々に離脱し、BJの書斎を男の書斎に替え、しばらく籠ってあの雑誌を読むことにした。何かあれば呼ばれるだろう。女ばかりの家の男などそんな扱いで充分だ。
 書斎は少し距離があると言うのに、リビングからきゃあきゃあと女たちの姦しい声が届く。BJが笑っている声も聞こえて満足した。
 二人きりの時間、二人きりの空間で時間を過ごす休日も悪くない。
 だが二人きりにならなくても、家族と出掛けて、同じ家で違う部屋で、違うことをしながら、家族が笑っている声を聞く休日も悪くない。
 今日はおおむねいい休日だった、惜しむらくはクッキーだ、と結論付けて雑誌のページをめくった。
 だがそれもしばらくして中断となる。それは仕方のないことだった。
「ねえ」
 女子会を抜け出したBJが、静かに開けたドアの影からそっと顔を出したのだから。
「甘やかしてくれる約束は?」
 こっそりと恋人の顔で言ったのだから、すべてが後回しになるのは仕方のないことなのだ。
 雑誌を閉じて笑いかけ、おいで、と言った。
 BJは嬉しそうに破顔して、裾をなびかせながら小走りに駆け寄り、子供のように、だが甘える恋人にしかできない仕草で、すとんとキリコの膝の上に乗った。
 その様子があまりにも可愛くてたまらずに、ああ、いい休日だ、と新たな結論を導き出しながらキスをした。