Have You Never Been Mellow(そよ風の誘惑)



 意識がゆっくりと朝陽に向かう感覚を味わいながら、軍医時代に骨の髄まで叩き込まれた体内時計を心から恨んだ。起きるな、もっと寝ていろ、昼まで寝ていたって構わない疲労のはずだ──キリコの説得も空しく、体内時計は正確に意識を陽光の下に引きずり出す。
 くそ、と朝一番に母国語で小さく罵り、カーテンの向こうの太陽と体内時計を恨む。いい天気だな、と思いながらせめてもの抵抗として寝返りを打った。ここでしっかりと目を開けると完全に目が覚めてしまう。今日は何が何でも昼まで寝てやると決めて深く息を吐いた。
 だがここで珍しく目覚まし時計が軽快な電子音を鳴らす。普段は鳴る前に起きて止められているため滅多に仕事ができない小さな機械が、ここぞとばかりに大張り切りだ。許さねえ、と心の中で呟きながら叩き止めた。手に痛みを感じたが気にしないことにした。今度こそ眠るのだ。
 その数分後、最終兵器が現れた。顔を踏まれて遂にキリコは諦めた。そして無二の女がいつの間にか家に来ていたことを知った。BJによって死神の家に迎え入れられた猫が、今しがた踏んだ下僕を枕元で見下ろしている。
「……おはよう。お子さんは元気?」
「うなお」
「にぃ」
 高慢な母猫の隣に1匹の子猫がいることにようやく気付く。最近、この家を縄張りにする猫が増えた。
 溜息をついて隣に視線を移すと、寝乱れた毛布と枕があった。BJと同じベッドで寝たということだ。他の女を引き込んだ記憶はない。男と同じベッドで眠る趣味はない。結論としてBJがそこで寝た形跡だと断定できる。
 ベッドは広いがBJの寝相の都合で毛布はいつも二枚用意してある。いつ来たんだ、寝る前はいなかった、と思いながら起き上がろうとして、やはりもっと寝ていたかったと改めて思う程度には強い疲労を感じた。
 呻いて枕に顔を押しつけると同時に寝室のドアがフルオープンになり、同時に猫と子猫がベッドを飛び降りて、入って来た女の足元に駆け寄った。
「目覚まし鳴ったよ、起きないの?」
「起きたくない」
「珍しい。でも天気いいよ、シーツ洗おう」
「明日も晴れるさ」
「雨の予報だった。──ちょっと!」
 ベッドの横に立ったBJを素早く引き寄せて身体の上に倒し、両腕でホールドする。ちょっと、とBJは少し怒った声を出した。腕から逃れようと暴れることにも構わず強く抱き続ける。寝起きの鼻腔に朝の生活の香りが忍び込み、諦めた脳に欠伸でもして起きろと命じられた。
 だがそのまま起きるのも癪だ。誰に対して癪なのかは分からないが、腕の中で徐々におとなしくなっていく女に悪戯をして憂さを晴らすことにした。
「ねえってば、起きて」
 恋人のハグに弱いBJは甘えた声で要求する。ここでキスでもして素直に起きておけばいいのだが、どうにも癪なキリコは今日は違うことをした。要は体勢を入れ替えて組み敷いた。ちょっと、馬鹿キリコ、と察したBJが抗議の声を上げたが構いはしない。欠伸をしながらルームウェアの裾から指を忍び込ませた。ワンピースタイプは便利だな、素晴らしい、と選んだ自分を褒めておく。
「欠伸しながら何してるんだ、最低男!」
「お察しの通り」
 あっという間に胸までたくし上げられて顕わになった肌に、夜よりは手短な愛撫を始める。目の端で猫が子猫を促すように、そして呆れたようにひと声鳴いてから寝室を出て行く姿を確認した。あの猫は中身が人間に違いないと思う瞬間だった。
 代わりにBJが可愛い猫のように鳴く。早起きには強いが朝のセックスに弱い女の抵抗はものの数秒で終わりを告げ、俺は疲れているのに何をしているんだ、男ってやつは、と自分に呆れるキリコを満足させてくれたのだった。
「朝の方がいきやすい気がする。手抜きされてるのに」
 キリコよりも早くアフターセックスの煙草に火を点け、BJは不満げに呟く。キリコは涼しい顔で煙草の箱を奪い、同じく一本咥えて火を点けた。
「手抜きなんて人聞きの悪い」
「してる」
「カジュアルって言えよ。それに女性は朝の方がいきやすいんだ」
「個人的統計の話なんてしてませーん」
「馬鹿言え、医学的統計だ」
 あっという間に機嫌を悪くしかけたBJに、キリコは素早くリカバリーを仕掛ける。知らなかったBJはきょとんとし、そうなの、と言った。そうだよ、と事実を答えておいた。それから数分ほど医学的な話になる。専門外の人間が聞けば顔を赤らめるような内容だが、医者としてのBJは真面目に聞いていた。キリコも真面目に話した。
「知らなかった。そういう件に当たったことなかったし」
「まあ、あまり相談する女性もいないだろ。俺だって有閑マダムのカウンセリングで聞かされて調べたくらいだし」
「そういうカウンセリングもするんだ?」
「たまにある」
「ふうん。何でもやってるんだ」
「断れない筋もある。おまえの営業と一緒だ」
「そんなもんか」
 難しい顔で煙草を消し、BJは結局脱がされないままだったルームウェアの裾を直してベッドから脱出する。そして容赦なくカーテンを開け、キリコのひとつだけの目を焼いて呻かせることにより、朝から男性本位で好き放題された溜飲を下した。朝は男性本位にされるのが好きなのだとキリコに見抜かれていることには気付かない振りをしていた。
「シーツ洗うから起きてよ。朝ご飯も作って。猫たちにもご飯」
「予言する」
「何を」
「俺は昼寝する。これは休息が必要な体調だ」
「安楽死なんて名前の殺人を仕事にしてるからだ、自業自得」
「知ってるのか」
「昨日の夜、キリコの担当が電話してきた。わたしからのクレームが入る前に謝っておこうって腹だったみたい。──早く起きて。先に猫たちにご飯をあげてよ」
「仰せのままに」
 闇仕事のマネージメントサービスの仕事は粗があるが、こういった時の行動は早い。自分の男に不利益を与えるはめになった昨日の件でBJがクレームを入れれば、過去の事例からして徹底的に追及されて面倒になると考えて先手を打ったのだろう。モグリの無免許医のクレームは滅多にないが、男が関わった時には担当が胃痛を覚える激しさだと専らの評判だった。
「うにゃ」
「みゃ」
「いい子で待ってろ。──No! Get off!」
 テーブルに飛び乗った子猫を叱りつけ、指で強めにテーブルをタップする。これで叱られるのが数回目の子猫は慌てて飛び降り、母猫の陰に逃げた。我が子を強く叱られた猫は怒ることもなく、人間の家のルールを教える下僕を労うようににゃあと鳴いた。
「何、大きい声出して」
 シーツを洗濯機に入れたBJがリビングへやって来る。キリコが無言で子猫を示すと肩を竦め、早く覚えようねえ、とまさに猫撫で声で子猫に話しかけたのだった。
「他のきょうだいはもらわれて行ったんだってね。あの子だけ残したんだって。マダムが言ってた」
 キリコが猫の食事を作る横で、毎朝寝起きに──今朝は寝起きから随分と経っているが──キリコが飲むホットレモンウォーターを作りながらBJが言った。搾ったレモン果汁に蜂蜜を少し、それにお湯を足すだけなのですぐに出来上がる。
「むしろ避妊手術をしていなかったのが驚きだよ。マダムほどの家ならすると思ってた」
「日本で猫の避妊手術が認知されたのってまだ最近だし、仕方ないんじゃない。はい」
「ありがとう」
「もうできた?」
「うん」
 キリコにマグカップを渡し、猫の餌皿をふたつ持ってBJは猫たちが待つリビングへ行く。キリコもゆっくりとマグカップを干してから向かった。猫たちは餌皿に顔を突っ込んでいる。子猫は食べるたびにうみゃい、うみゃいと小さな声をあげて愛らしさを振りまき、BJをすっかり蕩けさせていた。キリコは子猫にかまけてBJがつい構うのを忘れる母猫の背中を撫でてやる。猫は餌皿から顔を上げ、にゃあ、とお褒めのひと鳴きを与えたのだった。
「片は付いたんでしょ?」
「後は全部任せたよ。無料でいいらしい」
「交渉しといてやったんだから当然。あっちの紹介だったわけだし」
「ありがとうございます」
 知らなかったキリコは心から礼を述べ、抱き寄せてキスをする。BJは満足げに笑ってキスを返した。自然に笑みがこぼれるほど可愛い女なのに、とキリコは思う。──こんなに可愛いのに、交渉された相手は肝が冷えてたんだろうな。
 昨日の日中に会った依頼人はマネージメントサービスの仲介だった。そして依頼人とその家族のたちが悪すぎた。要は法に反する安楽死について脅しをかけられたのだ。依頼人は嘘の依頼でキリコを呼び出したということになる。そして家族と名乗る連中と共にありがたい法律の話をしてくれた。講義代を要求され、キリコはしたり顔で頷き、金の手配をしてくれる連中に連絡しますよと言って電話をかけた。もちろんマネージメントサービスへ。
 はっきりとしたことは言わず、きみが紹介してくれた依頼人と話がついた、俺が勉強料として金を払うことになったから用意してくれないか、もちろん早急にね──そう告げた途端、電話の向こうにいた担当者は全てを察し、すぐに手配しますよと請け負ってくれた。それから30分もしないうちに彼らの行動部隊──要は暴力で問題を解決する下っ端だ──が現れたはいいものの、その場で銃撃戦が始まってしまった。
 日本で銃を使うな、穏やかにやってくれ、と苦言を呈しながら負傷したマネージメントサービスのスタッフの手当をするはめになり、それからはサービス側との交渉や、嘘の依頼人たちが吐いた背後関係へのコンタクト、彼らとの更なる交渉に時間を取られた。疲れて当然だった。帰宅した頃には日付が変わり、シャワーも浴びずに眠り込んだのだ。
「おまえ、いつ来たんだ」
「2時くらい。寝てたんだけど23時くらいに連中の電話で起こされて、キリコに電話しても出ないから死んだのかと思って見に来て、寝てたからわたしも寝た」
「ああ、──それは悪かった、ごめん」
 飄々といった風情で話すBJが「死んだのかと思って」とこぼした言葉は本音だと知っている。自分たちの稼業では有り得ないことではない。電話が繋がらないだけで心配する女を嘲笑する誰かがいたとしたら、キリコはその誰かを殴り飛ばすことになるだろう。
「心配したんだから」
「悪かったよ」
「許さない」
「どうすれば許してくれる?」
 するとBJが唇を尖らせる。キリコは安堵して抱き締め、丁寧なキスをした。それでようやく安心したBJは腕の中で深く息を吐き、心配したんだから、とまた呟いて恋人の罪悪感を煽り、もう一度丁寧なキスを手に入れた。
「あ、ピノコに電話しないと。キリコの家に行くとしか言ってこなかった」
「そうしろ。──飯の前にシャワーを浴びさせてくれ、昨日は風呂に入る暇がなかったんだ」
「あ、そっか、だから硝煙のにおいがしたのか」
「したか?」
「した。だから早くシーツ洗いたかったの」
「ごめんね」
 恋人が銃に関わることを嫌うBJにまた謝ってキスをし、バスルームへ向かった。バスタブに浸かりたかったがBJがそろそろ空腹のはずだ。諦めてシャワーだけにすることにした。だが黙って付いてきたBJと猫たちが先にバスルームへ入り、バスタブの蛇口を捻ってまた出て行ってしまった。
 子猫だけが残ってきょとんとしながら初めて入るバスルームを見回し、それから探索を始めたので好きにさせておいた。湯を溜める音に驚かないなら風呂好きの良い猫になるだろう、とキリコは思い、そして気を利かせてくれたBJに後でまたキスをしようと思いながらナイトウェアを脱いだ。
 子猫をお供に30分程度で入浴を切り上げてバスルームを出ると、家の中に焦げたにおいが広がっていることに気付き、ひとつ思い切り溜息をついておいた。この後はうっかり溜息なぞつこうものなら面倒に繋がる。平和な一日のための予防的行動だった。さて、できるだけ呆れた顔を作らず、物分かりのいい年上の優しい恋人の顔になる時間だ。
「何か作ってくれてる?」
 どうせ何か焦がしたんだろう、できないことをやろうとする努力は素晴らしいがおまえには壊滅的に料理のセンスがない、その努力を他に向けるべきだ、ついでに俺が気に入っている調理器具が傷む、だからやめろ。無論この全てを口にすることもなければ顔に出すこともない。
 その甲斐があり、フライパンで卵を、トースターでパンを見事に焦がした──キリコからすればなぜそんな焦がし方ができるのか教えて欲しいほど芸術的な焦がし方だった──BJは、ばつの悪い顔でキリコを振り返る。
「怒らないよ」
 先手を打ってキリコが言うと、上目遣いに少し笑って「ごめん」と言った。キリコはそれで全てを許して笑い返す。そもそも疲れた恋人を気遣って慣れない朝食作りをしようとしてくれたことはよく分かっている。そのことに対して怒るつもりは毛頭なかった。
「ああ、まだ充分食べられる。どっちも焦げたところを削って野菜と一緒にヨーグルトとクリームチーズで和えよう。あとはスープでもあればいい」
「外に食べに行った方が早いんじゃない?」
「おまえが作ってくれた飯を無駄にしろって? 俺にはできないね」
 これが過去に付き合った女なら、そうだな、そうしようか、と言っていた。だがこの女にそれは御法度な時があり、それが今だ。失敗をリカバリーしたという結果を残してやった方が安心する。
おまえがこんなにしてくれるなんて、こんな素敵な朝食が他にあると思う? ──そう言うとBJはようやく心底安心したように、そして嬉しそうに笑い、ああ、可愛いな、とキリコに思わせた。
 食材にはまだ辛うじて可食部が残されているため、リメイクを担当するキリコがそこまで無理をしなくてもその結果にたどり着けそうだった。
 焦げた食材は8割が廃棄されたが、2割は無事にサラダの実として生まれ変わった。廃棄部分が多くても、使ったという事実が大切なのだ。それに多少の焦げた食感が柔らかいクルトンのようで楽しめたこともまた事実で、悪い結果ではなかった。
「にゃあ」
「みゃ」
「バイバイするの? 気を付けてね」
 BJに挨拶をし、猫たちはまた気ままに外へ出て行った。この家の他にも縄張りがあるのかもしれない。近隣住民に人気があり、節度ある付き合いを怠らないマダムの家の猫だからこそ許される行為だ。
 普段なら午前中のうちにキリコは家の掃除を済ませてしまうのだが、今日はどうにも動く気になれなかった。動けばある程度の疲労を振り払えると分かっていても、面倒だと思う程度には疲れている。コーヒーを飲もうかと思った時、見抜いたBJが「カフェイン禁止」と宣言した。
「今日はノンカフェインにしておくべき」
「おまえはいつから名医になった?」
「ベトナム」
「まだ医大生だったろうが。おこがましい」
 苦笑して言い返すと、BJはフンと鼻で笑ってキッチンへ消えた。飲み物を用意してくれることが分かったキリコはそれに甘え、煙草に火を点けて時間を過ごす。煙草をやめればこの疲労感も改善するのだろうと分かってはいたが、今は自分を甘やかしたかった。ほどなくしてハーブよりもやや強い、スパイスの部類に入るシナモンの香りが漂い始めた。
 衛星放送をつけていつものニュース番組を見る。日本に生活の拠点を移しても母国の政情が気になるのは仕方がないことなのだろうか、と自分でも不思議だった。イラクとの不穏な状況を真面目な顔でアンカーが語り出す頃、ふたつのマグカップにオレンジピールとシナモンスティックを煮出したスパイスティを満たしたBJがやって来て隣に座る。以前教えた疲労回復用のブレンドを覚えていた恋人が可愛く思え、マグカップに口を付けるよりも先にキスをした。
 キリコの好みよりはやや濃い目のスパイスティを飲みながら、ニュースを眺めてたまに意見を言い合う。アメリカ国内のニュースはやはりキリコに知識の分があり、BJは興味深い様子を隠さずにそれを聞きたがった。
 やがてキリコは欠伸をする。やはり疲労感は抜けない。そもそも起き抜けにセックスをした時点で体力から抗議が来てもおかしくない状態だ。BJが肩を竦め、昼まで寝れば、と言った。ありがたくそれを受け入れたかったが、シーツを洗っていたことを思い出した。
「シーツは? 流石にまだ乾いてないか」
「キリコが風呂の間に干したからまだだと思う。乾燥機に入れればよかった」
「11時まで書斎のソファで寝るよ。何かあったら起こして。ごめんね」
 書斎には仕事が立て込んだ時のための仮眠用ソファを入れている。そこで一時間ばかり眠ることにした。最後のそれは一人にしてごめんねという意味だ。この女が寂しがり屋であることなどよく知っている。せめて猫たちがいてくれれば良かった、と思った。
 書斎までBJが手を繋いで付いてきた。寝てる横で本を読むつもりかな、と考えたキリコを裏切り、一冊の本を素早く選んで、おやすみのキスをして出て行った。徹底的に休ませてくれるつもりだとキリコは分かり、後で埋め合わせをしよう、と思えて幸せになれた。


 今日は天気がいいし、薄いシーツは正午までには乾きそうだ。外からは見えない場所──異なる世界への案内を求めて訪れる患者のために、死神は徹底的に外部から見える場所の生活感を排除している──にある塀の高い、だが午前中なら充分に陽光が届く裏庭に繋がるサンルームへ行く。文化の違いから乾燥機を使うことが多いキリコだが、BJが洗濯をする時には急ぎでもない限り、サンルームに干すことがほとんどだった。
 シーツはまだ生乾きだ。まあ仕方ないな、と思いながらサンルームにあるテーブルで本を読み始めた。午前中しか楽しめないガラス越しの陽光が気持ちよかった。
 以前に一度読んだ本だったためか、それほど集中できなかった。キリコの邪魔にならないよう、厳選しないで目に付いた本を取ったのだから仕方ない。わたしは惚れた男に弱いよなあ、と自分でおかしくなった。こんな自分がいるのだと、過去の自分に言ったら愕然とすることは間違いない。そして、惚れた男と言うよりはキリコにだけだな、と心の中で訂正した。
 安楽死の仕事で出掛けているわけではないと分かっている日、電話に出ないからと心配になって夜中に車を走らせて、疲れて眠り込んでいるキリコを見て本気で安心した。キリコには言わなかったが、しばらくベッドの中でしがみついていた。
 ふたりでいる時には自分でも呆れるほど片時も離れたくないのに、バスタブに湯をためたり、ろくにできもしない料理を作ろうとしたり、スパイスティを用意してやったりと、我ながら──料理は失敗に終わったが──甲斐甲斐しい真似をしたのは夜中の不安を忘れられなかったからだ。
 自分が医者であるからこそ、病んでいるとしみじみ思う。そして今この瞬間、本当は寝顔を見ていたかった。キリコが気配で目を覚まし、きっと微笑んで、眠るのを諦めて恋人を優先して起きてしまうだろうと分かっていたから我慢した。
 キリコは忙しい男だ。仕事をこなすだけではなく、医学知識のアップデートや最新医療の理解についての勉学にいつも真正面から取り組んでいる。それが全て患者のためになる。BJとは系統の違う太いパトロンも数人抱え、彼らとの付き合いも手を抜かない。
 それに加えて恋人が病的に嫉妬深く、精神的な問題を抱えたモグリの無免許医ともなれば、BJではなくとも少しゆっくり休んで欲しいと思うはずだった。
 そう、BJはキリコに休んで欲しかった。シーツを洗ったのもそのためだ。先に朝食を取らせ、午前中をゆっくり過ごし、シーツが乾くであろうランチ後に少し長い昼寝をしてもらうつもりだった。朝寝坊で生活リズムを崩すよりはその方がいい。
 キリコが思ったよりも体力を温存していて──元軍医、そして今も合間合間にボディメイクを怠らない男の体力は侮れない──、欲に忠実に、朝からベッドで触れ合いたがったことが誤算だった。もっとも、それで体力を使い果たしたも同然だったかもしれないが。
 ──わたしはこういうの、下手だなあ。もっと上手にやりたい。キリコがいつもわたしにしてくれるみたいに、パーフェクトにスマートに、気を遣ってくれてるって分かっても後ろめたくなくて、嬉しくなれるあんなふうに。
 どんな時でも恋人を優先してくれる男が好きでたまらない。いつだって一番に扱ってくれる。いつだって嫌なことを何ひとつしない。喧嘩をしても着地点を探してくれる。失敗をしても怒らない上にリカバリーを手伝ってくれる。どうせわたしなんかと言うと慰めてくれて、そして少しだけ叱られる。俺の女をあまり馬鹿にしてくれるなよ、と。初めて言われた時は思わず泣いた。その時はからかわれて哀しくて泣いたのだと自分では思っていたが、嬉しくて泣いたのだと今なら分かる。
 キリコとふたりになってから、BJは少しずつ、諦めていたひとつの尊厳を取り戻し始めていると感じていた。容姿のこと、過去の性暴力被害のこと、記憶から消えることは決してないと分かっているが、少しずつ自分自身の根本的な場所から遠ざかりつつあり、その場所をキリコがくれる愛情が埋めてくれて、いつしか自身の尊厳として形を成し、BJに自信を与えるようになっていた。
 早く起きて欲しいな、とふと思った。キリコのことを考えると会いたくなる。同じ家にいると分かっているのに、早く起きてキスをしたい。わたしがどれくらいキリコのことを好きなのか、うまく説明するのが難しすぎるから誰にも訊かれたくない、と思った。
 集中できない本を持て余し始めた頃、サンルームの向こう、塀の上から猫と子猫が現れた。気付いたBJはつい微笑み、サンルームのドアを開けた。
「どうしたの。帰って来ちゃったの?」
「うなお」
「みゃお」
「シーツは触っちゃ駄目、No! Hands Off!」
「みゃっ」
 キリコのように米語で叱られた子猫は素早く干されたシーツから離れ、母の陰へ隠れる。下僕のつがいであり自分の友人である女が自分たちに対して強く言うことが珍しいと知っている猫は、悪かったわね、とBJに謝るように我が子をぺしりと尻尾で叩いた。
「中に入るなら足を拭かないと駄目だよ。雑巾持って来るから待ってなさい」
 ついでにおやつをあげよう、と思いながらサンルームを出た。猫たちはおとなしく、サンルームにかかる白いシーツの誘惑に耐えながら行儀よく待ち始めたのだった。


 仮眠でも深く眠れた。スパイスティの摂取タイミングが仮眠の開始時間にちょうど良かったのだ。疲労回復と安眠効果のあるスパイスが、短時間でも質の良い睡眠を招いてくれた。まだ疲労が完全に取れたわけではないが、普段と同じ生活をする分には支障がない。
 腕時計で時間を確認すると、予定より少し長く、2時間ほど眠ってしまっていた。まずいな、放っておきすぎた、とやや慌てて書斎を出る。
 自分でもはっきりと分かる。本来ならここまでしなくていい。たかが長く眠り込んだ程度で焦る必要はない。風呂には入りたいだけ入ればいい。朝食を作り損ねたらあそこまでしてやらなくても、外に食べに行こうと言えばいい。好きな女にそうしてやりたいからやっている──否、本当はそうしてやりたいわけではない。
 そうしなければ不安なのだ。それを以前から自覚していた。
 他人が聞けば呆れるほどに尽くして守っているかのような愛し方、結局は自分自身のためにやっている。
 医者としては神のような能力と交渉術を持ちながら、あの黒いコートを脱げば劣等感の塊で、愚かなまでに愛する者たちに依存する女が、いつか自分の人間としての価値──医者としてだけの価値ではなく──に気付いた時、ひとりで生きていけることに気付いて欲しくない。ふたりでなければ生きていけないのだと思い続けていて欲しい。
 だから抱え込むように愛する。気付かれた時に離さないために、絡め取るように愛する。
 俺はまともじゃない。キリコは自分自身をよく知っていた。醜い愛し方をしているということなど、初めて抱いた時から分かっていた。
 あの女を愛すれば愛するほど己の醜さに直面する。だが自分を醜い思うたびに、それはあの女が腕の中にいるという充足感をもたらしてくれる。
 ──俺はまともじゃない。それでもいい。これからも俺は俺を醜いと思う瞬間が何よりも幸せなのだろう。
 だから敢えて考えない。恐ろしいからだ。
 自分が死んだら。そう、昨日は死んでいたかもしれない。そんな稼業だ。ある日突然、永遠の別れを迎えることになったら。
 ──その時、あいつは立っていられることに気付くだろう。俺がいなくても生きていけることを思い出してしまうだろう。
 本来ならそれは残す者として喜ぶべきなのだ。だからこそ、喜ぶ自分が想像できない自分をキリコはこの上なく醜いと思う。
 それから先は何も考えたくなかった。だから考えることをやめた。
「マフィン?」
 本を読んでいるはずのリビングには、BJも本もいなかった。出掛けたのかな、と思いつつ、一応家の中を探してみる。もし家にいるのに探さなかったと知られれば機嫌が悪くなる、あいつはそういうのうが面倒くさい、可愛いけど、と心の中で呟きつつ、本当は自分が顔を見たいから探すのだと分かっていた。
 さて、どこへ行ったのかと歩き回る。見つけるまでにそれほど時間を要しはしなかった。ランドリールームの前に来た時、少し開いた──猫の自由な通行のためだ──ドアの向こうから、吹き抜けてくる風に乗って旋律が聞こえ、我知らず口元が綻んだ。珍しい、と思った。好きな女が口ずさむ、少し旧い、だがビルボードを席巻した歌を邪魔しないように、静かにドアを開き、音を立てないようにサンルームへ向かった。
 BJがキリコの好きな、日本語訛りの米語で歌っていた。──忙しくって目が回りそうになったことがあるの、あなたみたいにね。
 サンルームの中、降り注ぐ陽光を浴びながら猫を抱き、頬ずりをしながら歌う姿はこの上なく愛しかった。足元には子猫が眠り込んでいる。抱かれた猫は友人の思わぬ歌にご満悦だ。歌は続く。──わたしが一番正しいって思ってた。あなたみたいね。──思わず苦笑する。今だって一番正しいと思っているくせに、と。
 サンルームに入らず、通路の壁に寄り掛かり、好きな女と愛らしい猫たちを眺める。こんな時間があってもいい。BJの歌は思ったよりも正確に旋律を追い、抱かれて聞く猫は気持ちがよさそうだった。──あなたのしかめっ面を見たいわけじゃないの。ただ、少しゆっくりして欲しいだけなのよ。
 抱かれた猫の耳がぴくりと動き、瞳だけがキリコを見た。キリコは猫の中身が人間だと信じ、人差し指を口の前に立てて協力を要請する。猫は何も返事をせず、代わりにBJに頬をすり寄せて、キリコに気付いていないことを態度で示した。
 猫の仕草にBJは笑い、旋律が少し乱れる。それも心地良いとキリコは思った。──疲れをきちんと癒やせてる? 安らぎをあなた自身に与えてあげている? 好きな歌を歌って幸せな気持ちになったりすることは?

 そよ風に誘惑でもされたとでも思って
 わたしに寄りかかってみてもいいんじゃない?

 眠り込んでいた子猫がくあぁと欠伸をして起き上がる。気付いたBJが優しく「おはよう」と言い、歌は終わった。語りかけたその声がとても可愛いと思いながら、マフィン、とキリコは呼んだ。BJは明らかに通路で歌を聴いていたタイミングで声をかけて来た男に気づき、少し顔を赤らめて──歌を聴かれたことが恥ずかしかった──おはよう、とまた言った。
「上手いな」
「からかうな、馬鹿キリコ」
「長く寝過ぎた、ごめんね」
「別に。本読んでたし。──もっと寝てれば?」
 言いながらも軽く抱かれてキスをされ、嬉しそうに笑う。それが可愛くてキリコも笑う。
 それから、そうだな、と思った。寄りかかってみても──本当は寄りかかっても受け止めてくれる女だ。分かっている。それこそが健全な恋愛関係を構築していける大切なプロセスだということも。
 それを極限まで避けようとする自分が愚かで醜い男であることも。
 分かっている。
「だいぶ疲れが取れたよ。少し外に出ようか」
「たまにはゆっくりしてれば?」
「外で日光浴がしたい」
「じゃあ近場ね」
「芝公園まで歩こうか。近場にタルトの店があるからテイクアウトして持って行こう」
「俄然歩く気になって来た。服選んでよ、靴も」
 都心の公園でのちょっとしたピクニックが突然舞い込み、BJは喜んでキリコの手を引く。片腕だけで抱かれることになった猫が不安定さを嫌い、ぴょんと床に飛び降りた。子猫がつぎはわたしをだっこしてよと言いたげにBJを見上げてにゃあにゃあと鳴き出し、BJは子猫を、キリコは母猫を抱いてサンルームを出た。
 キリコに服を選んでもらうのは好きだ。キリコが多少距離のある公園までの散歩のために選んだBJの服は白のカットソーに細身のデニム、少し底が厚く、ストラップがついた鮮やかなオレンジのバレエシューズだった。
「この靴、買ってもらった時も思ったんだけど」
「うん?」
「ナースサンダルみたい。みんなこれを履いたら賑やかそう」
 病院で忙しく立ち働く女性看護師の足元が鮮やかなオレンジ色になった光景を想像したキリコは思わず笑い、BJも笑ってキリコの服を選び始めた。と言っても、自分でも重々分かるほどにファッションセンスが皆無だ。結局キリコが自分で選んだ。同じような白のカットソーとデニムを見て、BJは何とはなしに嬉しく、だが妙に気恥ずかしくなった。キリコの靴の色はオリーブグリーンだったが、BJの靴と並ぶとどちらも映える。
 支度をするキリコを眺めながら「格好いいなあ」と思い、髪をゆるくまとめてサングラスをした姿を見て、更に「格好いいなあ!」と一人悶えてキリコに妙な顔をされた。
 鍵をかける外出時はマダムの家に猫たちを帰しに行く。手放せない医療鞄はいつもキリコが持ってくれた。
 猫を抱いて歩く二人に近所の人々がほどよい距離感で観察がてらの挨拶をくれ、それなりの頻度で話す相手であればキリコはほんの数十秒ほど立ち話をし、BJはおとなしく愛想笑いをして話の終わりを待つ。
 はじめの頃はBJの風貌に驚く者も多かったが、良くも悪くも高級住宅街では露骨に避けられることもなく、やがて「あのドクターの(内縁の)奥さんだ」と認識されて、たまに一人で歩いていても声をかけられるようになった。中にはBJの生業を知っている住人もいて、闇の側というほどではないが、金があるからこそ知る世界を覗く人間がいる地域なのだとBJは学んだ。キリコがこの地区に自宅兼医院を構えた理由が分かるような気がした。
「やあ、ドクター、調子はどう?」
「悪くないよ」
「クロオも元気?」
「とっても」
 各国の大使館が近いという場所柄、この時代にしては外国人も多く、キリコと同じ国やその同盟国の人間とは少し親しく立ち話をすることも多かった。母国語を思う存分話せるチャンスが嬉しいのか、彼らは数ヶ国語を話せるキリコとBJを見れば必ず声をかけてくる。最近ではホームパーティーに誘われることも増えた。キリコは半分程度は招きに応じ、その半分程度にはBJを連れて行った。あとの半分はユリを連れて行っている、とBJは聞いた。死神も近所付き合いをするなんてね、と言ったら、仕事以外は円満な社会生活をしたいからだと返された。
「どうも少し忙しくなりそうでね。もしかしたら一度、家族を連れて帰国するかもしれない」
「ああ、イラク方面が賑やかになって来たからな。気を付けて」
「ありがとう。ドクターも海外出張が多いみたいだけど──」
 その彼はアメリカから出向している大手企業のビジネスマンだった。国家間の火種が仕事に関わることは珍しくない。その場で週末のホームパーティーに誘われ、アメリカ人や同盟国人と今後の動静について話し合いたいのだと予想したキリコは応じることにした。
「クロオもぜひ。あなたが来てくれるとみんな喜ぶ」
「ありがとう、仕事が入らなければ喜んで」
 お決まりのリップサービスをやはりお決まりの言葉で返し、立ち話に飽きて暴れ始めた猫を口実に解散する。
「わたしも行った方がいい?」
「俺の中じゃそのつもりだった」
「ユリさんを連れて行った方がいいんじゃない? わたしより喜ばれるだろうから」
「馬鹿言え。妹を連れて行くのは配偶者の都合がつかない時に限るのがマナーだ」
「配偶者」
「俺の思い込みだったかな」
「──言わなきゃ分かんない? 馬鹿じゃないの」
「馬鹿で結構」
 BJは唇を尖らせて謂れのない羞恥心を隠す。内縁と言われるよりは感情的に納得できると言えばできるのだが、どうにも複雑な心境になるのも確かだった。
「でも実際問題、アメリカ人が引き上げることになったらユリさんも関係あるじゃない。キリコだってフォート・デトリックの件があるし、政府から帰国命令が出れば従うんでしょ」
「今回の流れじゃ日本からの帰国命令までは出ないよ。イラクへの渡航制限くらいだろ」
「そういう話をしに行くってこと?」
「そう。帰国命令は出ないとしても、同盟間での移動制限がどうなるか分からないから情報共有はしておいた方がいいんだ。まあ、ほとんどは愚痴だろうが」
「キリコはさりげなく心療内科医としてただ働きをしに行くわけだ、なるほど」
 結局は彼らの愚痴を聞き、過度の不安状態に陥らない手助けをしてしまうであろう自分を想像して、キリコは複雑な顔で頷いた。
「否定できない」
「金取りなよ」
「取れるかよ。近所付き合いなんだから」
「国に帰れば近所じゃないけど、まあ、確かにね」
「同盟国さ」
 個人の近所付き合いに国家間の同盟が関わってくることが不思議で、日本にいても気にするものなのかとキリコに問うたことがある。キリコはやや難しい顔をして、今の時代でこういう場所に住んでいる外国人なら、ほとんどが何かしら国に関わってるからな、企業の人間でも日本に出向するような連中は大抵そうだよ、と答えになっているような、なっていないようなことを言っていた。もう少し時代が進めばそんなこともなくなるけどね、とも。
「もし帰国命令が出たら」
「うん?」
「しばらく会えないね」
「どうして?」
「どうして、って──」
 本気で驚いた顔をされ、BJは思わず足を止めた。腕の中の母猫が早く帰りたいんだけどと言わんばかりにひと声鳴いた。キリコの片手に抱かれた子猫もそれに倣った。それからキリコは言った。
「俺、前に言わなかった? 今回じゃなくて、もしもの話で」
「何を?」
「帰国命令が発令したってどうせ一時的な措置なんだし、配偶者扱いならステイツで日本人の入国制限がかかるとは思えないし、おまえとお嬢ちゃんの旅行がてら連れて帰るって話──え、あれ、言ってなかった?」
 あとはユリも、とキリコは言う。BJはぽかんとキリコを見上げる。そしてじわりじわりと内側から湧き上がり始めた感情につける名前が思いつかなくて、だが急に泣きたくなったことは事実で、意味も分からず溢れかけた涙を止めるために唇を噛む。
 ごめん、言ってなかったか、とキリコが慌てて言った。腕を占領する子猫と医療鞄がハグを許さず、ごめん、ともう一度言って髪に唇を落とした。聞いてない、馬鹿キリコ、と悪態をついてもう一度謝らせてから、内側に生まれた感情は歓喜と戸惑いが入り交じったものだったのだとようやく理解して微笑んだ。それでキリコは安心した。
「まあ、アメリカに行ったってどうせわたしは仕事であっちこっち行っちゃうけどね」
「政情不安の国はやめてくれよ。──って言っても無駄か」
「分かってらっしゃる」
「ったく」
 軽くキスをして二人で笑い合う。BJは泣きたい衝動が霧散したことが不思議で、それから、──そんなの、わたしたちが選択できる手段なのだろうか──
 わたしはそれを受け入れることができるのだろうか。
 胸の奥で頭を擡げかけた疑問を意図的に封じ込んだ。
 このひとはいざとなったら母国へ連れて帰ろうとしてくれている。わたしだけじゃなくって、あの愛しい子も当然のように一緒に。今はその事実に与えられた幸福感に浸っていたかった。たとえそれが夢物語に終わろうと、今は夢の中にいてもいいと思えた。
「うにゃ」
 猫が下僕のつがいの感情に触れたのか、宥めるように頬ずりをする。BJも笑って頬ずりを返した。一人と一匹が可愛くて、キリコはBJの髪にもう一度キスをし、通りすがりの顔見知りに微笑みと共にいつもより短く会釈され、ここは日本だった、と呟いてBJを赤くさせたのだった。


 マダムは不在だったが、猫たちは猫用の出入り口へ向かってあっさりと戻って行った。下僕とつがいの友人たちが二人で出掛けたい事情を察しているかのようだ。
「あいつは中身が人間だ、しかも気が利くタイプの」
「何それ」
 二人で笑い、手を繋いで歩き出す。目的の芝公園まではキリコの足で30分程度の距離だ。BJに合わせて歩けばそれよりも時間がかかるが、別段急ぐわけでもない。
 あたたかい日差しを楽しみながら住宅街を抜ければオフィス街に入る。ランチタイムで一息つくビジネスマン、この時代ではビジネスウーマンやオフィスレディと呼ばれる人々の間をのんびりと歩きながら、わたしたちはこういうところに勤められないだろうね、とBJが言う。キリコは真っ先にオフィスレディとして働くBJを想像し、それなりに似合うんじゃないかと思った自分を恥じた。BJは服装の話をしたわけではないはずだ。
 途中でキリコが言ったタルトの店に入った。終わりかけたランチタイムには華やかなオフィスレディたちの姿は少ないものの、やはり数人はいる。
 彼女たちの幾人かがキリコに熱っぽい視線を送っていることに気づき、BJはつい得意になってしまった。都会的で美しい彼女たちに注目される男に、食べたいものを優しくあれこれと訊かれることも嬉しかった。昔なら「わたしなんかが隣にいていいはずがない」と捻くれたことを思っていただろう。嬉しいと思えるようになった今が嬉しい。
 ビルが建ち並ぶオフィス街を少し外れてしばらくすると、目的の芝公園に着いた。一丁目から四丁目までの住所が割り振られるほどに広い公園は、アメリカ人のキリコがようやく「公園」と認識する存在を見つけられたと喜んだものだった。
 二人が足を向けたのは、散策や観光によく使われる四丁目だった。生い茂る木々と整った芝生、散策に適した道から東京タワーがよく見える。
 大丈夫、とキリコが時折訊いてくれる。疲れていないかということだ。外科医がこの程度、と減らず口を返そうとしたが、口から出たのは可愛らしく否定する声だけだった。キリコが微笑んでくれたので嬉しかった。
 並んで歩くBJと繋いだ手から伝わる熱が穏やかだ。キリコは我知らず、幸福と呼ぶべき感情に満たされていた。愛する女と穏やかに、並んで歩くだけで満たされる。陳腐な言い方かもしれないが、疲れを忘れる、癒やされる。そんな言葉が自然にあてはまる感覚に支配されていた。
 他の誰でもこうはいかない。──この女だから、俺はこんな気持ちになるんだろう。
 穏やかな風が吹き抜ける中央広場の柔らかに芝生に直接座り込み、遊び回る幼児と追いかける父母、同じように散策に来ている男女や友人たち、抜けるように青い空と緑の芝生を眺めながら、買ったばかりのタルトを開いた。
「新宿御苑もいいけど芝公園もいいね」
「俺はこっちの方が好きだ。家から近いし」
「うちからだとどっちも同じだな。──美味しい」
 チキンとチーズのタルトはほどよく口の中で崩れ、散策の疲れを労ってくれる。キリコが選んだローストビーフのタルトも申し分なく、二人で半分ずつ食べて満足した。
 一緒に買ったコーヒーを飲みながら取り留めもないことばかりを話す。少しだけ医療の話もする。本当に少しだけだ。あとはピノコのこと、ユリのこと、マダムの猫のこと、招かれたホームパーティーに何を持って行こうか。そんな話で時間を共有できることが嬉しい。
 時間を共有する。
 いつの間にか人生を共有している。
 こんなにも違う生き方なのに共有できる。
 いつか共有できない瞬間が来ても、少なくともそれは今ではない。
「──ふぁ」
「眠い? 寝る?」
「そうするかな」
 やがてキリコが軽く欠伸をし、ちょっとだけ、と言って芝生に伸ばしたBJの太ももに頭を乗せた。やはり疲れが取れたわけではない。
「足が痺れる前に起こして」
「5分ってとこ」
「よし、集中して寝る」
「ばーか」
 普段なら恥ずかしがるBJも、満足した散策とランチ、心地良い日差しと吹き抜ける風に調子を狂わされて文句を言わず、キリコが外したサングラスを医療鞄の上に置いた。
 ちょっとだけ、と言いながら、ほんの数分もしないうちにキリコは眠ってしまった。BJはその髪を撫でながら、広場の芝生の上の光景を眺める。穏やかな光景だけがそこにある。
 風がそよぐ音とキリコの寝息が穏やかで、もうしばらくこのままここにいたいと思った。少なくともキリコが自然に目覚めるまではこのままでいたかった。
 キリコが自分にしてくれるように、あれこれと完璧に癒やしてあげることができていない。少なくともBJはそう思っている。癒やされたよ、ありがとう、おまえは完璧だ、と起きた時にキリコが本心から言おうと考えながら眠ったことを知らずに。


 そよ風に誘惑でもされたとでも思って
 わたしに寄りかかってみてもいいんじゃない?