Be free


・直接的な表現ではありませんが、女性に対する性的暴行シーンがあります。
・第三者が読むと「キリジャで書く必要がない話」です。
・私にとっては「自作品に書き散らかしてある先生♀の男性に対する恐怖感の発露の条件とキリコの対応の話」です。
・要は自作品への自己満足です。
・暗い上にキリコがずっと似たようなことでぐるぐるモノローグをしているので鬱陶しいと思います。
・スパダリに見せかけてスパダリに失敗したキリコです。
・先生♀が完全に何かこう……あの子……だよね……って感じです。

・ほんとすみません、「これ何でキリジャでやる必要があると思ったの? 馬鹿なの死ぬの?」 って思われましたらすぐ読むのやめて下さい……

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 それまでだって演技の名を借りて恋人同士として過ごす時間があったし、途中からは明らかに必死で演技の振りをした程度には既に互いを互いのものだと認識し合っていた。俺だけじゃなくてBJもそうだったことはよく知っている。
 二人でいても構えることなんかなかったし、はっきり言って他人同士がするようなものじゃないキスも平気でしていた。BJもそれを受け入れていた。
 だと言うのに、いわゆる正式な恋人同士になった途端、何となくBJが遠慮がちになったりする瞬間を感じるようになった。今までなら俺にやらせて当然、金を出させて当然だって顔をしていたシーンでも、自分でやる、私が払う、と言い出した時には驚いた。もちろん断った。だがBJは渋り、俺は昔ながらの「男たるもの」が好きな人間なんだと根気強く言ってようやく納得させたほどだった。
 何か食べたいものがあるかと訊けば、キリコが食べたいものを食べればいいじゃないか、と返事をされて驚いた。どこか行きたい場所があるかと訊けば、やっぱり同じように言われた。それが当然なのにどうして訊くんだろう、とでも言いたげに目を丸くしていて、俺は本気で驚きの連続だった。
 正直言えば従順で可愛い、俺たちの世代の欧米人男性が都合よく思い描くような「日本の女」だった。でも俺が知っているBJとは余りにも違いすぎて、面食らったと言えば面食らったし、俺が何かしただろうかと考えたことも事実だ。
「何かあった?」
 気付いてから数日、俺はどうしても自分では原因に思い至ることができず、ダイレクトにBJに問うことにした。民族性の違いである可能性も高い。そんな時には話す、これが最善だ。俺たちが長い間すれ違いを続けたのも、話をすることから避けたがゆえだったという反省もあった。
「何かって?」
 助手席のBJが俺をちらりと見る。俺も見返したかったが、あいにく信号が青になって不可能だった。アクセルを踏み、二人で時間を過ごすため、俺がよく知る街へ走らせる。
「何て言うのかな。──俺に遠慮をしすぎなんじゃないかって」
「遠慮?」
「俺が金を出すことや何かする時に嫌がったり」
「それはもう話したじゃないか」
「そうだね」
 確かにね、と俺は頷き、再び言葉を探す。次の信号が赤になればいいのに。少しゆっくりBJの顔を見るべきだ。運転中に話さない方が良かっただろううか。だがドライブの空間は、少し話しにくいことを口にするにはちょうどいいプライベート空間でもある。好都合と言えば好都合のはずだ。
「行きたい場所も、食べたいものも」
「うん」
「全部俺に合わせてる」
「合わせてない」
「いや、……うん、おまえはそうなのかもしれないけど、俺はおまえの希望をひとつも聞いてない気がする」
 BJが小さな溜息をついた。ちょうど信号が赤になったので横顔を見る。そして俺は、これは厄介な問題だったのだと思い至った。民族性の違いなどではなかった。
 BJは困り切った顔をしていた。こんな顔をするのは珍しい。しかも完全に女の顔、むしろ年齢に似合わないほどに「女の子」の顔だった。
 俺は予定していたルートを一時変更することにした。最初は俺がよく知る店で食事でもして──そんなことを考えていたが、今それは最善とは言えないと理解したからだ。
 はっきり言えば、これは明らかに心療内科の領域だと断定した。
 そして自分を呪った。どうして思い出さなかった、どうして忘れていた。俺はあの雨の日に聞いた話を覚えていたはずなのに。
 走っていた幹線道路から少し外れた道で路肩に止め、俺はシートベルトを外す。途端にBJがびくりとしたことを見逃さなかった。信じられない姿だと思ったし、そして後悔した。だからやや慌てて言った。
「少し話をしてから行きたいと思っただけなんだ。今日を楽しくするためにも必要なことだから」
 BJは何も言わなかったが、小さく頷いて、そして下を向いた。信じられなかった。だが原因の予想がついていた俺は、本当に、本気で、心底、どうして気付かなかったのかと過去の自分を死ぬほど殴り飛ばしたくなっていた。
「最初に言っておかなきゃいけないんだが」
「……うん」
「ごめん。気が付かなくて悪かった」
「え」
 俺の唐突な謝罪で驚いたBJが俺を見る。ぽかんとしたその顔が妙に可愛くて、俺はキスをしたくなった。少し距離があったので諦めた。これほどシフトレバーが邪魔だと思ったことはない。
「言えないんだろう?」
「……え?」
「俺が──恋愛相手が怖かったんだろう?」
 途端にBJの表情が揺れる。慎重に、と俺は俺に言い聞かせた。怒っていないこと、問題を解決したいことを伝えて行かなければまずい瞬間だ。今BJは、俺を──恋愛相手を怒らせたと思って怖がっている。
 BJにとって恋愛相手は恐怖の対象でもある。俺はそれを失念していた。ベトナムに行く前、酷い男に酷い目に遭わされていたBJは、あれから相当の時間が経つのに、信じられないような神の指を人々に与えるようになったのに、恋愛観だけはおそらくあの日々のままなんだ。
「怖がらないで」
 慎重に、だが本気の言葉を伝える。BJの唇が動きそうになった。俺は言葉を期待した。だがBJは唇を噛み、黙り込み、そして俺のために小さく頷くという嘘をついた。
 可哀想に。怖いんだろうに。
「俺はおまえに何も酷いことをしない。痛いこともしないし、怖い言葉も使わない。でも話はするよ。聞いてくれる?」
 BJは小さく頷いて、また唇を噛んで、俺ではなく自分のつま先に目を落とした。彼女なりに納得しようと必死であることは見て取れて、俺はまたぞろこいつを可愛く思う。そして俺が殺したはずのあの男をまた殺してやりたくなる。
「ありがとう。もう少し頑張って」
 何度も小さく頷き、BJは唇を噛んだまま、視線をつま先から外さなかった。それでも俺の話を懸命に聞こうと頑張っている。
「俺が行きたい場所に行かなくたっていいし、行きたくないって言っても俺は怒らないよ。行きたい場所を言ってくれれば喜んで連れて行く」
 しばらく考えた後、やっぱりBJは小さく頷いた。だから俺は少し安心できた。
「流石に月やソ連の軍事施設の中は無理だけどね」
 我ながら上手くいかなかったつまらない冗談に、BJは律儀に笑ってみせる。恋人同士になる前なら、つまんねえ冗談言ってんじゃねえよと皮肉な罵声のひとつも飛んで来ただろうに。
「食事だって、俺に合わせる必要なんかないんだ。俺が食べたいものを食べたくないって言っても俺は怒らないよ。おまえが食べたいものを食べてみたい」
「ボンカレーでも?」
「もちろん」
 何とか俺を怖がっていないと示したかったのだろう、必死でぎこちなく笑いながら言った女に、俺は微笑んでみせた。女はまだつま先から視線を外すことができなかったが、僅かに安心したことは横顔で分かった。
「俺の勝手な考えだけど、前の男は怒ったんだろう。──言わなくていいよ。言いたければ言って」
 安心したはずの横顔が不意に歪んだ。泣きたい感情を堪えるためだ。目は潤んでいたが、辛うじて涙が零れないようだった。
 俺の話の進め方は人によっては非難するべきものとなるだろうが、俺自身は間違っているとは思わない。間違っているのならこんな話はしない。
「怒ってたんだ、と、思う」
 ようやく絞り出された声は震えていた。
「そうか」
「あまり思い出したくない」
「そうか」
「──でも、否定すると」
「うん」
「それは嫌、とか言うと」
「うん」
「人がいない時、とか、二人でいる時、に、なると」
「うん」
 泣き声はブラック・ジャックのもではなかった。ずっと昔、まだ自分がこんな未来を歩むなど考えていなかったかもしれない時代の声なんだろう。
「蒸し返して殴られたり、蹴られたりして、嫌だった」
「怖かったね」
「うん」
 吐き出したBJは自分を守るように身体を丸め、顔を覆って俯いた。自分をどうにか落ち着かせようとしていて、見るからに痛々しい。あの男がしたことはそれだけではなかったことを俺は知っている。あの雨の日、BJから聞いた。だから今、改めて言わせるつもりはなかった。言いたいのなら言えばいい。だがBJが言ったのは別のことだった。
「わた、わたし、の、意見なんか」
「──うん」
 急に声の揺れが酷くなった。俺は更に慎重にBJを観察する。恋人同士として大事な話をしていることは嘘ではないが、医者としての視点で見ておかなければやりにくい状況であることも確かだ。
「恋人に、なった、お、おとこのひとに言ったら、駄目だって、そんなことないのは分かってるけど、でも、怖いのかも」
 仕事ではあれだけ男を蹴散らすような言葉を見事なまでに紡ぐ名医が、過去の男に植え付けられた恐怖に怯えている。
「わ、わたし、みたいに、醜い女が。恋人になってくれたひとに、何か言うなんて、駄目だから」
 これ以上は無理だ。今日はここまででいい。俺は思った。ここまででいい。よく頑張った。
「話してくれてありがとう。よく頑張ってくれた」
「うん」
 大きく息を吐き、BJは顔を覆っていた手を離した。泣いた目元を拭い、また唇を噛む。痛々しい姿に変わりはなかったが、話をする前よりもどこか解放感を得た表情であることは確かだった。
「手を握っていい?」
 俺の要請にBJは少し笑って頷いた。俺も笑い、やはりシフトレバーが邪魔だと思いながら右手を握り込む。
「怒らないよ」
「うん」
「でも喧嘩はこれからもしよう。今までみたいに」
 今までみたいに。その言葉でようやくBJは俺を見た。俺は言葉を選んでいることを悟らせないよう、だが確実に選んでゆっくり告げることにした。
「喧嘩になっても今までみたいに、言いたいことは言って欲しい。俺たちは元々他人なんだ。言わなきゃ分からないし、聞かなきゃ分からない。俺はおまえを分かりたい。おまえは?」
 するとBJは困った顔になった。傲慢で強欲で強気な無免許医はどこにもいなかった。ここにいるのは恋愛の仕方が分からない、それでも確かに恋愛の真っただ中にいる一人の女──女にまだなれていない、学生の女の子だった。
「そんなの」
「うん」
「考えたこともなかった」
「どうして?」
「わたしなんか、醜くて、可愛くなくて──」
「──もう少し、おまえに惚れた俺を信じてくれないか」
 虐げられて当たり前だと思い込むような恋愛観に支配されていた、学生の女の子は困り切っていた。だから俺は言う。
「勇気を出して」
 こんな時、きっと日本人なら言わないような言葉だろう。だが俺は日本人じゃない。俺が生まれ育ち、培った感性と物の考え方で生きる人間だ。BJだってそうだろう。二人がふたりでいるために、俺たちは互いの認識をすり合わせていく必要がある。
「俺を分かることは怖いことじゃないし、分かる過程でおまえを嫌うことも、おまえが嫌なこともしない。──信じる勇気を出して欲しい」
 それから、と俺は付け加えた。
 俺はおまえを恐怖で支配しようなんて思わないこと、俺たちは対等であることを分からせなければならなかった。
「それから、俺もおまえのことを分かりたいんだ。だから言いたいことは言うし、知りたいことは訊くよ」
 俺の言葉の意味を考えるような顔をした後、BJははにかんだように笑った。うん、うん、と何度も頷いた。
「分かった」
「そうか。よかった」
「何だか」
「うん?」
「……恥ずかしいな」
「おまえの中では正しい感覚かもしれないけど、そう思う必要はないね」
 恥ずかしいな、と言った時の顔がすこぶる可愛く、どうやら俺は心底この女に参っているらしいと実感した。今までの恋とは全く違うものだと分かってはいたが、こんな時に実感するとは予想外だった。全てがいとおしい。そんな気持ちになった女を思い出せなかった。
「聞いてくれるかな」
「……うん」
 指越しに伝わる緊張を知りながら、ぐっとその華奢な──あの神の奇跡を生み出すとはとても思えないほど華奢な──指を強く握る。
「俺はおまえを醜いと思ったことはないんだ。初めて会った時から、一度だって思わなかった」
 俺をまじまじと見た後、BJは眉をひそめた。
 眉をひそめて笑って、信じたい、と言った。
 信じたい、と言う言葉がいつか、信じる、と言う言葉になればいいのにと思った。そのために俺ができることはあまりなくて、でも簡単だってことは想像がついた。
 全力で、俺が、俺の思うままに、この女を愛すればいい。この女が今の俺の言葉に納得できるよう、誰に何を言われようと、愚かだと、馬鹿だと言われようと、愛すればいいんだ。
「じゃあ練習しよう」
「練習?」
「行きたい場所は?」
 BJはしばらく俺を見た後、小さく噴いて笑い出した。俺もつられて笑った。
「そうだなあ」
 シートに深くもたれて座り直し、脚を床いっぱいに投げ出して、俺たちがまだ他人であった時のような図々しさ、自由さで、だがあの頃よりももっと甘えるような目を俺に向けた。
「キリコが行きたいところ」
「うーん……」
 練習の意味は? 俺の話聞いてた? ふたつの感情をどう伝えようかと言葉を選びかけた時、BJが俺の治療計画の少し先を歩いていたことを知った。
「キリコがわたしを連れて行きたいところ、って意味」
 俺はすっかり忘れていた。こいつは男に人気があるんだ。患者に惚れ込まれることは少なくないし、闇の連中の間でも妙にもてる。その理由の一端を見せつけられたような気がして、思わず苦笑していた。
「参りました」
 それしか言えなかった。


 俺が恋人を連れて行きたかった場所に連れて行き、恋人と行きたかった店で食事を終えた頃、時間は20時になっていた。イレギュラーはあったが、前回までと同じ流れだ。この後は家まで送って、車の中でキスをして、家に入るまで見送ることになるだろう。
 随分健全なデートだと自分でも思うが、お嬢ちゃんが待っている以上、あまり遅くまで連れ回すのもすっきりしない。お嬢ちゃんが見た目通りの年齢ではないことや、BJが海外に長く行く時には一人で留守番をすることが多いという事実も知っているが、かと言って放っておけないのが俺の育ちだ。シングルマザーと恋愛していた軍属時代の部下の愚痴を思い出しそうだった。
 さりとていつまでもジュニア・ハイの少年少女のような健全なデートで終われるはずがない。俺は大人だ。そしてBJも。
 不能だの早漏だのと一部で散々な噂を立てられて噴飯ものだが、俺に性的不能の問題はなく、BJも身体機能に一切問題はない。それは互いに既に確認している。
 一度だけだが。
 そう、俺たちはまだ一度しか寝ていなかった。アメリカの陸軍病院で、溶け合うように夢中で抱き合ったきりだった。
 かと言って、正直言えば次はいつ会えるかの確約がしにくい稼業であることも確かで、次はどうしようか、こうしようか、と話し合うこともできない。
 どうするかと考えている顔をせずに駐車場までの道を話しながら歩いていると、不意にBJが言った。
「あの」
「うん?」
「あまり、こういう言い方が正しいかどうか分からないんだけど、分からないから」
「──うん?」
「違ってたら、教えて欲しいんだけど」
「うん」
 どうしたんだろう、と内心で首を傾げる俺の横で、BJは足元を見ながら小さな声で言った。
「ピノコが、今日は時間をかけて作りたい料理があるから」
「うん」
「……帰って来ないで、って」
 俺は数瞬沈黙し、それからT県の崖の上にいる幼女──いいや、女か──に心の中でこの上なく感謝した。彼女が男女の夜をどう理解しているかまでは知らない。だが恋敵に一晩BJを譲り渡したことは間違いない。
「それは」
 俺は正直に言った。
「素晴らしい料理が期待できそうだね」
「……うん」
「ああ、その」
 これが単なる遊び女相手なら、俺はもうちょとスマートに、じゃあもう少し飲んで行こうか、と白々しく言っているだろう。だが相手はBJだ。そして今、かなりの勇気を出してお嬢ちゃんの言葉を俺に告げたはずだ。
 俺が言葉を探す時間にBJが不安を覚えないうち、俺は急いで脳を回転させる必要があった。間の抜けない言葉、BJが怖がらないような誘導の仕方──だが考えすぎても仕方ないだろうと冷静な俺が言った。
 これから長く一緒にいたいんだろう。だったら下手に格好つける必要なんてないさ。
「部屋が空いてるといいんだが」
「え」
「行こう」
 手を繋いで先に歩き出すと、BJは消え入りそうな声で「うん」と言って、自分から指を絡めて来た。それが自分でも驚くほどにいとしくて、可愛いとしか思えなくて、今すぐ抱きたいと思ったほどだったが、公衆の面前であることを何とか思い出して耐えた。
 バブル真っ只中の日本、しかも都内中心地、ホテルの部屋の空きは絶望的だった。2軒目も空振りした後、俺は早々に諦める。いくらシティホテルとはいえ女と手を繋いでうろつくような歳でもないし、俺の感覚からするとみっともない。何よりBJがこれから先の時間に怯んでしまうかもしれない。──BJの素顔を知る前なら、面倒な真似させやがってと毒を吐いて帰るのではないか、と俺は考えただろう。今はそんなことがないとよく分かっている。
 この従順な女はきっと、俺がそうすると言えば夜明けまででも手を繋いで歩き続けるだろう。だがそれでは駄目だ。俺もBJも、そんな関係を成立させてはいけない。
「今日だけ」
「え?」
「先に言うのは今日だけ。いいね」
 男への従順さが恐怖心である可能性が高い以上、今はしっかり教えておかなければならなかった。
「嫌なら嫌って言っていいし、言いにくかったら首を横に振ればいい。怒らない」
「何の話?」
「俺に家に行こう」
 BJはしばらく無言で俺を見上げていたが、やがて面白いほどに少しずつ赤く、そしておそらく意味を理解したその瞬間、ぼん、と音がしてもおかしくないような勢いで顔を真っ赤にした。
 もしも、素顔を知る前の──素顔を見せる前の、そして恋人同士となる前のBJなら、図々しい、馬鹿を言うな、ホテルを取って来いと啖呵を切ったはずだ。そうして俺のような男を遠ざけただろう。あの頃は蓮っ葉なだけの女だと思っていた。いつからか、とてもそんなことを思えなくなった。そうやって自分を守って生きて来たのだと知っただけだった。
「どうする?」
 真っ赤なままのBJに返事を促す。途端にはっとして身を竦ませ、「ええと」と慌てた声を出す姿にまた傷が見え隠れしたような気がした。
「ゆっくりでいい」
 俺は心底、俺が殺したはずの男を憎んだ。
「俺は怒らないよ」
 BJが顔を上げ、それから唇を噛んで頷いた。
 すぐに返事をしなければ怒られたのだろう。どんなにつまらないことでも、女を恐怖で従わせる男は暴力の発端の材料にする。そんなケースは心療内科分野の報告書で嫌と言うほど目にしていた。俺にとってはただの情報でしかなかった項目が、目の前の女にとっては現実だった。
 目の前の女にとって現実なら、俺にとっても現実であるということ。患者にとっては、その恋人にとっては、その家族にとっては──図らずも、俺は医者としても改めて考えさせられていた。
 やがてBJは顔を上げて俺を見た。俺はBJを安心させるために微笑んだ。BJは安心したように、少しだけ笑った。
「あの」
「うん」
「い、──行きたい、な」
「決まりだ」
 絡めた指に力を入れてぎゅっと握ると、うん、とBJは頷いて握り返して来た。嬉しそうだった。だから俺も嬉しくなった。


 そっちは診察室、と言った時だけ、BJは返事をしなかった。BJがその方向へは今後も決して行かないだろうということが分かった俺は、家の中なのにまだ手を繋いでリビングへ向かった。
「花が満開」
「年中だよ」
 庭師に頼んで年中何かしらの花を咲かせている理由は言わないでおいた。生命の行方の相談に来た患者の心を癒す目的だと、BJに言う必要はないと思った。綺麗なら綺麗、それでいい。
 コートハンガーに上着を掛けていると、リビングから庭へ出るテラス窓が開く音がした。好きにさせておいた。猫みたいだと思う。連れて来られた新しい家をテリトリーにできるかどうか、用心深く探る猫だ。
 やがて探索から戻って来た猫からは花の香りがした。普段は石鹸の清潔な香りしかしない女がまるで香水をまとっているようで、たまらなくなった俺は抱き寄せてキスをした。
 海外ではそうでもないものの、日本の公共の場でのあからさまなスキンシップを恥ずかしがるBJのために一日我慢していた分、少し深くて長いキスになる。とはいえ連れ込んですぐセックスなんて余りにも恋人に失礼だ。性感を高めない程度でまた我慢してやめておいた。
「我慢してたんだ」
「え?」
「一日、ずっとキスしたかった」
 BJは俺を上目遣いに見上げた後、嬉しそうに笑って、わたしも、と言って俺を喜ばせた。
 カクテルの材料を兼ねて揃えてあるリビングの酒棚を見て「すごい」と声を上げ、それから家が清潔だとのお褒めを頂戴する。それはどうもと答えながら、BJが好きそうなカクテルの材料が足りないことに気付いた。
「明日、帰る前に買い物するか」
「え?」
「おまえの好きな酒が作れない」
「別に──」
「俺が作りたい」
「──うん」
 別にいいよ、と言わせないうちに事実を告げると、また嬉しそうに笑った。きっとまだ、俺の申し出を素直に受けたり自分から言い出すことは難しいだろう。だが、素直に受けていい、自分から言っていいと理解はできたようだ。今日はこれだけで大収穫、大進歩だと言える。
 簡単なカクテルを前にソファに並んで座り、テレビのニュースを見ながら取り止めのないことを話す。何ひとつ色気のない時間なのに、不思議と俺は幸せだった。BJが緊張を解いて笑い、時にはいつもの調子で悪態をつくことが嬉しかったし、外で会うのもいいけどこういうのも好きだな、と呟かれた時には、自分でも分からないほど胸の奥底が熱くなって、俺もだよ、と言いながら肩を抱き寄せていた。
 仕掛けたキスは深くなり、少しずつBJの息が上がる。唇を一度離して息を継がせ、今度は唇を軽くこすり合わせるように触れさせると、しばらく躊躇った後に自分から深いキスを仕掛けて来た。俺もBJも互いに性的な興奮を得たと理解し合ってから唇を離す。濡れた唇を指で拭ってやりながら、上気した目元と頬が可愛くて、そこにも唇を落とした。
 抱き上げてもBJは何も言わず、俺の首に手を回してしがみつき、歩く俺にキスをねだった。俺の寝室に行くまでに何度もキスをした。
 初めて肌を重ねた時は二人とも感情に溺れ、どんなセックスをするかなんて二の次だった。ただ重なりたかった、繋がりたかったことしか覚えていない。俺も尽くしたセックスだったとは到底言えない。だからこそ今日は尽くしたかった。だが今日の経緯で予想していた。前回は互いに無我夢中で気付かなかった問題が露呈する、と。
 そしてそれは正しい予想だった。問題って領域の話じゃなかった。聞いた俺の心が死ぬのではないかと思うほどの衝撃だった。
 ベッドに横たえて、これからおまえを抱くんだよとキスで教えながらリボンタイを解き、ベストとブラウスのボタンを外して行く。最初から少し身を捩らせていたBJは、やがてもじもじと居心地悪そうに動き、異変に気付いた俺がキスを止めて顔を覗き込むと、あの、と小さな声で言った。
「あの」
「うん?」
「違うのは分かってるけど、でも、あの」
「うん、言っていいよ」
 BJは半ば泣きそうな顔になった。流石に驚いたが言葉の続きを待つ。俺が怖いのではなく、別のことに対して戸惑いと、そして怯えを抱いた顔だと分かった。
「キリコは」
「うん」
「破らない?」
「え?」
「だから」
「うん」
「服を、破らない?」
 言われた瞬間、こいつは何を言っているんだ、と本気で理解できなかった。だがそれも一瞬だった。
「そんなこと」
 服を破られて殴られて──雨の日にそんな話を聞いた。泣いても喚いても犯されて、写真を撮られて、本間教授の芸術を独り占めしようとした昔の男。
「そんなこと、しないよ」
 そう答えるのが精一杯だった。BJは安心したように息を吐き、それから、ごめん、と言った。
「着替えがないからかな。急に思い出しちゃって。──キリコがそんなことするはずないのに、ごめん。本当にごめん」
「そんなことしない。謝るな。おまえは何も悪くない」
「そうだよね」
「そうだ」
「うん」
 息を吐くBJの顔が怯えていて、俺は遣る瀬無くなる。だから決めた。今日は抱かない。
 そう言えば女は傷付くだろう。別の意味で絶望するかもしれない。唇に、額に、目元に、頬に、何度も唇を落とす。性的な意味でのキスではなく、ただ慰撫できればと、おまえを慰めたい人間がここにいて、それが俺なのだと教えたかった。
「少し寝よう」
「……え」
「寝るまでキスしてよう。話したいことがあれば聞かせて」
「でも」
「したくなったら教えろよ。俺みたいな格好いい男とベッドにいたら、そんな気になって当たり前なんだから」
 わざとふざけた口調で言うと、BJは律儀に笑いを漏らした。
 並んでベッドに横たわり、毛布の下、抱き合ってキスばかりを繰り返す。心療にも深く関わることが多い医療従事者としての使命感と、おそらく誰にも見せることができなかった深すぎる傷口を見せた女への庇護欲が、俺の生物としての欲求を抑え込んだ。俺の言葉が嘘ではないとようやく理解したBJが身体から力を抜き、ごめんね、と呟いた。謝るなよ、としか言えない自分が屑のような男だと思った。
「あの時は平気だったのに」
「あの時?」
「その、……初めてした時。キリコと」
「あの時は──今とは違うよ」
「そう?」
「人間はセックスをしなくても生きて行ける生き物だけど、人間だから繋がりたいと思う時がある。あの時はそうだったんだ」
「今は?」
「そうだな」
 俺は言葉を選んだ。できるだけ柔らかく、女が何ひとつ悩まなくてもいい言葉だけを探した。誰かが聞けば甘いと言うかもしれないが、いくらでも言えばいい。
「問題をひとつずつ、ふたりで解決して行く時間なんじゃないか。おまえがロンドンで俺を眠らせてくれた時と同じだ。ただし今度はふたりでね」
 ロンドンでカフェのテロ現場に遭遇し、その救助活動でベトナムの日々をPTSDの症状として思い出した俺に、麻酔薬を打って眠らせてくれた。その後、その時に直面していたトラブルを一人で片付けようとした。
 お互い様だろう、と言うと、そうかな、とBJは呟いた。そうだよと教えるために何度もキスをした。
「対症療法にしかならないが、明日、やっぱり買い物が必要だ。おまえの着替えを置かないと」
「でも」
「それとは別に、おまえのものが家にあると俺が嬉しいんだよ」
 BJが深く息を吐き、俺にしがみついた。腕の中に抱き込み、髪に唇を落とす。花の香りはもう消えていた。眠れないようなら後でまた庭に出てみるのもいいかもしれない。
「服は本当に、ないのが怖いんだと思う。あのこと、だけじゃなくて」
「理由は分かる?」
 BJは少し黙ったが、やがて「うん」と言った。でも、とも。
「変な話を、誰にしたらいいのか分からない」
「俺にしろよ」
「恋人にしていいのか、分からない」
 俺は覚悟した。BJがこれから告白しようとしていることは、おそらく恋人として耐え難い酷い話なのだろう。ある程度予想もした。あの男の話以外ならA州の──
「じゃあ、今の俺はお医者さん。心療内科の」
「都合がいいな」
「便利って言えよ」
 俺の胸に顔を埋めたBJが頷き、俺は髪にまた唇を落として話を待つ。
 数分もした頃、ゆっくりとBJが語った。身に覚えのない言いがかりで身柄を拘束され、弁護士も呼ばれず、A州のような田舎には珍しい日本人女性、しかも特徴がありすぎる見た目を嘲笑されながら、身体検査と称されて服を破かれた。
 居合わせた女性の警官が必死で止めてくれたが、彼女は同僚であるはずの男たちに突き飛ばされるように取調室から追い出されていた。あとは酷いものだった。朝まで複数の警察官に辱められた。抵抗したら笑って銃を向けられた。
 痛かった、怖かった、殺されるかと思った、とBJは言った。殺された方がましだって何度も思った、と言った。
 聞いていた俺は冷静さを保つことに必死で、しかも失敗し、何度かBJを抱き込む腕に力を入れてしまった。そのたびにBJは言葉を切り、息を吐き、俺にしがみついた。
「コートだけは破かれてなかったから、朝、それと鞄だけで警察署から叩き出された」
 それからBJは一気に話した。──でも田舎町、そんな格好で、いかにもコートしか着ていないと分かる姿で、裸足のまま歩くことがとても怖かった。BJはそう言った。タクシーなんてない田舎道だった、道行く男たちが明らかに獰猛な目で見て来ることが何よりも怖かった。あの女性警官がパトカーで探しに来てくれて、見付けた瞬間にサイレンを鳴らしてくれて助かった、他の男たちに囲まれる寸前だったから。
「彼女は凄かった。わたしを囲もうとした男たちに銃を向けたんだ。あっという間に助けてくれたよ。アメリカの警察官のほとんどは、きっと彼女のような人たちだと思う」
 そう思いたいんだろう。だがそう言わず、そうだね、と相槌を打ち、俺は髪にキスをする。
「病院に連れて行ってくれたんだけど」
「うん」
「診てもらえなかった。日本人だからって。田舎の小規模病院じゃ仕方ないね」
 大都市でそんなことがあれば、一大スキャンダルとして世間を騒がすことになりかねない重大な過ちだった。今の時代において、人種差別と女性の人権に対する意識改革が急速に推し進められている証明だ。だがA州のような田舎では、まだ意識改革どころか指導すら行き渡っていない現状がある。
「自分でも薬は持ってたから、病院に行く必要もなかったんだけどね」
 乱暴された女性が身体を守るための薬は確かにある。身体への負担が大きい上、被害を受けた時から一定時間以内での服用が必要だが、この話なら間に合ったのだろう。
「警察官の彼女が服を買って来てくれて、でもお金を受け取ってくれなかった」
「そうか」
「それで依頼主のところに連れて行ってくれた。何も言わなかったのに依頼主の家族が察してくれて──もう噂になってたのか、その警察官が話したのかもね。家に泊めてくれたから安心できた。その警察官は出国まで毎日顔を出してくれたし、守ってくれたよ。彼女とは今も手紙をやり取りしてる」
 それから少し、警察官の彼女について話をした。彼女がどれほど慈悲深く優しい人間であるかを口にし、アメリカの警察官はきっとみんなそうなんだ、と何度も繰り返していた。俺はフォート・デトリック近くの俺のアパートメントで、白人の女を俺の恋人と間違え、BJに銃を向けた警察官と、反射とはいえ愛する女に銃を向けた自分を思い出していた。それを忘れたくて、抱く腕に力を入れた俺は卑怯者だ。
「よく話した」
「うん」
「よく頑張った。──ありがとう。愛してるよ」
「うん」
 強く抱き締めると、強くしがみついてくる。自分から顔を上げた、目元が赤くなったBJにキスをした。何度もした。
 それからBJは静かに言った。
「わたしはそんなこと、思わないんだけど」
「何を?」
「そういう被害に遭った女性を、──その、言う人が、昔から必ずいて」
「うん?」
「汚いって──」
「有り得ない」
 最後まで言わせず、俺は今日初めてBJの話を遮った。BJが俺を見て、目が合った瞬間、思い切り顔を歪めて涙を零し、唇を噛み締めながら、うん、うん、と頷いた。俺はどう言えば分からないほど目の前の女が愛しくて、そして哀れでならなかった。
「ただでさえ醜いのに、汚いなんて。怖かった」
「そんなこと誰も思わない。おまえは醜くないし、汚いなんて誰も思わない」
「そうだったらいい」
「怖かったね」
「うん」
「酷い目に遭った」
「うん」
「よく耐えた」
「何もしてない」
「恐怖に耐えた。今、俺に話した。よく頑張った。おまえは勇気ある人間だ。尊敬するよ」
 大きな瞳からぼろぼろと大粒の涙が零れ続け、シーツを濡らして行く。BJが自分から手を延ばして俺の首に抱き付いた。医者の俺は成りを顰め、全てからこの女を隠したくなって、俺の腕の中だけで癒してやりたくて、組み敷くように抱き込んで、何度も深いキスをした。
「俺がいるよ」
 憎かった。腕の中の女を傷付けた暴力が憎い。あの男を直接殺さなかった俺が憎い。まだ警察官としてのさばっているであろうA州の男たちを生かしている俺が憎い。
「俺がいる。──約束する。おまえに怖いことは何もしない。絶対に」
「うん」
「愛してるよ」
 初めて肌を重ねた時と同じように、愛していると繰り返した。泣き濡れたBJは頷くだけだったが、唇が何度も動き、ありがとう、愛してる、と俺に必死で訴えた。
 抱くつもりはなかったのに、どうしても抱きたくなった。BJもそれを望んでいることが分かり、深いキスを繰り返した。服を脱がせる時、緊張する、と言ったらBJは笑い、俺も笑った。
 それからは幸せな時間だった。最初の時は互いにアドレナリンが限界まで出ていたに違いない。だからこそあそこまでスムーズに抱き合えたのだと断言したくなるほどBJは恥ずかしがり、俺からすれば神に試されている時間なのではないかと錯覚するほど可愛かった。
 時間をかけて肌に俺の指と唇の感触を教えて行く。漏れそうになる声を堪えるBJは罪深いほど可愛い。声を出してと言っても恥ずかしがるだけだ。可愛い。
 何も強制せず、好きにさせて、柔らかい愛撫を続けた。何ひとつストレスを与えたくなかったし、怖がらせたくなかった。
 考えてみれば、BJにとって暴力を伴わないセックスをする相手は、俺の知る限り俺が初めてのはずだ。俺の感覚的には処女に等しい。気付いた途端になぜか緊張した。
 だが、これからゆっくり色々と、と考える不埒な俺がいたことも否定しない。俺も男だ、分かって欲しい。もちろん今のタイミングで本人に言えるはずがない。そこは自粛だ。
「ご、ごめ、ん」
 なぜか急にBJが謝った。目元を真っ赤に潤ませて、何を可愛く謝ると言うのか。触れる手を止めてどうしたのと訊くと、BJは本当に申し訳なさそうに言った。
「わた、わたしばっかり、してもらって。キリコに、なにもしてない」
「──神よ」
 俺は思わず呻いた。可愛すぎる。健気すぎる。だがその呻きに敏感に、しかもマイナス方向に反応したBJは泣きそうな顔になった。慌てて弁解を試みる。
「そうじゃない、おまえにしてもらうなんて考えてなかったよ。可愛すぎてびっくりしたんだ」
「でも」
 BJは言い澱んだ。こういう時は俺自身の勘の良さを恨んだ。──過去、絶対に何かを強要されている。またぞろ腹が立つ。あの男を直接殺さなかった俺自身に。
「俺がおまえにしたいんだよ。したくなったらしてくれればいいし、義務なんかじゃないんだ」
「でも、──でも」
 泣きそうな顔が戻らない。可哀想で、そして愛しくて、俺は思い切り抱きすくめてキスをした。懸命に応えるのは気にしているからだろう。何をどう言ってやればいいか分からない。俺は無能だ。実感した。
「じゃあ、俺がどうしてもして欲しくなったら言うよ。その時は考えてみて」
「それでいいの?」
「それがいいんだ」
「怒ってない?」
「怒ってないよ」
「怒らない?」
「怒るもんか」
 涙目になった女を見て、なぜか俺まで泣きそうになった。幸せな時間が吹き飛んでしまったことを知った。
 俺とBJは生まれも育ちも違う。物事への見方や感じ方、経験も違う。仕事のことも、きっと他にも、これから多くのすり合わせが必要になる。そんなことは覚悟済みだったはずだ。
 覚悟はしていた。それでも、こんな酷い話があるなんて思いもしなかった。
「ごめん」
「どうして謝るんだ」
「上手くできなくて。ごめん。怒らないで」
 何をどう言えば。心療内科的にはかけてやれる言葉などいくらでもある。診療時のパターンなどいくらでも。だが今、恋人としてかけられる言葉をどうしても見付けられない。俺は何て無能な男なんだろう。
「怒らない」
 必死だった。必死でその言葉を見付けた。少しでもいい、BJに理解して欲しかった。こんなことで誰が怒るものか。怒る男がおかしい、怒る男は異常者であると。俺はそんなことをしない。絶対にしない。
「誰が怒るもんか。──俺が怒るなら別のことだ」
「怒るの?」
「怒るね」
 ほらやっぱり、と言わんばかりにまた泣きそうに顔を歪めるBJに、俺は宣言した。
「おまえに酷いことをした男たちと同じ男じゃないって、分からせてやれない俺に怒るよ」
「──そんなの嫌だ」
 BJが泣き出した。俺は俺の失策を呪いながら抱き締めることしかできなかった。
「そんなの嫌だ。キリコがわたしのせいで怒るなんて嫌だ」
「どうして。おまえに怒るんじゃないんだよ」
「キリコが怒るのは怖い。仕事のことだって滅多に怒らないのに、ふたりになると怒るのが怖い」
 愕然とした。そうだ、確かに俺は仕事のことで──口論はすれど、争いはすれど、滅多なことで怒ったことはなかった。心底怒ったのはBJが俺の仕事道具を意図的に損壊した時だけだ。だがあの時だってBJは怖がった様子がなかった。蓮っ葉で傲慢なモグリの外科医のままだった。
 押し隠していたのか、それとも「恋人」という存在で感じ方が切り替わるのか。
 後者だ。今までの反応を考えればそう判断せざるを得なかった。俺は焦燥感にも似た感覚に苛立ちを覚えそうになった。これは根が深すぎる。
「ごめんね」
 泣きじゃくるBJに心から言った。俺は愚かだと思った。おまえに怒ったんじゃないんだ、と言っても、今のBJが理解できないことはよく分かった。
 BJが心無い差別に直面した時、いわれのない不利益を被った時、恋人としてその相手に怒った。あるいは過去、ボーダーラインの上で恋人を演じる振りをした俺は怒った。理不尽を強要する相手に怒った。
 BJはあれすらも怖かったのだ。自分のせいだと思い込み、俺を怖いと思っていたのだ。そして俺はそれに今の今まで気付いていなかった。恋人の名誉を守る男を気取っていた俺はとんだ間抜け、とんだ加害者になっていた。
 何てことだ。──何てミスだ。心療内科にも詳しいと嘯く立場でありながら、知らなかったとはいえ、俺は確実に、自分が愛した女に対して大きすぎるミスをしていたことになる。
 何てことだ。何てミスだ。──何て傷だ。
「ごめん。怖かったんだな」
「怖かった」
「ごめん」
「でも」
「うん」
「キリコがわたしのために、わたしに酷いことをした人に怒ってくれてたのは分かってる。だから本当は怖いって思っちゃいけないのも分かってるし、本当は嬉しい。それなのにごめん──ごめんなさい」
 分かってる。その言葉に傷の深さを改めて実感する。そして改めて傷を与えた犯罪者と、奴らを生かしている俺を憎む。分かっていても感情を、恐怖心をコントロールできない。それが心療内科の領域だ。
 俺だってPTSDを持っている。BJの傷もPTSDの代表格だ。発症した時には全てのコントロールが難しい。同じことだ。よく分かった。
 それを俺に言ったBJが、どれほど勇気を出したか分からないはずがなかった。俺は無能だ。ああしてやりたい、こうしてやりたいと思いながら、結局はBJの勇気に頼っている。
 少しばかり難しい恋になるかもしれない。俺が無能なばっかりに。だが幸運なことに、あるいは皮肉なことに、俺たちは医者だ。PTSDというものに理解と知識を持つ医者である事実が、俺たちの恋を愛に深める余地を産んでくれるのだと分かった。
 愛している。それだけでは乗り切れない瞬間がやがて訪れるかもしれない。それが分からないほど俺は若すぎるわけではなかったし、BJは無能じゃない。
 その瞬間が訪れた時、二人がふたりでいるために、手を離さないと決意するまでもなく手を握り合ったままでいられるほどに、俺たちは愛を深めていく必要があるのだと知った。
 精神的疲労からか、そのままBJは眠った。俺も眠ろうとした。だが自身の無能さへの失望は収束を知らず、他ならぬ俺自身を責め立て、眠ることなどできなかった。
 BJが深く眠っていることを確認してから静かにベッドを出て、今日はこんなはずじゃなかったのにと自嘲しながらリビングにある酒に助けを求める。
 白ワインを炭酸で割っただけの簡単なカクテルで自己嫌悪を誤魔化し、閉め忘れたカーテンの向こうの庭を見る。真夜中の月明かりの下、花の美しさは相変わらずで、寝室で起きていたロマンスに成り損ねたコメディなど存在を認めないと言わんばかりだった。
 グラスを置いて庭に出る。 庭師が丹精した空間は様々な香りに溢れ、普段なら患者の心を慰撫するはずが、今は俺の敗北感を慰撫しようとしてくれた。
 狭くはないが広くもない、簡単な気分転換にはちょうどいい空間をゆっくりと歩く。閑静な場所柄、夜が息を潜めるように静かだった。
 花の中で数十分、一時間ほど、あるいはそれ以上だろうか。月が傾いたことに気付き、長い時間を庭で過ごしたと知った。煙草を吸いたくなってテラス窓へ戻った時、ああ、悪いことをしたな、と思った。間接照明だけのリビングの中、待ちくたびれた猫のようにソファで身体を丸め、眠り込んだBJを眺めた。一度脱いだブラウスにボトム、ベストをまた着込んで丸まった身体はきっと窮屈だろう。眠りに適した場所でもなければ服装でもなかった。
 あまり深い眠りではなかったのか、俺が静かに閉めたはずのテラス窓が動く音で目を開けた。そして俺にふっと笑いかけた。俺も笑い返した。可愛いね、と言おうとする俺より先にBJが言った。
「かっこよかった」
「何」
「庭にいるキリコ、かっこよかった」
「──それはどうも」
 滅多に聞けないBJの言葉が純粋に嬉しかった。俺も単純な男だ。だがこの女の前ではそれでいいような気がした。
 起き上がったBJの隣に腰を下ろして指で顎を持ち上げ、キスをする。明らかに安心して身体を預けてくる女を抱き止め、好きにさせた。
 起きた時に俺がいなかった。可哀想なことをした。眠る前の話に精神を引きずられているのなら、真夜中、恋人であるはずの男の部屋、ひとりきりで目覚めた時の気持ちは考えるだけで可哀想になる。俺はどこまで無能なのか。
「眠りが浅かったみたいで、起きちゃって」
「そうか」
「いないから」
「ごめん」
「でも、かっこいいキリコが見られたから、いいかな」
 嬉しそうに言う声には普段より力がないが、思ったよりは恐怖心に引きずられていないようだった。
「その服じゃ寝苦しいのもあるだろう。気が付かなくて悪かった。ユリが泊まる時に使ってるシャツか何か──」
「ユリさんのは着られない。恐れ多くて」
「そうか?」
 BJとユリの関係は良好だ。俺には分からない女独特の危ういバランスも垣間見えるが、互いに譲れない部分以外は上手くやっている。ただ、軽い衝突はBJが譲ってしまうことが多い。ユリはそれが不満だと言う。だが仕事を離れた時のBJの性格だと理解したのか、たまに俺に零す程度で気を収めているようだった。
「キリコのがいい。キリコのシャツ」
「どうぞお好きなものを」
 寝室にある、と言おうとしたら、BJが先に口を開いた。
「さっき、キリコが言ったこと、本当かも」
「うん?」
「俺みたいな格好いい男と、って」
 一晩とは思えないほど多くを話した記憶の中から、俺はその言葉を拾い上げた。笑ってBJの頬に唇を押し当てる。くすぐったがるようにBJは笑った。
「したくなった?」
「……そういうのは、あの……」
 怒ったように、だが困ったようにも見える顔で僅かに赤くなる。可愛い。なるほど、この系統の冗談の応酬はまだ苦手だってことか。当分はからかう程度にしておこう。
「俺はしたいよ」
「本当に?」
「本当。おまえの身体の全部にキスしてあげたい。きっと気持ちよくなるよ」
 処女同然の女にわざと快楽をにおわせる。また赤くなった。そのうち──俺は思う。そのうち、笑って返してくれるようになればいい。セックスは恐怖じゃない。俺たちしか、ふたりでしか共有できない愛しい時間、あらゆる意味で楽しい時間であるはずなのだから。
「じゃあ」
 BJが小さな、小さな声で言った。
「優しくして」
 もちろん。俺がそう答える前に、BJは自分から俺にキスをした。
 ああ、頑張ったんだ。そう思った。
 今、BJはとても勇気を出して俺に要求した。自身の傷に向き合おうとした証明だった。
 女が抱える傷はおそらく他にも多くあるのだろう。生い立ちや生き方、選んだ道、その中で受けた傷は他人には想像しきれないのかもしれない。
 この傷はその中のひとつにすぎない。そのただひとつでも、今向き合うために俺の手を必要とするのなら、それは恋人として差し伸べるべきものだと俺は思う。
 自分でも驚くほどに大切に抱いた。愛が馴染むまで、この先に愛が馴染んでも、抱くたびに愛しいと思い、愛しいと思うたびに抱きたくなるのだろう。
 俺の恋人は強く美しい。そして弱くて脆い。
 なぜ愛したのかと問われれば、その相反する全てを、と、俺はきっと答えるのだろう。


 翌朝、BJの方が早く起きたようだった。俺の腕の中で、俺が起きるまでじっと待っていたらしい。健気で可愛くてたまらずにキスをし、このままもう一度抱いてしまおうかと思った時、動物なら逃れることのできない本能が女の胃袋を派手に鳴らした。
 いくら恋愛ごとに真っ当な経験がなかったとはいえ、現代を生きる女性としての知識はあるBJはこの状況に顔を真っ赤にし、恥ずかしい、死にたい、どうせわたしなんか、と己への呪詛を呻いて毛布の中へ潜り込む。健康だ、いいことだ、と俺は敢えて日常の顔に戻り、ふと気付いた。
「もしかして、俺が起きるまで我慢しようと思ってたのか。何か食えば良かったじゃないか」
「人様の家の冷蔵庫を漁る趣味はないよ」
「他人ならね」
 俺の短い答えにBJは毛布から顔を出し、「そっか」と呟いてから勢いよく起き上がり、俺に不意打ちでキスをした。
 昨夜までの従順な女の子の顔ではなく、恋を楽しむ、楽しんでも良いのだと知る女の顔をしていた。俺はそれが嬉しくてキスを返した。
「でもわたし、料理ができない」
「だから?」
「怒らない?」
「もちろん」
 昨夜と同じ言葉のはずなのに、昨夜の不安げな女の子はどこにもいない。半ば俺をからかうような表情さえ浮かべ、女は言った。
「キリコが作ってよ」
「いいよ」
 ひとつ言えた。恋人に要求ができた。二人で笑ってまたキスをした。はっきり言って、俺たちのような年齢の恋人同士が直面するようなハードルじゃない。だが俺たちにとっては確かにハードルのひとつだった。ふたりで飛び越えた。それが何より重要だった。
 朝食を作る間、クロゼットから勝手に引っ張り出した俺のシャツを着たBJが待ち飽きてテラス窓から庭に出た。下着はつけていたが上はシャツ一枚で出たと知った俺は急いで家の中に引っ張り戻し、誰も見てないんだからいいじゃないかと膨れるBJに、いくら外から見えない家の造りでもそれは駄目だと言い聞かせ、今日の買い物で何が何でもホットパンツくらいは買わせなければならないと決めた。俺のためでもある。俺の息子のためと言うべきか。
 肝心の朝食は不出来な結果に終わりそうだった。BJをリビングに戻している間に鍋の中のポーチドエッグが殻なしの固ゆで卵に転職していたのだ。
 仕方なく卵を潰してフィリングにしたサンドウィッチ、冷凍野菜とショートパスタのスープに、ベーコンと一緒にグリルしたトマトを少し。そんな朝食になった。不本意だ。
 ポーチドエッグをトーストに載せて潰しながら食べたかったんだと俺がぼやくと、すごく美味しそう、じゃあ次はそれにして、と言われた。断る理由はなかった。次っていつ、と問うほど野暮でもなかった。
 料理は壊滅的に下手な女でも皿洗いは得意らしい。わたしがやるとBJが言い張ったので、じゃあこれからおまえの担当だと言っておいた。異論は生まれなかった。かっこいい食器ばっかりだけど男の独り暮らしの食器棚って感じ、とBJの悪気ない呟きに、この女が好きそうなカトラリーやマグカップを買っておくことにした。
 あれこれと買うものが増えて行く。家に出入りする女のためのあれこれ。俺が好きじゃなくても女が好きそうなものもきっと買うことになる。恋愛の始まりに浮かれているそこいらの男と何ら変わりない自分に気付く。
 俺は社会的立場や仕事はどうあれ、一般的な恋愛観の持ち主なのだと久し振りに思い出した。まだ一般的な人間の側でいられることが特に嬉しいわけでもないが、さりとて何もかも、社会に背を向けているわけではないのだと思えるのは悪くなかった。
 この女とこんな関係にならなければ、きっと気付かないまま時間が過ぎていたのだろう。いつか一般的な社会で生きる患者の心に添えない瞬間が生まれていたかもしれない。俺が医療従事者として目指すべき道を、皮肉にも俺の道を歩めないBJのお陰で歩めることは不思議だった。
 BJを恋敵に一晩譲り渡したお嬢ちゃんへの土産も必要だ。BJは少しあの子に甘え過ぎているかもしれない。二人のことは二人にしか分からないが、それでもこれからBJが俺の家に来るたびに、寂しい思いをすることは確かだろう。
 買い物へ出てあれもこれもと買い込んで行く。自分のものを選ぶ時にはまだ少し遠慮があったが、俺が買いたいんだよと言えば話は終わる。ホットパンツのような肌着に近い衣類は流石に俺が売り場に入るわけにもいかず、しかしBJも苦手だと言うことで、俺が恥を忍んで改めてユリに頼むことにした。お嬢ちゃんの土産だけは熱心に選ぶBJの横顔に、確かにあの子は最大の恋敵だと思わざるを得なかった。
 車で崖の上の家に向かう途中、少し喧嘩をした。原因は忘れた。恋人同士ならよくあるようなものだった。
 BJが女の子の顔に一瞬戻りかけた。怒ってねえよ、と言うと、BJは唇を噛んでから肩で息をし、数秒考えた後、言葉を待つ俺に、じゃあ、と言った。
「じゃあ、キリコが悪いんだから、謝ってよ!」
 俺は思い切り笑って、ごめん、と言った。笑われたBJはまた怒った。怒っている目尻には俺が本当に怒らなかったことに安堵する涙が浮かんでいたが、俺は気付かない振りをした。
 俺とふたりでいるために勇気を出してくれる女が、心から愛しかった。