・書き手的に読み返すのが辛い初期作品の「UNI-VERSE」のエピソードが絡んでいます
・名前だけ「色んな人が歌ってきたように」に出て来たクリードが出て来ます
・R18ですがなぜかキリコが先生を剃ってます
・そういうの苦手……という方は読まないor話がエロくなり始めたら一気に下までスクロール
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早めの休暇で10日ほど二人きりでそこに行こうと提案された時、観光客が多そう、と思ったのは確かだった。提案したキリコはすぐにその感情を見抜き、穴場があるんだよとあっさり言った。誰も来ないんだ。一帯を貸し切りでね。でも街に行きたければすぐに行ける。──そこまで聞けば充分だった。二人きり、夏のプレ休暇としてはちょうどいい。
「帰りはフランスでユリとお嬢ちゃんと合流すればいいんじゃないか」
「仕事が入らなければね」
「入らないさ。連絡を取るのも一苦労の場所だ」
それでも、と二人は図らずも思っていた。依頼者が救いの手を求めれば、自分たちは休暇を切り上げてしまうだろうということを。
だが今は少なからず休みたいのも真実だ。西ドイツでの一件を記憶の奥底に封じ込めるにはまだ時間がかかりそうだった。ことにBJは精神的に堪えることが多すぎた。
西ドイツからワシントンへ入り、これは今の自分では──キリコ自身も精神面での疲労が大きすぎた一件だった──完全なケアが無理だと判断したキリコが、手を貸して欲しいと真正面から要請して呼び寄せたピノコとユリが絶句した程度には憔悴しきっていた。
それから二週間、BJはようやく落ち着いた様子を見せ始めた。看護師としての経験をフルに活かした対応を続けたユリは一息つき、看護師としてよりは無二の存在として甘えた顔をし続けたピノコは「次はロクターの番なのよさ」と宣言したのだった。その宣言にキリコは苦笑する。──要は「あなたも少し休みなさい」と恋敵に宣言されたと分かったからだ。
「俺は平気だよ。カウンセリングチームに世話になってるからな。そのプログラムももう終わる」
その点、やはりアメリカは先進国だとしか言いようがなかった。西ドイツから到着するなり開始されたケアプログラムは基本的に自国民であるキリコが最優先とされた分、BJよりもメンタル面での回復が早かった。そもそもBJとは精神的な傷を負った箇所が違うことも回復差の大きな理由だろう。
キリコはあくまで西ドイツにおける凄惨な経験から呼び起こされそうになった、ベトナムでのPTSDが原因だ。だがBJは違った。失われる必要がなかった生命、望まれて産まれたはずの生命の無残な死。医療従事者としての葛藤と目にした凄惨な光景が傷になったことは間違いない。
それから、とキリコは思う。それから──俺が軍人であるグラディスの選択を肯定し続けたことも辛かっただろう。可哀想なことをした。
軍人としての判断は、時として味方以外の生命を見捨てることも少なくない。確かにグラディスはその決断をし続け、そしてキリコは反対しなかった。
キリコの生命を救うために選択されたウルスラの殺害は正当であったと他国の男に言い聞かされた時、納得しなければならなかった瞬間がどれほど苦しかったのか。
可哀想なことをした。結果として生きた自分でさえ、あの選択は正しかった、だがそれは軍人の選択であると思わざるを得ない。軍人という立場を実感できない、全ての生命を愚かなまでに愛するBJにはどれほどの苦痛だったのだろうか。
「夏はみんなでフランスに行くのよさ。アンティーヴってちぇんちぇいが約束してくれたのわよ」
「──ああ、そうだね」
間久部の支配下にある高級リゾートホテルで10日間、好き勝手に過ごす予定だ。だからこそBJにフランスで二人と合流すればいいと持ちかけたのだった。するとピノコが続けた。
「うちは男手が少ないんらから、ロクターには元気でいてもらわないと困るのよさ。先にちぇんちぇいと目一杯遊んで元気をちゃーじしてくるのわよ!」
それが恋敵から送られた塩だと分からないほど、キリコはこの女を理解できていないわけではなかった。本当にいい女だよと思う以外にできることは何もなかった。
「エルーセラ島!? 本当に!?」
行き先を聞いたユリは家の中の女たちの誰よりも興奮した。まるで自分が行くかのように目を輝かせ、素敵、何て素敵なの、となぜかBJの手を取って振り回しながら踊り出す。呆気にとられたBJに構わず、ピノコも笑って一緒に踊り出し、結局は三人で輪になってぐるぐると回りながら踊った。それを見たキリコは思わず笑い、遅れてようやくBJも笑い、笑ったBJを見てピノコとユリが嬉しそうに笑った。
そこからはユリの独壇場だった。無言で手を出した妹にキリコは速やかにファミリーカードを渡し、全権を委譲する。
「わたしとピノコちゃんのフランス分は?」
「含んでよし」
「話が早いわね」
BJの分だけではなく、自分とピノコのフランス旅行支度の軍資金を得たユリは、BJとピノコに「すぐに着替えて頂戴、買い物に行くわよ」と有無を言わせぬ口調で命じた。
「エルーセラ島で一週間なんて! どれだけ買わなくちゃいけないのかしら!」
「ど、どれだけって、──ユリさん、別に──」
「ちぇんちぇい、日焼け止め! もう去年のが少ないのわよ!」
「あ、そうだっけ」
「去年の日焼け止めですって? そんなの使っちゃ駄目よ! まず日焼け止めね、それから水着は絶対でしょ、それから──にいさん、向こうで先生が着る服はどうするの、にいさんが買う?」
たちまちわあわあと始まった女たちの──主に妹と恋敵の──騒ぎに「任せた」と短く言い置き、追い出すように買い物に送り出してからキリコは電話をかける。エルーセラ島の後に合流するフランスの宿泊先を手配するためだった。
『ホテルの予約のためだけに電話をかけて来るなんて、世界中を探してもドクターだけだよ。しかもあのホテルはもう埋まってる時期だ』
電話の向こうの間久部は苦笑しつつ、それでも満更ではない声を出す。彼女がどうしてもと言うからねとキリコが付け加えておけば効果覿面だ。踊らされる振りを楽しみながらその場で部下に手配を命じる声が聞こえた。
数分も必要としない短い会話で前回と同じホテルの最高グレードの部屋を無料で抑え、礼として世間話を装い、裏社会のちょっとした情報──間久部では手に入れにくい領域の情報──を教えて電話を切る。後でBJからマクベに電話くらいさせるか、と思いつつ、次の用件を片付けるために再び受話器を取った。フォート・デトリックの調整官と話をし、旅行の予定を伝える。本業以外での移動の際には必ず行う手順だった。
あとは女たちの帰宅時間まで静かに過ごすことにした。静かな時間が欲しいと思えているのなら良いことだ、と自分の精神状態を分析する。ノンアルコールカクテルを昼から作り──どうせ車で迎えに来いと妹から電話が来るはずだから──しばらく一人の時間を満喫することにした。
数時間後、案の定ユリから電話が来る。ワシントンでも屈指の高級ショッピングエリアで優雅なランチを取った後に散々買い物をし、しっかりティータイムを過ごしてこれから帰る、ついては迎えに来て欲しい──図々しいんだよと返事を返しながら、ああ、やっと日常が戻って来たのだと実感することができた。
『ところでにいさん』
「何だよ」
電話を切ろうとした時、不意にユリがやや潜めた声を出した。
『水着は全部で四着。期待してくれていいわよ』
「聡明な妹を持ったことを神に感謝するよ」
非常によろしい。キリコはしみじみと思いながら電話を切った。まさかその水着をBJが頑なに見せようとしない未来など考えもせずに。
ワシントンからエルーセラ島へ行く直行便はない。まずはエルーセラ島があるバハマの首都、ナッソーまで出る必要があった。そのナッソーまで行くにもニューヨークを経由しなければならない。他に短時間の経路はあったが、あまりにも安い経路にキリコが難色を示した。懐事情が許すなら、格安運賃での旅行は避けたい年齢である。
BJ自身は格安の最低サービスでも全く問題ないと思ったが、キリコがそう言うのならと全てを譲った。そもそもキリコの金だ。自分に決定権はないと決めていたし、何だかんだで金の使い方を知っているキリコに任せれば快適な旅行ができると知っていた。
ピノコとユリに一週間後の再会とエルーセラ土産を約束し、二人はキリコのアパートメントを出る。黒いコートは相変わらずだがその下は機内で楽に過ごせる、だがキリコが好きそうな服を着たBJの後ろ姿を見送り、変われば変わるものよね、とピノコとユリは笑い合った。
乗り継ぎのためにニューヨークで一泊しなくてはならない。ナッソーまでの便は一日に一本、ワシントンからの飛行機とのタイミングがどうしても合わなかった。。
「半端に時間が空いてラウンジで待つよりいいよ。また走り回ってもいいし?」
笑いながら言うBJにキリコは頷き、過去に無免許医とニューヨークを走り回ったことを思い出した。何とはなしに悔しくなり、そうだな、ニューヨークは、と言った。
「おまえと初めてキスをした場所だからな」
「……っ」
一瞬遅れて思い出したのか、顔を赤らめた後に俯き、そっか、そうだっけ、うん、と口の中でもごもごと呟くBJの姿を見て、可愛いなとキリコは満足した。
「今日はどこに泊まるの? 空港のホテル?」
旅行の手配を全てキリコに任せているBJは、ニューヨークに着いてからようやく思い出し、ホテルに向かうタクシーに乗る直前に訊いた。
「フォーシーズンズ」
「え、ニューヨークにもあったっけ」
「ある。明日使う空港にも近いしちょうどいい」
ロンドンに行くたびに使うホテルの系列だと知り、BJはやや気楽さを覚えた。キリコと泊まる宿はキリコの意向で高級ホテルが多く、それは無論嬉しいことではあるのだが、育ちの差から来る感覚かやや気が引けることも少なくない。それでも知っているホテルの系列なら気が楽かも、と思ったのも確かだった。
「ロンドンのバトラー、元気かな」
「元気だと思うよ。殺しても死なないだろう」
「殺そうとしたら殺される気がする。笑顔で」
「間違いないな」
二人で笑いながらタクシーに乗り込む。観光客に慣れたドライバーは名物の高層ビル街の合間を丁寧に、だが観光客が喜びそうなニューヨークらしい運転を披露した。観光名所はもちろん、地元の人間しか知らないような穴場をまるでラジオDJのように軽快に紹介してくれる。
ニューヨークに観光に来たわけではない二人でもそれなりに楽しめたのは事実で、キリコは少しばかりチップを弾み、名刺をくれないかと言ってドライバーを喜ばせた。こういうところで小さい縁を作っていく男なんだよなあ、とBJは見るたびに感心する。ただしサービスの質が悪ければあっさり切り捨てる姿も何度か目にしているため、無駄に金をばらまく男ではないということもよく知っていた。
「ロンドンと全然違う。高層ビルみたい」
「あっちは10階建、ここは52階建だ。みたい、じゃなくて立派な高層ビルだな」
歴史を感じさせる重厚なロンドンのフォーシーズンズとは異なり、近代的でモダン、機能的な建物が宿泊客を迎える。スーツケースがエントランスの段差に引っかかり、ロンドン一勝、とBJは小さく笑った。意味が分かったキリコは苦笑するが、BJが言いたいことは理解できた。ロンドンのフォーシーズンズなら正面玄関前でタクシーから降りた客にスーツケースを引かせはしない。良くも悪くも近代的なのだろうとキリコは思った。BJも特に気分を害したわけではなく、単純に遊び心を出しただけだった。
ホテルのチェックインは少しばかり手間取った。団体の観光客のチェックインとちょうどかち合い、ハイクラスのホテルとは思えない順番待ちが出来ていたのだ。あのバトラーが見たら笑顔でフロントマンを叱りそう、とBJは呟き、想像したキリコは頷くしかなかった。ロンドン二勝、と同時に思った。
やがて団体客がチェックインを滞らせていると気付いたスタッフが個人予約のチェックイン待ちの客に声をかけ始める。キリコとBJがハイクラスの部屋の予約客だと分かるとすぐに優先チェックインに回された。
BJは団体客の不満の声を無視して手続きをすることが少し気になったが、その表情に気付いたキリコに「そもそもこのクラスのホテルに団体で来るべきじゃないんだ、気にしてはいけない」と言われ、これは階級差だなと納得せざるを得なかった。案内のために付いたホテルマンは何も言わなかったものの、営業用の笑顔をやや深めたことによってキリコの言を肯定した。
通された部屋は高層階で、世界でも類を見ない大都市を一望することができた。リゾート地とは違う趣にBJは喜び、手配したキリコに嬉しそうに礼を言う。満足したキリコはキスをした。案内したホテルマンはよく見る光景ながら、やはり恋人同士や夫婦が自分の職場で喜ぶ姿とハイクラスの部屋に泊まる客から受け取る相応のチップ──自分の仕事への評価の表れだ──が嬉しく、どうぞごゆっくりと言い置いて部屋を出た。
「何回もニューヨークに来てるのに、こんなに上から見るのって滅多にないよね」
超高層ビルが建ち並ぶ光景は有名だが、上層階から見ればまた圧巻だ。あれがクライスラービル、あっちがエンパイアステートビル、といちいち口にしながら指を差すBJが可愛くてキリコは笑った。
「景色はニューヨーク一勝」
「高層階の景色にはさしものロンドンもかなわないな。夜景も凄そうだ。──流石に最上階は無理だった。このホテルの上層階は年間契約している客が多いらしい」
「どんな億万長者が占拠してるんだか」
「ロンの部屋もある。非公式だけどね」
「そうなの? じゃあ本物の億万長者しか泊まれないとこだ!」
クリードの名義もあったはずだな、と闇からの情報で知っていたキリコは心の中で呟き、それを教えずに微笑んでおいた。未だに日本の崖の上の家に手紙を送る未練がましい男の存在なぞ思い出させなくていいのだ。
ロンドンのフォーシーズンズとは違い、バトラーを置かないホテルだった。それはそれで気楽でいい。もっとも二人とも、あのバトラー以外に身の回りのことを任せようと思えないのも事実だった。
「あ」
不意にBJが何かを思い出したように小さく呟く。どうした、とキリコが問うと、少し言葉を選ぶような様子を見せた後、短く言った。
「NPOの。寄付金の小切手、持ってくればよかったと思って。ここから送れるし」
「ああ、ベトナムの?」
「……うん」
BJがタイムズスクエアのアパートの一室を買い上げ、ベトナム帰還兵のために立ち上げたNPOがある。BJの名を連ねているわけではないが、運営スタッフは真の代表がBJだと知っている。更に保証人がロン──現役大統領──ということでかなり有名な団体になっていた。
「直接行ってもいいんじゃないか。明日の朝に銀行に行って──」
「──ううん、いい。また今度で」
「そうか」
「うん」
ごめんね、とBJは小さく言った。キリコはやや言葉を探したが、珍しく気の利いた言葉を見つけられず、黙ってキスをしておくにとどめた。
明日のナッソー行きのフライトは正午前、それなりにゆっくりと時間を過ごせる。夕飯はどうしようかとキリコが問うと、BJは何かを思い出したように含み笑いをした。
「あの店」
「うん?」
「初めて二人で食事した店、行きたいな」
「──丸腰で?」
「馬鹿」
二人で同時に笑い、同時に思い出す。BJが現大統領を生涯のスポンサーに任命した日の夜、初めてキリコがBJにキスをし──当時のBJからすればセクハラだが──キリコから誘って食事をした。マフィアの抗争に巻き込まれて散々な目に遭ったものだ。
「まだ日が高いし、飯の前に少し散歩もするか。着替えろよ」
「これじゃ駄目?」
「充分可愛い。でも着替えればもっと楽しめる」
機内で楽な服装は確かに可愛いが、マンハッタンでの夕食時には似合わない。言外にそれを告げるとBJも納得し、ピノコとユリが熱心に詰めてくれたスーツケースを寝室で開くことにした。だがすぐに自分では選び切れないという結論に達し、分かんない、選んで、と潔くキリコを呼ぶ。
「随分詰め込んだな」
「ピノコとユリさんが全部やってくれたから分かんなくて」
「なるほどね」
フランスに行く分も詰め込んであるのだから相当な量だ。むしろスーツケースひとつにここまで詰め込んだ技術が神業だと賞賛しつつ、キリコはBJの服を選んだ。見たことのない服はユリとピノコが先日の買い物で選んだものだろう。
「あ、それはいいから」
「何」
「いいから!」
不意にBJがキリコが手をかけたひとつの衣類袋を慌てて奪い返そうとした。察したキリコは素早く奪って立ち上がり、BJが届かない位置まで手を上げる。やだ、返せ、と顔を真っ赤にして飛び上がるBJの様子が可愛いながらも考える。下着類ではない。そもそも下着を見られて恥ずかしがる女ではない。ということは──
「水着だな」
「エルーセラに行けば飽きるくらい見るじゃない、やめて、返せ!」
「そういえばまだどんな水着か知らない」
「後で分かるってば!」
「ユリがな」
「何」
「期待していいって言ってたんだ」
「だったら期待しててよ! 明日の夜には着くんだから!」
「何着だ?」
「三着! もう、返して!」
「嘘だ。ユリは四着って言ってた」
「──もう! もう、馬鹿、ひどい、馬鹿、セクハラ、変態、早漏!」
「全部聞き飽きたし、どれも言い掛かりだな」
喚く女がうるさい。おとなしくしろ、と片手でベッドに押し倒し、その上に体重をある程度──BJが動けなくなる程度──かけて乗り上げ、やだやだ、やめて、見るな、とうるさい声を聞き流しながら衣類袋を器用に開ける。数秒後、キリコは本気で首を傾げた。
「何が問題なんだ。どれも可愛い」
「ああそう、じゃあそれでいいじゃない、どいて、もうしまえってば!」
身体の下で暴れるBJは顔が真っ赤だ。これはおかしい。はっきり言えばキリコの好みで満たされた四着の水着を眺め、妹に好みを把握されていることに戦慄しつつ、かつ感動しつつ、可愛いじゃないかとまた繰り返す。
「これはビーチで着るといい。こっちは部屋のラグジュアリープールで──」
「もう、いいから、そういうのいいから!」
「こういうのを一緒に選ぶのも好きなんだよ、俺は」
組み敷いた女にキスをし、手の中の水着を検分する。そしてふと手を止めた。
「……ああ、うん」
「納得するな!」
「いや、うん、なるほど。なるほどね」
最後の一着を手にし、BJが水着を見られることを嫌がった理由を知る。そして「言うなら今かな」と思った。国民性の違いだと理解していたからこそ言わなかった。だが言えるものなら言いたかった。
「マフィン」
「何、もう、降りろ、馬鹿キリコ!」
「手入れしようか」
「──絶対言うと思ったから! 嫌だったんだ! 馬鹿!」
顔を真っ赤にし、涙目にさえなっている女に笑いながらキスをする。普段のBJではとてもではないが着られない、身体の手入れが必要な水着をユリが購入したことは意外でも何でもなかった。ユリをはじめ欧米人は当然のように手入れをする部分だが、日本には表向きその風習がない。
「してあげるから」
「もっと嫌!」
「どうして?」
「言わなきゃ分からない!? 早漏なだけじゃなくて馬鹿なわけ!?」
「早漏じゃねえのは知ってるだろう。──した方がいい、着られる水着の種類が増える」
「それは着ない!」
「可愛いのに」
水着から手を離し、今度は組み敷いた女に少し熱を込めてキスをする。深いキスで蕩けさせてしまえば、と思ったのは確かだった。そしてBJはそれを見抜き──過去何度これで誤魔化されたことか! ──嫌だ嫌だと本気で抵抗する。キリコは辛抱強くその手入れがいかに必要か、いかに衛生上大切であるかを説明したが、そんなのは分かってるし文化の違いだと遂に暴れ出したBJに閉口し、取り敢えず引くことにした。ここで機嫌を損ねられては明日からの旅程が思いやられるからだ。
「そんなに嫌か。しつこくしてごめん」
「そういうの、日本じゃあんまりないから」
やってる人はやってるんだろうけど、まだ今の時代じゃね、とBJは呟く。そうか、ごめんね、と言いながら抱き込み、キリコは少し深いキスをした。ベッドの上で仲良くしての仲直り、手早く効果的。ただし効果的だからと選択したことが知れれば逆効果でもある。
「……ぁ」
少し触れるだけでとろける声と体温は恋人の指を待っていた証拠だ。分かっているキリコは肌理細かさを唇で楽しみ、芸術の縫い跡に指で触れ、うぅん、と漏れる子猫のような声にいとも簡単に煽られる。トップスを脱がせて下着の下から手を差し込むと、柔らかくも弾力のあるふくらみがてのひらの中で緩く震えた。
「……するの?」
すっかりその気であることは間違いない、隠すつもりもないくせに、わざとらしいほどに可愛く訊くのもキリコにとってはたまらない。
「したい。駄目?」
問いながら下着をずらしただけの胸のふくらみにキスをし、答えを聞く前にもう尖っていた乳首を唇に含んだ。舌で軽く転がしただけで高い声が上がり、男に組み敷かれた身体を捩らせる。
正直言えば久し振りだ。西ドイツから帰った直後は互いにとてもそんな気になれなかったし、間を置かずにピノコとユリが日本から来てくれた上にBJに付きっきりだった。カウンセリングが功を奏してメンタルが回復してからは旅行の話と支度で主に女たちが忙しく、更にキリコは長い休暇前にフォート・デトリックで片付けておかなければいけない仕事に追われた。
その分、互いに熱くなる──要は濃厚なセックスになるのも仕方がない。むしろ当然だ。おまけにBJは陽が高い時間のセックスに弱い。キリコがつい普段よりも熱を込めた愛撫を与え、BJは普段よりも感じ入り、きもちいい、これすき、いっぱいして、と男にとっては名誉の喘ぎ声を上げてはねだり、早々に何度も小さく達することになる。びくびくと身体を震わせながら軽い絶頂を繰り返すうち、声も目元も口元もすっかりとろける姿がいつも通りキリコを満足させた。
熱く潤い、待ちかねていつもより滴るそこに指を潜らせる。何度も小さく達した身体は敏感になっていて、軽く動かせば腰が跳ね、早く、早くと言うように締め付ける。空いた手で腹をくっと押すとそれだけで悲鳴が上がり、同時にぷしゅりと僅かばかりの潮を吹いた。
キリコは笑い、ここじゃ駄目だ、ベッドが汚れる、と言った。荒い息を吐いて目元を紅くし、逃し切れない性感に身を震わせながら、だって、だってキリコが、とBJが泣きそうな声で言った。
「キリコが」
「うん?」
「キリコが、きもちよくするから」
「気持ちいいの?」
「うん、──ねえ、意地悪しないで」
「しないよ。可愛い。俺の」
言われて喜び、しがみついてキスを求める姿も可愛くてたまらない。そろそろ中に入って深い場所から繋がりたい。ひどく感じる場所への愛撫を避ければベッドを必要以上に汚すこともないだろう。
だがやはり、と思う。やはり今しかない。性的な厭らしさを伴う感情で言っているわけではなく、むしろキリコの感覚からすればなぜ手入れをしないのかが理解できないのだ。
文化の違い、大いに結構。互いに受け入れられないものは受け入れない。だが譲歩するべき部分は譲歩し、二人の関係を深めて来た自負はある。そしてこれはBJが譲歩するべき部分だと信じて疑わない。
だが説得が難しい。それでも譲歩はして欲しい。かと言ってこの女の強情さは世界でもトップクラス。
「マフィン」
「……ん」
ならば譲歩することすら考えさせず、結果を出せばいいのだ。
誰かが聞けば卑怯だと言うだろう。だがここには二人しかいない、誰もキリコの決定を非難する者はない。唯一非難する権利があるBJに心の声は聞こえない。
「バスルームでしよう」
「どうして? ──ぁっ」
ベッドじゃないの、と意味のある言葉を──理性を取り戻す言葉を口にさせる前に乳首をきゅうと摘まみ上げ、ついでにぽってりとした可愛い唇をべろりと獣じみた風情で舐め上げる。女はたまらず身を震わせ、腹の底の疼きを持て余したように両脚をすり合わせた。とどめとばかりに甘くて低い声でキリコは囁く。
「たくさんしてあげたい」
「……たくさん?」
「そう。バスルームの方がいい」
バスルームならおまえがどれだけ漏らしちゃっても大丈夫だろう? ──わざとそんな言い方をして甘い疼きを伴う羞恥心を誘い、BJがそれだけで熱い息を吐いたことを確認すると、ああ、何て可愛いんだろう、と思いながら優しく、だが素早く抱き上げた。
バスタブとシャワーブースは離れている。ホテル自慢の大理石造りのバスルームの中、バスタブに湯を張る間、僅かな瞬間でも理性を取り戻させるものかとキリコはBJをシャワーブースへ引っ張り込む。
「あ、──ぁ、だめ、だめ……っ!」
「何が駄目? ここ?」
「ぁ──!」
湯気で湿った壁に押しつけられて片脚を高く持ち上げられ、知り尽くされた秘所を指で少し強く掻き回されただけでぐじゅぐじゅと音を立て、もうだめ、と言い終えないうちに派手に潮を吹く。耳元にキスをされ、耳朶を食まれ、ああ、漏らしちゃった、と囁かれ、それだけでまた震えた。
腹の奥がまだかまだかとひどく疼き、目の前の男の硬くてあつい熱が欲しくてたまらない。手を伸ばして触れると、まだ駄目、とそっと外された。嫌がってしがみついてねだってもキスで誤魔化されて、そしてまた指が肌を這い回る。ソープをつけた指とてのひらで弱い場所を探られ、達したばかりで全身が性感帯になり果てたかのように敏感になっているBJは、自分でも訳が分からないほどに感じ、キリコにしがみついて何度も達した。
「もぉ、も、う、らめぇ……」
「ここも駄目?」
「らめぇぇっ」
泡立てたソープでぬるついたてのひらで秘所をずるりとなぞられ、ついでとばかりに秘芯を摘まみ上げられて、背をのけぞらせて喘ぐ。強すぎる快感が苦痛になる一歩手前、それでもまだ快感が全身を駆け巡る。可愛いね、綺麗だ、最高だよ、と他の男が言えば鼻で笑い飛ばしたくなるような睦言が熱い息と共に湿った空気の中から鼓膜に入り込み、意識までもぼんやりと快楽に包まれてしまう。
きもちいい、きもちいい、すき、きりこ、あいしてる、だいすき──喘ぎながらそんな言葉を零しているうち、何度達したかも分からず、何度愛しているよと言われたかも分からない。いつの間にか泡のバスボムが投げ入れられたバスタブに導かれていたかも分からない。ただ腹の奥が疼いて疼いてたまらない。
「ねえ」
キリコが優しく囁いた。
「俺を中に入れて」
そんな許可なんて求めなくていい、今すぐにでも来て欲しい、腹の奥底まで入り込んで繋がって欲しい。うん、うん、と鳴き声のようにか細い、だが欲にまみれた返事をしながら自分からキスをして、BJは男の熱をねだる。すると男は相変わらず優しく言った。ねえ、もっと気持ちよくなれるよ。
後ろから抱き込まれながらバスタブに入り、ねえ、とキリコは囁く。その間も指は止まらない。乳首を捏ねては捻り上げ、秘芯の薄皮を向いて指の腹でなぞる。そのたびに抑える気もない声を上げては身体を震わせる女の耳朶を甘く噛み、浮き上がる腰を逃がさないまま秘所をなぞった。のけぞって肩に押しつけられた髪に唇を落としては、ねえ、と何度も呼ぶ。ねえ、可愛いね、最高だよ。綺麗にしよう。今も綺麗だ、でももっと綺麗にしてあげるから。
分かんない、分かんない──泣き声で何度も言いながら、ああ、とBJは身を震わせる。バスタブの縁に腰を下ろすように言われ、逆らうこともできず、はしたなく足を開き、ああ、どういうこと──どうして──嫌だって何度も言ったのに──もう頭がぼうっとして──
いつの間にか備え付けのアメニティから取り出していたシェーバーがボディソープを塗り込んだ秘所を丁寧になぞる。鋭い切っ先が当たる感覚が怖いのに、それなのに男の指がそこをなぞるたびにじゅんと溢れ出る愛液を止められない。可愛いね、綺麗だよ、と何度も男は歌うように言う。
男が望む姿になった時には嬉しそうに抱き締めてキスをして、それから中に入って来てくれた。それだけで達したBJは嬌声を上げ、男に縋り付き、すき、きもちいい、きりこ、だいすき、と何度も言う。そして微笑んだキリコが動いた時、突然襲い掛かった痺れるほどの過ぎた快楽に息を詰めて硬直した。察したキリコが宥めるように唇を舐めて、どうしたの、と笑う。
「あ、──あ、ぁっ、なに……っ!」
「邪魔するものがなくなったから、気持ちいい感覚が全部分かるのかもしれないね」
「ん──っ!」
バスタブの中でキリコに跨がるように受け入れていた腰をぐっと抑え付けられ、そしてぐるりと回すように動かされた瞬間、今まで感じたことがないほど剥き出しの快感が襲いかかった。まるで内臓を直接愛撫されるような鋭敏すぎるそれは、薄皮を剥いた秘芯を容赦なく愛される時の、あの苦痛と紙一重の耐えがたい、だがはしたなく貪欲に求める快楽だ。
「すごいね」
バスボムの泡にまみれて悶える女を見てキリコが熱を込めた視線と声で笑う。途端に腹の中の男が力を増したと感じ、あぁ、とBJはまた啼き、降りてきている奥で男を締め付けていた。男が僅かに眉をひそめて耐える顔がたまらない。見ているだけでまた腹の奥に欲が孕む。こんなすてきな顔、こんなにいやらしい顔、わたし以外が見ちゃだめ、絶対に見せてなんかやらない──自分から唇を深く重ねながら強く思う。このおとこはわたしのもの。強く強くそう思った。
熱に任せて腰を揺らめかせる。揺れた湯が鳴らす水音にも隠し切れない湿った息をキリコが漏らし、堪えきれずにBJはその唇に噛み付いた。返すようにキリコも深く唇を合わせる。湯の中で深く繋がった場所から信じられないほどの快感が湧き上がり、きもちいい、わかんない、と何度啼いたか知れない。
気持ちいいよ、上手だ、可愛い、俺の──熱すぎる男の声が聴覚から肌を、性感をなぞり、BJは夢中で腰を振る。やがて互いに求める熱の頂点が急激に近付き、あぁ、もうだめ、と感極まったBJの声がひときわ大きくバスルームに響いた後、その熱は弾け飛んでいた。
「まだ飲むのかよ」
「あれだけ潮吹かされりゃ飲むよ」
「おまえに恥じらいというものは?」
「キリコに見せてやる恥じらいなんてとっくに品切れ」
不機嫌極まりない顔でベッドにあぐらをかき、ミネラルウォーターをボトルごとがぶ飲みするBJを見てキリコは肩を竦める。バスローブの裾から下着がはしたないが、これはこれで良い光景だと結論付けて何も言わないことにした。
「エロ死神」
「自覚はある。おまえが可愛いのが悪い」
「犯罪臭がする」
「何が」
「勝手に」
そこで言葉を切り、BJは顔を赤くして足を閉じる。キリコは涼しい顔だ。
「あの水着を心配なく着られる。いいことだ」
「変態」
「ところが俺の育った環境では当たり前の手入れでね。文化の違いだ、譲れる部分は譲る約束だろう」
「それはそうだけど」
でも納得いかない、そんな顔でまたボトルを口にするBJの髪に唇を落とし、舐めたら今までの何倍も気持ちいいよ、と囁く。
「……ぶっ!」
「っと、ごめん、悪かった!」
途端に水を噴き出して咳き込むBJに謝りながらタオルを取りにバスルームへ向かい、する時はあれだけエロいくせになあ、プレイ・イノセント(かまととぶる)、ほんっとたまんねえよなあ、とキリコは呟いたのだった。
その後はそれなりにBJの機嫌も良くなり──キリコの趣味とも言える「機嫌の悪い女の機嫌を徹底的に取る」が功を奏した──予定通りに散策と食事に出る。
ホテルから近いセントラルパークを歩き、ここでロンと会ったんだよ、とBJが言った。そういやそうだった、こんな場所で世界最強のパトロンを見つけたおまえは悪運に愛されているよとキリコは笑う。
大都市の中央部とは思えないほど豊かな自然の中を散策するうち、やがて夕暮れ時になり、ビル街のオフィスから脱出したスーツ姿のビジネスマンたちが帰宅前の憩いを求めてそこかしこに溢れ始めた。彼らに大道芸を見せるパフォーマーや軽食を売るベンダーも活気づく。
何かを思い出したのか、ふとBJが言った。
「何だかね」
「うん?」
「あの時はキリコとこんなふうになるなんて思ってなかった」
「ふうん?」
「キリコは?」
俺もだよ、と言えばいいのかもしれない。だが考える。もしかするとそれは嘘かもしれないと。
「もしかすると」
「うん」
「どこかで思っていたかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「何それ」
キリコにしては曖昧な物言いにBJは笑う。睦言を軽く流されたと思った笑い方だった。キリコは僅かに笑い、それでいい、と思った。
あの密林の中で出会ってからひとときも忘れたことがない──それは流石に言い過ぎだ。キリコは思う。だが存在そのものを感じなかったことはひとときもなかったのだということも分かっていた。青い光の絶望のさなかも、打ちのめされて帰国したあの日々も、生きるべき道を選んだ時も、やがて聞こえた黒いコートの天才外科医の名を耳にした時も、ああ、と思ったのだ。ああ、俺とおまえは背中合わせに立っている。
たとえそれが自分だけの思い込みだとしても、あの密林の中、あの瞬間からそうだったのだとしたら──間違いなくそうなのだろうと今になれば認めざるを得ない──俺はどれほどおまえと長い時間を過ごしていたのだろう。
「あのね」
「──うん?」
不意にBJが足を止め、自分よりも背の高い男を見上げる。キリコも足を止め、夕暮れの橙色の光の中に立つ傷だらけの女が綺麗だと思った。
「いろんなことがあったけど、あのね」
「うん」
「ベトナムに行かなかったらキリコに会えなかった」
「そうだね」
「それでね」
「うん」
「ロンと初めて会った次の日の朝、タクシーの中でキリコはわたしに何て言ったか覚えてる?」
「……何だったかな」
覚えていない振りをしようとした。だがそれは自分の記憶が拒否をした。覚えている。渋滞に巻き込まれたタクシーの中、自分は確かにBJに言った。
「わたしは覚えてる。キリコはこう言った。──『先生は』」
先生はベトナムを悪役にしておしまいにしちまったじゃあないか。
そう呟いたBJに、そうだね、キリコは小さく返事をした。BJが覚えているとは思ってもみなかった。だが彼女の記憶力なら当然なのかもしれない。BJは続けた。
「あの時は意味が分からなかった。でも今なら、──キリコとふたりになったから分かったかもしれない」
キリコは何も言わず、BJの言葉の続きを待った。正面から自分を見据え、真摯に言葉を紡ごうとする女がひどく美しい。
「わたしはベトナムを否定しようとしているって思われるようなことを言った。だからキリコはあんなことを言った。──傷付いたよね?」
キリコは答えなかった。それが何よりも雄弁に答えを教えた。BJは続ける。どうしてこんな話を突然しているのだろう、とキリコはぼんやりと思った。ほんの少し前、二人でいやらしい時間を楽しんでいたのに、どうして突然。
だが本当は分かっていた。タイムズスクエアのNPOへ、二人で初めて食事をしたあの店へ。BJが二人の過去の時間をなぞり始めた時に気付くべきだったのかもしれない。
「ベトナムは哀しいことがあったし、きっとわたしが知らないキリコの哀しいこともあったよね」
「──そうかもしれないね」
「それを悪いことだって、あの時、わたしはキリコに思わせてしまったんだと思う。そんなことないのに。──悪いのは、悪役は戦争だけだった」
キリコの記憶が悪いんじゃない。BJは繰り返した。
「わたしがロンに保証人になってもらって作ったNPOは、その悪役から記憶を──キリコみたいに哀しい記憶を持っている人を、その悪役から解放するためなんだって、もっとしっかり説明すればよかった」
必死とも言える顔でBJは話し続ける。キリコは黙って聞いていた。何か言葉を発すればBJの声が──信じられないほど美しいと思える声が聞こえなくなってしまうような気がした。
「ベトナムに行った人が悪いなんて、ベトナムで哀しい思いをした記憶が悪いなんて、悪役だなんて、そんなことは絶対にないって、あの時に言えばよかった」
ごめんなさい。BJは言った。それから唇を噛み、顔をしかめる。
明らかに涙を堪える顔を見てキリコは僅かに眉をひそめ、そして微笑んだ。
「謝らないで」
言えた瞬間、胸の中央、心臓の奥の奥から、柔らかくあたたかい何かが全身に広がった。細胞の隅々までに潜り込んでいた哀しい記憶を丁寧に包み込んでいくような錯覚にさえ襲われる。
そんなことは分かっていたのだと思う。あの時の自分は少しばかり捻くれた気分になっていた。だからあんなことを言った。だがあれが本音だったことも否定しない。まるでベトナムに行った自分が、自分たちが悪役なのだと言われたような気がしてしまった。
それは社会情勢も影響していただろう。国民にとって国家史上初の敗戦の事実は受け入れ難いものだった。憂さ晴らしのようにあの戦争を失敗だと声高に叫び、否定し、戦場から帰還した兵士たちでさえも非難の槍玉に挙げられた。ロンと言う愛称を持つ政治家が大統領となり、彼らの名誉は汚されていない、敬すべき存在であると宣言するまでそれは続いた。
「俺はたった今、救われた」
今までも救われ続けて来た。それでも、今ほど真の意味で救われたと実感したことはない。あの密林の中で出会った、医学以外では可愛らしいとしか言いようのなかった女学生が、今ここで、自分の悪夢を──記憶を全て肯定すると言ってくれる、愛する無二の女になっていた。
「ありがとう」
てのひらで愛する女の頬を包む。BJはその手に自分の手を重ね、指を絡めるように力を入れた。それからふっと笑った。
「変わってない」
「うん?」
「少し指が荒れてる。消毒で」
「──ハンドクリームを塗らないと?」
「そう!」
密林の中で軍医と女学生が交わした言葉を思い出し、二人は同時に笑い、そして同時に唇を重ねていた。少し長いキスの後、額を合わせ、どちらからともなく呟いた。
愛してる。
「明日、銀行に行こう。タイムズスクエアに寄ってもフライトには間に合う」
「いいの?」
「駄目な理由がある?」
BJは笑い、ない、と言って背伸びをし、好きな男の頬にキスをした。
それからタクシーを拾い、キリコが初めて食事に誘った店へ行く。相変わらず適度に賑やかで楽しい。だがふたりになってからキリコが選ぶ店よりもグレードが落ちることを知ったBJは、あの頃の二人の関係を思い出してまた笑った。
「ねえ」
だからまた甘えて言った。キリコも自分もあの日と同じ酒を飲んでいることに気付いた。
「あの日、こんなことになるなんて思わなかった?」
キリコは笑った。それから優しく──あの日、まさかこの女にこんな声を聞かせることになるとは考えもしなかったほど──我ながら甘い声で言った。
「おまえが可愛くてそれどころじゃなかった」
その答えに満足した女は可愛く笑い、キリコを満足させた。