軽いオカルト要素があります。苦手な方はご注意下さい。
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単なる気まぐれだ。暇と言えば暇だったのかもしれない。
普段なら通りがかった神社に足を踏み入れるようなことはしない。生まれ育った宗教とは違う。そこまで宗教熱心ではないが、それなりに躊躇する程度の気構えはあった。こればかりは育った環境の問題だ。
だが何とはなしに目を向けた境内が余りにも寂れていて、それなのに少しばかり呼ばれたように感じたことは確かだった。苔の生えた狛犬たちと目が合った。
そこに何かがいるのかもしれないなと思い、その後に我ながらおかしくなる。そう思いたがっている、と。人は神域とされる場所においては都合よく神秘を求めるものなのだ。
梅雨時の午後、降りそうで降らない空模様は夏物のスーツにじっとりと湿気を含ませていく。呼ばれたのではない、蒸し暑い中で自らが境内の日陰を求めただけに過ぎないと結論付け、寂れた境内を覆うかのように生い茂る木々の陰を求めて鳥居をくぐった。
外国人のキリコでもよく知っている手水舎がなかった。暫し迷い、ないなら手を洗わないまでだと思いながら傷んだ参道を歩く。人の気配がない神社は都会の中にあるとは信じられないほどに静かで、静寂が耳に痛いほどだった。
生い茂る木々はろくに手入れをされていなかった。それでも参道を覆う日陰は身体に涼しさを与え、キリコは息を吐いて拝殿へ進む。梅雨から夏にかけての日本の湿気はどうしても好きになれない。この日陰はありがたかった。
拝殿の扉は閉じられている。賽銭箱が外に出ているのは流石だな、とキリコは不敬と言えば不敬なことを思いつつ、日陰を借りる挨拶として賽銭を投げ、通り一辺倒の参拝を終える。人生最後の女に告げるつもりはないが、作法は昔の女の一人に教わった。
妙だな、と思った。あまりにも音が遠い。いや、何も音がしないと言ってもいい。神社に入る前、歩いていたのは都心の大通りだった。車も人も多い場所と時間帯、全く音がしないとは到底考えられない。
その時、拝殿の扉がゆっくりと開いた。ああ、やはり妙だ、とキリコは思った。これだけ寂れ、ろくに手入れもされていない神社の拝殿の扉は傷んでいた。それなのに軋みもせず、静かに拝殿の奥の空間を見せつけた。拝殿の奥からは焚かれた香が忍び出た。白檀だ、とキリコはいやに冷静に気付く。
「アレ、ま、珍し、珍し」
白檀の香りの中から顔を出した女を見て、ああ、これは本当に妙だな、俺がもう少し臆病なら走って逃げていたかもしれない、と思った。だが走って逃げたところで逃げ切れはしなかった、とも思った。それは直感だったが、おそらく間違ってはいないという確信を同時に与えるものでもあった。
女は神職が求められる服装ではなく、それでも外国人のキリコには物珍しく見える袴に、目に痛いほど紅い打掛を纏っていた。美しい刺繍があしらわれたその打掛を、暑そうだ、とキリコは心配になった。
「暑くないのですか」
「んん?」
「そんな格好で。この暑さで」
「──あァ、暑い、暑い、ナ」
何が楽しいのか女はくすくすと笑い、それから小首を傾げてキリコを手招きした。
「入らしゃれ、入らしゃれ。茶くらい点ててしんぜようぞ」
「いえ、もう行きますので。日陰をありがとう」
「そう申すでないわ。ぬしを取って食らうわけでなし」
この状況で信じろって? ──キリコはそう言いかけたが、その前に女がまた笑った。
「ぬし、なァ、わらわが物の怪と思うたのであろ。外つ国でも物の怪は分かろうぞ?」
キリコは数秒言葉を探し、やがてその努力を放棄した。この女からは害意が感じられない。頭のおかしい女なのだと結論付ける以外にできることがない。
「あなたが何者でいらしても、私はここを失礼しなければなりませんので」
「急いておるの」
「女を家に待たせているのです」
「嫁御かえ」
「まあ、ええ」
「──アレ、ま。それはすまなんだ。また参らしゃれ」
思った以上にあっさりと女は引く態度を見せ、ではの、と言い置いて拝殿の扉を閉めた。
また音がしなかったとキリコが気付いたのは、鳥居を抜け、都会の音の洪水が聴覚を襲った時だった。振り返らずに歩き出した。狛犬の視線を感じたような気がした。途中で蒸し暑さに耐え切れなくなり、家で待っている女に買って帰ってやろうと思っていた菓子を諦め、流しのタクシーに合図を出した。
既に家にいた女は勝手にエアコンをかけていた。リビングのテラス窓から庭を眺めている。遊びに来ていた近所の猫がその隣で丸まって眠っていた。キリコの帰りに喜び、男の汗が引くのも待たずに抱き付いてくる。キリコは笑ってBJにキスをし、ハグはシャワーを浴びてからね、と言ってバスルームへ向かった。
「どこへ行ってたの」
シャワーから上がったキリコにビールを渡しながらBJが問う。
「出る前に言っただろう。国会図書館と恵比寿の医療センターだよ」
薬の相談でね、と後半に付け加える。安楽死の仕事、あるいは浮気だと勘繰られては堪らない。するとBJは「それは疑ってないけど」と首を傾げた。
「さっき白檀の香りがしたから、病院に行った割には珍しいと思って」
「白檀?」
女を思い出す。拝殿の扉の奥から現れた白檀の香りも。
「──病院の帰りに神社に寄ったよ。暑くてね。涼しそうに見えたから」
「ああ、そうなんだ? 珍しいね」
「拝殿が香ってたから、それだろうな」
「ふうん」
それからようやく、きっとあの女は心を病んでいるのか、それともふざけて外国人をからかっただけなのだろう、と思った。
旧い言葉を理解できた自分がおかしいと思いかけたが、いいや、きっと元々知っている日本語だったのだ、と思うことにした。
いずれにせよ、もうあの神社に行くことはないと決めた。
にゃあ、といつの間にか起きた猫が鳴いた。珍しくキリコに抱き上げるように命じる。
抱き上げながら狛犬を思い出した。
夜半、夢を見た。悪夢ではなかったが良い夢でもなかった。あの神社の鳥居をくぐり、歩いた。拝殿の奥から香る白檀に顔を上げた時、ねえ、と声をかけられた。BJが強く身体を揺すったのだと、目を開けてから気付いた。足下で寝ていた猫が小さく鳴いた。大丈夫かい、と訊かれたような気がした。
「キリコ」
「──うん」
「嫌な夢?」
いつものベトナムの? ──間接照明の灯りの中で見えるBJの表情がそう言っていた。いや、と答えようと思ったが、なぜか言えなかった。その代わり、うん、と無意識に答えた。そう答えておいた方が良いような気がした。
そう、とBJは呟き、自分の胸に銀髪を抱き込み、寝よう、と言った。うん、とキリコは答え、目を閉じた。
嫌な夢じゃなかった。そう答えればよかったのだと気付く頃には、女の清潔で愛おしい香りが白檀の香りを消し去り、穏やかな眠りの国へと導いてくれた。
二度と来ないと決めた場所にまた立っていた。相変わらず狛犬と目が合い、手水をする場もなく、それでも寂れた参道を覆う木々は涼しい。そして恐ろしいほどに静かだ。参道を歩き、賽銭を投げ、するとまた白檀の香りと共に扉が開いた。あの女が顔を出し、にこりと笑った。紅い打掛は今日も暑そうだった。
「アレ、ま。よう参ったわえ。おしまりはあらなんだ?」
道中何事もなかったかと旧い言葉で問われ、キリコは僅かに躊躇ってから頷いた。
「……ええ」
「入らしゃれ。外つ国の御仁に日の本の文月は御ンつらかろうて」
旧い言葉だ。キリコは思う。──旧い言葉だ。いくら俺が日本の古典を多少知っていても、実際に耳にしてすぐに理解できるような日本語ではないはずなのに、それなのに普通に会話ができる。
「いいえ。すぐに帰ります」
自分で勝手に来ておきながら俺は何を言っているのだろう。そう思う自分が確実にいる。
「ほうかえ、ほうかえ」
二度目を断られた女は気分を害した風もなく、声を出さずに笑った。それから言った。
「すまなんだ」
「──何が?」
ごめんなさいね、と謝られたキリコは問う。静かすぎる空間の中、木々の日陰と白檀の香りが二人を包んでいた。女は静かに言った。
「早う、ナ。お穢土なら根津さんへ参らしゃれ」
キリコは答えない。耳が痛くなるほどに静かな空間の中、白檀の香りだけがいやにはっきりと五感を刺激していた。
そして言った。自分の唇から出た言葉だと気付くまで、少しばかりの時間を要したのは確かだった。それほど意外なことを言った。
「よろしければ、お茶を頂けますか」
女は眉をひそめて笑った。もの悲しい笑い方だとキリコは思った。
白檀の香りがする拝殿の中は、外と同様に寂れていた。女の他に気配はない。出された茶はぬるいが不快ではなく、適度に湿度を追い払ってくれる。
女は何くれとなく話していた。キリコは頷きながら、俺はなぜここにいるのか、と感じながらも女の話を聞き続けた。女が好きな物語は恐ろしく古い古典だった。猫が好きだ、甘いものが好きだ、暑いのは嫌い──他愛もない女の話はつまらない。だが不快ではなかった。頷いて話を聞き続けた。女は穏やかな話し方で、それでも確かに嬉しそうに話し続けた。
どれほどの時間が過ぎたのかも分からなかった。不意に女が顔を上げ、開け放ったままの扉の外に目をやった。
「すまなんだ」
「──何が?」
いくばくかの時間の前に交わした言葉をまた交わす。女はまた眉をひそめて笑った。
「もう参ってはならぬわえ」
「え?」
「すまなんだ。──すまなんだわ。わらわも夫が離れてつろうておったのに、なにゆえに、ナ」
「何の話です?」
「己が浅ましゅうて恥じ入るばかりだえ。すまんなんだ。ほんに嫁御に申し訳も立たぬわえ」
「──クロオ?」
振り返る。その瞬間、何かが弾けるような音が響いた。
そして耳が痛かったほどの静寂の中から、また都心の喧噪の中に叩き出されていた。初めて来た時と同じだと思い、そして、あの時とは違うのだと、目の前に立つ女を見て知った。
「キリコ」
BJが静かに言った。それが不安を押し隠す時の声だとすぐに気づき、ああ、悪いことをした、となぜか思った。何も悪いことをしていないのにそう思った。
「どこにいたの?」
「──え?」
ここに、この神社に──そう答えようとした時、女の唇が震えた。
「何をしていたの。こんな──」
こんな場所で。BJは震えを隠そうとして失敗した声でそう言った。どういうことなのだろう。キリコは理解できない。
視線を感じた。きっとあの狛犬だろうと思った。
振り返った。ああ、と思った。──ああ、俺の頭がおかしくなったのだろうか。そう思った。
そこには確かにあった。だが神社ではなかった。
都心には不似合いな、寂れ、朽ちた小さな祠があるだけだった。
「マフィン」
「うん」
「ここは?」
「──キリコ」
「これは何なんだ?」
立ち尽くす二人を避けるように人々が歩いて行く。誰も朽ちた祠に目をやろうとはしない。稀に目を向ける者はあったが、すぐに気付かない振りで歩き去った。
「帰ろう。駄目。もうここには来ないで」
お願い。BJが震える声で言った。明らかに何かに怯えた顔は、ああ、俺とは生まれた国が、きっと宗教観が違うのだとキリコに強く思わせるものだった。
強く手を引かれ、BJが止めたタクシーに押し込まれるように乗った。タクシーの中でBJはキリコの腕にしがみつき、そして震えていた。悪いことをした。キリコがまたそう思わざるを得ないほどに何かを怖がる姿だった。
「あまりこういうのは信じてない」
BJは言った。
「でも、──呼ばれた。夢で。知らない男がおまえの夫を迎えに行けって」
ああそうだ、とキリコは思い出した。今日もあの日のように仕事で、崖の上の家から会いに来ていたBJを残して家を出た。ちょっと眠いから寝ちゃうかも、と女は可愛く言って送り出してくれた。あの後に昼寝をしたのだろうか。その時の夢の話だろうか。
「宇宙人だっているんだから、だから、そんなの怖いわけじゃないんだけど、でも何だか──怖くて。場所もはっきり教えられたから、あそこに行った」
何もないところからキリコが出て来た。BJはそう言った。まさか、とキリコは目を見張る。神社があった。そう言った。そんなものなかった。BJは半ば泣いた声で答えた。
するとずっと黙って運転していた初老のドライバーが、お話中にすみませんが、と丁寧に言った。
「自分はこの辺りを20年ばかり流しているんですがね。──あの祠、紅い打掛の姫さんがいる神社に招かれる場所だって噂をたまに聞きますよ。何年かに一度。大抵は背が高い男が招かれるって話だ」
お客さんみたいに立派な男がね。ドライバーは淡々と言い、それきり何も言わなかった。だがキリコの家の前で車を停め、料金を払う時、心配なら根津神社に引き取ってもらうといいでしょうね、ええもちろん信じなくっていい、気休めですよ、と言った。
根津さんへ参らしゃれ。紅い打掛の女が確かに言ったことを思い出し、ああ、そう、ありがとう、とキリコはどこか霞がかった意識の中で返事をした。BJが強く腕を引き、半ば泣いたヒステリックな声で、早く降りてよと怒った。ドライバーが少し迷った後、足が必要なら電話を、と名刺をくれた。
家にはまだ猫がいた。本来の主人のマダムが迎えに来ない限り、自分から帰ろうとしない猫だ。普段なら真っ先にBJに駆け寄るはずが、キリコに向かって「にゃあ」と可愛く鳴いた。あの紅い打掛の女は猫が好きだったと話していた、とキリコは不意に思い、なぜか察したBJが猫に「やめて」と泣き声で言った。
いつもはBJにべったりとくっついて離れない猫は、いつまでもキリコの足下に纏わり付いていた。稀にキリコの背後に「にゃあ」と鳴き、ああ、とキリコはそれだけを思い、やめてよ、とBJはまた泣き顔になる。やめてよ、そんなの信じてない。そう言いながら女が泣く理由がキリコにはどうしても分からなくて──意識にかかる霞と白檀の香りを振り払えなくて──大丈夫だよ、となぜその言葉を選択したのか自分でも理解できなかったが、何度もそう言った。
夕方、マダムが猫を迎えに来た。普段はキリコが対応するが、今日はBJが玄関に出た。マダムはいつも通りにちょっとした手土産をBJに渡し、猫と引き換えた。
「あの」
帰ろうとしたマダムに、BJは人見知りを堪えて話しかける。
「奥様は、この辺りにお住まいになって長いんですか?」
「ええ、まあ、地区は少し違うけど、子供の頃から住んでいますわよ」
「それなら──あの、わたしの頭がおかしいと思って下さって結構なんですけど」
わたしがこんな話を聞けば、きっと頭がおかしいと思うだろう──そう思いながら話をしたが、意外にもマダムは「ああっ」と小さく声を上げた。
「紅い打掛の姫様ね」
「ご存知なんですか?」
「わたし、実家はあの辺りなんです。昔からみんな聞いている話で──どうなさったの。まさかドクターが?」
BJは答えられなかった。だが今にも泣き出しそうに歪んだBJの顔を見て、まあ、なんてこと、とマダムは呻いたのだった。
「こんな都心にそんな話があるなんて」
「都心でも1900年以上の歴史の神社だってあるわ。歴史そのものは長いのよ」
ううん、とマダムは眉をひそめ、何事かを考える。猫はおとなしく腕に抱かれていた。やがてマダムは言った。
「姫様はに夫がいるの」
あ、とBJは思わず声を漏らした。夢の中で見たあの男だ──なぜか強く確信した。そんなのは信じてない、ともはや自分に言い訳をする気にもなれなかった。その話をするとマダムは頷いた。明らかに信じている者の顔だった。
「あの神社──」
マダムが神社の名前を言った。根津神社、と。BJは物も言わず、もらったばかりの名刺を探しにリビングへ駆け戻った。その後ろ姿を見てマダムは猫に話しかけた。
「わたしもね、5年前だったかしら。パパが取られちゃいそうだったから、根津さんに言いつけたのよ」
いい男に目がないの、困った姫様よねえ、と言う主人に、猫はにゃあと可愛く鳴いた。
女は顔を上げ、アレ、ま、と呟いた。
「……こんな、ナ。まさかの」
入れなさい。そう聞こえた。入れなさい、いるんでしょう。
どうしよう──そう思ったのは確かだ。だが逃げるわけにもいかない、逃げる場所もない。入ればよい、と念じるまでもなかった。やがて一人の気配があの寂れた参道を早足で歩く音が聞こえた。
静かに扉を開けた。夜闇の中、彼女には先鋭的に見える南蛮の黒いコートを羽織った女が立っていた。明らかに怒った顔には大きな傷があり、おおこわ、と女は半ば自己嫌悪で身を震わせた。
「何え」
「お分かりではなく?」
「嫁御の訪いなぞ初のことよ」
「わたしが嫁?」
「誤りかえ?」
「あなたがそう思うならそうなんでしょう。よく間違われるし」
「ん、ん。よう参った。茶でも点ててやろ」
「いらない、ここで結構」
女は肩を竦め、腹を括った。その仕草にまた腹を立て、BJは唇を噛む。
「手短に終わらせる。タクシーも待たせてるし」
「たくしい──ああ、牛車のような」
「いつの話だか」
キリコが眠ってから呼び出したドライバーは、一人で行くのは駄目だと何度も言った。だがBJはそれをはね除けた。ドライバーは諦め、明け方になっても戻らなかったら警察を呼びますよと言ってくれた。
「単刀直入にさっさと言うんだけど」
「何え」
「わたしの男に手を出すのはやめてくれない?」
BJは紅い打掛の姫様を睨み付ける。相手は理解を超えた存在だ。何が起きるかと構えないではなかったが、それよりもただそう言いたかった。
女の顔が変わる。──BJは思わず「え」と声を漏らしてしまった。確かに女の顔は変わった。それは確かだ。
だがそれが居心地の悪い、どこかしら拗ねた顔になれば、超常的な何かを予想していた、あるいはどこかで期待していた身としては驚かざるを得ない。
「……何、その顔」
「……すまなんだ、と……思うて」
「悪いことしたって自覚してるの?」
「そう申しておるわえ」
女はいじけた態度を隠そうともせず、指先で打掛の袖をいじる。BJは拍子抜けした顔を隠そうともせず、ぽかんと女を見る。
「いつも、は」
「何?」
「いつも、は。ここにはおらなんだ」
「はあ?」
「いつもは。根津さんの、ナ。夫のところにおるのだえ」
「……はあ?」
この祠から動けないわけではなかったのだろうか。BJは必死で考え始めた。マダムに聞いた話では、根津神社の夫と離ればなれになってこの祠にいる、悲しくも怨念を持った女だということだった。寂しさのあまり、夫と背丈が同じほどの男を引きずり込み──
「……ちょっと待って」
「……何え」
「あなた、どうしてここにいるの」
うう、と女が呻いた。たちまち顔が赤くなっていく。打掛よりも紅くなった顔に、BJはますます混乱しそうになった。
どうして、ともう一度BJは言った。
うう、と女はまた呻き、だが覚悟を決めたのか、真っ赤な顔で叫ぶように言った。
「旦那様と、喧嘩をすると! 悔しゅうて、ここにくるの! でも、──でも、寂しゅうなって!」
夫と似た背丈の立派な男を呼び込んで、お茶を点てて、話し相手をしてもらうのが好きなだけ、やましいことなんてなんにも、なんにも──紅い打掛の姫様は真っ赤なまま、ほとんど叫ぶように話し続けた。やましいことなんてなんにも、ほんとうに!
ああそう、そうなんだ──BJは半ば以上呆れ、畏れも怒りも忘れかけていた。そうか、そうなんだ、そんなことでキリコが──そして思い出す。夢の中で夫を迎えに行けと言った男は、おそらくこの女の夫なのだろう。
「あ、そうか」
同じほどの背丈の男──確かにキリコと同程度の身長だったかもしれない。数値としては分からないが、背が高いということは確かに分かった。
「ああ、そうか、──そっか。似てる」
「何え」
「身長。キリコと旦那さん、同じくらいだった」
「……なにゆえ、ぬしが旦那様の御身を存じておるの」
「夢に出たの。ここにキリコがいるから迎えに行けって──」
「──旦那様が!? ぬしに!?」
「怒鳴らないでよ!」
たちまち嫉妬に塗れた顔で喚きだした女が、やはり嫉妬でヒステリーを起こした時の自分と似たようなものだとは気付けない。ここにキリコがいれば「そっくり」と額を押さえたかもしれなかった。そんなことは思いもよらず、大体あなたが悪いんじゃない、とBJも喚き返す。
「旦那以外の男を引っ張り込むなんて、普通の女性はやらないでしょう!」
「いかがわしい申しようをするでないわ! 旦那様以外の男なぞ下郎に過ぎぬわえ、わらわの相手をさせてやっただけではないの!」
「誰が下郎だって!? 人の男を捕まえてよくもそんな口が聞けるもんだ!」
「嫁に乗り込ませるなぞ下郎の証であろ!」
「具合が悪くなってるの! あなたのせいで!」
「眠れば戻るわ、過ぎた世話なぞ殿方に障るわえ!」
「都合のいいこと言いやがって!」
「もういや、いや! ぬしなぞきらい!」
「こっちの台詞なんだけど!?」
「きらい!」
女が絶叫した。ヒステリー極まりない、と自分ことなど棚に上げた呆れた瞬間、何かが弾けるような音がした。不意に肌を襲った都心の夜独特の濁った空気に息を吐く。
夢みたいだった、と思った。夢ではないと冷静な自分が言った。
あの参道も拝殿も狛犬も、まるで夢の中のような出来事だったのに、全ては現実だったのだ、現実だったのかもしれない、と思える感覚と、あまりにも鮮明すぎる女のヒステリックな声がはっきりと思い出せた。
「ったく」
足下にあった朽ちた祠を見る。それから溜息をつき、紅いリボンタイを外してそこに置いた。わたしも甘いよなあ、と思いながら。
「明日の朝一番に根津神社に行ってやる。帰るなら乗るんだね」
顔を真っ赤にして拗ねたまま、自分の手を取る姫様の顔が見えたような気がした。
控えめなクラクションが聞こえた。待っていたタクシーの中から、あのドライバーが合図をしてくれたのだった。待機料金はいくらになるんだろうと思いながら、BJはリボンタイを戻し、タクシーに乗り込んだ。
すまなんだ。
確かにそう聞こえたが、返事をしておくのはやめておいた。結構可愛いんだよな、キリコが好きそうな顔だよな、とふと気付き、どうにも気分が悪くなったからだった。
翌朝、随分よく寝たなと自分でも驚きながらキリコは目を覚ました。寝る直前まで霞がかっていた意識は問題なくクリアになり、むしろ日頃の疲労を一気に解消するほどに良い睡眠をしたと実感する。だが横にBJがいない。先に起きたのだろうと思って着替え、リビングに降りると、明らかに寝不足の顔をしたBJがいた。しかもいつものあの格好だ。
「──マフィン?」
「……おはよ」
「おはよう。どうした、眠れなかった?」
「女のところに話を付けに行ったら寝そびれた」
「……え?」
どの女だ、心当たりがない、でもこいつの病的な嫉妬心ならどんな思い込みで──キリコは顔には出さないものの、内心で焦りに焦る。するとBJが眉を跳ね上げた。
「焦ったな」
「──いや、そんなことは」
「いいよ、今回は見逃してやる」
「あ、はい、ありがとうございます」
礼を言う必要など全くないはずだが反射的に口にしてしまう。BJは溜息をついて続けた。
「あの祠の。紅い打掛の姫様」
「は?」
「だから──」
BJは夜中のうちにあったことを説明する。聞いたキリコは唖然とする。自分がそんな目に遭っていたことはもちろん驚愕するしかないが、だがしかしやはり──
──こいつ、頭おかしい。
頭おかしい。素直にそう思った。この女は頭がおかしい。病的な嫉妬心、それは分かっていた。理解していた。それも引っくるめて愛している。だが頭がおかしい。間違いない。
──超常の思念体に喧嘩売りに行くか!? 普通じゃねえ、まともじゃねえ!
「……マフィン」
「何」
「ああ、その──そういう場合、その、夫がいる根津神社に行って、彼女を連れて帰ってもらうように言うんじゃないのか?」
夢の中でもそう言われたのだから、いわば解決策は夫から最初に提示されていたのだ。それをわざわざ祠まで行く必要があったのだろうか。キリコはそう思った。
「マダムはそうしたって言ってた。でも」
「でも?」
「キリコが」
「俺が?」
BJの眉が跳ね上がった。それを見たキリコは内心で身構えた。分かっていた。──こいつはこれから無茶苦茶を言う!
「よその女のところで鼻の下伸ばしてお茶飲んでたなんて考えたらむかついてむかついて! 一言言ってやらなきゃ気が済まないじゃない!?」
「──伸ばしてねえって!」
いや、正直言えば二回目は多少楽しかったかもしれない。だがそんなことは口が裂けても言えない。墓の中まで持って行く秘密がまたひとつ増えたことになる。
「だったら二回も行かない!」
「行きたくて行ったわけじゃねえ! と思う!」
「と思うって何!?」
「いやごめん、俺もよく分からなくて──って、怒るな、泣くな!」
「もうやだ、やだ! キリコなんか嫌い!」
「どうしてそうなるんだよ!」
「嫌い!」
BJはヒステリックに叫び、わあわあと泣き出した。
わらわとそっくり、と紅いリボンタイの中で誰かが呟いたかもしれない。
悪かったよ、ごめん、泣かないで、何でも聞くから、と自分には責のないことでも必死で慰めて機嫌を取る男の姿が夫とそっくりだ、とも。
「ほら、根津神社が開く時間だろ? 機嫌を直して姫様を連れて行ってあげないと」
「もうこんな女、二度と会いたくない! 馬鹿! キリコの馬鹿!」
いいから早う連れて参りや。紅い打掛の姫様は欠伸をし、早う旦那様にお会いしとうてならぬわえ、夫婦喧嘩は狛犬も食わぬわ、と呟いたのだった。