ワシントンはフォート・デトリックの定例仕事、今回もやり甲斐があるようで、政権の思惑を感じつつ、それでも契約料金分は働くキリコはよく妹に「実は真面目よね」と評される。
俺はいつでも真面目だろうに、と返すと、そんなの分かってる、とどこか切なそうに返事をされるので、最近では「そう思われるうちが花だな」と言うことにしていた。すると妹が少し安堵したようにまた憎まれ口を叩くので、それならそれでいい、と思う自分がいる。
定例の仕事でワシントンに詰める時、近辺で仕事があればBJが帰りに合流し、キリコの仕事が終わるまで滞在する。以前は数日の滞在で先に日本へ帰国していたが、いつの間にか二人で帰国するようになっていた。
その日のフォート・デトリックは平和だった。普段から大抵は平和だ。ホワイトハウスの炭疽菌テロの後始末は、現場の浄化に時間がかかる以外にはそこまで難易度が高くない。とはいえ後始末を担当している作業員の安全管理は気を抜けず、また、新しい方法が提案されるたびにキリコはプロジェクトのトップ人員として仕事が増えるばかりだった。少し契約料金以上の働きをしている気がしなくもなく、次の契約更改時には正式な弁護士を挟むべきだと考え始めている。
「今回忙しいんだって? ユリさんが言ってた」
夕飯時ちょうど、カナダの仕事帰りにキリコの滞在するアパートメントへ来たBJは、いつものコートを脱ぎながら言う。「まあね」と言いながらキリコは数週間ぶりに会う恋人に歩み寄り、抱き込んで少し深いキスをした。昔は恥ずかしがっていたBJのすっかり慣れて、嬉しそうに首に腕を回してキスに応える。
「少しばっかりな。何日か延びるかもしれない」
「先に帰るよ」
「冷たい女だ」
そう言いつつ、キリコは余程のことがない限りBJが先に日本に帰国しないことを知っている。あまりにも長期間になるようなら日本からお嬢ちゃんを呼ばないとな、と思った。BJがそのつもりであることも知っていた。もう一度唇を重ねてから、BJは着替えに寝室へ消える。キリコは二人分のコーヒーを淹れにキッチンへ向かう。
「マフィン」
「うん」
「毎回言ってるけど」
「何」
カジュアル寄りの、だが少し改まった場所にも違和感のないパンツスタイルに着替えたBJが戻り、キリコはBJが夕飯を外で食べたいのだろうと予想しつつ、以前から二人の間に生じている小さな問題を口にした。
「空港に着く日程を連絡してくれよ。迎えに行くって言ってるだろう」
「フォート・デトリックにいる時間だったら来ないくせに?」
「それは仕事だ、仕方ない」
「毎回言ってるけど」
「うん?」
「電話したら絶対来てくれなくちゃ嫌だから、わざと電話してない。わたしのために仕事を放り出せないならそんなこと言わないでよ」
キリコは溜息にならない程度に深く息を吐き、どうしようもなくたちの悪い女だが、どうしようもなく可愛い恋人だ、と毎回思うことをまた思った。付き合い始めた頃には俺に対して絶対に口に出来なかったことだろうな、とも。悪かったよ、と言って抱き寄せてキスをして、この話は終わりになる。
「お腹すいた」
「何か食べに行くか?」
「シーフードが食べたいんだけど」
「あの店? 予約を入れるよ」
「そうして欲しいけど、あと15分くらい待って」
「──神よ」
予想したキリコは思わず呟き、BJがパンツスタイルにした理由を正確に予想する。そうだ、自分と二人で出かけるのなら、男の好みに合わせてワンピースかスカートを選択するはずだ。
15分も経たないうちに電話が鳴る。キリコはBJの髪にひとつキスをしてから黙って寝室へ着替えに向かい、BJは肩を竦めてから電話に出た。
「ハロー、呼ばれるんじゃないかと思ってた。空港でお宅のSPに声をかけられたから。まったく、ロンも暇じゃないだろうに」
大統領のお気に入りはそう言って笑い、電話の向こうの調整官を苦笑させた。
『たまたま今日の夕食は空いていらしてね。ドクターは嫌がるだろうけど、閣下が先生に会いたいっておっしゃるから説得を頼むよ』
「少しいいワインがあればご機嫌になるってことはあなたに教えておくよ。──もう着替えに行ってる、私ももう出られるから迎えをよろしく」
『ワイン了解。車はもう向かってる』
「それから、ちょっとした問題なんだけど」
『何だい?』
「私が腹ぺこで死にそう。カナダで仕事が終わってから何も食べてない。キリコと好きなシーフードの店に行きたかったから機内食も我慢してたのに、空港でお宅のSPに会って諦めたんだ」
『何てことだ、喫緊じゃないか。伝えておくよ』
「ありがとう、私の命が繋がりそう。あなたは本当に頼りになる」
『世界一の名医から嬉しい評価だ。俺のプライドにかけて手配させてもらうよ』
「最高。信じてる」
軽口で応じてくれる、だが確実に少しばかり食事の内容に手を加える伝達をしてくれるであろう調整官に礼を言って電話を切ると同時に、BJと並んでも違和感のないカジュアル寄りの、だがフォーマルの席でも通じる仕立ての良いスーツに着替えたキリコが寝室から戻ってくる。一分の隙もなくまとめた髪と、特別な時にしか着けない上質のアイパッチが夕食の席への敬意を示していて、BJは何とはなしに嬉しくなった。
「先生、会いたかった! おとうさまがお誘いしてくれて嬉しい!」
「パティ、わたしも。また大きくなったでしょう?」
「そうよ、身長が3cmも伸びたの!」
大統領の娘のパティは久し振りに会うBJに飛びついて喜び、父と母にたしなめられる。ピノコを思い出させる可愛らしさにBJは掛け値無しの笑顔で応じつつ、ピノコよりも自然に肉体的な成長を果たしている彼女を見て一抹の寂しさと焦燥感を感じざるを得なかった。それを顔に出すことなく、突然の夕食に招いてくれた大統領とファーストレディに挨拶をする。
「ドクターを招くには少し良いワインが必要だという重要情報を手に入れてね。お眼鏡にかなうといいんだが」
「その情報源はあまりあてになりませんね。お招き頂ければ酒なんて二の次です」
「じゃあキリコは飲まなきゃいい」
「おまえは可愛いね」
むっとして言った女と機嫌を取るようにその頬を撫でる男の姿を見て、大統領とその妻は機嫌良く笑う。
合衆国を統べる男の食卓の「少し良いワイン」は確かに美味だった。BJはキリコに多くの酒を教えられていてよかった、と思った。知識がなければ価値も味も分からない部類の酒だったからだ。食事に知識などいらない、美味であればいい──それも紛うことなき真実だが、知識が味覚を強化することがあるのもまた事実だと思える瞬間だった。得てして人間は不完全で不自由な生き物だ。
「先生、最近はどう? 訪日が決まったら絶対に家にお邪魔しようって決めてるんだ」
「わたしの家に? 冗談でしょ、あんな田舎! うちだってマスコミに押しかけられたら崩れちゃうわ!」
「どれだけ古い家に住んでいるんだい!?」
キリコはBJをしばらく大統領に譲り、パティとその母、アンの相手に専念することにした。タイミングを図って大統領から話しかけてくるはずだ。こんな席のお決まりの流れだった。ロンという愛称を持つ大統領は個人的にBJを心底優遇し、機会があればもてなしたがる。そして公的──一般に公にすることのない部類での公的──には、フォート・デトリックとかつて起きたホワイトハウスへのテロの闇を知るキリコを監視下に置きたいがための接待と釘刺しを怠らない。
「ドクター、フォート・デトリックの方に聞いたの。とても熱心に取り組んで下さっているって」
「私自身はいつも通りです。契約に見合った働きはするつもりですよ」
「ねえドクター、フォート・デトリックで何してるの? お父様もお母様も教えてくれないの」
「たくさんの人が幸せになれることだと思うよ」
少なくともあのテロに関わった人々はね、とキリコは心の中で付け加える。
俺を殺せば全てが終わるだろうに──キリコは何度そう思ったか知れない。だが自分が不本意な形で生命の終焉を迎えた場合、全ての闇が明るみに出る手配は済ませてある。それを大統領と、そしてあの腰巾着の赤毛はよく知っているのだろう。だからこそ自分はまだ生きながらえているのだとよく分かっていた。
──密林の青い光にフォート・デトリックの闇。両方を知って、それでも生きている俺はかなり幸運なのか、悪運が強いのか。
だが、たまに思う。フォート・デトリックと炭疽菌、ホワイトハウスのテロの時、なぜデルタフォースの隊長はあんなにもあっさりと策略を暴露したのか。
予想に過ぎない。だが分かるような気がしている。
──あいつは、グラディスは、そして──大統領は。
「ドクター、先生と仲良くやっているようで何よりじゃないか」
「昔からそのつもりではありますが、一体どこからそんな話をお耳に?」
「誰だったかな。確か髪が赤い、生意気な坊やから聞いたのかもしれない」
──俺を長く手駒として使うために──炭疽菌の数年単位の後始末を確実にさせるために──それが当初の計画には入っていなかったとしても、即座に計画を変更したんだ。
「彼も元気そうで何よりですよ。毎日フォート・デトリックで顔を合わせますが、とても嫌な顔をされる。彼なりの親愛でしょうね」
「だろうね、彼はとてもドクターのことが好きなんだ」
「もう少し分かりやすく好意を示してくれれば、私も彼を好きになれそうです」
「あの子は昔からああだからなあ。あの子の父親──今は陸軍中将か。彼が私の甥の同窓生で、それが縁で産まれた時から知っているんだが──」
「それは初耳ですね」
キリコは本気で驚き、BJも思わず食事の手を止めて大統領を、次にキリコを見る。ちょうどキリコもBJを見たところで、互いに互いが驚いた顔をしている、と思った。
「本当にあの子は強情でね。自分が優れていることを知っているからまたたちが悪い」
「その代わり、自分の力が及ばない分野に関しては引き際が良い印象がありますね」
「それは正しい評価だと思うよ。立場上、必要な性質だろうね」
──赤毛は俺に、わざと教えたんだ。炭疽菌が盗まれたと知った瞬間、俺に後始末をさせるために。ロンの許可も取らずに。きっと事前にあらゆる事態を想定して、そう打ち合わせをしていたからだ。
「ところで先生、指輪はどうしたんだい? 少佐から聞いて楽しみにしていたんだよ。ドクターとお揃いの指輪を見せて欲しかった! ドクターはしているのに!」
「キリコはワシントンにいる時しかしないし──何なの、赤毛──少佐はそんなことまでロンに言ってるの!? 恥ずかしいじゃない、やめて頂戴!」
「先生、そんなことを言わないで。少佐はいつでも二人のことを心配しているだけなんだから」
「そんなことあるもんですか、あいつは人をからかって楽しんでるだけよ!」
「ああ、うん、そんな部分があることも否定できない子だね」
「ロンからも何か言ってやってよ。いつも失礼なんだから!」
「少佐に? 恐ろしいな、どんな嫌味を言われるか分かったものじゃない」
──それでもいいと思う俺がいる。それでいいからだ。俺は愚かだ。
俺は愚かだ。そう思う。こんな生き方しか出来ない。誰かが自分のような生き方をしていれば、おまえは愚かだなと言ってやりたいほどに愚かな生き方をしている。
そこに生命があるから。
そこに俺が手を差し伸べるべき生命の行方があるのだから。
あの赤毛はそれを知っていた。事前に徹底的に調査をされていたんだろう。本来の使い方以外でも緊急時に役に立つと予測を立てたんだろう。──俺が炭疽菌の後始末をすると。作業をする彼らの生命を守るべき立場だと認識してしまうであろう、愚かな人間だということを知っていた。だからこそ俺は今この立場で、全てを知っても積極的に暴露しようなどと到底思えない。
「指輪ならすぐにでも」
口からそんな言葉が出たのは一種のリップサービスか、それとも、何を利用してでも、この国家を最強たらしめんとし、そしてあの密林の戦争を否定しない男たちへの敬意か。それは分からなかった。分からなかったが、これくらいなら言ってやっても良いだろうと思った。自分を利用しているはずの相手でも、この国の大統領の綺麗事抜きの姿を知る今、確かに敬意を持っていた。
「ネックレスに。職業柄、私もフォート・デトリックでの仕事でしか指にはしませんし、彼女はそれ以上にする機会がありませんね。──失礼致しました、閣下のお招きでしたら彼女にもさせるべきでした」
「あの──うん、もう──キリコの言う通りってことでいいわよ」
まさか味方をされないとは思ってもみなかった、だが言われてみればそうだと気付いたBJが白旗を掲げる。キリコの指には確かに指輪があった。フォート・デトリックではいわゆる虫除けにいつもしていると聞いている。それなら自分も、と思ったし、何よりいくら気の置けない相手とはいえ合衆国大統領を前にしているのなら、礼儀として首のネックレスから指に事前に移動させておくべきだったと思い至った。
「本当に? 素晴らしいね、見せて!」
「まあ! 素敵! 普段はネックレスなの!? なんてロマンティック!」
ロマンティストの大統領夫人が早速目を輝かせて食らいつく。こうなってはもう逃げ場がない。ここにあるのよ、と女同士の内緒話の小声で首を示すと、まあ、まあ、と夫人は興奮で顔を赤くする。幼いがそろそろ女としての特性に目覚め始めたパティはそんな母に肩を竦め、見ていたキリコに崖の上の主婦を思い出させた。要は可愛らしかった。
結局アンがもったいぶってネックレスを首元から引き出す役目を嬉々として果たし、本来の指に指輪をしたBJは照れ隠しに唇を尖らせて大統領に「これでいいでしょ」と言い、満足した大統領は「国内にいる間はずっとしているように!」と軽率に大統領命令を出したのだった。
少し良いワインとかなり良いシーフードが並んだディナーを楽しんだ後、大統領は男同士の話だと嘯いてキリコを書斎に連れて行ってしまう。もちろんSPだらけだ。キリコはそこで世間話のていでフォート・デトリックとホワイトハウスのテロについて他言をしないということを改めて宣言し、大統領も世間話のていでドクター・キリコとクロオ・ハザマ、そしてユリとピノコに関しては、アメリカ国内、および同盟国内で不利益を被ることはないと宣言した。それからは少し良いブランデーを楽しむ時間になる。
BJはキリコとのロマンティックな話をアンに求められ、特にないの、普通の生活だから、と顔を真っ赤にして答え、お母様に何かひとつ教えてあげて、それで満足するから、とパティに耳打ちされる始末だ。結局アンの追求を逃れきれず、指輪をもらった夜のことを話してしまった。アンどころかパティまで「まああ!」とひどく興奮し、BJはひどく恥ずかしかった。
ホワイトハウスに招かれた夜はいつも二人で手を繋いで歩いて帰る。それが大統領夫妻を満足させると知っていたし、初めて手を繋いだ日を思い出してBJも機嫌が良くなる。キリコは機嫌を良くするBJを見て機嫌が良い。ほとんどの人間が幸せになれるのだからそれで良かった。
閉店間際のスーパーマーケットに寄り、キリコが必要な食料や日用品を選んでカートに入れて行く。アメリカではほとんど買い出しをしないBJは面白がり、あれもこれもと欲しがってキリコを苦笑させ、だが結局は買わせることに成功した。
家に帰り、防犯上二重になっているドアと4つの鍵をキリコが閉め終えた時、既にBJは寝室へ着替えに向かっている。いつものことで気にもせず、キリコは買い込んだ食料をキッチンに移動させる作業を優先した。
それから自分も着替えるために寝室へ向かうと、ちょうどルームウェアに着替えて出て来たBJとすれ違いそうになった。BJがキリコを見たまま無言で後ろ歩きに寝室へ戻る。キリコも無言で歩いて寝室に入り、お互いに足を止めた時に軽くキスをしておいた。嬉しそうにくるりくるりと回るBJに笑って着替えにかかる。背後から抱き付く振りをしたBJが上着を受け取り、ハンガーにかけ、それからカーテンを閉めた。家事はできないが気の付く女だと感心しながらキリコは着替えを終える。時間は21時半。子供は寝る時間、大人は少しばかり夜更かしを考え始める時間だ。キリコとしては入浴を希望した。
「風呂は? 一緒に入ろうか」
「先に入ってよ」
「ああ、そう」
つまり再会のセックスは念入りに、夜のベッドでということだ。一緒にバスルームへ入るとつい手を出してしまうキリコはそう解釈した。BJもそのつもりで言っていた。バスルームでのセックスも嫌いではないが、ベッドで丁寧に可愛がられる方が好きだった。
このアパートメントのバスルームはそれほど広くはない。都心も都心、ホワイトハウスまで徒歩圏内という環境で、しかも公費で借り上げの部屋だ。税金を使う以上、贅沢を言うわけにはいかない。とはいえ、二人で爛れた時間に興じるには充分な広さがあることは確かで、キリコがここでBJを可愛がることが多いのも事実だった。
バスルームの前の洗面化粧台は洗面ボウルがふたつ、BJやピノコ、ユリがいる時は両方の蛇口が捻られるが、キリコが仕事で一人の時には当然ひとつしか使われない。今日からはふたつだ。顔を洗って束ねた髪をほどき、バスルームへ入った。
シャワーブースで身体を洗っている間にバスタブに湯を張る。共通栓になっていないため、同時に使えることがありがたい。この辺りは日本と比較するとメリット、デメリットが分かれる。
整髪料で撫で付けた髪を綺麗に洗い流した頃、ドアの向こうで洗面台にBJが立った気配があった。そう言えば軽い化粧はしていたんだよな、とキリコは思い出した。無色のフェイスパウダーとほんのりしたベージュピンクのグロスだけだったが、以前のBJからは考えられないことだった。BJなりにホワイトハウスに敬意を示したのだろうということは分かった。そこでシャワーを弱め、もう顔を洗ってしまったことは分かっていても声をかける。
「もう落とした?」
「何?」
それなりに大きな声での問いかけに、BJがそれなりに大きな声で返事をする。
「メイク」
「今落としたよ」
「もうちょっと見たかった。可愛かったのに」
「あんなので何が変わる。わざとらしい」
「心外だ」
「言ってろ」
蓮っ葉な、だが満更でもない声を確認してからまたシャワーを強め、全身に湯を浴びてから蛇口を捻って止める。それから湯の溜まったバスタブに浸かり、予定外のディナーで少なからず疲れた心身を癒やした。
「ねーえ」
ドアの向こう、座り込んだ女に呼ばれる。入ればいいのに、とおかしくなるが、これはこれで楽しい。
「うん?」
「──って──」
「何、聞こえない」
声がこもって聞こえない。バスタブの中から言うと、ドアがゆっくりと開き、バスマットに座り込んだBJが顔を出した。
「指輪って、風呂に入っても錆びない?」
「錆びないよ。プラチナだ」
「そりゃそうだけど、そっか」
「そうだよ」
「そっか」
何度も呟き、BJは大統領命令でこの国では外せなくなった指輪を眺めながら撫でている。可愛すぎる、とキリコは感嘆の溜息を隠した。
「バスタブに入るなら湯を張り直すぞ」
「いいよ、もったいない。そのままにしておいて」
「おまえ──」
「文化の違い。キリコが入った後なら汚くない。知らない40歳のオッサンの後なら絶対嫌だけど」
「俺は何なんだよ」
「わたしの男」
「そこが分かんねえんだよな、日本人は」
キリコはどうにも理解しきれないが、BJがそれでいいのなら構わないと思うことにしていた。風呂に関しては文化の違いが洒落にならない溝を作りそうになるものの、おおむねキリコがBJに譲歩して事なきを得ていた。
「キリコだって」
「うん?」
「湯船に浸かるアメリカ人って珍しい」
「案外いるぞ。大体朝風呂だが。ステイツ民全員をステレオタイプに落とし込むのはやめろよ」
「多くはないんじゃない?」
「まあ、確かにな。俺やユリは日本が長いってのもあるが」
「ふうん」
言いながら立ち上がり、また洗面台へ向かう。どうしたんだとキリコが言う前に、ううん、と鏡の向こうの自分に向かって眉を潜める姿が見えた。
「フェイスパウダーが合ってないみたい。洗ったのに乾燥して痛い」
「もう出るから入れよ。保湿オイル、作っておいてやるから」
「いいよ、入りたいだけ入ってて」
「逆の立場なら入ってるか、おまえ」
「キリコがフェイスパウダー?」
「茶化すな、クソビッチ」
「早漏は風呂も早いって?」
言いながらルームウェアを脱ぎ始める姿を見て、キリコはいっそこのまま入っていてやろうかと思ったが、一緒にバスルームに入れば手を出してしまう自分がいる。だが今日のBJはベッドでの丁寧な、いわば濃厚なセックスをご所望だ。ここで手を出して機嫌を損ねられてはつまらない。身体も温まったことだし、おとなしく出ておくことにした。
身体を拭きながら下着の金具を指先でぱちんと外してやる。ぷるりと震えてあらわになった胸の先と同じように顔を赤くし、変態、と怒った振りをする女が可愛くてキスをすると、まだ身体を拭いていない男に抱き付いて来た。どうせこれから濡れるのだ、と気にせずに抱き返してやると、キスをねだられたので希望をかなえてやる。それで離れるかと思えば離れない。身体に押しつけられる膨らみと乳首の感触に下半身が冷静でいられる間にキスを繰り返し、優しく引き離してバスルームに押し込んでからバスローブを身に纏った。
甘えん坊のクソビッチのたちの悪さたるや、40男の下半身すらも耐久レースに引っ張りだしてくれるほどだとは。苦笑してからドアの向こうに「ゆっくり入れよ」と声をかけ、保湿オイルを作りに行こうとしたが、「ねえ!」と大声で呼ばれて諦めた。
「何だよ」
「そこにいてよ! どうしてどこか行っちゃうの!」
「だから一緒に入ろうって言ったんだ。──煙草と保湿オイルの基材を取ってくるから洗っておけ」
子供じゃあるまいしと何度目か分からない苦笑を漏らす。そう、二人しかいない空間なら過去に何度もあるやり取りだ。BJがわざとこんなことを言っているのは分かっている。
煙草と保湿オイルの基材、つまり材料を持って戻ってくると、ちょうどBJがシャワーブースで身体を洗う音がした。湿気が忍び出ることを覚悟でドアを少し開け、戻って来たとアピールする。そこにいてよと言う割には一時的にいなくなっても怒らないが、しかしそのまま違う時間を過ごせば機嫌を悪くするという、ほとんどの人類にとっては理不尽極まりない真似をするからだ。そしてキリコはほとんどの人類の一人だった。
「今回、患者の家族がうるさくって」
「へえ」
バスタブに浸かったBJが仕事の話をする。とはいえ患者の話は滅多にしない。するのは仕事中にあった面白いこと、または愚痴だけだった。
「報酬に文句つけてさ。今度から全額前払いだけにしようかな」
「おまえの仕事と年収が減るだけだろうよ」
持って来た煙草を咥えて火を点け、洗面化粧台に基材と道具を広げる。この季節ならまだ基本のオイルに精油だけでいいから手間が少ない。もう少し乾燥する冬になったらクリームにする必要があるが、今のワシントンならこれで間に合う。
「煙草吸ったら精油の香りが分からないんじゃない?」
「量を計るから関係ないよ」
「何の精油?」
「さあ、ラベンダーかローズか。何にするかな」
精油の瓶をいくつも入れてある小箱を眺め、キリコは考える。いずれも保湿効果が高い精油ばかりだ。不意にBJが湯船に浸かっていることを思い出し、明日は精油を使ったバスボムを作ってやることに決めた。それなりに面倒な作業だが、好きな女が喜ぶのならキリコにとって手間ではない。
「キリコの香水と合うのは?」
「俺の?」
普段は琥珀がベースになっている香水を使うキリコは数秒考える。それほど相性の良い香りが多いわけでもない種類だったので大した思考時間は必要としなかった。
「軽めならオレンジ、同じ系統ならミルラ」
「キリコが好きなのは?」
「ベンゾイン」
「今の選択肢になかったのに平然と出す神経が分からない」
「オレンジとミルラはおまえが好きだと思ったからだよ」
「ふうん?」
キリコの切り返しにあっさりと満足し、BJは少し笑ってバスタブから上がる。
「ベンゾインってバニラみたいなやつだっけ?」
「そう」
「美味しそう。それがいい」
BJは笑い、洗面化粧台の前の大きな鏡に自分の裸体が映ることを忌避し、最初からバスルームに持ち込んでいたバスタオルで身体を隠しながらドアを閉める。こればっかりは仕方ないだろうな、とキリコは思い、保湿オイルを手早く作ってしまった。遮光瓶に出来上がったオイルを移して少し経ってから、バスローブを着たBJがバスルームから現れた。
「ここの洗面台、鏡だけが嫌だな」
「ふうん」
「脱ぐ時は見なければいいだけなんだけど、風呂から出る時は出た瞬間に全部映るんだもん」
「おまえが嫌ならそうなんだろう」
「何それ?」
「俺はそう思わないだけ。おまえは綺麗だよ」
BJは唇をきゅっと引き結んだ後、しばらく視線を泳がせて、それからゆっくりと腕を伸ばして好きな男に抱き付いた。キリコは笑って抱き返し、子供をあやすようにゆっくりと身体を揺らす。やがて揺れることが面白くなったのか、それとも気分が引き立てられたのか、BJが小さな笑い声を上げて抱き付く力を強くした。濡れた髪と湿り気を帯びた肌から立ち上る女の香りはキリコにとって心地良い。
胸に頬を押しつけて揺らされるままになる姿を見下ろし、甘えたい気分なのだろうと知る。そのまま身体を揺らしながら少しだけ歌を歌ってやった。
小さな声だ。二人にだけ聞こえればいい。──賢しき者は言う、愚か者だけが急くのだと。でも僕は、きみを愛さずにいられない。──キリコがたまに歌うとBJが喜ぶ旧い歌だった。かつて世間の女性たちを熱狂させた男性歌手が紡いだ愛の歌は、我の強い女医でさえ宥めてしまう。
途切れると、もっと、と小さな声でねだられた。笑って髪にキスをしてやってからまた歌う。──ここにいては罪になるのだろうか? もし僕が、きみを愛さずにいられないのなら。
川がいつか海へと流れゆくように、愛しいきみよ
これは運命付けられた想いなんだ
いっそ命ごと僕の手を握っておくれ
きみを愛さずにいられないんだ
愛さずにいられないんだよ
歌い終わって見上げられ、プレスリーって素敵だよね、と小さな声で言いながらはにかんで笑う顔を見れば、それがBJにとって最高の賛辞だと知っているキリコはそれだけで微笑み返せるほど満たされる。
少し丁寧に唇を重ね、それから寄り添ってリビングへ歩いた。途中でオイルの遮光瓶と煙草を洗面台に忘れたことに気づき、プレスリーのようには決まらないな、とぼやいてキリコが取りに戻る。BJは笑いながら先にリビングへ行った。キリコが戻って来るまで歌ってもらった曲を口ずさむ。戻って来たキリコが唇にキスをしてくれて嬉しかった。
作りたてのオイルからは重いバニラのような香りが立ち上がる。精製水を肌にスプレーした後、少量を顔に延ばすだけで気になっていた乾燥が落ち着いた。
BJが二人で翌朝に飲むフルーツとハーブのフレーバーウォーターをキッチンで用意していると、仕事の用件以外では滅多に鳴らない無粋な電話が鳴る。こんな時間に、と思ったが正確な時間が分からなかったので時計を見た。23時だった。こんな時間に! と思った。フォート・デトリックでトラブルがあったとしか思えない。
だが予想外にキリコは短いやり取りで電話を切ってしまった。トラブルがあればもっと長引くはずだ。それともこれから現地へ行ってしまうのだろうか──それは嫌だな、と思いながらフレーバーウォーターを冷蔵庫に入れ、キリコがいるリビングへ行く。別段出掛けるという様子もなかった。それどころか妙に機嫌が良いようだ。
「何の電話?」
「フォート・デトリック。明日、緊急で俺が休みになったそうだ」
BJは話がさっぱり分からずに首を傾げるが、機嫌良く笑うキリコを見て嬉しくなる。やがてキリコが説明していないことを思い出して言った。
「大統領が赤毛に連絡したんだと」
「ロンが赤毛に? 何を?」
「『ドクター・キリコは明日、リフレッシュ休暇が必要である』」
途端に満面の笑みになり、BJはキリコに飛びついた。キリコも笑って抱き留め、二人で笑いながらキスをする。
「ロンが次の大統領選に出たら絶対入れてよ!」
「あの人は今期でもう引退だよ」
「あ、そうか、二期目だっけ」
アメリカの政治事情に詳しいわけではないが、BJはキリコとふたりになってから随分と知識が増えた。キリコは頭の片隅で、ロンが引退したら自分の仕事はどうなるのか、次の大統領候補と良好な関係とは言えない陸軍のグラディスがどうなるかを考えそうになったが、今はその時ではないと意識的に思い、目の前の女にキスをした。女は喜び、機嫌良くくるりと回ってからソファに沈み、煙草に火を点けた。
「マフィン、ひとつだけ言っておかないといけなかった」
「何?」
「俺が休日でもワシントンにいる間、デルタは監視──じゃない、護衛をしてくれているんだ」
「ふうん?
「外に変な奴──じゃない、私服のくせに軍人のような奴がいても気にするなよ」
「赤毛だったら通報してやろうかな」
任務を負う特殊部隊員が聞けば激怒しそうなことを呟き、BJは笑う。こいつは本当にやりそうだ、止めないと、と思いながらキリコも笑う。
「酒は?」
「もういい。お茶がいいな。さっき新しいハーブティ買ってなかった?」
「目ざといな。いいよ、それにしよう」
「何て名前?」
「マロウ」
「リラックスできなさそう。どこの探偵だか」
アメリカの有名な探偵小説の主人公になぞらえるBJに笑い、キリコはハーブティを淹れにキッチンへ行く。当然のようにBJがついて来て、背後から抱き付くので好きにさせておいた。
キリコが知る限り、BJがまだ飲んだことのないハーブティだ。何これ、きれい、と抱き付いた背後から覗き込んだBJの声に、それが正しい認識だったと知る。
「青いハーブティなんて初めて見る」
「これにレモンを入れるんだ」
「ふうん」
覗き込むBJはティーポットの中で青く彩づいていく光景に目を奪われている。キリコはティーカップを用意したかったが、しばらくBJのためにそのままの時間を過ごした。やがて満足したBJが自分からティーカップを取りに行く。その間にレモンを搾り、二人でリビングへ戻った。
ティーカップに淹れた青いハーブティにレモンの果汁を入れた途端、青が桃色へと変わる様子を見て、BJが「わあ」と可愛らしい声を上げた。可愛いな、と思いながら、初めて二人で並んで酒を飲んだ日にも、同じことを思った時間を思い出し、キリコは我知らず微笑んでいた。
キリコはそのまま、BJは少しだけ蜂蜜を入れて不思議な色合いのハーブティを飲む。就寝前に良いとされる茶は、二人をどことなく穏やかな気持ちに導いていた。このまま抱き合うのならそれでいい、眠るのならそれでもいい、と言葉にしなくても互いに思っていた。明日の朝に目覚めた時、ふたりでいられれればそれで良かった。
やがてBJがぽつぽつと仕事の話をする。キリコは静かに相槌を打ち、ただ聞くことに努めた。
「難しいと言えば難しいんだけど、一歩手前だけど末期ってわけでもなかったし、おまけにやっぱりわたしは天才だし」
「まあ、うん」
「成功したわけで」
「そうだろうな」
「そうしたら、患者のお父さんがぼったくりだって」
「そうか」
キリコとしてはそれしか言えない。実際のところ、BJの技術であれば納得せざるを得ない金額だという認識はあるが、それにしても一般人にはあまりにも高額だ。だがBJにもBJなりの理由があることも知っている。口を出すべき領域ではない。
「これから新しい人生が待っているんだから、そんなに高額を払わせるのはやめてくれって。生活費がなくなってしまうって」
「それも勝手な言い草だな。新しい人生をブラック・ジャックのお陰で始められるのに」
「わたしもそう思うけど、でもピノコが同じことになったら、きっと同じこと言っちゃうだろうなって」
「ふうん」
話の結末を予想したキリコは曖昧に頷く。テーブルの上のティーカップの中、桃色のハーブティが少しずつ冷めていく時間の中、BJは溜息をついてから言った。
「患者の婚約者の男の人は、必ず払いますって言うの。お涙頂戴なんて見飽きたから何も思わなかったんだけどね」
「ふうん」
嘘だね。キリコは心の中で呟いた。だがそれを口しようとは思わなかった。結末は決まっている。誰もが期待するお綺麗な、だが名医の技術を綺麗事で安く上げようとする人々の姿は美しいのか、そうでもないのか、あまり知りたいとは思えないまま話を聞き続けた。名医ではなく、好きな女が仕事の愚痴をこぼしたいのならいくらでも言えばいい。キリコにとってはそれだけの話だった。
「めんどくさいから」
「うん」
「半額にしちゃった。1000万円が500万円。それでも患者の父親は文句言うし」
「ふうん」
嫌になる、と呟いてキリコの腕に収まり、ぬるくなった桃色のハーブティを口に運ぶ。胸に顔を押しつけたり、ティーカップを手の中でくるくると回したりとしばらく好きにさせてから、予想通りの結末を知ったキリコは簡単に感想を述べた。
「モグリのぼったくりからたったの500万円で自分の命と婚約者の人生を買えたんだ。安い買い物だよ」
「安くはないよ」
「安いさ」
驚きのお値段です、とテレビショッピングを真似てわざとふざけて言うと、腕の中の女は少し笑った。キリコも笑い、BJからティーカップを取ってテーブルに置き、抱き込んでキスをする。ハーブティの香りがした。
無駄な延命じゃないならいい仕事をした、とキリコなりの賛辞を口にし、いつもいい仕事しかしない、とBJは減らず口を返してまたキスをする。それからBJは溜息をついた。
「仕方ない。ご祝儀みたいなもんだ」
「ああ、結婚するから?」
「そう。しかももう患者のお腹に子供がいたし。気が付いてなかったから教えたら泣いて喜んでた」
「──そういうの、女医はすぐ気が付くよなあ」
「そう?」
「俺が知る限りはそう」
「そっか。まあ、おめでとうってことでね」
「そうだな」
「結局、赤ちゃんに500万あげることにした。実質ただ働きです! 何てことでしょう!」
腕の中で自棄のように伸びをする女に唖然とした後、それからキリコは笑い出した。予想外の結末だ。だがそれは聞いている方にとっては心地良い部類に入る結末だった。笑うな、とBJは怒った振りをして、それから一緒に笑い出した。
「おまえはすごいな」
「そう?」
「すごいよ。命がふたつ繋がった」
「母胎の投薬が制限されるから大変だけどね」
「それでもよかっただろう。おまえはすごいよ」
手放しの称賛にBJはまた笑う。終末医療の観点に立てば対立する立場のはずなのに、こんな時には真実、医者としての根本を見せる男をこの上なく愛しいと思った。救える命は救う。それがドクター・キリコの根底にあることを知れる瞬間、どれほど嬉しいのか、どれほどこの男が愛しくなるのか、誰にどう説明すればいいのか分からない。
「じゃあ、キリコからもご祝儀あげてよ」
「予想はついたが、一応訊いてやるよ。何だ?」
「投薬計画の見直し。わたしので完璧だけど、ご祝儀に参加させてあげる」
「要は俺までただ働きさせる気か」
「ご祝儀だってば」
「縁もゆかりもないのに?」
「わたしから縁が出来たからいいじゃない。──こっち来て、カルテの写しを持って来たから」
「ったく、この時間から頭を使えって?」
何のためのハーブティだったのか、とキリコは溜息をつく。自分には一銭にもならない仕事を押しつけられ、しかも細心の注意が必要な投薬計画だ。いくらキリコがBJよりも得意な分野とはいえ、せっかくハーブティで鎮めた一日の神経疲労がまたぞろ復活しそうだった。
そもそもこの後はベッドで──そんな予定も立てていたというのに。セックスの雰囲気作りにはハーブティや香りも効果的だ。腕の中で穏やかな精神状態になったBJをこのまま可愛がり始めようと思っていたのに。
「だから早く。先に目を通してよ」
先に、という言葉にやや含みを持たせた言い方に、BJは我ながら少し赤くなる。無論理解したキリコは内心でこのプレイ・イノセントめ、可愛いじゃねえか、といつも思うことを飽きるはずもなくまた思い、分かったよと言って手を引かれるままに立ち上がる。
家の中だと言うのに手を繋いで向かった先は寝室だ。BJは早速医療鞄の中からカルテの写しを出してキリコに見せる。キリコは諦めたと言えば諦めた顔で受け取ってベッドに座り、身体をべたりと寄せて隣に座ったBJへの反応を忘れて文字に目を落とした。普段ならBJは気分を損ねるところだが、今は満足だった。──わたしの男が真摯で誠実な医者になる瞬間なんだもの、最高に素敵じゃない?
「これじゃ多い。腎臓に負担がかかる」
「ふうん」
「こっちは──違うな、これじゃない」
あっという間に有能な医者の顔になった男はベッドに女を残し、カルテの写しを持って書斎へ行ってしまった。BJは一緒に行こうかと一瞬思ったが、不意に一人で笑い、ベッドに飛び込むように倒れ込んだ。自分でも止められないほど頬が緩む。ああ、好き、と思った。──好き。わたしの好きなキリコが、わたしの好きな医者の顔になる瞬間が本当に大好き。
今頃書斎で関係書籍や過去の例を紐解き、BJの計画書に訂正や補足を入れているだろう。その横顔はBJが見ればきっととても魅力的で、歌を歌ってくれた時のようにうっとりして魅入られてしまうに違いない。
ベッドでキリコを待ちながらあの歌を口ずさむ。──川がいつか海へと流れゆくように、愛しいきみよ。──やっぱりキリコが歌った方が好き、と思った。
キリコが書斎へ籠もってからしばらく経ち、少し長く待っているな、という体感を得て時計を見る。30分が経過していた。ううん、と少し唸ってから考え、よし、と起き上がった。
こういうのはキリコの方が得意なんだけど。そう思いながらバスローブを脱ぎ、下着も取ってしまう。こういうのは──薬も心療内科も、それからわたしを誘うことも、キリコの方が得意なんだけど、たまにはね。
照明を間接照明に切り替えて、毛布の中へ潜り込んだ。キリコのにおいがした。自分からも甘いバニラのような香りがして嬉しくなった。ふたつの香りが心地良く混ざり合ったからだった。心地良くなりすぎて睡魔の気配を感じ、思わず欠伸をしてしまった。カナダでの仕事、ワシントンまでのフライト、大統領一家との夕食と、疲れていないはずがない。慌てて自分に起きろと命じる。
やがて写しを持ったキリコが寝室へ戻ってくる。ドアを開けるなり静かに、だが嬉しそうに「Wow」と世界中の誰もが思い描くネイティブのアメリカ人の驚きの声を漏らし、毛布の中で温まっていたBJを得意にさせる。
「マフィン?」
カルテの写しを置いてベッドに腰掛け、あの低くて甘い声で呼んでくれることに満足した。わたしが仕掛けた時間に乗ってくれるんだ、と嬉しくなった。だから雰囲気を壊さないように、少し苦手でわざとらしくなっても、きっと喜んでくれる艶っぽい声で呼ぼう。ハン、遅かったのね、待ちくたびれちゃった──そう言おうとした。確かにそう言おうとして口を開いたのに。
「……っ」
キリコが噴き出す衝動を堪えて顔を背け、しかし耐え切れないのか肩を震わせている。BJは「あああ」と悲鳴のような呻きを上げて頭から毛布を被る。あっという間に作り上げた夜の時間が崩れ去る。
当然だ。疲れと眠気と毛布の暖かさに完全敗北して、大欠伸をしてしまったのだから。
「駄目、無理、わたしなんか」
「何が駄目なんだ、可愛い。──可愛いよ。最高だ」
笑いながら毛布の上から抱き締められても恥ずかしいものは恥ずかしい。確かにこういうのはキリコの方が得意だ。だからと言ってこんな失敗をするなんて!
「たまには」
毛布の中からかろうじて顔だけを出して呻く。キリコは笑っている。それが悔しいし恥ずかしい。
「うん?」
「たまには、わたしが誘ってみてもいいかと思ったのに」
「誘われてるよ。この上なくね」
「プレスリーが似合うような雰囲気にしたかったのに」
キリコはぽかんとBJを見つめた後、やがて理解してすぐに微笑んだ。ああ、可愛いな、と思った。
カルテの写しを見ながら、あの患者の状態からこの技術を投入して成功させるなんて、と畏怖していたばかりだった。
それなのにここにいる女はどうだ。ベッドで男を喜ばせようとして失敗して、顔を真っ赤にして恥ずかしがっている。可愛くて愛しくてたまらなかった。
毛布の隙間から覗く、命を繋いだ指を取って口づける。愛しくてたまらなかった。かつては俺の命をも繋いだ指なのだと強く思って、また愛しさが募る。
「ベッドで他の男の名前を出すなんてマナー違反だ」
「プレスリーでも?」
「駄目だ。少しお仕置きが必要だな」
「やだ、怖い」
もちろんキリコの軽口だと分かって、怖いと言いながらBJはくすくす笑う。失敗した雰囲気をすぐに作り直してくれる男が本当に好きだと思った。
取られた指はいつの間にか絡められて、触れるだけのキスはすぐに深くなる。
手を握って、と言われた。なあに、と言いながら言われた通りにする。今日はずっと手を繋いでいるんだ、と優しく命じられた。それがお仕置きなの、と笑って好きな男に問うと、優しく笑って、そうだよ、ずっとだ、と、あの低くて甘い声で言ってくれた。何て幸せなペナルティなのだろうかと嬉しくなった。
肌を合わせて熱を共有して、ふたりの香りが混ざり合い、湿った吐息と喘ぎが空間を埋めていく。可愛い、綺麗だよ、と何度も言って、何度も言われて幸せだった。深い快楽は愛しさの上にある。愛していると先に言ったのはどちらだっただろう。どちらでもよかった。愛していると言いたかったから言った。それでよかった。
「明日はどうしようか」
髪を撫でながら問われ、男性という生物としてはもう昂ぶった熱が収まっても、必ずこうして甘やかしてくれる男をまた愛していると思いながら、腕の中でBJは睡魔に添い寝を許しつつ考える。明日、明日はどうしよう──うまく頭が働かなかった。
「キリコの」
「うん」
「キリコの好きにして」
「それはまた、すごい誘い文句だな」
驚いた、と笑うキリコに、何がおかしいのと言い返す間もなく、BJは好きな男の腕と香りの中で幸せな眠りに落ちていた。
キリコは眠ったBJにキスをし、しばらく寝顔を眺める。明日はカルテの写しを見せて、患者について少し話すだろう。BJはカナダの病院に電話をして新しい投薬計画を伝えるだろう。
それからは二人の時間だ。ふたりきりで何をしよう。それからふと自分がおかしくなった。こんな歳になっても、好きな女と休日をどう過ごそうかと楽しみに考える自分がいる。いい歳なのにな、と思った。
それでも構わなかった。愛している女と過ごす時間を楽しみにする自分が好きだと思えたし、腕の中で眠る女がただただ愛おしくてたまらない。
BJにもう一度キスをして、毛布を肩まで引き上げる。身を寄せるように身動いたBJを微笑んで抱き直し、明日の予定は明日考えようと決めて目を閉じた。今は愛しい女と肌を寄せていたかった。
いっそ命ごと僕の手を握っておくれ
きみを愛さずにいられないんだ
愛さずにいられないんだよ