ボンボンショコラは計画的に

 4人集まればうちのリビングでお茶をするのは珍しくない。天気がいい日はテラスで。大抵は(キリコいわく)かしましい女3人の井戸端会議になる。
「わあ、このチョコ好きなのよさ!」
「ノイハウスの。先生、ここのが好きでしょう」
「うん、大好き。アプリコットジャムのプラリーヌは? わたしがもらっていい?」
 わたしの家で集まって話す時は日本語だけって決まってるけど、キリコはネイティブ並み、ユリさんも日常会話やちょっとしたビジネス会話を凄く達者に話せるから、そんなルールがあっても全く困らなかった。この兄妹は人間のポテンシャルと教育レベルが高すぎる。
 キリコは黙って相槌を打つか、そのうち相槌を打つのもやめて新聞を読み出したりする。でもしっかり話を聞いてはいるようで、たまにわたしとユリさんが意見の相違で微妙な雰囲気になる直前、変な茶々を入れて空気を修正する。わたしの彼氏は有能過ぎてたまんない、って思う瞬間。
「このブランケット、素敵ね。先生って結構ブリティッシュな小物が好きでしょう?」
 英国風チェックのブランケットを手に取って、ユリさんが褒めてくれた。
 今日はテラスで、ちょっと美味しいチョコレートとコーヒーを楽しむ。冬の厳しい海風が少し柔らかくなって来ていたから、晴れた海を見ながら話すのも楽しいかと思って。
 でも寒いことは確かだから、ブランケットと小さなストーブは必須。誰にも言ったことはないけど、キリコとロンドンで泊まったホテルのテラスみたいで、ちょっと好きな組み合わせだった。
「そうかも」
「何、そうかもって」
「あんまり意識したことないけど、確かにブリティッシュな物よく買っちゃうなって、今思った」
「ああ、いるいる、こういう無自覚な人」
「ちぇんちぇい、ロンドンに行くといつもよりお土産が多いのよさ」
「え、そう?」
「そうなのわよ。ピノコにも服をいーっぱい買って来てくれるのよさ!」
 そうだっけ。確かに結構買っちゃうかも。ロンドンってやたら欲しいものが目に付くなあって毎回思ってたけど、そうか、わたしは英国風の物が好きってことか。
「プライベートでロンドンに行くことは? この間、にいさんと行った以外で」
「そもそもプライベートであんまり旅行しないから」
「もっとした方がいいわ。ピノコちゃんだって行きたいわよね?」
「行きたいのわよー!」
「え、そうなの」
 話は止まらない。じゃあ今度またみんなで行こう、次に長めの休暇を取るならあの時期で、でもその頃って混んでるし、だったら少しずらして──本当に話は止まらないし、そのうち全然違う話になる。いつの間にかキリコは新聞を開いている。
 わたしはこの時間が嫌いじゃない。ユリさんは楽しい話し方をしてくれるし、ピノコは最近ユリさんみたいにしっかり自己主張しつつも他人を尊重する話し方を真似るようになってきたし。わたしの話し方に似ない方がいいと思うので、これは幸運としか思えない。
 コーヒーカップが空になっても話は止まらない。途中でキリコがいなくなった。何かと思ったらコーヒーを淹れ直して来てくれた。三者三様に「ありがとう」って言ったら、芝居気たっぷりに「御用はいつでも、お嬢様がた」なんて言ってまた新聞を開く。
 真冬はあんなに冷たくて痛いほどだった海風も、やっぱりまだ冷たいけど、でもずっと柔らかくなっている。天気が良くて海面がきらめいて綺麗だった。
「チョコがもうなくなっちゃうのよさ」
 あれだけ話しながらもしっかり飲み食いをする自分たちに、たまに感心する。今もそう。ユリさんが選んでお土産に持って来てくれたチョコレートはもうなくなりそうだった。20粒はあったアソートなのに、もう2粒しか残ってない。
「にいさん、全然食べてないでしょ。食べてよ、なくなっちゃうわよ」
「おまえたちで片付けろよ」
「残り物なんていらないわ。ピノコちゃん、パンケーキでも焼かない?」
「焼くのよさ!」
 二人はあっという間にテラスを抜け、キッチンへ消えて行った。料理なんてできないわたしは最初から頭数に入れてもらえない。美味しいパンケーキが産み出されるまでおとなしく待ってるのが最善。
「毎度思うんだが」
 ピノコがいなくなったから、煙草に火を点けてキリコが言った。
「これだけ食ってパンケーキか。フードファイターでも目指してるのかよ」
「え、でもチョコレートってすぐなくなっちゃうし、お腹に溜まらないし」
「ああそう。──おまえが食べていいよ」
「残り物なんていらないわ」
 残ったチョコレートをわたしに勧めるキリコに、ユリさんの台詞を真似て言う。キリコは苦笑して、妹が自分のために残してくれた2粒のチョコレートの1粒をわたしの口に持って来る。それから、あの低くて甘い声。
「Say ahh」
 あーんして、って言われても、あの、その声でそういうこと言われると正直かっこよすぎるんだけど、今はそんな時じゃなくって、って言うかそもそもこのチョコレートはキリコの。
「いらないってば」
「もう1粒は俺の」
 そう言うことなら遠慮なく。これ美味しいから。I say “ahh”、わたしはあーんって言います。
 喜んで開いた口へぽんと入れられたチョコレートの次に、ええ、予想済みでしたとも、ちゅっとキスされる。嬉しくて笑った。流石にピノコの前ではできないからこの隙に、ってとこ。
「旅行ね。予算を立てておいた方が良さそうだな」
「キリコが払うなんて言ってないけど」
「まだ言ってないってだけだ」
「勝手に予想しやがって」
 でもたぶんそうなる。別にわたしたちが無理矢理たかってるわけじゃなくて(と信じたい)、気付けばいつもキリコが全部手配して、全部精算してる。
 ここだけの話、わたしも払うって言ったこともあるんだけど、キリコが凄く嫌がった。「俺は古い男なんだ、女は金の話なんかしなくていい」って。更にここだけの話、それだけでわたしは倒れちゃうんじゃないかって思ったくらいかっこよかった。お金大好き、彼氏も大好き。
「ロンドン以外にするか? どこがいいんだ」
「そう訊かれると分からないんだよなあ。ピノコが行きたいとこ?」
「お嬢ちゃんに訊いたらおまえが行きたいところって言うだろうよ」
 もう、可愛い、絶対そう言うよね、あの子。可愛い。もっと自己主張してもいいけど。でもあっさり想像できちゃうから可愛い。
「じゃあユリさんが行きたいとこ」
「おまえがリラックスできない派手な場所ばっかりでよければ」
 言われてみればそうかも。ユリさんってお洒落で流行に敏感だから、派手な場所で楽しむのが凄く上手い。わたしは無理。そういう場所は気が引ける。
「じゃあキリコが行きたいとこにすれば?」
「温泉。日本の」
 ちょうどコーヒーを啜ろうとしたわたしはその答えに噴きそうになった。辛うじて堪えた。よりによって温泉、しかも即答。
「まさかの温泉。スパじゃなくて温泉?」
「スパだと湯温が低いから、あんまり好きじゃないんだよ。最近はどこも観光客の女ばっかりでうるさいし」
「一緒に行くのは観光客の女ばっかりなんだけど」
「これ以上うるさくなるってことだろう、耐え難い。神の試練ぞ如何ばかり」
「ムカつく」
 微妙に古い日本語の言い回しが上手いのもムカつく。かっこいいけど。
 キッチンからいいにおいがして来た。ピノコとユリさんの笑い声も聴こえる。もうすぐ美味しいパンケーキがお出ましなんだろうな。生地は甘みがほとんどなくて、ピノコとユリさんのは生クリームとメープルシロップたっぷりで、わたしのはバターと蜂蜜たっぷりで、キリコのはハーブが入った生地に塩バターがひとかけ。みんないつものやつ。いつの間にか決まってたいつものやつ。
「じゃあ温泉にする?」
「冗談だよ。おまえたちで決めろ。温泉は行きたい時におまえと行く」
 一人で行く、って言わないあたり、わたしの性格がよく分かってる。嬉しい。
 本当にいいおとこだなあ、って、こんな小さいことでも思う。たまにキリコが無理してたらどうしようって思ったこともあるけど、この人にとって自然なことしか言ってない、やってないんだ、って分かるようになったから、もう心配しなくなった。
 二人だけの時には格好悪いことだってあるし、まあ、それもかっこよく見えちゃうのは、きっとわたしがもう惚れ込みすぎてるだけなんだろう。
「にいさん、まだチョコレート食べてないの? 片付けたいから早く食べちゃってよ、パンケーキを持って来られないじゃない」
 新しい煙草を手に取ったタイミングでユリさんがテラスに顔を出した。キリコは肩を竦めて「うるせえな」って言って、それでも最後の1粒を摘まみ上げる。ユリさんがさっとチョコレートの空き箱を持って、またキッチンへ行ってしまった。
「う」
「あれ」
「くそ、ボンボンショコラだった」
「ノイハウスだもん」
 このブランドと言えばこのプラリーヌ、つまりフィリングが入ったボンボンチョコレート。これ忘れるべからず。
 それはもかく、齧った途端にチョコレートに包まれていたガナッシュクリームが飛び出して、キリコの指と唇を少し汚した。滅多にない小さな失敗を見てちょっと嬉しいかもしれない。
「一口で食べればよかった」
 言いながら指で唇を拭って、それから珍しく不作法に、口を少し開けて、ぺろりと唇を舐めた。
 何て言えばいいのか、ちょっと。
 うん、はっきり言って、困ったかも。
「はい」
「ああ、ありがとう」
 小さなテーブル用のナプキンを渡したけど、顔は見ないようにした。ちょっと、その、何、だから。
 かっこよかった、って言うより、何だか。
 何て言うか。
 セクシーだったから。
 もっと簡単に俗に言っちゃうと、えろかったから。
 そんなふうに考えたわたしが恥ずかしくなっちゃって。
「マフィン」
 不意にキリコの声が少し低くなって、囁くように甘くなって、ああ、だめ、降参。
 あっさり見抜かれたんだ。
 それからほんの少しだけ笑って、キリコはわたしの手にナプキンを返した。
 返す振りをして手を重ねた。
「夜になったら、海岸を散歩しようか。少しだけね」
 ユリとお嬢ちゃんが寝たらね。そう言われて返事ができなくって、顔だけが熱くなっていくのが分かって、じゃあキリコはどんな顔してわたしを見てるのか急に悔しくなっちゃって、唇をひん曲げて、ちらっとキリコを見る。
 ごめん。誰に対して謝っていいのか分かんないんだけど。ごめん。
 ごめん、無理。
「うう」
「どうした」
 分かってるくせに。たまらなくなって顔を覆って俯いたわたしに身体を寄せて、顔を近づけて、またあの低くて甘い声で囁くのって、ずるい。
「マフィン」
 ほら、それ、ずるい。
「うまく拭けないみたいだ。取ってくれよ」
 ずるい。
 そんなの言われたら、ずるい。
 キスしようってことだから。
 諦めて顔を上げて、ガナッシュクリームなんて綺麗に取れてる唇を見る。この唇とキスをしたらどれくらい幸せになれるか分かってるわたしの細胞のぜんぶが、早くはやくって騒ぎ出す。
 早くはやく。
 わたしがちょっと首を傾けたら、分かり切ってる唇が勝手に近付いてくる。
 触れる寸前からもう唇があの感触を思い出して、まるで疼くみたいで、早くはやくって──
「ちぇんちぇい、見て見て、綺麗に焼けたのわよー!」
「──そう! それは素敵、見せて!」
 わたしが思いっ切り急いで立ち上がったのと、その勢いで倒れかけたコーヒーカップを素早く抑えながら、「神よ」ってキリコが呟くのは同時だった。
「今までで一番綺麗に焼けたのよさ!」
「本当だ、美味しそう!」
「にいさん、チャイブを入れ過ぎちゃったかも──あら、先生、熱でもあるの? 気が付かなくてごめんなさいね」
「あ、そうじゃなくて、ううん」
 まだ赤かったわたしの顔を見て一瞬で何もかもを悟ったのか、ユリさんの苦笑いはずいぶん心がこもったもので、はい、すみません、謝ることじゃなさそうだけど謝りたくなっちゃう。
 ふかふかで美味しそうな、美味しいのが分かり切ってるいつものパンケーキがテーブルに並ぶ。英国風のブランケットはあたたかい。ピノコはいつも通り可愛い。ユリさんはいつも通り綺麗。
「マフィン」
 キリコは、うん。
「後でね」
 いつもよりちょっと、もう少し、かっこよかった。
 後でってなあにって無邪気に訊くピノコと、仕事の話だよって平気で嘘をつくキリコと、あらそうなの、ふうん、って凄く適当に相槌を打つユリさんに囲まれて、取り敢えずわたしは何を言えばいいのか分からなくて、バターとはちみつがたっぷりかかったパンケーキを口に運んだ。
 唇にはちみつがちょっとだけついた。拭こうと思う前に、わたしじゃなくてピノコを見て話をしていたはずのキリコが、やっぱりわたしを見ないままナプキンを差し出してくれて、何ていうか、もう、かっこよくてかっこよくて。
 かっこいい。
 でもつらい。
 わたしの彼氏、かっこよすぎてたまにつらい。