Before Anything Else



 仕事でかち合えば確実に揉める。激論と言えば聞こえはいいが、結果的には喧嘩になる。いつもそうだ。ただ、いつの頃からか──敢えて思い出さないようにしているなどとは認めたくなかった──散々に喧嘩をした後、何はどうでも食事くらいは、という流れになることも確かだった。どちらかがわざとらしい適当なペットネームを口にすることがいつの間にか合図になっていた。
 ロサンゼルスの大病院での激論の後、今日はキリコがそれを口にした。食事でもどう、ベイ。ペットネームはいつも違う。この場限りの恋人同士として遊ぶ設定だと互いに確認するためだと、今は無意識で分かっていた。
 それでも口にする時、キリコの声が先ほどまでの口論が嘘のように優しくなる。BJはそれが好きだった。少し寂しくなることには気付かない振りをした。数秒考える顔をして、いいわよ、スィーティ、と、わざとらしい女言葉でそれを受け入れた。これもこんな時の決まりになっていた。
 大都市で会う時は気が楽だ。良くも悪くも個性的な人間に慣れた人々はBJの風体を気にしない。気にするとしてもちらりと見るだけで、特に何かを言うわけでもない。並んで歩くキリコが人目を集める理由が最初は分からなかったが、二人で歩く機会が増えるにつれ、彼が他の男性よりも良い意味で目を引く──要はいい男だ──からだとやがて気付いた。気付いた時には気恥ずかしくなった。
 わたしみたいに醜い女なんかがこの男の隣を歩くなんて、周りにはどれだけ釣り合わないって思われているんだろう。そんなことを思った。だがキリコにそれを言う気にはなれなくて、その分、彼の隣を歩ける時間が嬉しい感情を素直に認めようと努めていた。あのロンドンの別れから決めていることがあるからだ。できる限り楽しむこと。好きな男と一緒にいられる時間は限られているのだから。
 それから、愛していると本気で言わない。それはキリコも心がけていることだと知っていた。雨の日に二人で決めた。確認した。愛している。けれど愛し合わない。
 キリコはBJが隣を歩く時、いつも引け目を感じていることを見抜いていた。その理由も分からなくはなかった。だが口にはしなかった。俺の立場で言うことではない。そう思っていた。
 もし本当の恋人であれば言ってやれた。先生は可愛いし、綺麗だよ。とてもね。危ういボーダーラインの上で恋人ごっこをするしかない自分では言えなかった。遊びの中で口にするにはBJにとって根深すぎる劣等感であり、責任を持って継続的にケアしてやれないことが分かっていた。
 いいや、してもいいのだ。継続的に会うことなどいくらでもできる。だがBJは言わないだろうと分かっていた。本物の恋人ではない相手に、この誇り高い女が劣等感を曝け出すはずがなかった。
「美味しい」
 キリコが選んだ店でキリコが選んだ食事を食べ、口元を綻ばせたBJはキリコを機嫌良くさせる。この男はわたしに美味しいものを食べさせるのが好きなんだ、とBJは思い、この女は俺の機嫌を良くする方法を熟知してやがるんだ、と思った。
 恋人じゃないのに。同時にそう思った。
「ベイ」
 同時にそう思ったことに気付かないように、キリコは女を呼んだ。
「なあに、スィーティ」
 気付かないようにしたんだと分かりながら、BJは男を呼んだ。
「この後は?」
「この後?」
「まだ時間があるかどうか」
 こんなことを訊かれたのは初めてだった。普段は食事をして宿泊先まで送ってもらい、男は部屋に決して入ろうとしないで、唇に触れるだけのキスをして姿を消す。
 BJは少し強く自分に言い聞かせた。──ボーダーラインから外れるな。キリコが何を考えてこんなことを言い出したか分からないけれど、わたしは今、確かに、嬉しいって思った。それは二人にとって危険な感情だ。
 断ろうと決めた。簡単な話だ。残念だけど、スィーティ、今日は時間がなくって。また誘って頂戴。そう言えばいい。
 そう言うだけだ。
「少しなら」
 違う言葉が勝手に口から飛び出した。そうじゃない、違う、すぐに訂正を。
 だができなかった。
「嬉しいよ」
 そう言ってキリコがテーブルに置いた手に自分の手を重ねたのだから、言えるはずがなかった。


 連れて行かれたのは洒落たバーだった。所謂二軒目だ。恋人同士なら別段不思議なことではない。だがBJは、二人で食事の後に違う店まで脚を伸ばすことが初めてだと思い出した。
 キリコは優しかった。少し酒が回って、少し笑うことが多くなった。同じく酒が回ったBJも笑い、キリコが何かするたびに、すてき、と素直に言ったり、何かしてくれるたびに、嬉しい、と告げた。キリコはいい気になりすぎず、だが、今の言い方は悪くないね、嬉しいよ、と素直に称賛を──ボーダーラインの上の恋人の台詞であるべき本音を──受け入れた。
 カウンターに並んで座り、話すことは他愛ない話題ばかりだ。仕事の話は決してしない。家族の話すらも。最近読んだ本、観た映画、気に入った酒の話、食べ物の話──二人で共有できて、そして今口にしているペットネームと同時に捨てられる程度の話をする。している時は心から楽しい。BJはキリコの洒落た切り返しや広い知識が好きだったし、キリコはBJの日本人女性独特の可愛い米語の発音が紡ぐ言葉が好きだった。
 やがて酔った──酔った振りをしたキリコが顔を近づけ、触れるだけの、だが丁寧なキスをする。
 キスは過去に何度もした。ロンドンで。それからあの雨の日に。だがそれ以来、ホテルの部屋の前で別れる時──ボーダーラインでの演技を終え、ペットネームを捨てる時にしかしない、互いにとっては挨拶にすぎないそれを、まるで愛おしい恋人に与えるようにされたのは初めてだった。
「ベイ」
 囁かれるような声に、返事ができなかった。
「可愛いね」
 その瞬間、泣きたくなった。ああ、と思った。ああ、──ああ、そんなの。言わないで欲しかった。
 現実に戻ってしまう。ボーダーラインから突き飛ばされてしまう。
 そんなの信じられない。わたしにそんなことを言う男がいるはずがない。
 いくらボーダーラインの上でも酷い。
「スィーティ」
 それでも怒らない。哀しいと思わないようにする。まだボーダーラインの上にいるから。
 わたしもキリコも愛し合う振りができるだけの場所だから。
 今のはただの台詞。男が年下の恋人に言う言葉としてはありきたりでつまらない台詞だから。
 だから大丈夫。哀しくない。
 泣きたくなったなんて、ちょっと飲み過ぎただけ。
「あなた、飲み過ぎよ」
 キリコはしばらくBJを見つめ、軽く息を吐き、そうだね、と言った。
「揃って、飲み過ぎたかもしれないな」
 ミスをした。キリコは認めた。──ミスをした。俺としたことが。ボーダーラインの上で隠し切れなかった。滅多にない酒の失敗だ。いいや、この女のせいだ。
 並んでグラスを傾けて話をして、この女が笑い、すてき、嬉しい、と演技に隠し損ねた感情を見せつけたからだ。俺だって隠し損ねて何が悪い。
「もう帰りたい」
 何かを感じたのか、感じたことから目を背けたかったのか、BJが言った。そうしようか、と言うしかキリコには選択肢がなかった。
 タクシーの中で肩を抱いた。抱かれた女は素直にもたれかかった。窓の外を流れる夜の景色は賑やかだ。まだボーダーラインの上にいることを言い訳に、綺麗だね、と言った。女は答えた。そうね、夜景が綺麗。
 そうじゃないよ。綺麗なのは──そう告げる前にタクシーはホテルに着いてしまった。
 いつも通り部屋の前まで送る。そこでキスをして今回の演技は終わり、ボーダーラインは消えてなくなる。
「ねえ」
 エレベーターの中でBJが静かに言った。今夜のボーダーラインでは最後の、恋人の声だった。
「うん?」
「ベイ、って。どういう意味?」
「今訊く? ずっと呼んでたのに?」
「質問するより、他のことを話したかったからよ」
「──嬉しいよ」
 米語が母国語ではないBJは、分からない単語が出た時たまにそんなことを訊く。キリコはいつもそれに丁寧に答える。
「ベイビーの略にすることもあるね」
「ペットネームも略すの? アメリカ人は合理的すぎるわ」
「最近の風潮だ。他には──そうだな、ハニーをハンって略したりね」
「ふうん」
 BJの部屋があるフロアにエレベーターが停止する。明らかにBJはゆっくりと歩き、キリコは何も言わずに歩調を合わせた。
 刻印された部屋番号が分かるほどドアが近付いた時、BJがぽつりと言った。
「飲み過ぎたの」
「そうか。ゆっくり休んで」
「酒って良くないわね」
「そう?」
「なければいいのに、って思うから」
 キリコは何も言わず、ドアの前で立ち止まり、持っていた医療鞄を差し出した。
 なければいいのに。何が、とは問わなかった。問えなかった。
 問う必要もなかった。
 そうだね。俺もそう思うよ。そう言ってしまうことが分かっていたから、問わなかった。

 ボーダーラインなんてなければいいのに。

「ベイ」
「なあに」
 おやすみ。そう言われるのだろう、いつものことだ。ボーダーラインから外れる覚悟をし、最後の挨拶と、それからキスを待つ。
 キリコは言った。
「ベイビーの略じゃなくて」
「え?」
「Before Anything Else」
「──え」
「それぞれの頭文字のBAEで、ベイ」
 BJはキリコを見上げ、大きな目を見開いた。キリコはその仕草に満足した。だから言えた。
「先生にキスしたい」
 ボーダーラインなんてなければいいのに。最後のキスの前にペットネームを捨て、ボーダーラインから降りたことを認めながら言った。
 不意にBJが顔を歪め──それが涙を堪えるためだと、なぜかキリコにはすぐに分かった──唇をぎゅっと噛んでから、医療鞄をひったくるように受け取って言った。
「駄目って言ったって、いつも勝手にするくせに」
 ニューヨークで初めてキスをした時も、その後も。言葉にしなくても表情でそう語ったBJに、キリコは微笑んだ。
 それから腕の中に女の身体を迎え入れ、抱き締めて、少しだけ深く、丁寧なキスをした。互いにボーダーラインから外れていると分かっていながらキリコはやめようと思えなかったし、BJは抵抗する素振りも見せなかった。
「おやすみ、先生。良い夜を」
 濡れた唇を指で拭って微笑みかけ、最後に額に唇を落とす。
 BJは返事をしなかった。無言で腕からすり抜けてドアを開け、背中越しにようやく「送ってくれてありがとう」と呟き、ドアの向こうへ消えて行った。
 キリコはしばらく閉じられたドアを眺めていた。やがてほんの僅かに笑ってから歩き出した。
 その笑いが自嘲だったと知る者はキリコだけだった。






 Before Anything Else / 何よりも大切