あなたが泣くことはない

 声をかけようかと思うことすらなくて良かった。愚かな女になるところだった。
 ──まあ、それもあちらには面白いトラブル程度にはなったかもしれないけど。
 小洒落たオープンエアのカフェにいる銀髪の男は隻眼という目立つはずの特徴を持っているのに、それは全く彼の魅力を損なっていなかった。道行く人々の多くが彼をちらりと見て行く姿が面白い。若い女性が二人、キリコを見て、明らかに色めいた顔で話しながら歩いて行った姿は最高に面白かった。
 通りを挟んだ向かいのカフェの一番奥の席で煙草を揉み消し、コーヒーをきっちり飲み干すと、BJは店を出た。あの男とは別の意味で目立つことは自覚しているが、幸いと言うべきかここは日本、しかも都心。心の中はどうあれど、ほとんどの人は見て見ぬ振りをしてくれる。
 面白いと思うのはここでやめた。彼に失礼だ。どうしてもカフェの前、つまり彼の前を通らなければ車を停めたパーキングへ行けないことが面倒だと思った。
 彼と一瞬、目が合った。
 すぐに逸らされた。
 それでいい、と思った。それ以上見たいとは思えなかった。
 BJを無視した彼は、隣に座る細身の女性に何事かを話しかけ、彼女を笑わせたようだった。楽しそうな女性の笑い声を背後に聞きながら、BJは先ほど終えたばかりのオペを思い出すことにして、少しの間、キリコを忘れようと努めた。


「ちぇんちぇい、ろうしたの」
「え、何?」
 夕飯後、リビングでテレビを見ていたピノコがブラウン管からBJに視線を移す。自分でもはっきり分かるほど上の空だったBJは、愛娘に声をかけられて慌てて意識を現実に戻した。
「お仕事、うまくいかなかった?」
「そんなことないよ。大成功だった。天才だもの」
「そお?」
 ピノコの訝しむ顔を見て、おどけようとして失敗したことを悟る。だがピノコに言うことでもない。心配をかけたことだけは反省しておこう。
「らって、ちぇんちぇい、帰って来てからずーっと睫毛が下を向いてるのよさ。嫌なこと、あったんれしょ」
 睫毛が下を向いているとは中々斬新だ──BJはピノコの感性に思わず唸る。同時に、その癖は意識的に直そうと決めた。プライベートならまだしも、仕事で患者に心配をかけるような材料になってはいけない。
「ないよ、何にも。疲れたのかも」
「ほんと?」
「ほんと、ほんと。心配してくれてありがと。流石私の奥さんだ。──もう風呂に入っちゃおうか。東京に行くと埃っぽくなって困るね」
「あらまんちゅ! アヒル隊長も一緒れいい?」
「いいよ」
 風呂で疲れと埃と、それから、あのカフェの光景を流してしまおう。キリコを少しの間忘れたかったのに、どうにもうまくいかなかった。仕方ないか、と思った。
 ──仕方ない。愛してるんだから。


 ピノコと一緒に早く寝てしまおう。そう思ってベッドに入ったのに、予想外、否、案の定、眠れなかった。隣のベッドではとうにピノコが寝息を立てている。しばらく目を閉じて波の音を聞きながら足掻いてみたが、やがて諦めてベッドを降りた。
 寝間着姿で家をうろつくのは嫌いだ。着替えてから部屋を出た。酒を飲むか迷い、飲まないとすぐに決める。テラスへ続く窓を開け、波の音をリビングに招き入れながら、しばらく本を読むことにした。
 仕事が忙しく、読み切れていない本が山積みになっている一角から一冊を選ぶ。それがキリコにもらった薬学の本だと知り、我知らず溜息をついた。ロンドンまで持って来てくれと言ったら、本当にそのためだけに来てくれた。その後は大騒ぎになったものの、今になれば分かる。あの時から既に、ふたりはふたりになろうとしていたのではないか。この本を口実に電話をかけなければ、今のふたりはひとりのままだったのか、あるいは他のだれかとふたりになっていたのかもしれなかった。
 カフェで一緒にいた女性は誰、と、問おうとも思えない。電話などしない。必要ない。誰かが訊けば呆れるか、それともアドバイスをしてくれる状況だが、それでも自分がキリコに何の問いかけもしないと分かっていた。
 ソファに寝そべり、本を開く。ピノコが起きている時には決してしないだらしない態度だ。元々自分は折り目正しい人間ではないとよく知っている。キリコにも呆れられた。ピノコの前じゃなければいいんだ、と言ったら笑われたことを思い出した。そしてキリコのことばかり考えてしまう自分を嫌だと思わない事実に満足した。
 入り込む海風は穏やかで、ソファに寝そべるBJの身体を優しく撫でる。風邪をひきそうだと思ったが、心地良さには抗えない。せめてもの努力として大判の膝掛を肩から巻き付け、今度こそ本に集中した。
 集中したはずなのに、これは選んだ本が悪かった。元々、キリコが先に読み終えた本をもらったのだ。キリコがマークした部分や簡単な考察の書き込みが、否が応にも彼を思い出させようとする。
 他の本を読めばいい。分かっていた。
 それでもソファから動くのが億劫で、と自分に言い訳をした。ソファから動くのが億劫で、緩慢にページをめくり続けた。たまにキリコが書いた文字を指でなぞる自分が気持ち悪いと思った。でも仕方ない、とも思った。
 ──仕方ない。愛してるんだから。


 いつの間にか眠っていたようだ。リビングの外に広がる水平線が赤くなりはじめていた。
 本を抱え、毛布のように膝掛にくるまっていた。途中から本を読むことを諦めて、キリコのことばかり考えているうちに、本を抱いて眠ってしまったのだと気付く。
 海風は冷たく、それでも優しい。導かれるようにテラスに出た。煙草に火を点け、しばらく煙をくゆらせる。もうすぐかな、と思ったその時、明け方の澄んだ空気の中、少し遠い場所から車の音が聞こえた。崖の下の坂から上がって来る車は少ない。煙草を最後まで吸い、灰皿でもみ消すとほぼ同時に、家の前に車が静かに停まった気配を感じた。
 普段なら礼儀正しく玄関から入って来る男が、直接テラスへ現れる。BJは何も言わなかった。キリコも何も言わず、BJの隣のウッドチェアに深く腰掛ける。煙草を咥えて火を点け、深く吸うと、目の前の全てを覆うような海に向けて、細く、長く煙を吐いた。
 そこにBJがいることを忘れているかのように、時間をかけてそれを繰り返す。BJも新しい煙草を咥え、キリコよりはかなり雑に煙を吐いた。
 何も言わない、自分を見ることすらしないキリコを、BJはただ眺める。普段はアイパッチと男らしいパーツの造りで見逃されがちだが、実はとても綺麗な顔をしている。その中でもBJは唇が好きだ。男らしく大きくて薄くて、たまに少し乾燥している。でもくれるキスがざらついていると感じたことはない。
 その唇を。
 不意に思った。考えないようにしていたのに、と自分を軽蔑した。
 ──その唇を、あの女性にも与えたのだろうか。
 きっとそうだろう。知っていた。あの時のキリコなら、彼女が望めばきっと、優しいキスをしてやっただろう。
 嫌だ。そう思いたくなかった。嫉妬したくなかった。でも仕方ない。そう思う自分がとても嫌だった。
 ──仕方ない。愛してるんだから。
 ああ、わたしは。
 わたしは──嫌な女だ。愚かな女だ。
 キリコが二本目の煙草を吸い終えた時、ようやく口を開く。
「きっとね」
「ん」
「心配しただろ」
 BJは返事をしなかった。知っていたからだ。この時点で謝らないのなら、キリコはそれが正しかったと結論を出していて、それはBJが関知するべき領域ではないと決めているということを。
 それでもここに来たのは彼が誠実だからだろうか。それとも言い訳をしなければと思ったのだろうか。──どちらでもよかった。BJはキリコのひとつだけの青い瞳が眺める先を見る。そこにあるのは夜明けの海原だけだった。
 優しい波の音の中、BJはキリコの言葉を待つ。
「でも、おまえが心配することは何もないよ」
 彼女はね。キリコは続けた。BJに聞かせるためではなく、ただ言葉を紡ぎたいだけのようにも見える。BJはただ、その言葉を聞き続けた。
「一度でいいから、男性とあのカフェに行ってみたかったんだって。それだけだよ」
 その後にね。キリコは続けた。
「好きな花を買って、ベッドの周りに敷き詰めて、花の香りが強過ぎて何回もくしゃみをして、こんなはずじゃなかったんだけど、って笑ってたよ」
 BJは何も言わない。きっとその時、この男も優しく、だが彼女を恥ずかしがらせない程度に笑ってやったのだろう。
「21時にちょうど、小さい頃から大事にしていたぬいぐるみを抱っこして、眠った」
 それからキリコはどんな時間を過ごしていたのだろう。BJは想像したくなかった。いつもそうだ。死神が優しい仕事をするたびに、それからどんな時間を過ごすのだろうと考えてしまう。
 この優しい男が、どうやって。
 最初から分かっていた。医者としての目は、キリコの隣にいた細身の女が病魔に侵されていることを見抜いていた。外科的な手術をするべきだと、BJでさえ迷うほどの。
 彼女の最期の願いは、きっといつもの死神にとってはイレギュラーだ。それでもかなえてやったのだろう。それくらいは分かる。分かってしまう。仕方ない。
 ──仕方ない。愛してるんだから。
 だからこそ思うのだ。
 わたしはあの時、あの時──知っていながら。事情に勘付いていながら。
 妬ましい、と思ってしまった。
 愛する男が全ての愛を、その隣にいた見知らぬ女に与えていると知っていたから。
 死神はいつもそうだ。患者を最期まで、全力で慈しんで、持ち得る愛を全て与えてしまう。
 知っていたから、事情に勘付いていながら、医者のくせに。
 嫌だ、と思ってしまった自分が、とても嫌だ。
 この男を愛するまで知らなかった自分がいる。嫌な自分に直面する。
 この男を愛さなければ知らないままでいられたはずだった。
「だから」
 キリコが言った。相変わらず海を見たまま、BJを、恋人を見ないまま。
「心配することは、何もないよ」
 謝らないのはそれがキリコの仕事であり、謝る必要がないと分かっているからだ。BJはそれすらも分かっていた。それでもこんなことを言うのは──そうだ、それも分かる。
 この男が優しすぎるからだ。
 あれは仕事だと言って終わりにすればいいのに。言う必要すらないのかもしれないのに。あの光景を見た恋人が理解をしていると分かっていても、それでも感情が揺さぶられると知っているから、今ここにいて、こんな話をした。
 愛さなければ知らずに済んだ。BJはそんな自分と向き合う。きっと醜い女だろう。鏡がなくて良かった。でも、と思う。
 でも、それでも、そう、もしも人生をやり直すことになって、愛する行方をまた選べるとしても。
 ──わたしはどうせ、またこの男を愛してしまうから。愛さなければ知らなくて済んだ自分に、きっとまた会うことになるんだ。知らないままでいる選択肢なんて、どの道あるはずがない。
 いいや、この男をまた愛せるのなら、わたしはきっと喜んで、醜いわたしと何度でも出会うんだろう。
 波の音が穏やかで、疲れた男の眠気を誘い始めたことが分かる。ねえ、と、キリコがここに来てから初めて呼んだ。
「ねえ、ハン──あなた」
 キリコがここに来てから初めてBJを見た。そして僅かに唇を笑みの形に歪めた。少し無理をして歪めたと分かっていても、BJはそれを口にすることはなかった。今は別のことを言いたかった。
 医者として認められない。この先も決して認められない。 
 認めはしない。でも──それでも。
 最期まで誠実に、全ての愛を患者に与えて、からっぽになってしまった今の姿を知っているからこそ。
「少し眠ろう。一緒に」

 わたしを愛していることを思い出して、
 もしかするとわたしじゃなくても、
 あなたが見送った誰かじゃなくて、
 生きている誰かを愛することを、また思い出すまでは。

 それまでは、わたしが抱いていてあげる。

 何度やり直したって、選び直すことになったって、醜いわたしと何度でも出会うことになっても。

 仕方ないのよ。
 愛してるんだから。

 あなたがわたしを愛していて、
 そしてきっと、何度でも、
 そう、わたし、知ってる。
 何度でもわたしを愛するように。

 わたしたちは仕方ない。
 愛してるんだから。