※作中に現代の道交法に違反する表現がありますが、当サイトBJ作品の時代設定は1980年代を想定しています。薄目でご覧頂ければ幸いです。
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今日は特に予定がない。庭の花がよく見えるリビングで寝起きの一服をしながらぼんやりと時間を過ごす。天気がいい。もう少し寝坊をしても良かったかもしれない。
コーヒーを淹れようとキッチンへ行き、水回りに多少の汚れがあることに気付いた。最近忙しかったからな、と自分に言い訳をしながらコーヒーを用意する。
カップに注いだコーヒーを持ってリビングのソファに帰る途中、電話の横に埃が溜っていることにも気付いた。最近忙しかったから──だがそこで言い訳をやめた。立て続けに目に付くと、もう気になって仕方ない。
ここには最期の時を過ごす患者が来ることもある。清潔で美しい場所であるべきだ。
次の仕事はいつだったかな、日にちが空くならハウスクリーニングを入れようかと予定を確認するためにカレンダーを見た。今日の日付けに指を置き、そこから次の仕事の日までを数えようとしたが、やめた。指を置いた数字を軽く撫で、飲む気のなくなったコーヒーをキッチンのシンクへ持って行く。
それから汚れても良いと決めている作業用の服に着替え、髪を纏めた。アイパッチは着けない。家にいる時は外していることが多かった。
急ぐ必要もないが、そこは軍隊上がりだ。掃除も整頓もお手の物。気になる部分はハウスキーパー顔負けの素早さと丁寧さで磨き上げ、あっと言う間に汚れを駆逐していく。ひとつ駆逐するたびに、よし、と満足の呟きを漏らし、次の汚れに取り掛かる。
元々こまめに掃除をするたちだ。あまり汚れが溜まっていたわけでもない。普段の家の状態と比較して気になった程度だった。素人では厄介な場所だけをハウスクリーニングに依頼することにした。
気が付けば10時だ。休憩だと決めてコーヒーを淹れる。茶菓子は煙草で充分だ。
それからふと思い立って、電話線を抜いた。
庭掃除の手順を頭の中で練りながら、夏の名残を残す庭を眺めた。秋咲きのベロニカが顔を出し始めていて、もうすぐ青紫の花が一斉に咲くのだろう、それは美しいだろうと思った。
患者が死神のエスコートを受ける場所になる時、あるいはエスコートについて相談をしに来る時、僅かばかりでも穏やかであれとの心で一年中庭の花を切らさないことにしている。そして彼ら、彼女らの多くは庭の花を見て、何かを思い出したかのように微笑むのだ。
死神は花が人の精神に及ぼす効果をよく知っていた。自分も仕事に疲弊した時、幾度この庭に救われたか分からない。
そう言えばあれは可愛かったなと思い出す。彼女が珍しく娘を連れてやって来た時、幼女の姿をした女はこまっしゃくれた顔で花を前にポーズを取り、幼女を溺愛する彼女を喜ばせていた。二人ともまとめて可愛かった、本当に可愛かったとしみじみ思い出を楽しんでから、コーヒーを飲み干して休憩終了、庭掃除の準備を始めた。
とはいえ、庭掃除もそれほどやることがない。普段は庭師に全て任せている。闇に勧められた庭師だ。最初は闇にそんな存在がいるのかとおかしくなったが、外に一切の情報を漏らさず、仕事先でどのようなものを見てしまってもすぐに忘れる生き方をしている庭師だと知ると、なるほど、俺の稼業なら、俺の家に入るのなら、こういう庭師であるべきなのだとようやく納得した。
その庭師の仕事は完璧で、実際に掃除できる場所などないに等しい。結局は庭を散策し、花の美しさを甘い香りと共に充分に楽しんで終わった。
秋は青紫のベロニカ、深まればプリムラ、長い冬に飽きる頃にはクリスマスローズが庭を覆う。それから他の花々も、まるで神業のような技術と配置で一年中美しく咲き誇るのだ。
薔薇はやめて欲しいと言ったら、庭師は理由を聞くこともなくその通りにしてくれている。あの花は美しい。だがエスコートを受けに来る患者のほとんどには、もう強すぎる香りだった。
日差しが強くなって来て、じわりと薄い汗がにじむ。まだ秋と言うには暑さが残る時期だから仕方ない。庭の散策を終わりにして部屋に戻り、シャワーを浴びることにした。
シャワーで汗と埃を洗い流して綺麗になったはずなのに、リビングに戻るなり煙草に火を点けてしまう。煙草吸いの悪癖と言えば悪癖だ。恋人も喫煙者だが、シャワーを使った後はしばらく煙を避ける。だから彼女と過ごす時間、シャワーの後は自分も煙草を控えるようになった。
軽い空腹感で昼時を知る。起きてからコーヒーしか胃に入れていない。彼女がいない時にはいつものことだ。彼女はしっかり朝食を取り、一緒にいる時には自分にも食べるよう、否、食べて当然だと言う顔で誰かに準備をさせる。彼女自身が料理をすることは決してない。
彼女の料理など食べたことがないし、食べたいとも思わない。人間誰しもそれぞれに能力というものがある。彼女の料理能力は、特定のレトルト食品を温めるだけで使い果たされてしまうのだ。
冷蔵庫を開けたらろくなものがなかった。ここ数日は買い出しもしていなかったし、彼女と外食も多かった。崖の上の家であの幼い少女の料理を食べることも増えている。自宅の食糧備蓄が疎かになる理由としては充分だ。
辛うじて生き残っていたパスタ用のゴルゴンゾーラチーズくらいしか固形物がない。これはこれで良いのさ、と栄養学について無知な振りをし、手っ取り早くカロリーを補給するためだと言い訳をしながらブランデーをグラスに注ぐ。
適当に食べて酒を飲み、飽きれば煙草を吸って、長椅子に寝転んで、買ったまま放っておいた本を拾い読みし、気ままに過ごす。抜いた電話線のことを一度だけ思い出したが、今日はこのままでいいんだと決めて、自堕落と言われそうなランチタイムを過ごした。一人だからこそ味わえるだらしのない昼時だ。患者に見られれば失望して契約破棄されそうだと思った。
もし彼女の前でこんな過ごし方をしても文句を言われないと知っている。彼女も喜んで同じような真似をするのだろうということも。小さな娘の目さえなければ、二人は基本的に自堕落だった。小洒落た映画のような休日を過ごすこともあるが、だらしのない休日も最高に好き、と彼女が笑って言っていたことを思い出した。気が向いた時に気が向いた休日を過ごせる相手だった。
寝そべって読んでいたはずの本にがくりと頭を突っ込み、半分眠りかけていたと自覚する。仰向けになりながら本を閉じてコーヒーテーブルに置こうとし、失敗して床に落とした。拾わなきゃと思う暇もなく、開いた窓から入り込む日差しと花の香りをまとった睡魔に抱かれてしまった。
目を開けたら薄暗かった。少し長い時間眠っていたようだ。むしろ午後一杯眠っていたと言ってもいいかもしれない。やたら喉が渇いているのは、朝からコーヒーと酒しか水分を摂っていなかったからに違いない。医者失格だと我ながら思う。
目覚めた時から部屋の中に感じていた気配に向かって飲み物頂戴と言うと、馬鹿じゃないの、どうせコーヒーと酒しか飲んでないんだろ、と減らず口を叩かれた。それでもキッチンへ歩いて行ってくれるのだからありがたい。
起き上がって煙草に火を点ける。庭への窓は閉まっていた。夕方になって風が冷たくなり、彼女が閉めたのだろう。コーヒーテーブルの上には片付けないまま眠ってしまったはずの食器とグラスがなく、代わりに床に落としたはずの本と、この家にはあまり似合わない、それでもきっと彼女が好んで使うだろうと思って買っておいた──彼女がそうしたがるだろうと思ってペアで買った──北欧柄のマグカップがあった。
香りからするとマグカップの中に入っているのはハイビスカスティーか。たまに寝起きや酔い覚ましに飲みたくなるので買い置きをしていたが、最近は彼女がこの家で飲むための買い置きに生まれ変わっていた。
「はい」
「ありがと」
彼女とペアのマグカップを差し出される。水かと思えば氷が入ったハイビスカスティーだった。料理の才能がなくても茶くらいは淹れられるということだ。
酒が入った寝起きの身体には嬉しい飲み物であることは間違いなく、受け取って手で彼女の上半身を引き寄せてキスをした。そのまま彼女は隣に座ったが、電気、と言ってまた立ち上がり、電気を点けたついでにカーテンを引き、自分が座っていた向かいのソファから煙草とマグカップを取って、ようやく隣に落ち着いた。
「いつ来たんだ」
「3時くらい」
言われて、時計をちらりと見る。針は18時を指していた。3時間も待っていたということになる。
「起こせばよかったのに」
「いや、生きてたんなら別にいいかなって。本読んでた」
「生きてた?」
「電話が」
「うん?」
「何回かけても、ずっと話し中だったから。何かあったんじゃないかと思って」
「──ああ、それは──そうだな、悪かったよ」
電話が通じないくらいで心配になって家まで来るなんて、と誰かが聞けば言うかもしれない。だが自分たちの世界では、最悪の事態を考えるひとつの理由としては充分なことなのだ。
自分としては今日、誰かから仕事の話をされたくなかった。ただそれだけの意味で電話線を引き抜いただけだったのに、それが彼女に心配をかける原因になってしまったとは。
「電話に出たくなかったんだ。引っこ抜いた」
「電話に?」
「今日は仕事の話をしたくなかったんだよ」
「仕事の?」
「うん」
「大丈夫?」
たちまち彼女の顔が曇る。仕事の性質上と男の性格上、決して逃れられないストレスが積み重なり過ぎたのではないかと危惧したのだ。そうじゃない、そうじゃないよと本気で笑い飛ばすと、とりあえず彼女は安心したように頷いた。
「たまには仕事をさぼりたくなったんだ」
「ふうん」
「おまえが早い時間に電話をしてくると思ってなかった。心配させてごめんね」
彼女が電話をかけてくるとしても、大抵は娘が眠った夜半だ。今日はたまたま早い時間にかける用事があったのだろうか。それにしてもタイミングが悪かったとしか言いようがない。
マグカップを口に運び、酸味の強い冷えた花茶をこの上なく美味だと感じる。アルコールを摂って眠った後の適切な水分とは何と甘露なものなのだろう。
「ピノコがね」
「お嬢ちゃん?」
「前にオペした親分の孫娘と、最近仲良くなって」
「うん」
「今日、朝から親分の家に泊まりで遊びに行ってさ。だからうちに来ないかって電話したの」
「──それは残念だった」
俺が残念だった。心から言った。彼女も、わたしも残念だったと笑いながら言った。ああもう、もったいなかった、と言いながら彼女を押し倒すように覆い被さってキスをする。押し倒された彼女はまた笑う。
「お嬢ちゃんと三人でいるのも好きだけど。たまには二人でいたかったな」
「明日の夕方までは二人だよ。その後の夕飯は一人か三人だけどね」
「それは素敵だ。夕飯は三人に決まってる。でも惜しかった」
「電話線を引っこ抜いたおまえさんが悪い」
「昨日言ってくれれば良かったのに」
言いながら額に、目元に、頬にキスをする。ちゅ、ちゅ、とわざと音を立ててこの三か所にキスをすると彼女が喜ぶと知っている。そして彼女は喜んだ。さてリボンタイをほどいて──その気になった男の指が肌の探索を始める前に、「ねえ」と彼女は言った。
「お腹すいちゃった。食べてからにしない?」
「ああ、そうだ、まずい」
彼女がまだそこまでその気になっていないことと、冷蔵庫がからっぽだと言う現実に直面する。欧米食が多い独身男が求める商品を置いた店はやや遠く、これから出ても到着が閉店時間間際になってしまう。
「脱がさなくてよかった。冷蔵庫に何もないんだよ。買い物して飯食って、おまえがその気になったらしよう。着替えて来る」
脱がさなくてよかったという現実的な感想に女は複雑な顔をし、出掛けるためにコートを羽織る。どうやら今日は小洒落た時間を過ごすことにはならないようだ。慌しく買い物をして家に帰り、自分は料理ができないから、彼が作ってくれる大雑把で適当で男らしい、でも美味しい料理をだらしなく食べて、そのままだらしない夜を過ごすことになるのだろう。
ほら、着替えて戻って来た彼はシャツとジャケット、ジーンズ姿だ。小洒落た時間には似合わない。でもふたりで過ごすだらしない時間には最高に似合う。
「煙草持った?」
「自分の分はね。おまえさんのはテーブルにあったけど?」
「ったく、持って来てくれたっていいだろうに」
「車に別のを置いてあるのかと思っただけ」
「味が変わるから置き煙草はしないんだ。エンジンかけといて」
玄関先で生命の煙を思い出し、彼女に車のキーを投げてからリビングに戻る。コーヒーテーブルにあった煙草の箱をポケットに突っ込み、そしてふと思い立って庭への窓を開け放した。帰る頃には花の香りが部屋に満ちていることだろう。
ついでに少し空気が冷えていれば彼女を抱き締める言い訳にもなる。言い訳をしなくても触れられる立場だと自負しているが、言い訳を楽しむこともまた、だらしない時間にはぴったりなのだ。
玄関を出るや否や、派手にクラクションを鳴らされて苦笑する。
「早くしてよ、早漏のくせに遅すぎない?」
「近所迷惑な真似をするな、クソビッチ。早漏じゃないのはおまえが一番よく知ってるはずだよな?」
運転席に滑り込み、助手席から手を延ばしてクラクションを鳴らした彼女に軽くキスをしてから車を発進させる。
取り止めもない話をして車を走らせているうち、不意に抜いたままの電話線を思い出した。
カレンダーの今日の日付けを、指で撫でたことも思い出した。
今日くらいは、恋人が眉を顰める仕事の話をしなくていい。
電話線は明日まで抜いたままにしておこうと決めた。
「9月6日──クロオの日、か」
「え?」
名前を呼ばれたと思った恋人は顔を上げ、運転席の男の横顔を見る。
「何?」
「おまえのことが好きすぎて、今日は仕事をさぼっちまったって話さ」
女はしばらく男の横顔を見詰めて黙り、それからにやりと笑った。横目でその笑い方を見た男もにやりと笑い返す。
「一生さぼってな。おまえさんの一人くらい、養ってやれないこともないんだから」
「そりゃあ魅力的だ。毎日が9月6日になったらぜひ頼むよ」
何それ、と女は笑った。クロオの日さ、と言って男も笑い、だから何それ、だからそのままだって、としばらく二人で笑い転げた。
「記念日じゃあるまいし、何それ」
「そうするか。そうしよう。毎年思い出すのは間違いない。日本語の語呂合わせって面白いよな」
勝手に出来上がった記念日に、二人でまた笑う。
「ねえ」
「うん?」
「何だかキスしたくなっちゃった」
「赤信号まで待ってろ」
いきなり可愛いことを言うもんだと内心で相好を崩してしまう。昔はキスひとつで真っ赤になっていたほどなのに、変われば変わるものだ。
カーブを曲がった所に見えた赤信号でこれはちょうどいいなとブレーキを踏みかけた途端、女が飛び付いて男にキスをする。あやうくハンドルを取られかけた男は冷や汗をかきながらもクラッチを切ってギアを一気に落とし、右足でブレーキとアクセルを同時に踏んで回転数を合わせ、世間様に迷惑な騒音を立てながら停止線の直前で何とか車を停めた。同時に制動で前方に放り出されかけた女を腕で抱き込むようにして抑える。
「この馬鹿、次からシートベルトを締めろ!」
「あの状態から真っ直ぐ停まった! 停止線割ってないし! すごい!」
「おまえなあ、ドリフトしちまうところだったんだぞ! 運転中に馬鹿な真似はやめろ!」
「うるさいな、大きい声を出さないで。──ねえ、そんなことより」
「何だよ」
「早く」
くい、と恋人が顎を上げ、上目遣いで可愛く、そして悪戯げに笑ってみせた。男が最高に好きな顔のひとつだと知り尽くしているからこその笑い方だった。
「ちゅーして」
反省の色がない女に深く、深く溜息をつく。だが男の手はたかが信号待ちなのにサイドブレーキを上げていた。仕方ない。この顔をされた挙句にこの言い方でこの要求。撥ねつけられるような男がいたらお目にかかってみたい。
片手で恋人を抱き寄せ、深いキスを仕掛けた。俺が後続車のドライバーなら思いっ切りクラクションをぶっ叩くだろうね、と思いながら。
「ねえ、早く買い物して帰ろう。お腹すいてるんだってば」
「俺もだよ。記念日ならケーキでも買って帰るか?」
「記念日のケーキだって言うんなら、間に合わせなんかにしないでよ。馬鹿」
「それは失礼」
「間に合わせのケーキなんかいらないけど、それなら」
「うん?」
「わたしの記念日なんだから、ケーキなんかより」
うんと甘く、朝まで抱いて。
BJが明らかに意識的に、艶を纏った声で囁いて、笑う。
思わず見惚れたキリコはあっさり生まれかけた熱を逃がすため、がう、とわざと狼の唸り声を真似てから、それを面白がって笑い出した女の唇を噛み付くように塞ぐ。
遂に鳴らされた後続車のクラクションは聞こえない振りをして、しばらく時間をかけて、日常ではあまりしない、少し特別で丁寧なキスをした。
食料を買い溜めして、大雑把に作った夕飯を食べて、花の香りが今頃きっと溢れているリビングでだらしなく過ごしてから、彼女を抱き締めて、朝まで最高に甘い時間とキスを繰り返そう。何度言うか今から分からない。何度も言うだろう。いつだって何度も言うけれど、今日はことさらに甘い言葉に聞こえるだろう。
いつの頃からか愛に馴染んで、同じ体温で溶け合うようになっても、いいや、なったからこそ、たまにはことさらに、わざとらしいと思われるほどに甘く、それでも恋人が喜んでくれると知っているから言いたくなる。だから心から言うだろう。愛してるよ。
おまえを必ず思い出す記念日なら、来年もその次も、それからずっとその次も、今日だけは電話線を引っこ抜こう。
愛してる。
愛してるよ。
何度だって言うよ。
おまえが俺の愛のすべてだって、何度でも。