ひたすらに忍耐しなければならない時もある

SSとか

キリコとモブ女が絡みますので苦手な人は回避を。先生は出ません。特に深い意味のない話です。キリコの忍耐力についてというところでしょうか。作中でお借りした曲は1981年にヒットした「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」です。

 闇でも、と言うよりは、闇だからこそ手厚い接待が行われることも多い。特にマフィアを始めとした非合法組織は熱心だ。受け入れて「依頼の件を表沙汰にしない」という確約の意志を依頼者に示す効果もある。双方の安全を確保するためにも、仕事を受ける大抵の人間は受け入れることが多かった。
 キリコも例外ではなく、以前より数は減ったものの、酒食の饗応程度なら付き合うようにしていた。青臭い正義感で断れるほど自分の能力を過信しているわけではない。
 以前はダイレクトに女をあてがわれることも多かった。例外なく見た目もサービス内容も最高級の美女で、彼女たちと過ごすひと晩は悪くない思いができる。今でもそんな話を持ちかけられることはあるが、片っ端から断るようにしていた。
 断る理由が知れ渡るまでそれほど時間はかからなかった。──いわく、嫁の悋気がすごいらしい。そんな噂、否、真実が知られれば、そしてその嫁とやらの正体がかのモグリの外科医なら、「あの女にどんな報復をされるか分かったもんじゃない」とばかりに性的な接待は鳴りを潜めることになる。
 だが、酒宴に添えられる華については拒否をしない。甲斐甲斐しく酒を継ぎ、あれこれと世話を焼こうとする美女を心底忌避できるほど、キリコは聖人君子になれなかった。ただしBJに知られた時に備えて指一本触れない、自分から話しかけることもない。
 男として拷問だよな、と思う場面もよくあった。さりとて軽はずみな真似をして、後々の地獄を自ら引き寄せる勇気はなかった。
 闇の世界の噂は早い。相手をした女にうっかりでも触れれば、わたしはかのドクター・キリコを落としたのよと尾鰭を付けて吹聴しかねない。くだらない見栄のようにも思えるが、「滅多になびかない有名人」に好感触を得るということは、闇に関わる女にとって自分の有能さや商品価値をアピールする重大な要素になる。吹聴してこそ価値が出る。
 だがどんな事情があろうとBJには関係ない。わたしの男がわたし以外の女と仲良くした! それだけで地獄の幕開けだ。欲求に任せてセックスなぞしようものなら天使が第七のラッパを慌てて吹くに違いない。
 今日の仕事先はニューヨーク。長い付き合いのあるマフィアの大物からの依頼だった。安楽死ではない。彼の思春期の息子のメンタルケアだった。診たキリコからすれば特に重大な問題はなく、必要であれば10代向けのカウンセラーを手配すれば良いと思う程度だった。だが闇の大物は過保護になることも多く、今回の依頼主もそのタイプであり、どうしてもドクター・キリコに今後も診て頂きたいと頼み込んで来た。息子本人もそれを希望したので、では必要な期間だけ、と長期的な契約を結ぶことにした。
 そのせいか、彼が用意した酒宴は普段よりも力の入ったものだった。料理と酒は紛うことなき一流レベルだ。そして華となる女たちも。
 ドクターが愛妻家なのはよく知っているよ、とボスは笑ったが、その笑顔には「気に入った女がいれば連れて行け、BJには黙っておいてやるから」という言葉がはっきりと書かれている。
 女たちも例の噂をしっかりと知っていて、その噂をいわば「超える」ことがどれほど自分のステータスになるかを理解しているためか、それぞれ見事としか言いようのない接待振りを先を争うように見せつけてくれた。ああ、拷問だ、とキリコは彼女たちを冷たくあしらいながら心底思っていた。
 用意された席はいわゆるパーティだ。たかが息子のカウンセリングくらいでよくここまでやるもんだ、とキリコが思う程度には賑やかだった。上流階級の社交界を気取った場はほどよく盛り上がり、ニューヨークならではのセンスを振り撒いた華やかなフロアになっている。
 キリコは顔見知りを数人見つけて話しかけ、女たちからの防波堤にした。彼らはすぐに事情を察し、あの奥さんがそんな悋気の持ち主だなんて信じられないよ、と言いながらもさりげなく協力してくれた。自分好みの女を見つけ、姿を消した者もいた。ギブアンドテイクの成立だ、とキリコは自分を納得させた。
 だが時間が経ち、やや過ぎた酒がフロアに充満し始めると、少しずつキリコの周囲には知人よりも虎視眈々とチャンスを狙う女の方が多くなってくる。いっそホテルへ引き上げたかったが、自分のために開かれている場から消えて良いタイミングではない。
 それにこのタイミングで消えれば、好みの女を連れて行ったのではないか、いいやそうに違いない、と勝手な噂が生まれかねなかった。ボスと最後まで時間を過ごす必要があった。そのボスはこの機に乗じて会場に現れた地元の有力者と話し込んでいる。ホストのくせに主賓を放っておくとは無礼なものだ、とキリコは独りごちた。
 心の中で涙を呑みながら、まとわりつく女たちを辛抱強く念入りに冷たくあしらっていると、やがてその努力は報われ始める。脈がないと理解した女はひとり、またひとりと離れ、フロアにいる他の客の中に自分の価値を高めてくれる男(あるいは女)はいないかと探しに行き始めた。
 それでも諦めずにキリコに話しかけ、あしらわれ続ける女もいる。ボスが用意した中ではもっとも美しく、会話も機転が利き、目端が利いて男の世話を完璧に焼く女だった。まったく、本当に。キリコは思う。まったく、本当に、どんな拷問だ。俺が何をしたって言うんだ。
 腕時計にちらりと目をやると、場の解散まではやや間があるが、主賓がホストに挨拶をするならほどなくして適したタイミングになる時間だった。煙草でも吸ってやり過ごそうと思い、ワイングラスを持ってバルコニーへ出る。それだけでフロアの喧噪は僅かに遠ざかり、夜風がアルコールの始末に力を貸してくれた。雲ひとつない夜空に浮かぶ月はいやに冴え冴えとし、キリコの苦労を冷ややかに見つめているようだった。
 まあ、うん。キリコはやはり心の中で涙を呑む。
 あの女が自分の魅力を最大限に理解した歩き方で現れれば、それはもう呑まざるを得ないのだ。
 それに気付いたフロアの一部の人間たちが興味津々で観察を始めたこともひしひしと感じた。ここで何かひとつでもミスをすれば、勝手な噂はあっという間に尾鰭に背鰭、腹鰭までついた魚に変身し、日本の崖の上にある家に一直線に泳いで行ってしまうことだろう。
 まあ、ドクター。酔い覚ましかしら?
 いかにも偶然だと言いたげに、だが本当は分かっているわよねと半ば露骨に滲ませながら、女はキリコからほんの少し距離を取った場所に立った。胸元が大きく開いたイブニングドレスから覗く白く魅力的な乳房を絶対に見てはならぬと自分に言い聞かせながら、キリコは返事をしなかった。ああ、月明かりを浴びておそろしく美しい乳房であろうに。
 女は笑った。そんなに警戒しないで。こんな席、長くいたら疲れちゃうわよね。わたしみたいな女も鬱陶しいでしょうし。
 なるほど、なるほど。キリコは内心で彼女を評価する。手練手管はいくつも持つ。そんな女は嫌いではなかった。彼女よりも背中に集中する好奇の視線の方が鬱陶しかった。
 ドクターも大変ね。仕事だけじゃなくて、こういう席にもたくさん出るんでしょう。でもね、ここまでのパーティってあまりやらないのよ。わたしが呼ばれるのも滅多になくて──今夜は1度会ってみたかったドクター・キリコが来るって聞いたから、ちょっと気合いを入れて来たんだけどね。
 キリコは返事をしない。女はほどよい声の大きさと甘ったるさで話し続けた。なるほど、とやはり感心する。邪魔にならない、だがしっかりと自分の声を印象づける話術を身につけている。話の合間に見せつける仕草はやり過ぎない程度にセクシャルで魅力的だ。頑なに心を閉ざした男でも、あっという間に甘く蕩けて鍵を開いてしまうことだろう。ああ、そういや俺が得意な方法だ、これ。あいつが機嫌を悪くした時によく使う。それ以前はさっさと口説いてやりたい女がいたらよく使っ……まあいい、忘れておこう。そう思いながら煙草に火を点けた。
 女はやがて苦笑し、分かってたわ、うまくいかないって。そう言った。どうやら手を変えたな、とキリコは判断する。難物に対する女の腕の見せ所だろう。
 いい時間潰しの相手になれていたらいいんだけど。きっともう会えないだろううから、こうしてくれただけでも嬉しい。ああそうかい、できれば朝までご一緒したいところだよ、と心底思いつつ、キリコはやはり返事をしなかった。
 女が自分の横顔を見上げていることが分かる。甘ったるい、だが情熱的な瞳であることもよく分かる。最終段階だな。そう断じた時、女は言った。
 ねえ、わたし、歌が好きなの。昔は歌手を目指してたのよ。ニューヨークに来たのも本当は歌手になるためだったの。
 はい出た、最終兵器。ロマンティックな曲を少し掠れてセクシーな声で歌えば一丁上がり、っていう男が過去に多かったんだろう。キリコがそんなことを思っているなどと考えもせず、女はゆっくりと、いかに自分が歌を愛しているか、今でも諦めてはいない、こんな夜には少し寂しくなって歌いたくなる──所々に健気な女性像をにおわせるワードをまじえるのは大したものだ、とキリコは高く評価した。
 少し聴いてよ。女は言った。キリコは答えなかった。心の中ではいいね、ぜひ、きみの歌はきっとこの上なくセクシーで魅力的だろう、ベッドの中みたいにね、と思っていても。
 女の形の良い唇から甘い歌詞と旋律が流れ出した。夜の空気の中に広がるそれは存外と正確で、高い技術を持っていることが分かる。歌が好きなのは嘘ではないのかもしれない。
 一生にたったいちどの出会いよ、心乱す人。女は歌う。狡猾な選曲だ、とキリコは思う。街はまだ夢の中、目を覚ましてもここにいるの、遠くにあの人を残していても。非常に狡猾だ。キリコは拍手したくなる。ニューヨーク・シティ・セレナーデ、少し昔に全米どころか世界でも大ヒットした曲だ。
 女は歌う。盛り上がるサビを敢えて抑えた、だが掠れさせることを忘れない技術にキリコは感心することしきりだった。ニューヨークと月のはざまで出会ったら、寂しいことを言わないで。ニューヨークと月のはざまで出会ったら、きっと、恋に落ちるしかないのだから。
 ブラヴォ、最高だ、まったくもって恋に落ちたい気分にならざるを得ないよ、ひと晩だけでもね。キリコは本気で絶賛した。もちろん心の中だけで。選曲も歌い方も見事なものだ。この場の雰囲気は一気に男女の色めいた空間になろうとしている。
 ああ、素晴らしい。なんて。キリコは思う。心底思う。
 熱っぽく潤ませた目元で見上げる女の気配を感じながら、心底、本気で思う。
 まったく! 本当に! どんな拷問だ! 俺が何をしたって言うんだ!
 初めて、キリコは女を見た。それだけで背後がどよめき、女がしてやったりの感情を隠す。
 我ながら優しく、穏やかに、丁寧な声で言った。いい声だ、素敵な歌だ。女は嬉しそうな、そして勝利感を滲ませた笑顔を浮かべた。してやったり、これでこの男は手中に落ちた! だからキリコは言った。

「妻にも聴かせてあげたかった」

 笑顔を凍り付かせるだけで済ませた女のプロ意識とプライドを絶賛したくなる。だから絶賛した。心の中で。背後の野次馬たちは露骨に落胆の声を上げている。キリコは彼女に初めて笑顔を見せてから、ゆっくりとした余裕のある足取りでフロアへ戻ったのだった。
 その紳士然とした姿に感銘を受けた人々は、やっぱりドクター・キリコはすごい、ブラック・ジャックは幸せ者だ、しかしあの外科医はそんなに悋気が強いのか、と勝手に盛り上がっていた。ドクター・キリコの最後の笑顔に心からの無念が込められていたことなど知りもせずに。

SSとか

Posted by ringorira