イニシャルG

SSとか

あの害虫が関わる話なので苦手な方はお読みにならないで下さい。先生と赤毛の会話がメインなのでキリジャをお求めの方には向いていません。

 平和な昼下がり、ワシントンはドクター・キリコのアパートメントで女たちの悲鳴が上がった。家の唯一の男性であり、このような時には必ず問題を解決してくれるキリコは仕事でフォート・デトリックにいる。
 にいさんに帰って来てもらいましょう、とユリが言った。それがいいのよさ、とピノコが言った。同意しかけたBJは、だがしかしキリコの仕事を邪魔してはならないと迷いに迷う。
 そこで電話に飛びついた。1コールで応答した男に思い切り哀れな声で助けを求める。とにかく助けて、家がおかしい、と滅多にない女の声でろくに事情も説明できないまま救助だけを要請すると、電話の向こうの男はすぐに上司の指示を仰ぐと約束してくれた。
 10分もしないうちに小型の軍用ジープで家の前に乗り付けたのは赤毛の少佐だ。家の護衛をしていた私服の隊員たちも合流し、ドアを叩く。
「グラディスくん、よかった、待ってたわ」
「ユリちゃんか」
「え?」
「先生じゃないってことは絶対ろくな案件じゃない」
 するとユリはあっさり悪戯げな顔をして、多くの男性に効果のある美女の上目遣いを提供した。この女は見た目だけなら極上だ、とグラディスは冷静に思った。
「そんなの通用しないよ」
「そんなのって何よ。人目があるから入って頂戴。にいさんの護衛はいいの?」
「呼び出しておいて図々しいこと言わないでよ。部下に任せて来た。終わったら戻る」
「まあ、すぐ終わると思うわよ」
「だったら自分たちで何とかできるんじゃないの。で、どういうこと?」
 あの蓮っ葉な女医が泣き声で電話をしてきた、冷静に話をすることすらできないようだと電話を取り次いだ部下に言われ、とにかく現場に行くべきだと判断してここに来たのだ。キリコには後で伝えるつもりだった。内容によっては伝えなくても構わなかった。
「ギィしゃん、よく来てくれたのよさ」
「こんにちは。先生は? あ、いた、むかつく」
「随分なご挨拶だな、この赤毛」
「赤毛って言うな、このクソビッチ」
「ピノコの前で汚い口をききなさんな」
 電話で哀れな声を出していたはずの女医は、ふてぶてしくリビングのソファで脚を組んでいた。ある程度予想をしていなかったと言えば嘘になるが、どこかで電話の通りに怖がっていて欲しいという願望があったことも認めざるを得なかった。理由は簡単だ。
「そんな態度の女性を助けたいと積極的に思う男はいないと思うよ」
「軍人だろ。働けよ」
「先生は日本人だから関係ないんだけど?」
「ユリさんは?」
「ああ、はいはい、そうですね。だから何なの」
「いちいちむかつく奴だな、口を縫うぞ」
「いい加減にしてくれない? 僕、あなたの男の警備を放り出して来てるんだけど?」
 あっさり切り札を出したのは早くフォート・デトリックに戻りたいからだ。しかもこの状況、明らかに緊急というほどではない。後でドクターに思いっきり文句言ってやる、家の女たちをどうにかしろって言ってやる、と強く思った。
「ゴキブリ」
「……は?」
「こっちだとコックローチ? が、出たんだ」
「退治すればいいじゃない」
「──怖いのよ」
 途端に弱気な女の声を出すBJに、グラディスは思い切り嫌な顔を作ってやった。後ろに控える部下2人が妙に姿勢を正したことが雰囲気で分かり、僕は今ちょっと感情のコントロールに失敗したな、と反省した。要は軽く殺意を抱いた。
「確認する」
「どうぞ」
「まさかそのためだけにデルタフォースの隊長を呼びつけたんじゃないだろうね」
「他に何が?」
「──クソビッチ、記録に残るんだよ!? あなたが! コックローチ退治のためだけに! デルタフォースの隊長を! 呼びつけたって!」
「何が悪い」
「説明されなきゃ分かんない!?」
 まあ常識的には悪いわよね、とユリはいけしゃあしゃあと呟き、まあ常識的には悪いのよさ、とピノコもいけしゃあしゃあと同意する。
「でもグラディス」
「何」
「わたしたちは非力な女性なんだ」
「肉体的にはね。口ならここにいる誰よりも強い」
「そう言うなよ。とにかく退治してくれ、たぶんまだキッチンにいるから」
「自分でやりなよ。僕は帰るし部下たちも家の警備に戻る」
「帰るのか」
「当たり前。ドクターが帰って来たらお願いすればいいでしょ」
「そうか、帰るのか。コックローチ1匹始末できないなんて、デルタを買いかぶっていたよ」
「挑発しても無駄」
 馬鹿馬鹿しくてたまらない。じゃあね、と言いかけた時、BJがにんまりと笑って言った。
「怖いんだ?」
 部下2人は思い切り背筋を伸ばす。滅多にない正式な直立不動をしたのは、隊長が殺意を部屋中に充満させたからだ。さしものピノコとユリも顔を見合わせ、先生やりすぎ、挑発しすぎ、と囁き合う。軍人にとって最大の侮辱、それは怖がりだと揶揄されることである。
 無論BJはそれを分かってやっている。伊達にアウトロー、伊達に多くの国の軍人と関わってきたわけではない。彼らの強さに敬意を払うこともあるが、今はそれよりも家の中の平和を回復させるための力が必要だった。
「デルタフォースの隊長、合衆国陸軍少佐様がコックローチを怖がるなんて意外だったよ」
「このクソビッチ」
「侮辱しないで。軍はそういうことに敏感じゃなかったかしら?」
 わざとらしい女言葉にグラディスは眉をひそめ、それから6つほどカウントした。人間の怒りは6秒で収まることが多い。今回は成功した。
「ひとつ貸しだ」
「借りなんて作りたくない」
「つまり?」
「タダでやってくれ。次に怪我したときにタダで診てやるから」
「今後あなたと関わる任務で怪我する予定なんかないよ」
「馬鹿言え、何度怪我してる?」
 グラディスは再び6つのカウントをした。ちょうど6つ数え終えた時、背後から部下の1人が声をかけてきた。
「俺がやりますよ。すぐ終わらせます」
「きみたちは外へ。通常通りの任務を」
「少佐」
「命令だ」
「イエス、サー」
 部下2人は顔を見合わせ、静かにリビングを出て行く。ちょうどドアのそばにいたユリに小声で「あまり挑発しないでやってくれ、酷すぎる」と言い置いた。ユリは頷きつつ、確かにちょっと挑発が過ぎているわ、と思った。それがBJの闇医者としての交渉態度だと分かっていても、実際に目にするとそれなりに衝撃だ。ピノコは慣れているのか肩を竦めただけだった。
「で、どうするんだ? やる? やらない?」
「あなたがここでおとなしく、今晩ドクターに叱られた時の言い訳を考えていられるなら」
「叱られると思わないけど」
「じゃあやらないよ」
「分かったよ、考えておく」
 BJが深くソファに座り直すのと、グラディスが無言でキッチンへ向かうのは同時だった。
 数分後、恐ろしく小気味良い音がする。ご苦労、とBJは呟き、ピノコとユリはグラディスのためにコーヒーでも淹れてあげたい、でもまだキッチンへ入りたくない、と煩悶した。
 やがてベルトキットに何かの袋を入れながらやって来たグラディスが「じゃあね」と言ってさっさと家を出て行こうとする。流石にBJは立ち上がり、後を追った。
「コーヒーくらい飲んで行けば? 礼も言いたいし」
「今言って」
「ありがとう」
「それでいいよ。じゃあね。仕事中なんだ」
「そこまで急がなくても」
「報告書を書いてこいつを証拠品として出さなきゃいけないんだよ」
 グラディスはファスナーを閉じたベルトキットをぽんと叩く。
「こいつ?」
「死骸」
「ひえっ」
 思わず後ずさったBJに「クソビッチ」と呟いて挨拶代わりにし、グラディスはそのまま家を出た。近くにいた部下たちにハンドサインで「完了」と示し、ジープに乗ってアクセルを踏む。
 思い切りドクターに文句を言うぞ。心の底からそう決めていた。
 残された部下たちは遠い目でジープを見送る。言いたいことは山ほどある。だが今、何よりも言いたいことはただ1つだった。
 ──あの人、コックローチが死ぬほど苦手なのに……よく頑張った……軍人の鑑だ……

 フォート・デトリックでグラディスにかつてない勢いで文句を言われたキリコは、帰宅後に女たちと話し合う。ピノコとユリは反省を見せたがBJは拗ねた態度を見せ、そっぽを向いて話を聞こうとしない。
 仕方なく、いかに軍人が今回のような状況で面倒な手続きを必要とするか、この出動1つにもどれだけの税金がかかってしまうのかと懇々と説明をしたが、それが逆効果になってしまった。
「わたしたちが助けを求めるのはそんなにいけないわけ!?」
「そうじゃない。でもこういうことは業者なり俺が帰るまで待つなり──」
「仕事の邪魔しちゃいけないと思ったから赤毛を呼んだのに!」
「気遣いは嬉しいよ。でもグラディスの迷惑を──」
「どうして赤毛をかばうわけ!? わたしより赤毛が大事なの!?」
「そんなこと一言も言ってねえだろう!」
 遂に堪忍袋の緒が切れたキリコと、どうして怒るの、最低、と身勝手極まりない感情を爆発させたBJの戦争が始まる。
「ユリしゃん」
「なあに」
 早々にキッチンへ退避したピノコとユリは夕飯の支度を始めた。出来上がる頃には喧嘩も収まっているだろう。
「今度、日本のごきぶりほいほいを持ってくるのよさ」
「そうねえ、税関通るかしら」
「あったほうがいいのわよ」
「そうねえ」
「ギィしゃんの負担を減らすのと、家の平和のためなのよさ」
「そうねえ……」
 ざっとキッチンを見回したが、どこであの生物が潰されたのか分からないほど綺麗に片付けられていた。仕事が細かい子なのよね、と年下の少佐を思い出しながら、今度会った時には美味しいコーヒーを淹れてあげようと思った。それを提案するとピノコは賛同し、美味しいクッキーも焼いてあげようと言った。リビングからは相変わらずの喧嘩が聞こえていた。

SSとか

Posted by ringorira