典型的な散財デートと思わせておいて

SSとか

どうしてこんな話になってしまったかと言うと、単に私の脳みそが疲れ果てていたからです。あまり性能が良くないんですぐ疲れる脳みそです。ところで蟹味噌が食べたいです。

 手配されたハイヤーに乗るなりヒールの靴を脱ぎ捨てたBJに笑い、キリコはドライバーに行き先を告げる。ドライバーは恭しく返事をし、丁寧にアクセルを踏んだ。
「キリコのご近所さんのホームパーティーはハードルが高いよ」
「夜だからな。ランチならカジュアルスマートでも問題ないんだが」
「大使だの将校だの。疲れた」
 どういう付き合いなの、とは訊かなかった。おそらくキリコのパトロンとの繋がりだと予想していたからだ。不可抗力がない限り、お互いにそういった存在には触れない暗黙の了解があった。
「付き合ってくれてありがとう」
「もっと言え」
「愛してるよ」
「違うけどそれでいい」
 お互いに機嫌良く笑って軽くキスをする。ついでとばかりにキリコが「可愛いね」と言うと、程よく酒が回っているBJは嬉しそうにうふふと笑った。ホームパーティーだと言う触れ込みなのにドレスコードがインフォーマル、それに付き合ってやった労がこれだけで労われた気分になれる。
 更に言うと初見の招待客たちにはキリコのパートナーということからか興味津々で話しかけられ、醜い(と本人は思い込んでいる)わたしがせめて態度だけでもキリコの恥であってはならぬ、と営業モードで甲斐甲斐しく対応してやった。それがキリコを感心させ、そして喜ばせたとは理解していないが、キリコの機嫌が終始良かったことは嬉しかった。
 このままお互いの家に帰るわけではない。今夜の集まりにパートナーとして付き合った報酬として、前もって外泊で一晩過ごす約束をしていた。BJとしては二人でいられればそれで良かったが、キリコが感謝を示すためにちょっとした非日常を用意してくれることも好きだ。そしてキリコは好きな女をちょっとした非日常に案内することが好きな男だった。
 とはいえ、今日はそこまで手の込んだ非日常ではない。いつも通りに家で二人で過ごすのではなく、たまには都内のラグジュアリーホテルに泊まってゆっくりしよう、という程度だった。それでもBJには充分贅沢に思えてしまう。
 単独の仕事では相変わらずの吝嗇家を誇り、鍵さえかかればどこにでも泊まるBJだが、海外でキリコと組んで、あるいはダブルブッキングで顔を合わせれば、キリコの意向で必ずハイクラスのホテルに泊まる。しかし国内ではほとんど外泊をしない自分たちに最近気付いた。
「日本で一緒に外に泊まるのって、鬼怒川以来」
「そうだな。──少し国内旅行もしてみようか。お嬢ちゃんも長時間のフライトよりは疲れにくいだろう」
 ピノコを当然のように頭数に入れているキリコを好きだと思う。無論BJもユリを無意識に頭数に入れている。
 心地よいドライブを提供してくれるハイヤーが都内有数のラグジュアリーホテルに向かう道すがら、国内旅行ならどこがいい、あそこがいい、と思いつきで話をした。こんな時間も充分に楽しい。キリコがずっと手を握ってくれていることも嬉しい。
 都心も都心、皇居が目の前というホテルのチェックインはハイクラスルームの宿泊客専用のクラブラウンジでスムーズに行えた。1階のレセプションが夜の混雑を起こす時間帯だったので、ホームパーティーで思ったよりも疲れていたBJにはありがたい。
 そのままラウンジのバルコニー席で丸の内の夜景を見ながら風に当たり、ウエルカムドリンクを前に一息ついていたら、同じホームパーティーに呼ばれていた夫婦に声を掛けられた。彼らもちょっとした非日常を楽しみに来たのだと言う。流れで少し談笑し、それなりに楽しんだ後、お互いに良い夜をと挨拶して別れた。こんな偶然も楽しかった。
 アテンダントに案内される道すがら、落ち着いた照明が照らし出す廊下のところどころに品よく飾られた美術品を見るのも楽しい。アテンダントは心得たもので、二人が興味を示した美術品の前では必ず足を止め、シンプルな解説をしてくれた。
 通された部屋のエントランスにもさりげなく現代彫刻が置かれていた。ガラスで作られた月だと言う。BJがしげしげとそれを見つめている間にアテンダントはキリコに部屋について簡単に説明し、丁寧にお辞儀をして出て行った。
「気に入った?」
「うん、綺麗」
 幸先のいい返事だ。キリコは笑ってキスをした。毛足の長い絨毯を踏んで廊下を歩き、メインリビングへ入る。壁一面のパノラマのような窓から都心の光景を眺めることができた。シカゴやマンハッタンのような空間全てを埋めるような摩天楼ではなく、確かに夜闇を照らしながらも、闇の吐息を邪魔することなく静かに照らし上げる都心独特の光も好きだとキリコが言った。BJも頷き、どっちも好き、と言った。また笑ってキスをした。きっと朝まで数え切れないほどにキスをするのだろうと分かっていたし、それが楽しみだった。
 クッションが並べられたソファは広いリビングに相応しい大きさで、長身のキリコが寝そべっても脚が余る心配がなさそうだ。家具も過不足なく全てが置かれ、二人で過ごすには広すぎるリビングだった。だが余分な空間が非日常の贅沢感を与えてくれる知っているBJにとってはこれもまた嬉しいことだった。
「すごい、都心でこんなに広いテラスがあるなんて」
 リビングから出られるテラスは白の床と家具で統一され、都心の夜景を一望することができた。朝になれば排気ガスで濁る前の空気を広い空間で独り占めする錯覚を楽しめるだろう。
「想像以上に広いな。精々ミニテーブルだと思ってた」
「ここなら食事もできそう。ロンドンのフォーシーズンズに負けないかも」
「あのバトラーがいない」
「確かに」
 そこでまた笑ってキスをする。
 キリコは可能な時は必ず寝室から独立したリビングがある部屋を取る。テラスがあれば尚良いと言う。付き合い始め、BJは「鍵がかかって寝られりゃどこだっていいじゃないか」と思っていたが、起き抜けにリビングを抜け、テラスで景色を眺めながら寝起きの一服をする贅沢を知り、キリコがホテルの手配をする時には期待するようになっていた。
 寝室のベッドはキングサイズ、もちろんリネンは最高級、バスルームに用意されたタオル類は日本ならではの今治だ。バスルームも窓がパノラマのようで、湯船に浸かりながら夜景が楽しめる仕様だった。
 ひとしきりのルームツアーを終え、キリコはネクタイを取り、BJはヒールの靴を脱ぎ捨てる。本当はさっさと風呂に入ってガウンに着替えてしまいたかったが、キリコが「インルームダイニングの予約をしてあるから待って」と言ったのでまた楽しみが増えた。ルームサービスで少し贅沢な夜食を食べさせてくれるのだろうと思った。
「ちょっと待ってて」
「何」
「女の秘密」
「おお、怖」
 ここでもキスをするのは当然だ。キリコを残してレストルームへ行った。今日は午後から忙しかったな、と思いながら息を吐く。キリコと一緒にならなければ経験しなかったはずの異次元のホームパーティーに気疲れしていることも確かだった。
 そしてふと気付き、苦笑する。
 ──朝から気が付いてなかった。わたしは子供か。
 キリコに言ったら笑うかな、と思いながら手を洗ってレストルームからリビングへ戻る。
「ねえ、……あ、どうも」
 最後まで言わなくて良かった。ちょうどワゴンを押してリビングに入って来たホテルスタッフと目が合い、にこりと微笑まれたのだから。BJは冷や汗を隠してにこりと微笑み返しておいた。
 結局言い出すタイミングがないまま、テラスに用意された夜食を夜景と共に楽しむことになる。BJが拝みたくなる輝きのキャビアをのせたチョウザメのカルパッチョをはじめ、サラダに巻かれたスモークサーモン、大葉と胡麻のしんじょうが洒落た盛り付けで並べられる。
 だが最もBJを喜ばせたのは小さなケーキだった。ベリーを予想させるピンク色の生地に白い生クリームが可愛らしくあしらわれ、色とりどりのエディブルフラワーがふんだんに飾られている。ご主人──最近は面倒で見知らぬ相手には訂正しなくなっていた──が特別にオーダーなさったのですよとスタッフにもったいぶって教えられ、BJは気恥ずかしさを感じながらも「嬉しい」と素直に言ってキリコをいい気分にさせた。
 男の手配に喜ぶ女を見てホテルスタッフが微笑み、二人のグラスに白ワインを満たして部屋を辞した。
「嬉しい。ありがとう」
「どういたしまして」
「素敵なホテルだけどひとつだけ今不満ができた」
「何?」
「席が向かい合わせだからキスができない」
「なるほど、そこはロンドンの勝ちだな」
 キリコが笑いながら立ち上がり、椅子をBJの隣に移動させた。満足したBJは早速キスをねだり、キリコももちろんそれに応じる。
「キリコの家、あの辺かな」
「そこまで近くない」
「こっちからより東京タワーからの方が近いか」
「だな。あれだ」
「うーん、キリコの家が見えない」
 遠くにライトアップされた放送塔を見つけ、そこから徒歩圏内のキリコの家を探そうとおどけるBJに笑い、キリコは肩を抱き寄せてキスをする。BJも笑ってキスを返す。
 ホームパーティーでは人付き合いでろくに食べられなかったBJは、夜食と白ワイン、そして特別なケーキにすっかり満足した。そんなに遠出ではない、だが日常にはないちょっとした贅沢をさせてくれる男が好きで好きでたまらない。きっと他の男に同じことをされてもこんなに楽しくないだろうと思う。
 肩を抱かれてもたれかかり、男の肌の温かさを衣服越しに感じながら夜景を眺め、取り留めもないことを話す。話の内容はいつもと変わらない。だがいつもとは違う環境で、ホームパーティーの延長とはいえインフォーマルな服装で、まるで都心の空間を独り占めできているような錯覚を楽しめる時間は不思議と特別に思えた。
 仕事で意見が分かれる時以外は四六時中、世界一格好いい男だと信じてやまない恋人の手が優しく髪をかきあげて、少し深いキスをくれる。この後はお決まりのコースでも、それが幸せだと思える程度には恋愛を楽しめていた。
 ハイヤーで高級ホテルに乗り付けて夜景を見て、少し贅沢な夜食とスイーツ、それからお決まりのセックス。誰かが聞けば典型的でオリジナリティのない金に飽かせたデートだと鼻で笑いそうだが、普段あまりにもオリジナリティ溢れる仕事と経験をしている身としては、最高に楽しいと思える時間のひとつだった。
 キスを繰り返す合間にくれる甘い言葉はくすぐったい。最初は照れて大変だった。堪り兼ねて真っ赤になって顔を覆い、キリコを困らせたことが懐かしい。今も照れる感情はあるが、それよりも嬉しさが大きくなって素直に受け入れられるようになったし、勇気を出して自分から言うこともある。キリコが喜んでくれるから──ユリいわく国民性の違いらしい──少し恥ずかしくても口にするようにしていた。
 まさか自分がこんな恋愛をするなどと考えてもみなかった。密林の中でキリコと出会った時でさえ、想像する瞬間すらなかったはずだ。
 それなのに今はどうだろう。どうしても相容れない部分を代わりに埋めようしているのではないかと思うほど、どんなことでもしてくれる。惜しみなく愛を囁いてくれる。他の誰も与えてくれたことのない、あたたかくて優しい肌と熱をくれる。
 何て幸せ。本当に愛してる──深くなるキスを受けながら思う。愛してるよ、可愛い。囁きとキスは熱を帯びて、その熱は互いの身体の奥底の熱と合流し、少しでも早く肌を合わせたくてたまらなくなる。
「シャワーは?」
 昂ぶり始めた熱の合間に甘えた声で問う。いつもの流れのひとつだ。そこから先はキリコが決めるのもいつもの決まりごとのようなものだ。いつものことの全てが愛おしくて幸せなのだからこれで構わない。
「後でいいよ」
「ふうん?」
 他の誰にも聞こえないのに密やかに囁き合って、同時にくすくすと笑ってから立ち上がる。身体をぴたりと寄せながらリビングへ入り、歩きにくいと笑い、歩きながらキスをして、最後は歩きにくさを嫌がったキリコが抱き上げてくれた。旧い映画に出てくる気障な男のようで、それがまた似合って、ああ、なんてすてきなの、とBJはとろけかけた思考でキリコの首筋に顔を埋める。キリコのにおいがして嬉しかった。
 寝室で待ち構えているベッドは柔らかく、それでいて適度に堅く、これからの濃密な時間に最適な空間を作り上げてくれることを約束してくれている。
 丁寧にベッドに降ろしてくれることも嬉しい。それからすぐに体重をかけないように気を遣いながら覆い被さってキスをしてくれることも。ふたりの時間の中でこの男がしてくれることは何だって嬉しくてたまらない。こんなことをしてくれる男がこの世にいるなんて、昔は信じられなかった。今はキリコがその男だと信じられる。
 服の上からてのひらと指で触れられる。それだけで息が上がって、途切れないキスを交わす唇の合間から漏れ始めた湿った音と共に、自分でもはしたないと思うほど身体が熱くなって濡れていく。
 招かれた集まりのために選んだインフォーマルワンピースの背に手が回されて、丁寧に、だが手早くファスナーが降ろされる。そのために少し背を浮かせた自分が恥ずかしいようで、それでもふたりで同じことをしているようで楽しい。
「……ん」
 肩を滑らせるようにワンピースを腹まで降ろされて首筋にキスをされ、後はキリコに全て任せる。BJがキリコに何かしたくなればさせてくれる時もあるし、されるよりもBJを可愛がりたいとキリコが思えばその通りになる。どちらでもBJはきもちのいい時間を約束される。
「あ、っ」
 下着を外さずに引きずるように降ろされ、顕わになった乳房に唇が寄せられる。今日は脱がす過程も楽しむつもりだな、とBJは見抜き、それはそれでわたしも好き、と今から楽しみになった。普段と少し違う服を着るとキリコはそんな遊びをしたがる。BJはそれも楽しい。
「あぁ……っ」
 アルコールで体温が上がり、敏感になっていた肌に直接触れるキリコの指と唇に普段より早く熱を追い上げられる。含まれた乳首を舌で転がされてたまらずに声を漏らした。気を良くしたキリコは唇で甘噛みをしては舌で転がし、もう片方は指先で捏ねるように愛撫する。それだけでBJはとろけた声をあげ、じゅんと濡れた秘所の切なさに太股をすり合わせてキリコを更に気分よくさせた。
 唇を離したキリコがまた覆い被さるように抱き締めてくれて、それから顔中にキスをしながら、可愛い、綺麗だよ、と他の男が言えばBJが笑い出すか嘘をつくなと怒りだしそうな言葉を惜しげもなく囁く。無論キリコが言えばBJはただただ嬉しいし、そして今は熱を煽られるばかりだ。また奥深くから溢れ出して、脱がされるまで待てないかも、と口では到底言えないような予感を抱いた。
 脚をすり合わせていたせいで膝の上まで上がっていたワンピースの裾の下にキリコの手が入り込んでくる。太股をするりと撫でられるだけでまた濡れて、そして喘いだ。
 可愛い、と熱のこもった声でキリコが呟き、指が奥へ進もうとする。男の指を期待したBJは喉の奥で啼き、ああ、早くさわって、と口にできない言葉を飲み込む。
 そして──その瞬間、思い出したそれがBJを一気に現実へと引き戻した。
「──ちょ、ストップ!」
「って!」
 焦りからキリコの顔を思い切り押しのけてしまった。顎を突き飛ばされたも同然のキリコは小さく悲鳴を上げ、顎を押さえながら半ば呆然とBJを見下ろす。
「何? どうした? 痛かった?」
「い、いや、痛かったのはキリコだと思う、ごめん」
 言いながらBJは身を起こし、意識せず習性的にワンピースを肩まで上げて肌を隠す。それがキリコの誤解を招いた。
「え、怖かった? ごめんね」
 顎への攻撃を食らわされたことよりも、男女の性愛に暴力の記憶を持つ恋人の心配をする焦った顔を見て、BJはこの上なく申し訳なく、そして情けなく、恥ずかしくなる。だが理由を言うには少なからず勇気が必要で、今はその勇気を出せるとは到底思えなかった。
「違う、そうじゃなくて。あの、──あの」
「うん。痛いとか、怖いってことじゃないんだな?」
「違うの。ごめんなさい」
「おまえが謝ることじゃないから。どうした?」
 キリコが顔を覗き込み、優しく声をかけてくれる。本当に心配している男の顔にまた申し訳なくてたまらず、しかもあれだけ楽しかったふたりの時間を壊してしまったことに強い罪悪感を持ってしまう。
「あの、ごめん、ちょっと」
「うん」
「シャワー浴びてくる。ごめん」
「分かった。一緒に行っていい?」
「それは──あの」
 戸惑いと自己嫌悪が適した言葉を探す邪魔をした。どうしよう、どうしよう、と泣きたくすらなってくる。キリコはしばらくBJを見つめた後、うん、と頷いた。
「寂しかったら呼んで。待ってる」
「うん。ありがと、ごめん。──怒らないで」
 するとキリコは少し眉をひそめて笑った。それから静かに手を取って、怒ってない、と言った。まだたまに、恋人を怒らせることを恐れる可哀想な女の子の顔になってしまうBJを見るたびに遣る瀬ない。
「怒らないよ。こんな時に俺が怒ったことがある?」
「……ない」
「だろ? 分かったらキスしてくれよ」
 BJは安堵の溜息をついてから微笑み、キリコにキスをしてベッドを降りた。そのまま足早にバスルームへ向かう後ろ姿を見送って、何なんだ、とキリコは心の中で呟いたのだった。

 ──……ぶち壊しました……!
 流石は国内有数のラグジュアリーホテルと言いたくなるようなバスルームのシャワーブースで、頭から湯を浴びながら愕然と自分の行状を思い起こす。それだけで凄まじい自己嫌悪に襲われ、うう、とくぐもった呻きを上げながらブースのガラス張りの仕切りに額を押しつけた。
 ──ちゃんと言えば良かったんだろうか。でもあの状況で言える女性なんていない。絶対いない。
 そうだ、それだけは自信がある。確信とも言える。あの状況ではどうしても言えないことがあった。せっかくの夜をぶち壊しにする理由としてどうしても口に出来ないことだった。
「やり直しを要求する……!」
 できれば朝に戻りたい。いいや、ホテルでレストルームに入った時でいい。あの時の自分に言いたい。心から言いたい。そこで適切な行動をしろ、しないと後悔する! キリコとめちゃくちゃいい雰囲気で絶対滅多にないくらいきもちいいえっちができたはずだって後悔する!
「何をやり直すんだ」
「うわっ」
 いつの間にかシャワーブースに入って来ていたキリコに声をかけられ、BJは飛び上がる。普段ならすぐに抱き締めてくるはずの男が、今は笑って自分の身体にシャワーヘッドを向けた姿を見て、ああ、勘違いさせてる、気を遣ってくれてる、わたしがベッドで怖がったって思ってる、とBJは心底自分を殴り飛ばしたくなっていた。
「キリコ」
「うん?」
「本当に、怖いとかじゃなかったから」
「ああ、うん」
「本当だから」
 自分からキリコに抱き付く。キリコはどこか安堵したように笑ってからシャワーヘッドを動かし、二人に湯がかかるようにした。
「それなら良かった。──ごめんね、先にシャワーを浴びて気分を切り替えるべきだった」
 夕方からのホームパーティーや移動で汚れていないはずがなかったんだ、とキリコは言う。
「あのままおまえを抱きたくなったのが悪かったな」
「違うってば。キリコは悪くないから、そういうこと言わないで」
 どうしよう、キリコが責任感じてる、どうしよう──半ばパニックで首を横に振ると、キリコがぎゅっと抱き締めてくれる。シャワーブースを満たす湯気と湿気、それから再び与えられた男のあたたかい肌が優しくて、それがかえって涙腺を刺激した。咄嗟に唇を噛んで、辛うじて泣かずに済んだ。
「怒ってないし、何てことないよ。それより明日の予定を考えないか?」
 もう夜は終わり、と宣言されたような気がしてまた哀しくなる。キリコは優しい。優しくされることが哀しいと思うなどと考えもしなかった。いっそ問い詰めてくれればいいのにとまで思う。
 だが優しい男にそこまで望むのは単なる我が儘だ。男の罪悪感を拭うためには真実を告げるしかない。
 恥ずかしい。しかし愛する男の罪悪感を拭うためなら耐えるしかない。キリコが怒ろうが笑おうが、甘んじて受けるしかなかった。
「キリコ」
「うん?」
 言わねばならない。キリコのために。ふたりの楽しい時間のために。
「あの、さっき」
「ああ、うん」
「わたし、ああいうことしちゃったのは」
「うん」
 もういいのに、と言わんばかりに微笑んで頬を撫でてくれる。湯であたたまった指を握り込み、キリコを見上げ、あらん限りの勇気を出した。

「ぱんつが裏返しだったからなの」

 シャワーの湯がさあさあと音を立てて降り注ぐ中、キリコは微笑みを固まらせ、明らかに「この女は何を言っているんだろう」と言わんばかりの沈黙に陥る。それがBJの羞恥心と罪悪感をよりいっそう増大させる。
「あの」
 自分でも分かる。耳まで真っ赤だ。涙まで滲んで来た。恥ずかしい、恥ずかしくてたまらない。だが無実のキリコのためには仕方ないのだ。
 あの時、レストルームでようやく気付いた。一日中下着が裏返しだった。何かと忙しく、多少の感触の違いに気付けなかったのだ。
「あの──ごめん。言えなくて」
「……ああ、いや……」
「は、恥ずかしくて、言えなくて……」
 今だって恥ずかしい。いや、もしかしたら今の方が恥ずかしいのかもしれない。そうだ、キリコのことだ、下着が裏返しだろうが何だろうが指摘せず、最高の時間を与え続けてくれていたはずだ、と今やっと思い至った。──なんてミス! わたし、なんて馬鹿! そうだ、キリコならぱんつが裏返しだったくらいであの流れを止めるはずがなかった!
「いや、そのね、マフィン」
 キリコがしがみつくBJの身体に両腕を回し、髪に唇を落とす。そしてばつの悪い声で言った。
「言うに言えなかったんだが、おまえがそこまで言ったなら俺も言おう」
「え?」
「さっき、服を脱いでいる時に気が付いたんだ」
「何を?
 キリコはひとつ咳払いをし、静かに言った。

「俺も裏返しだった」

「……うっそ」
 ぽかんとして見上げると、ちゅっと唇に軽いキスをされる。キリコはまだばつの悪そうな顔で、おまえの気を楽にするために嘘をついたわけではないと表情でBJに教えてくれた。
「……案外気が付かないもんだな、忙しい日は……」
「……そっか……」
「……そうだな……」
 そっかあ、そうだなあ、と二人でしみじみ繰り返し、それからしばらくして同時に笑い出した。何てことだ、馬鹿みたいだ、と普段より大きな声で笑ってしまう。笑いながら何度もキスをした。
「待って、待って」
 降り注ぐ湯の中で笑いながら肌を探り始めたキリコを、やはり笑いながら止める。
「ベッドがいい」
「そう?」
「ベッドの方がいっぱいできるから」
「随分やる気だな。俺は嬉しいけど」
「勘違いさせたお詫び」
「だから、それはもう──」
 気にすることじゃない、と言いかけたキリコを遮るために唇にひとつキスをする。
 それから笑って言った。
「今日付き合ったわたしへの報酬」
 キリコも笑い、唇に軽いキスを返す。
「よし、じゃあ先にベッドで待ってて。このまま一緒にいたら我慢できなくなりそうだから、少し距離と時間が必要だ」
 単に自分が髪と身体を洗ってしまいたいだけだったのだが、こんな言い方をした方が今夜を楽しめるとキリコは知っている。BJも知っている。だからBJはクスンと鼻を鳴らして嬉しそうに笑い、うん、と言って、それでも降り注ぐ湯の中、上目遣いにキリコに言った。
「待ってる間、寂しいから」
「すぐ行くよ」
「だから」
「うん?」
「ちゅーだけして」
「──おまえは可愛いね」
 無論、キリコは要請に応じる。抱き寄せて肌の感触を楽しみながら、熱くなりすぎない程度に本気のキスをした。
 二人してベッドの中が楽しみで仕方なくなった。少しばかりのイレギュラーも、終わればちょっとした楽しい記憶に変わる。
 最高の夜になりそうだ。最高の一日の締めくくりだ。
 そして二人はそれぞれ、これから下着の表裏には気を付けようと密かに誓ったのだった。

SSとか

Posted by ringorira