雨の

2020年7月14日SSとか

Twitterでお題ですらなく単にフォロワーさんが呟いた文言で急に書きたくなったので書いた。

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 酷い雨だった。梅雨時とはいえこれはあんまりだ、と言いたくなる程度には酷い降り方だ。どうして自分の車で来なかったのだろうとBJは心底後悔した。
 タクシーの運転手は流石にプロ、BJはあまり好きではない、豪雨の都心の住宅街でも危なげなく運転してくれる。これには感謝する。だが降りる時のことを考えるだけでうんざりする。
 案の定、金を払って車を降りた瞬間に濡れ鼠だ。急ぐことも馬鹿馬鹿しいほどに、本当に瞬時に濡れた。タクシーが遠ざかる音も強すぎる雨音にすぐに飲み込まれてしまう。
 それなりに立派な門扉には鍵がかかっているが、開け方は知っている。鉄の門に触れた途端にブラウスの袖に水滴が滴り、べっとりと貼り付いたが、どうせ最初から濡れていたんだ、気にすることじゃないと自分に言い聞かせて鍵を開け、濡れた前髪を片手でかき上げながら中に入った。びしょ濡れになった手でまた門扉の鍵は閉じておいた。
 玄関前、洒落たデザインのポーチのおかげで取り敢えずは雨が避けられる。コートを脱いで絞ると、バケツをひっくり返したかのように水が溢れ出た。タクシーを降りて一分も経っていないのにと溜息をつく。
 家の鍵もかかっていた。出張に行く連絡は受けていない、よってもし出張なら安楽死の可能性大、確実に説教だ、でも近所なら夕飯の買い出しの可能性大、絶対食べて帰る、と決め、ポケットの中から鍵をつけたキーホルダーを引っ張り出す。崖の上の家の鍵、それからこの家の鍵。濡れた指と袖から伝った水滴で普段よりもするりと回ったような感覚さえあった。
 家の中には誰もいない。数秒考えたが、どうせ結果は同じだと結論が出た。ドアの鍵がしっかり閉まっていることを確認してから靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、ああもう、びしょ濡れで脱ぎにくいったらありゃしない、と心の中で悪態をつきながらリボンタイを解き、ブラウスを脱いで、ボトムもその場にずるりと落とし、そう言えばこの家は土足だったと思い出したがまた濡れた靴を履く気になれない。
 綺麗な絨毯が濡れることなどお構いなし、脱いだ服はそのままに、勝手知ったるバスルームへ向かった。家の中を最低限しか濡らしてない、わたしって何て出来た女なんだろう! キリコが聞けば苦い顔をしそうなことを思いながら。
 高い位置のフックにかけたシャワーは温かい。蒸し暑い今の時期でも少し熱めの湯を浴びるのが好きだ。髪も身体も綺麗に洗った。雨は案外汚れているものだし、今日は一日中暑くて汗をかいていた。この家でしか使わないソープの香りは嫌いではなかった。キリコが好きな女に使わせたい香りだと知っていたから、特に自分が好きではなくても構わなかった。嫌いではない、その程度で充分だ。
 バスルームを出てもまだキリコの気配はなかった。髪を乾かす間にまた汗をかきそうで、濡れ髪のままリビングへ行った。そのままキッチンへ直行、当然ビールを引っ張り出す。冷蔵庫の中にあった食材とビールの数から、どうやら海外ではなさそう、少なくとも近場、今日明日、と考えた。ハウスキーピングについては神経質なキリコが生肉を冷蔵庫に置いて数日も家を空けるとは思えない。
 ビールは簡単に飲み干せてしまった。汗で喉が渇いていたようだ。この時期、湿気に誤魔化されて喉の渇きに気付かないことはよくある。危ない危ない、と呟きながら、今度はミネラルウォーターに手を伸ばし、やっぱりもったいない、日本の水道水はそのまま飲めるのだ、とボトルを冷蔵庫に戻した。
 ソファに陣取って煙草を手に取る。庭に目をやると丹精された花々が雨に打たれて切なそうな姿を晒していた。それも綺麗に見えるのだから、この家の庭は本当によく計算されていると感心する。
 ピノコに電話をしなきゃ、と不意に思い出した。キリコの家にいるから帰りは少し遅くなるよって言わなきゃ──考えているうちに欠伸をした。シャワーで温まった上に水分不足だった身体にアルコールを入れれば急激な眠気は仕方ない。電話しなきゃ、電話。確かにそう思っているはずなのに、ソファのクッションがとても魅力的に見えてキスしたくなった。

 理解するまでに数秒の思考を必要とした。理解した瞬間、馬鹿か、と呟かざるを得ない。傘立てに傘を差し、今日が発売日だった本の入った鞄を取り敢えずコートハンガーに引っかけ、足元に散らばるびしょ濡れのボトムを手に取る。その下にはブラウス、ベスト、リボンタイ、コート。下着はない。どうしようもない奴だと思いながらランドリールームへ向かった。ランドリールームに隣接するバスルームには人の気配がなかったが、動かしたままの換気扇の音で、好きな女がシャワーを使ったのだと知った。
 拾った服の一式をハンガーにかけ、ルームドライのスイッチを入れてリビングへ向かう。
 まったく、と溜息をついた。キリコのTシャツ──ランドリールームにあったものを適当に着たのだろう──を着込んだ女はソファに寝そべり、クッションに顔を押しつけて眠り込んでいる。
「マフィン」
 呆れた振りをしながら──仕方ない、可愛いのだから──軽く身体を揺すると、ううん、と深くもなく浅くもない中途半端な眠りから戻ろうとするうめき声が漏れた。マフィン、ともう一度呼ぶと、うん、と今度は少しはっきりした声で返事があった。
「あれ、寝てた?」
「寝てた。おまえ、何だ、あんな場所で脱いで」
「全部じゃないよ」
 下着は脱いでないもん、と目をこすって起き上がりながら言うのだから、キリコとしては苦笑するしかない。そういう問題かよと言いたかったが、言ったところで理解はしないだろう。
「どこ行ってたの」
「本屋」
「この雨で?」
「例の新刊だ。今日発売だったから」
 途端にBJの顔が輝く。
「読みたい!」
「終わったら貸すよ。飯は?」
「牛肉のブロックがあった、あれがいい」
「よく見てるもんだ」
 夕飯を終える頃にはランドリールームの服も乾くだろう。それまではその格好でも、と思いつつ、キリコはやや唸りたくなる。いくら男物のTシャツとはいえ裾が際どい。かと言ってうるさいことを言えば機嫌を損ねる。
「乾いたら着替えろよ」
「うん。──ねえ、やっぱりあの本読みたい、一緒に読もうよ」
「お嬢ちゃんに泊まるって言ってないだろう」
「泊まるかも、とは先に言ってあったし、後で電話するし。都内の仕事の時はそうしてる」
「持って帰ってもいいんだぞ」
「キリコはまだ読んでないじゃない」
「後でいいよ」
「何それ」
 BJは軽く頬を膨らませ、可愛いな、と思ってキスをしたくなったキリコを置いてふいとリビングを出て行ってしまう。気難しい面に慣れているキリコは気にもせず、夕飯の支度をすることにした。だがやがて戻って来たBJの顔がいやに得意げだと気付き、何だ、と言う。
「何だ、その顔」
「服がないの」
「乾くだろう。それに、寝室にいくらでも他の服がある」
「ドライスイッチが壊れたみたい。寝室の服なんてもう飽きちゃった。新しいのを買ってくれなくちゃ」
「雨じゃなけりゃすぐにでも」
 キリコはBJが何を言いたいのか、そしてわざわざランドリールームのドライスイッチを止めに行ったことを察し、ああ、可愛いな、と思った。
 可愛いな、と思われた女は唇をにやりと歪め、男が更に可愛いと思ってしまう言葉を紡ぐ。
「雨のせいで着る服がないのよ、ハン。一緒に本を読んで、雨がやむのを待つしかないわ」
 芝居がかった女言葉に今度こそ声を出して笑い、キリコは可愛い女を抱き寄せてキスをした。
 着る服がないのは雨のせい。
 だからやむまでふたりきりで。
 責任転嫁をされた雨はまるで気分を害したように、少しばかり降らせる音を強くしたのだった。

SSとか

Posted by ringorira