ベトナムの話 途中まで

書きかけとか

やんぶら最終巻読んだらアアア書きてえェェェ!!!ってなった2つのネタのうちの1つ。勢いがあるうちに完成させて更新作品にできればなーと考え中です。

 冷静になって考えてみれば、よくあんな状況でオペを続けたものだ。もしわたしがわたしでなければ、あの時の自分たちに「おまえら馬鹿だろう」くらいは言っていただろう。
 でも断言できる。最大の馬鹿は移動した先の村でも早々に医療活動を始めた軍医だ。
「小さい子たち、診てあげて」
 わたしに気付いて当然のように言って来る。どうしてこいつが指示を出すんだろう。わたしはこの男の部下でも何でもない。
 でもまあ、外部から急に入り込んで来た──しかも重篤な人間を連れて──連中を見て困惑している子どもたちに対しては、男性よりも女性が対応した方がいいってことは分かる。たとえわたしみたいなツギハギでも。むしろ面白がられて話のきっかけを掴みやすい。たぶん、彼はそれを見越してわたしに声をかけたのだろう。
 まだ米軍の攻撃を受けていない村の子どもたちは無邪気で、警戒心が見えない。きっと戦争をしていることは知っていても、まだ遠い世界のことだと思っている顔だ。みんな可愛い。
 ベトナム特有の蒸し暑さの中、母親に連れられてわたしの前にずらりと並ぶ子どもたちとひとりひとり話す。子どもの健康不安について説明したがる母親の話に頷き、きゃあきゃあとはしゃぐ子どもたちをいなしながら、慣れない小児科の診察をした。意外なところで意外な研修をしているみたい。変な気分。
 診察と言うより、健康診断だった。ほぼ全員が健康で、時代的や地域的な問題のはずの身体的な軽微な栄養不良以外は特に問題がなかった。
「どうだった」
 大人の診察を一通り終えたのか、軍医がわたしの元へやって来る。たちまち子どもたちに興味津々の顔で囲まれ、軍医は笑って彼らに「このお姉さんと話したら遊んでやるから」と言って喜ばせていた。意外だった。この医療馬鹿がそんなことを、しかも笑って、愛想よく言うなんて。
「栄養不足は否定できないけど、診た限りでは重篤な子や問題のある子はいない。だから──」
「──ねえ、きみ、ちょっとおいでよ」
 わたしの話を遮って、軍医が一人の男の子を呼んだ。せめて最後まで聞け、ちょっと失礼じゃないか。でもそんなわたしの不満は彼に伝える機会がなかった。不満はすぐに羞恥心と敗北感に変わってしまったから。
「脊柱側弯症。この子、あるね。 ──はい、前にかがんでー。象さんがお水を飲む時みたいに!」
 まさか。その子もきちんと診たし、問題なかった。今だって目視した限り──それからわたしは息を呑み、自分のミスを認めるしかなかった。
 異国の銀髪の男性に構ってもらえて嬉しいのか、笑いながら言われた通りのポーズを取るその子の背骨に、僅かな、ほんの僅かな変形があった。
「普通は見逃す程度だ。気にすんな」
 小さな声で囁かれた言葉はわたしを励ますもので、それはいっそうわたしの羞恥心と敗北感を増大させる。いっそ叱責なら二度とするもんかと開き直れたのに。
 でも──でも、負け惜しみじゃなくて。本当によかった。
 軍医が見付けてくれてよかった。
「きみ、おかあさん呼んで来て。おねえさんがちょっとお話したいんだって」
「はあい」
 子どもが元気よく走り出す。一人が走ればなぜか皆走る。子どもってみんなそうだ。どうしてなんだろう。あっという間に子どもたちはいなくなり、わたしはやっと溜息をつけた。
「よかった」
「何が?」
「あんたが見付けてくれて、よかった」
 知らないまま進行してしまえば成長が阻害されるし、重症になれば手術も必要になる。今のうちに分かってよかった。戦争が終わればきっと適切な治療が受けられる。治療が遅くなっても、あの子の年齢ならまだ間に合うはずだから。
「素直すぎて調子が狂うね。爆撃の破片が脳に入ったか」
「人の感謝を何だと思ってやがる。最低」
「よく言われるよ。特に女の子に」
 我ながら嫌な顔をしてしまったと思う。軍医がわたしの反応を見て苦笑したのだから相当だろう。でもわたしがそんな顔をした理由は責められないはず。
「こういう世界にいる割には潔癖なんだ? それなら日本の彼氏も安心か」
「──いねえよ、そんなもん!」
 自分でも驚いた。ここまで強く言うのは流石に滅多にないし、しかもそれが男性関係のことだなんて。
 急に気分が悪くなる。思い出したくないことだってあるんだ。まだそんなに日が経ってない。そうだ、あいつ、あの──そう、一度見かけただけの藪さんに「絶対やばい奴だから早く別れろ」って、珍しく強く言われたあいつ。そして藪さんが正しかった。
 嫌だ。気分が悪くなる。
 蒸し暑さにやられたのかもしれない。疲れているし。きっとそうだ。そういうことにしておこう。
「悪かったよ。失礼なことを言った」
 軍医が本気で謝っていて、わたしはそれが意外と言えば意外だったし、でも頭のどこかで、この男ならそうかもしれない、とも思った。長い時間を一緒に過ごしているわけじゃない。一緒にいる間も医療のことばかりで、この男の深い場所なんて分かるはずないのに。それでも、この男はたぶん誠実なんだろうってことはなぜか分かっていた。
 脊柱側弯症と軍医に診断された子どもが、母親の手を引いてやって来る。わたしたちに向かって手を振る笑顔を見て、何だかとても急に疲れた気がして、わたしは軍医に言っていた。
「あんたが話せよ。わたしは誤診した。あんたが主治医だ」
「チームで相談して診断することなんて珍しくない。誤診じゃないさ。きみの患者だよ」
「疲れたんだ。休ませて」
 我ながら弱い声だった。自分でも認める。少し参ってる。終わることのない蒸し暑さ。肉体的な疲労。それから精神的な疲労。とどめのように思い出しかけた男のこと。
「具合が?」
「疲れただけだ」
「後で診てやるよ。休んでな」
「いらねえよ。──あのおじさんに話してもらった方が分かりやすいから、二人で聞いてくれ」
 私の方に来た母子に言って、村の人たちが用意してくれた小屋に歩き出した。まだお兄さんだ、と言う軍医の声は聞こえない振りをした。
 小屋は快適というほどじゃなくて、それでも唐突に飛び込んで来たわたしたちのために急いで用意されたものだと考えれば、高級ホテルみたいに魅力的だった。高級ホテルの部屋なんて入ったこともないし、一生入ることもないだろうけど、たぶんそう。
 ベッドと呼ぶのも躊躇いたくなるような簡素な寝床は案外強度があって、いつもの癖でどさりと倒れ込んだわたしの体重──トップシークレット──をしっかり受け止めてくれた。蒸し暑いと思っていたけど、通り抜ける風は涼しい。深く息を吐いたら急に眠くなってきた。もういいや、寝よう。どうせ何かあれば誰かが起こしてくれるはずだから。

 凄く、すごく、嫌だった。爆撃の音がすごく嫌だった。まるでおかあさんとわたしを吹き飛ばした時の、あの恐ろしい音のようで。大丈夫だよ、と誰かが言ってくれている気がしたけど、おかあさんはどこ、としか言えなくて、やっと夢だと気が付けた。おかあさんはもういないんだから、現実でこんなことを言うはずがない。
 おかあさんじゃない人は何度も、大丈夫だよ、って声をかけてくれた。大丈夫だよ、って言われるたびに安心して、次の悪夢の波までは、夢の中でも落ち着いて眠っていられた。
 誰なんだろう。本間先生? 違う。髪を撫でてくれる手が、本間先生と違う。
 目の前にあいつが出て来た時、たぶんわたしは本気で悲鳴を上げていた。あいつがわたしに笑って手を延ばした時、たぶんわたしは泣き出していた。
 ずっと大丈夫だよと言ってくれていた声が、起きるんだ、と強く命じた。
 一瞬、ここがどこで、今がいつなのか分からなかった。でも嫌な夢を見たことだけは分かった。全身が怠くて、寝汗も酷い。言うなれば最悪の寝起き。悪夢なんて慣れてる。でも見たいものじゃないし、見るたびに気分が悪い。
 随分長く眠ったようで、小屋の中は真っ暗で、窓の外には村の家の灯りが見える。昼に村の人たちを診た広場にみんな集まっているようで、楽しそうな声が聞こえたし、いいにおいもする。わたし以外の人たちをもてなしてくれてるんだろう。急で、それから招かれざる客のはずなのに。
「大丈夫か」
 いきなりの声に飛び上がるくらい驚いた。はっきり言えば警戒した。わたしの警戒にすぐ気付いたのか、寝床の横にいた軍医は「ごめんごめん」と悪びれずに言った。
「様子を見に来ただけだよ。随分うなされてたね」
「……あ、そう」
 暗がりの中でよかった。軍医に涙を見られたくなくて、さっさと指で拭ってしまう。よし、大丈夫。涙をすぐ消すのは得意。泣いたら侮って来る奴らばっかりだから、いつの間にか、間久部の前だって泣かなくなったし、泣いたってすぐ隠せるようになった。
「具合は?」
「平気。寝たら治った。疲れてただけ」
「ふうん」
「……ッ!」
 掴まれた腕を振り払ってから、軍医は脈を取ってくれようとしただけだったんだと思い至った。また嫌な汗が出る。
「ごめん」
「悪かった」
 謝ったのがほぼ同時で、それから妙な沈黙が降りる。今度は嫌な汗じゃなくて、申し訳なくて冷や汗をかいた。
「許可を取るべきだった。悪かったよ」
「いや、こちらこそ──驚いたからって、ごめん」
「脈を取らせてくれる?」
「……どうぞ」
 日本と同じやり方で、軍医が脈を取ってくれた。少し速いことは自分でも分かるけど、悪夢の残滓と今のやり取りで興奮したからだ。軍医が分からないはずがなく、「大丈夫だな」と言った。
「動けるなら広場に顔を出さないか。歓迎のパーティを開いてくれてるから、少しだけでも」
「気分じゃない」
「分かるよ。疲れてるし、嫌な夢も見たんだろうし。──でも必要な礼儀だ。10分でいい。話すのが嫌なら俺の横にいればいいよ」
 嫌だな。何が嫌って、そのパーティとやらに行くのも嫌だけど、その理由が見抜かれていて、しかも、分かるよ、なんて、心に添うような言い方が嫌だった。
 だって嫌だ。そんな言い方をされたら、まるでわたしのことを理解されているようで、凄く嫌だ。どうせ理解できやしないし、わたしが少しでも弱れば抑え付けて酷いことをするような奴ばっかりなんだから。
 でも、馬鹿みたい。わたしが馬鹿だ。
「……うん」
 この軍医ならきっと酷いことはしないって、こんな短い付き合いの中で、分かったつもりになってるわたしが馬鹿なんだろう。
 まあいいや。どうせ長い付き合いじゃない。わたしは日本へ帰るし、軍医は自分の配属部隊に帰る。それまで弱い顔を見せないで、やり過ごせばいいだけ。大丈夫、そういうのは得意だから。
 広場のパーティは酒も出ていて、もうそれなりに盛り上がっていた。軍医とわたしを見付けた村の人たちが愛想よく手を振って、こちらへおいでと招いてくれる。
 村長だと言う老爺に挨拶をする。何かを言われた。でも訛りがひどくてよく分からなかった。軍医は分かったようで、それなりに愛想よく、礼儀正しく話をしていた。だからわたしはほとんど話さなくて済んだ。
 それから藪さんに声をかけられた。すっかり自信を取り戻した藪さんは精力的で、村の人たちとも早速打ち解けたようだった。
「具合は? 軍医殿が診てくれたから平気だろうけどさ」
「もう平気。疲れてただけ」
 あいつは脈を取っただけだ、なんて言わないでおいた。藪さんは結構あいつを気に入ってるみたいだから。
「水と──少し食べた方がいい。もらって来るから彼といるんだ」
 軍医はなぜかわたしに命令するように言って、それでもわたしのために食べ物と水をもらって来てくれるらしい。変な男。軍医がいなくなってから、藪さんが「よかった、よかった」といきなり言った。
「礼は言ったか?」
「誰? 軍医?」
「そう。付きっ切りでいてくれたんだし、言ってないなら言っておかないとな」
「──え?」
 起きる直前に小屋に入って来たんだと思ってた。ずっと──わたしはだいぶ眠ったから、かなりの時間だったはず。
 ああ、じゃあ──嘘みたいだ。
 もしかして。
 何度も大丈夫だよと言ってくれたのは軍医だったんだろうか。夢の中の誰かじゃなくて?
 髪を撫でてくれたのも、起きるんだと強く言って起こしてくれたのも──
「……医者って、そういうこともするのかな」
「ん? そりゃあ、患者が気になればそうだろう。病院ならともかく、設備がないこんな場所じゃ付きっ切りにもなるよ。間だってそうだろ」
 悪夢にうなされる患者を宥めるのも、患者の髪を撫でるのも? でも藪さんはそんなことを言っているんじゃないって分かったし、わたしも藪さんに説明する気になれなかった。
「お、良い子だ。ちゃんと彼といたね」
 戻って来た軍医が水と料理をくれた。喉が渇いていたことにやっと気が付いて、水を一気に飲んだ。美味しい。料理は食べる気になれなかった。わたしは自分でも健啖家だって分かってるけど、今はちょっと無理。食べたら吐くかもしれないと予想するくらいには、まだ本調子じゃない。地元の料理を食べられる機会なんて滅多にないのに、凄く残念だ。
 藪さんは笑い、俺はもう少しみんなと話して来るよ、と言って、なぜか軍医を見てにやりと笑う。藪さんのこんな顔は初めて見たかもしれない。
「お役御免。虫は来たらず」
「名医に感謝を」
「馬鹿言いなさんな」
 軍医と藪さんが笑い合った理由が分からなかった。人が集まる方へ行ってしまった藪さんの後姿をぼんやり見ながら、何の話だろうとまだ考えていたら、軍医がわたしの疑問を見抜いたように言った。
「可愛いからね。一人にしたら危ないって、男性ドクター会議で決定したのさ」
「……?」
 本当に何を言っているのか分からなくて首を傾げたら、軍医は悪戯げに笑って、わたしを真似て首を傾げ、目を合わせて来た。その仕草が何だか映画俳優のようで、少し格好いいかもしれない。医療馬鹿だけど。
「可愛いから。きみが。そうやって分かんない振りするのも可愛いけどね」
 やっと理解できた。この男が言っている意味と、藪さんがわたしの傍にいてくれた理由。
 それから、猛烈に腹が立った。馬鹿にしやがって。馬鹿にして。──藪さんまで!
 わたしが可愛いなんて、よくもそんなことが言える。酷い。わたしが傷付かないとでも思ってる? そりゃあ平気な顔をしてるけど、平気なはずがないんだ。みんなわたしのツギハギを見て珍しいものを見たように笑ったり、見てはいけないものを見たように目を逸らすのに。よりによって可愛い? 一人にしたら危ない? 馬鹿にして──馬鹿にして!
「どうした」
 全部言ってやりたいのに、こんな時、わたしは何も言えない。いつもそうだ。見てくれのことになるといつも、何も言えなくなる。だって本当にわたしは醜い。本間先生の芸術であることは間違いなく誇りだけど、世間的な美的感覚からすれば、わたしが醜いことはきっと正しい。心無い奴なら喜んでわたしを見下して馬鹿にする。
 でもまさか、こんな時に思い知らされるなんて。それがこの軍医だったなんて。藪さんまで。
「どうした、具合が悪い?」
 軍医の声が本当に心配しているもので、それがまた嫌になる。酷い。馬鹿にしているのに心配するなんて、あんまりだ。酷過ぎる。
「え、ちょっと」
 軍医に皿を押し付けて、わたしは走り出した。もうこの場にいたくなかった。
 わたしを可愛いなんて言う男にろくな奴はいない。よく知ってる。見たばかりの悪夢の中で笑いながら手を延ばして来た男を思い出してしまって、小屋に入るなり吐いた。さっき飲んだ水しか出てこなかった。これなら掃除が楽だとやけに冷静に考えるわたしと、悪夢の中の男に怯えて、でも泣いて体力を消耗するのが嫌で、必死で堪えるわたしがいる。
 少し落ち着いて──無理矢理自分を落ち着かせて、部屋のランプをつけて掃除をした。そこでやっと、ベッドがひとつしかないことを知った。ここはわたしだけに用意された小屋だったらしい。ファンはどこで寝るんだろう。でもそんなことを考えることも疲れた。
 認める。ショックを受けた。馬鹿にされることには慣れていたけど、今日のはかなり強烈だった。藪さんが、って思ったけど、でもわたしは藪さんにいつも無茶苦茶な我儘を言っていたし、見下されていても当然だったかもしれない。だからってショックを受けないわけじゃない。
 軍医は──いいや、もう。あいつはどうでもいい。どうせもう会わない。あいつだってわたしのことなんてすぐ忘れるだろうし。
 疲れた。ドアに寄りかかって床に座り込む。窓から入り込む風が涼しい。広場の賑わいはまだ聞こえて来る。今、わたしはひとりぼっちだ。楽でいい。日本に帰ったら友達連中に少し愚痴を聞いてもらおうかな。酷い男がいて──
「いるんだろ、大丈夫?」
 寄り掛かっていたドアが強めにノックされて、思わず飛び上がった。悲鳴を堪えられたのは我ながら手柄だ。
「開けるよ、いいな?」
「──大丈夫だから、入るな!」
 驚愕に心臓が大騒ぎの中、何とかそれだけを言えた。でもなぜか分かってた。軍医がこれでいなくなるはずがないって。案の定、軍医はドアの向こうから続けた。
「そこにいられたら開けられない。どいてくれよ」
「入らなくていいから、どかない」
「ったく、きみが強情なのはよーく知ってるけどな。不調を見ると心配する人間もいるんだ、どきなさい」
「そんな奴いない」
「いる。俺」
「──嘘つき!」
 言ってから、自分で驚いて口を抑えた。何、今の。何──女の子みたいな。わたしがいつも、絶対出さないような、ヒステリックなおんなのこみたいな声!
 ドアの向こうで男が笑う気配がした。
「ほら、可愛い」
 酷い。悔しい。──悔しい!
 もう我慢できなかった。酷過ぎる。悔し過ぎる。わたしだって──醜い女だって、悔しいと思う感情はあるんだ。惨めな扱いを悔しいと思って当然なんだ。
 立ち上がって勢いよくドアを開けた。案外近くに立っていた軍医が慌てて避ける姿を見て、ざまあみろと思った。それから怒鳴り付けてやった。できもしないことをやってみろと。わたしを馬鹿にする奴は絶対にできないことを。
「可愛いって言うなら抱いてみろよ! できやしねえくせに!」
 軍医が嫌悪の顔を見せればいいと思った。そうすればわたしは被害者になれる。被害者の立場はそれなりに自分の心を慰撫しやすい。馬鹿にされた悔しさを──本当は哀しさを慰めやすくするために、今のわたしは軍医の嫌悪の顔が必要だった。
 でもうっかり忘れていた。
 軍医は馬鹿だった。
 しばらく黙った後、確認するように言った。
「いいの?」
「何言ってんだ!?」
 我ながら無茶苦茶な返しをしてしまった。要はわたしはパニックに陥った。軍医が今度は呆れ切った顔で、できないことならお言いでない、と言った。嫌悪の顔を見せてくれないことが、更にわたしのパニックを深めたことなど知るはずもなく。