猫と猫の友達と死神
朝から夜までインドアなキリジャの休日をひたすら追っただけです。起承転結はありません。ひたすらだらだら書いています。尚、作中の猫の行動はファンタジーです。
「キリコ、見て見て、妖怪ねこまふらー」
「にゃあお」
首に巻き付くように肩に乗った猫を、キッチンに来たBJは笑いながらキリコに示した。ねこまふらーもなぜか得意そうに鳴いた。可愛い光景に朝食を作っていたキリコは思わず笑う。この家にいる時しか着ないドルマン袖のルームウェアもよく似合って可愛かった。
「便利な妖怪だな」
今日は恐ろしく寒い。朝の気温は0℃を下回っていた。先に起きたBJがリビングにストーブを点けに行き、全力でベッドへ駆け戻って、勢いと冷気に驚いたキリコが飛び起きたほどだった。直後に温めてやったことは言うまでもない。キリコが器用に毛布の中で温めると、BJは朝から猫のように可愛く鳴いた。
毛布の中での遊びの間にすっかり温まっていたリビングに行けば、テラス窓を外から必死で引っ掻く猫がいて、今日の寒さでは大変だと慌てて窓を開けて中に招き入れた。いつものマダムの猫だった。すぐにマダムに電話をしたが繋がらず、留守番メッセージを残しておいたものの、まだ連絡がつかない。
猫はと言えば勝手知ったる家、なぜか餌皿もトイレもある。好きにせい、と家主の死神に許可を受け、猫は友達のBJに思う存分甘え始めたのだった。リビングで猫と遊ぶBJの笑い声を可愛いと思いながら朝食の支度をしてしまう。
「飯。猫は速やかに撤退せよ」
「にゃあ」
「おまえのもあるから」
「うにゃん」
キリコの要請に始めは不満を漏らした猫だったが、食事にありつけると知って機嫌よくBJの膝からキリコの足元に纏わりつく。現金な奴、とBJが笑い転げた。
昨夜の残りのクラムチャウダーを温め、砕いたクラッカーを落とし、蒸したチキンとスクランブルエッグと葉野菜、蒸し野菜をドレッシングで和えたサラダ、プレッツェルだけの簡単な朝食だ。簡単と言ってもBJにとってはご馳走で、しかも好きな男が作ってくれるのだから尚嬉しい。
「おまえのはこっちだ」
「にゃあご」
早く早くと催促する猫をいなしながら、キリコは猫の餌皿に味を付けていないチキン、それから蒸して刻んだ人参とブロッコリー、南瓜を入れてから卵黄を掛け回してやった。入れ終えた途端に餌皿に顔を突っ込んだ猫の背中を撫で、人間の食卓へ向かう。
「このプレッツェル、どうしたの」
「近所に新しいベーカリーショップができたから、試しに買ってみた。ドイツパンの店だ。結構美味い」
「ふうん。──あ、ほんとだ、美味しい」
プレッツェルは申し分なく美味しい。高級住宅街の住民を当て込んだ店が末永く繁盛しますように、とBJが願うほどに美味しかった。自分の近所では手に入れられない味だ。
少し行儀を無視してプレッツェルをクラムチャウダーに浸す。この上なく美味しかった。家でしかできない食べ方、と言ってBJは笑い、そうだな、とキリコも笑った。
食べ終えてBJが皿を洗う頃、マダムから電話が入った。出先から留守電を聞いた、用事で朝早く家を出た、まだ猫は寝室にいたものだから気が付かなくて、何度もすみません──上品な声で低姿勢に謝罪され、キリコはいつものことながら丁寧に話をする。
「お帰りになるまで預かってよろしいですか。ちょうどあの子の友達も来ていますし」
あら、ドクターの好い方かしら、あの方にもいつもお世話になって──品良くプライベートを詮索した後、マダムはやはり品良く電話を切った。
それからキッチンは足元が冷えるのではないかと思い、皿洗いは今日だけ俺がやるから、と言いに行く。猫がBJの足元に張り付いている姿を見て、どうやら取り越し苦労だったようだと苦笑した。
洗い物を終えてコーヒーを淹れ、BJは猫と遊び、キリコは窓の結露が気になって拭き取りをする。外はかなり気温が低く、今日は何度か結露を拭き取る必要がありそうだと覚悟した。
やがて猫が気ままに家の中の旅に出て、打ち捨てられたBJはやっとコーヒーに手をつける。すっかり冷めていた。拭き取りを終えたキリコも同様だ。
「淹れ直すから貸して」
「いいよ、もったいない」
「俺は淹れ直す」
「え、じゃあ私のも」
「最初からそう言いなさい」
BJの顎の下を軽く指でくすぐってから、2つのマグカップをキッチンへ持って行く。女性が好みそうな北欧柄の模様はキリコの好みではないが、買って見せた時にBJが見えない尻尾をぶんぶんと振ったことが分かったので、なるほど、こいつもこういうのが好きな女の子なんだな、と納得したものだった。
淹れ直したコーヒーをテーブルに置いてテレビをつけ、ソファに並んで座ってニュース番組を見る。日曜日の朝の番組は論客を自称する芸能人が姦しい。キリコはあっさり海外チャンネルに切り替え、結局はいつも通りのBBCに落ち着いた。
政治の話に文化の話、少し楽しめるトピックを眺めるキリコを眺めるのがBJは好きだった。単純に格好いい、それだけの理由だ。膝に懐いてだらしない格好をしていると、たまに髪を撫ででくれるのも好きだった。
キリコが満足するまでアメリカのニュース番組を見た頃、家の中の見回りを終えたマダムの猫が戻って来る。だらしなくキリコの膝に甘えたままのBJの上に飛び乗ると、重いよ、とBJが笑った。
「どうしよう」
「うん?」
「動けなくなっちゃった」
「友達から下僕に成り下がったか」
「お猫様の前では仕方ない」
「天下のブラック・ジャックが下僕か。とんでもない猫だな」
「うにゃあ」
猫は得意げに尻尾を振り、この畜生め、とキリコに罵られながら顎をくすぐられてご満悦だ。隻眼の死神を口の悪い下僕とでも思っているのだろう。
「ピノコとユリさん、遅いかな」
「夕飯を食べて帰って来るって話だったな。ユリはどうせ今日おまえの家に泊まるんだろうし、俺たちも夕飯の後に行けばいいだろう」
ピノコとユリはよく二人で出掛ける。今回は昨日から浦安のテーマパークに行っていた。
BJははじめ、ユリが自分とキリコの時間を作ろうとして気を使ってくれているのではないかと心配していたのだが、ユリいわく「本当に楽しい」らしい。ピノコの子供らしかぬ洞察力や、しかし子供ならではのはしゃぎ方がどこへ行っても楽しませてくれると言う。
そして「にいさんには内緒だけど」と言われたことがあった。『ピノコちゃんと一緒だと、変な男に声をかけられることもないし、色んなお店で子連れってことで優遇されるの』。それを聞いた時はやや唖然としたものだが、ピノコも『ユリしゃんと一緒だと、どこでもいちばんいいお席に座れるし、いろんなおまけをしてもらえるのわよ』と言った時、それなりに利害関係が一致しているのだと実感し、以来気にしないことにしたのだった。見た目は子供、かつ美少女のピノコとハリウッド女優並の美貌を誇るユリがタッグを組んだ時、世間は全て下僕になるのだ。
「まあ、ピノコが私みたいに卑屈にならないでいられそうだからいいかな」
「何だって?」
「ユリさんの強気な態度を見てたら、私みたいにどうせわたしなんかって言わなくなるんじゃないかと思って」
「なるほど。一理あるな」
「でしょ。私はもう手遅れだけど」
どうせわたしなんか、とふざけて猫のように懐いて来る女が可愛いと思いながらキリコは笑う。BJの上で丸まっていた猫が尻尾を振り、二人の会話に割り込み損ねたことに不満を示した。
昨日から二人切りだと言っても、何か特別なことをしているわけではなかった。余りの寒さに外食を嫌がったBJのために自宅で食事を作り、気ままに酒を飲み、気分が良くなったところで寝室に引っ込んだ夜だった。
今日も特に予定を決めていない。この寒さでは家に帰る時以外にBJが外に出るはずがないとキリコは予想し、買ったもののまだ読んでいない本を読もうと決めた。あとはたまに窓の結露を取り、BJを構えばいい。マダムの帰りは夕方だと言うし、それまでは本当にするべきことがなかった。取り敢えず昼食の予定を頭の中で組み立て、何とかなりそうだと納得してから書斎へ向かうことにした。
何も言っていないのに、BJが後ろをついて来る。家の中だと言うのに手を繋いで来るのだから可愛くて仕方ない。
だがそれも書斎までの話で、読んでいない本を目敏く見付けた瞬間、もうそこにキリコは存在しなくなった。
「ここだと寒いぞ、リビングで読め」
「うん」
快適に読書ができる場所へ移動させ、やれやれと溜息をつきながら自分の目当ての本を探す。近現代の薬学の歴史について記された一冊を持ってリビングへ戻ると、ソファで猫を膝に乗せたBJが既に違う世界へ行ってしまっていた。
BJの過集中にはキリコももう慣れている。むしろこれがあるからこそあの神がかった手術ができるのであろうことも。ただ、かなり疲れることは確かだ。夜には自宅に帰ることだし、あまり疲れさせては移動が面倒になる。読書は昼で切り上げさせることに決めた。
だが膝の上の猫がそれを許さなかった。自分ではなく本にしか興味を向けなくなった友達に怒り、不意に立ち上がったのだ。
「わあぁおう」
初めて出すような怒りの声に、BJだけではなくキリコまで驚いて本を取り落とすところだった。
「わあぁおぉう、んなぁおおう!」
「え、どうしたの」
「なぁあおうー!」
「何で怒ってるんだ、おまえさん」
仕方なく本を置き、BJは腿を踏んで立っている猫を抱き上げた。わぁおう、わぁおうとしばらく鳴き続けていた猫は、やがて気が済んだのか、BJの腕の中でぺろぺろと顔を洗い出す。
「何なんだ、もう」
「うわぁおう!」
「ええー……」
本を読むために降ろそうとした途端、また怒るのだからBJは困り果てる。猫の怒りの理由を察したキリコは思わず笑った。
「本に嫉妬してるんだろ」
「本に?」
「俺と一緒だよ」
「え?」
「構って欲しいんだ」
「──成人男性が何言ってるんだか」
猫を抱いてソファに深く沈み、天井を見る。読書は中断だ。確かに自分は本に集中し過ぎると、周囲のことを何も考えなくなってしまう悪癖がある。ピノコにはよく拗ねられることだった。本を遠ざけることに成功した猫は機嫌を治し、腕の中でごろごろと喉を鳴らす。
「キリコは何でまだ本読んでるんだ」
「お猫様のお呼びがないからだよ」
「じゃあ私が呼ぶ。にゃー」
猫の鳴き真似をし、お猫様を抱いたままキリコの膝にどすんと乗り上げる。キリコは笑い、読書を諦めた。猫を構いながら取り止めのない話をする。やがてキリコは煙草が吸いたくなったが、小動物がいる空間で吸うのは不適切だと考え、諦めることにした。
「にゃおん」
ご苦労、とばかりに一声鳴き、BJの腕の中を満喫した猫は再び家の中──もう縄張りなのだろう──の見回りに出掛ける。途端にBJが「煙草吸いたい!」と喚き、キリコも同意した。
咥え煙草でキッチンへ行き、またコーヒーを淹れる。それから間食には良い時間だと気付いて、買い置きのチョコレートを添えた。
「昼はパスタ」
「何の」
「ベーコンとほうれん草が確定」
「確定してないのは?」
「スープにするかカレークリームソースにするか」
「どっちもいいな。キリコの気持ちとしては?」
「おまえのウェイトの増加を防ぐために心を鬼にしてスープにしたい」
「──だったらもっと痩せるような食事を作れ! 馬鹿!」
たちまち真っ赤になって怒るBJを抱き寄せ、あちこちをつまんでみせる。無論デリカシーのない冗談で、特に体重に問題があるわけではなかった。
「ちょっと、馬鹿!」
抗議のためにその手を払い、しかし自分から向かい合わせに膝に乗る。
「冬は脂肪がつきやすいもんだ、気にするなよ」
「キリコが気にしてるんじゃないか!」
本格的に怒り出す前に触り方を変える。キリコの指の動きに不埒な色を察したBJは怒りながらも笑い出し、何でいきなり、朝もしたのに、と言った。それでも悪い気分ではない。キリコは軽くキスをし、やはり笑った。
「身体診察をしましょう、患者様」
「お医者さんごっこ?」
「俺は本物のお医者さんだ。誰かと違って医師免許もあるぞ」
「うるさい。アメリカの医師免許なんか日本じゃ意味ないし」
「日本のも持ってる」
「そうだった、このハイスペック死神、むかつく」
「そう、実は俺はハイスペックだ。権威に弱い日本人ならありがたく身体診察に同意するべきだな」
「嫌味なヤンキー。この状況で身体診察ってエロいことされそう」
「するに決まってる。では患者様、服はいかが致しましょう。お召しのままでも構いませんよ」
「セクハラドクター! 最低!」
「言ってろ、可愛いだけだ」
笑い通しのBJのルームウェアに手を忍び込ませ、その下にあった金具を外して下着に暇を与えてやった。衣服の中で柔らかなふたつのふくらみが、やれやれと解放感の溜息を吐くかのようにふるりと揺れる。同時にBJが首に腕を回し、深いキスを仕掛けて来たので、詳細な身体診察の前にまずはそれに応えることにした。
飲み込み切れない唾液がだらしなく頬を伝い、ルームウェアの襟を濡らすほど深いキスをしながら肌を探る。BJはそれだけですっかり蕩けてしまう。特に明るい時間や寝室以外でのセックスに背徳感があるのか、余計に感じることをキリコはよく知っていた。
今も僅かな時間で頬を上気させ、とろりと甘く蕩けきった目でキリコの指と唇をねだる。最高に可愛い、可愛くて仕方ないと思いながら、キリコは本格的な愛撫を──始められなかった。
「うなぁぁおぉう!」
「いって!」
「え、何!?」
「なぁぁおう! あぁおう!」
テリトリーの見回りから戻った猫がキリコに飛びかかり、猫ぱんちと言うには余りにも凶暴な一撃を繰り出したのだ。慌てて身体を離したBJが威嚇する猫を抑え、キリコは思い切り殴られた頬の痛みが引くまでやり過ごそうとする。だが「血が出てる」とBJに言われ、仕方なく簡単な治療をしてしまうことにした。
「私がやる?」
「いいよ、お猫様を落ち着かせてくれ」
「もう、おまえ、どうしてこんなことしたの」
「うにゃん」
「友達が襲われてると思ったんだろ」
まあその通りですけど、と呟き、キリコはキッチンに置いてある家庭向けの治療箱を探しに行ったのだった。
消毒して保護テープを貼り、キッチンに来たついでに昼食の準備をしてしまう。猫は飯抜きだ、と一瞬思ったが、流石に動物虐待は心が痛む。やめておいてやることにした。猫が人間のペースで食事をすることが正しいかどうかは知らないが、調整はマダムがやってくれるだろうと思った。
キッチンからいい香りが漂う頃、猫がいけしゃあしゃあとキッチンに現れる。そしてちょこんとキリコの足元に座り、見上げて「にゃあ」と可愛く鳴いた。
「……腹が減ったのか」
「にゃあん」
「おまえさんは自分が可愛いってことを知り過ぎているし、利用し過ぎている。正直言えば胸焼けがする」
「うにゃ」
「誰もがおまえさんの可愛さにやられると思うんじゃない。気を付けろよ、俺以外の誰かには通じないかもしれないんだからな」
胸焼けがしても振り払えない可愛さの攻撃に負け、先に猫に食事を用意してやった。それから人間の昼食を作り、食卓に並べ、猫の食事を先にした理由をBJに話したら大笑いされた。
午後はまただらけだものた。機嫌を直した猫を構い、少しテレビを見て、窓の結露を拭く。ようやくやる気を出して来た太陽の光がリビングに差し込んだ。真っ先に猫がテラス窓の前へ移動して丸くなり、いい気なもんだとキリコは溜息をつく。BJは笑っていた。
キッチンで煙草を一本吸ってリビングへ戻ると、BJもテラス窓に座り込み、半ば眠りかけた目をしていた。可愛いな、と思ってしばらくその姿を堪能してから声をかける。
「マフィン?」
「ん?」
「昼寝するならベッドでしろよ」
「いい、起きてる」
「そうか。じゃあ俺はベッドで寝る。おやすみ」
「嘘、わたしも」
リビングを一人で出ようとする──もちろん冗談だ──キリコを慌てて追いかけ、待って、と後ろから抱き付いてみせる。キリコは笑ってそのまま歩き、途中で歩きにくさが面倒になって抱き上げてしまった。
寝室にも陽光が差し込んでいた。カーテンを閉めて不埒なことを、とキリコは考えなくもなかったが、早々にベッドに転がったBJが気持ちよさそうにうとうとし始めたので、その野望はあっさりと潰えた。
電話が鳴ったらすぐに気づけるようにとドアを少し開けたままにして、キリコもベッドに入る。陽光と抱き付いて来た女の身体のあたたかさと愛しさに眠気を誘われ、予想以上にあっさりと眠りに落ちた。眠る直前、少し開いたドアから猫が入り込み、ベッドに飛び乗って小さく「うにゃ」と鳴いた後、BJの足元に丸まったことだけは分かった。
夢の中でロンドンにいた。何のトラブルもない穏やかで楽しい旅行をしていた。気に入っているホテルの部屋でだらけた時間を過ごしている。BJが可愛い。買ってやったワンピースと靴がよく似合っている。どこにいてもこういう時間が楽しいんだ、と思いながらキスをしようとしたらビッグ・ベンが鳴った。何度も鳴った。随分としつこく鳴るな、とキスの前に顔を上げたら猫の声がした。
「うなぉ」
目を開けた。見慣れた天井が目に入る。そして電話が鳴っていることに気付き、慌ててベッドを抜け出した。
「ああ、どうも──そうですか。いえ、お気遣いなく。いつも頂いてばかりで心苦しいくらいですから──」
マダムがやっと帰って来たようだ。すぐに猫を迎えに行くと恐縮しきりだった。電話を切ると同時にBJが寝室からやって来て、猫のように何かもぐもぐと言いながら抱き付いて来たのでキスをする。途端に飛んで来た猫ぱんちは素早く避けた。
マダムの今日の手土産は「頂いたもので恐縮なのですけれど」と明らかに嘘をついた紅茶のセットだった。受け取っておいた方がマダムの心が楽だと思い、キリコは受け取った。もしまた猫を預かるようなことがあれば、今度は最初から欲しいものを──互いに負担に思わない程度の何か──を指定するのも良いと考えた。
その前にマダムが猫が家から出ない対策をするべきだとも思ったが、猫が来ればBJが喜ぶことも知っている。BJが喜べば自分自身も気分が良くなるし、とりあえず猫は可愛いものだし、今は特に言う必要がないだろう。外に出た猫が事故に遭わないよう、野良猫から病気をもらわないように願うばかりだった。
「うにゃん」
「お迎えだ。あまりマダムに迷惑をかけるなよ」
BJに抱かれてやって来た猫に一言言い含めたが、猫は案の定どこ吹く風だ。マダムは初めてBJと間近で会って挨拶を交わした。容貌に驚いた態度を隠しもしなかったが、あくまで純粋に驚いただけで、悪意は何もないと分かるものだった。慣れているBJは人見知りらしく短く挨拶をし、キリコの後ろに隠れてしまう。
改めて礼を言ってマダムと猫が帰り、16時を回っていることに気付いた。少しばかり長めの昼寝をしたようだった。冬の昼寝は気持ちがいいものだ、仕方ない。
「ロンドンにいた」
「え?」
「夢でね。おまえと」
「またテロでもあった?」
「それが何もなくてね。拍子抜けだ」
「拍子抜けってのもどうなんだか」
笑ってキスをして、マダムからもらった紅茶を淹れることにする。女性に人気の英国ブランドの紅茶だった。ベリーと花の香りが茶葉の状態から広がり、BJは喜び、キリコはBJに持って帰らせよと決めた。
そろそろBJの家に行こうという話になった。夕飯の後に行く予定だったが、夕飯を食べるにはまだ早い時間で、そして長かった昼寝のせいか、今は食事のことを考えたくない胃の状態だ。道すがらで考えればいい、空腹になったら向こうの家にある何かで適当に作ればいい、と言うことになった。
「キリコが魚を釣ってくれてもいいし」
「あの辺で? 釣れるのか」
「釣れるよ。たまに大学の時の友達が家族で釣りに来る。うちの私有地から繋がっててあまり人が来ないから、穴場なんだって」
そのたびにうちの庭で海鮮パーティだよ、とBJは笑った。それは楽しいだろうね、とキリコは言いつつ、本当に暇な時には釣りでもするかと思った。釣りなど遠い昔、まだ少年だった頃、父と──そこで思い出すことはやめた。
「今日は釣らない。流石に凍死する」
「え、本当に釣りする?」
「してもいいなら」
「じゃああれ釣って、ヒラメとクロダイ」
「釣ってで釣れりゃ漁師はいらん」
寝室でキリコは外出の支度を、BJは帰宅の支度に取り掛かる。
ふとキリコの気が向いてベッドに移動した。ピノコとユリさんが帰って来ちゃうから、と口だけの抵抗をしたBJのルームウェアを手早く脱がし、では身体診察を始めましょうと言って笑わせ、今度こそ猫の邪魔もなく、本物の医者たちがお医者さんごっこに興じたのだった。
崖の上の家に着いた頃にはとうに日が暮れていた。キッチンに買い置きしてあるボンカレーで夕飯を済ませ、ピノコとユリが帰って来るまでまただらけた過ごし方をする。気が向いた時にキスをして取り止めのない話をし、話題が途切れれば黙り、甘えたくなれば甘える。
近日中に仕事が入っていることを思い出して、休日が終わるのだとキリコは思った。BJがぎゅっと抱き付いて、同じことを思っていると教えた。それでもまだ今日は今日、休日だ。
可愛いね、と囁いてキスをすると同時に、玄関が急に騒がしくなる。ピノコとユリが帰って来たのだ。
愛してるよと言ってから身体を離す前に、わたしも、と返事をされて嬉しくて、もう一度キスをした。

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