書きかけ
仕事中の気分転換にちょっと書いた。まだ付き合い始めの頃です。続きはそのうち書くかもしれないし、書かないかもしれないし、速攻書くかもしれないし。キリコに「今日は抱いてやれないんだ」を言わせたかっただけかもしれない。しれないしれないで何ひとつ詳らかになっていない。
あの風貌であの人見知りで、と多少心配になったことは事実だった。もちろん恋人同士としての立場を自覚し合ってからの話だ。
少なくともBJの見た目は服装を含めて一般の同世代の女性とかけ離れている上に、住んでいる家はあの場所で、はっきり言えば仕事も怪しい。連れ歩く美少女は舌足らずに先生と呼び、母子でないことは明らかだ。
どうやって社会生活をしているのだろう、とキリコは思った。自分とて目立つ外見ではあるが、アメリカ人です、ベトナム帰還兵の医者です、これは戦傷です、そこで予約制の医院を、出張も多くて、と言ったらすぐに疑いが解け、それなりに快適な生活はできている。
だがこれはキリコの自宅兼医院の周辺がいわゆる都内の高級住宅街、住民は外国人に慣れている人々、かつキリコが紳士然とした白人──この時代の日本人が好きそうな──であることが大きいとも分かっている。
T県はそこまで田舎ではない。むしろベッドタウンとして栄えている。しかしBJの家の周辺はどう考えても田舎と言った方が相応しい地域だ。差別ではなく純粋な疑問として、好奇や忌避の目に晒されているのではないかと考えてしまった。
しかしそれを直接問うのも躊躇われる。強気で捌けている顔を見せるのは仕事の時だけで、プライベートでは困ると黙り込み、俯いてしまうことも多い女だ。特に容姿への劣等感はかなりのもので、どうしてこんな女があんな仕事を続けていられるのかとキリコが思ったことは一度や二度ではなかった。そのギャップで更に惚れ込んだことはまた別の話だ。
「あれ、お嬢ちゃんだけか?」
恋人の機嫌伺いに来た男は、本人ではなく小さな娘しか家の中にいないことに気付く。そう言えば車がなかった。
「ちぇんちぇいなら街へお出かけなのよさ。ロクターのお酒を買うって言ってたのわよ」
「ではレディ、こちらは独り占めを」
「きゃーっ! ありがとうなのよさ!」
母子が好きな店のプリンを入場料としてこの家の女主人に渡し、キリコは家の中に足を踏み入れる。独り占めと言っても、ピノコがきちんとBJの分を残しておくことは知っていた。
「ロクター、お願いがあるのよさ」
「何なりと」
「納戸の蝶番が堅くって、でも高いところだからピノコが椅子に乗っても届かないのわよ」
「油はある?」
「あるのよさ!」
コートを脱ごうとした時、リビングの電話が鳴った。こればかりはキリコが出るわけにはいかない。BJの患者かもしれないからだ。物置に油を探しに行っていたピノコが飛んで戻り、舌足らずながら綺麗な言葉で電話に出た。躾がいいよなあとキリコが感心しつつしばらく話を聞いていると、電話の相手がBJだと分かった。
「ロクターが来てるのわよ、ろうする? ──はあい。ロクター、ちぇんちぇいが電話を代わってって」
「いいよ。──Hello、love?」
悪戯心と言うよりは、育った環境では当たり前の恋人への呼びかけをする。受話器の向こうでぐっと息を詰めた気配を感じ、そう言えばペットネームに慣れてないよな、と思った。横で聞いていたピノコが「ふわあ」と少女らしい声を上げた後、だがすぐに頬を膨らませ、奥たんはピノコなのにと怒っている姿が可愛くて笑った。
『何かと思った。馬鹿じゃないの』
ようやく気を取り直したBJが半分怒ったような声で照れ隠しを言う。
「馬鹿で結構。どうした? 俺の酒なんかいいよ、帰って来いよ。早く顔が見たい」
受話器の向こうでまた息が詰まる気配、そして横のピノコが「ふわああ」とまた声を上げ、今度は顔を真っ赤にしたので、せめてピノコの日本式情操教育のために米語に切り替えることにした。
「いや、顔が見たいのは本音だけどな。今日は抱いてやれないんだ、顔くらい充分見せろよ」
あの、うう、と呻く声が聴こえる。この程度でこの反応、遊び慣れた女とばかり関係を持っていたキリコにとっては新鮮で、そして可愛くてならなかった。
『……何で米語なんだよ』
「お嬢ちゃんに聞かせていい会話かと思うと、たぶん日本じゃそうじゃないんだろう」
『キリコがちょっと開放的すぎるだけで──もう』
もう、だって、と受話器の向こうでぶつぶつと言っている。赤くなっている顔が容易に想像できたキリコが気分が良くなった。可愛い、と声だけで思える自分は随分この女に参っているのだと思った。
『……っていうか、無駄だと思うけど』
「何?」
『もういい』
「何だよ。何かあったのか」
『あの──街にいるんだけど、車がパンクしちゃって。修理には出したけど、直るのが明日の昼過ぎになるって言われたから』
「ああ、迎えに行くよ。明日は修理工場に送ればいいんだろう」
『いいの?』
「もちろん。その代わり今日は泊めてくれよ。リビングのソファでいい」
この家に客間があることは知っているが、寝具がないことも分かっていた。そしてキリコは今まで一度もこの家に泊まったことがなかった。今日が初めてということになる。
さりとて恋人同士の甘い時間など過ごすつもりはない。中身はそこそこ大人でも、ちょっとした言葉を聞いただけで真っ赤になる小さなレディの前では自重するべきだった。ピノコの目を盗んでキスのひとつもできれば御の字だ。
『寝袋でも買う?』
「馬鹿言え、アウトドアをしに来てるわけじゃない。毛布の一枚でも貸してくれればいいよ。どこに行けばいい?」
『修理工場にいるから──』
住所を聞き、すぐに行くよ、と言った後、本音半分、悪戯半分で「愛してるよ」と付け加える。途端にまたぐっと息を詰める女が可愛くて、照れ隠しの罵声を聞く前に電話を切った。
「お嬢ちゃん、先生の車が修理になった。明日まで工場に入れるらしい。迎えに行こう」
これは国民性と言えば国民性だろうな、とキリコは自分で思った。実年齢はともかく、幼い子を家に一人にすることを禁じた国で育った身としては、今の状況で出掛けることは勇気がいる。
「ついでに買い出しなんかも。必要があればね」
「──新しい毛布を買おうなのわよ」
それが米語寄りの英語だったものだから、電話の話を理解されていたのだと知ったキリコは思わず天を仰ぎ、そうだ、あいつが育てているんだ、小さく見えても並の教養であるはずがない、と実感したのだった。無駄だと思うけど、と言ったBJが正しかったわけだが、もう少し分かりやすく言って欲しかった。
「れも、ロクター」
「うん?」
「抱っこくらいしてあげればいいのよさ。ピノコもちぇんちぇいに抱っこされるの好きらもの。ちぇんちぇいもきっと好きよ。ピノコはまだちぇんちぇいを抱っこできないから、できるようになるまでは特別にロクターに譲ってあげるのわよ」
「──なるほど、それは良い情報をありがとう」
「れもピノコが抱っこできるようになったららめなんらからね!」
「それはもちろん。ご厚情に感謝感謝」
全てを理解していたわけではないようだ。この点だけは安堵して、紳士な死神は恋敵を恭しく車に案内することにしたのだった。
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