写真
くっつく前の話です。「夢でいてくれるでしょう」と「君が愛を語れ」の間くらい。
この時代(弊サイト設定は80年代)にそんなコンパクトなカメラなんてなかっただろ……というのは置いて。いつも通り雰囲気で読んでください。本当は更新作品にするつもりだったんですが、書き込み不足なのでやめました。
「何これ。ピンボケ?」
BJを振り返ると、一枚の写真を持って首を傾げている。
「何?」
「これ。本に挟んであった」
書棚の整頓を一時休止し、キリコはBJから写真を受け取る。
「──ああ、これか」
頻繁に読むわけではなく、思い出した時にページをめくる本の中に挟んであった写真だ。どこかの街並み、人混み、そんなものがぼやけた画像になって残っている。
「誰が撮ったの」
「俺」
「へえ」
「ユリに頼まれて旅行先を撮った中の一枚」
「ピンボケなのに残してあるんだ?」
「しおりにちょうどよくてね」
「ふうん」
それきり興味を失ったのか、BJは再び自分が整理を担当した書棚へ戻る。本人は整理をしているつもりだろうが、興味のある本を見つけるたびに読みふけるものだから、その実まったく整理が進んでいない。静かにしているならそれもいいさ、と効率的に書棚の整理を片付けたいキリコは冷静に思っていた。
元通りに本へ戻す前に写真をしばらく眺める。何ひとつはっきりとしないぼやけた風景は、いとも簡単にこの写真を撮った日のことを思い出させてくれた。
冷え込む時期というほどではないが、その日は朝から秋が深まる予感を感じさせる風が吹いていた。仕事が空振りに終わった──依頼人からはっきりと言われたわけではないが、あの忌々しいモグリの外科医に患者を奪われたことは明白だった──キリコは、何度も訪れてすでに慣れたブルックリンの街を目的もなく歩く。
ホテルを引き払ってさっさと帰るか、それとも少しあのモグリを待つのもいいかもしれない。愛し合わないと決めた愛する女が、仕事をしていない自分を見た途端、傲岸不遜な天才外科医からただの弱気な女になる姿を見るのは悪くない。
悪くない、と言っても、それはある程度自分への言い訳であることも分かっている。俺は待ちたいんだ、とキリコは速やかに認めた。──俺が、俺の好きな女の仕事が終わるまで待って何が悪い。
「ミスター、新聞はいかが」
新聞売りの少年に声をかけられ、物思いから引き戻される。入荷したばかりの新聞を詰め込んだコンテナを眺め、キリコは頷いた。児童労働はいつまでもなくならないんだな、と思った。
「何がある」
「何でも。好きなのがなければ仲間に持ってこさせるよ」
「──ジャーナルを」
「ありがとう!」
コインを出すためにコートのポケットに手を入れた時、出立前にユリに持たされたカメラの存在を思い出した。最近リリースされたばかりの小型のものだ。
「きみの写真を撮らせてくれないか」
「俺の?」
「妹がブルックリンの景色を撮ってほしいと言っていてね」
「いいよ」
少年は気さくに応じ──児童労働を取材する記者の撮影に慣れていると、キリコが聞いてもいないのに教えてくれた──いかにも『ブルックリンの新聞少年』といった姿を撮らせてくれた。
「こんなにいいの?」
「もちろん。ありがとう」
新聞代金に少し色を付けて彼を喜ばせてから、キリコはその場を静かに離れた。
好きな女を待つと言っても、待ち合わせなどしているはずがない。いつも会うときは偶然だ。会えば患者をめぐって激論を交わすか、はたまた恋人ごっこを心底楽しむか──今回は会えれば後者になる。
甘いペットネームで呼び合い、食事をして、少しばかり恋人のような時間を楽しみ、セックスだけはしないで別れる。そして別れた直後に後悔する。なんて馬鹿なことを。なんて愚かなことを。なんて──互いを苦しめるようなことを。
それでも会えばどこかで彼女が期待していることが分かる。
否、自分が期待している。
今日は。今夜こそは。あの唇から自分が望む言葉が漏れ出るのではないかと──それは決してかなわぬことだろうと分かっていても、期待してしまうのだ。
すべてを捨てていいから。
すべてを捨てるから。
あなたのすべてを認めるから。
俺と。わたしと。愛し合うことを許そう。
そんな言葉を期待してしまうのだ。
だがそれは決してかないはしないし、かなってはならない願望であることは、ほかならぬ自分たちが分かっている。
だからこそ、ふたりで過ごす時間はまるで夢のように甘い恋人同士を演じる。わざとらしいまでに完璧なエスコートをする年上の男、わざとらしいまでに女言葉でかわいらしい年下の女。わざとらしいからこそ理想的な演技ができると知っている。
そして、演技に気持ちが乗りすぎて、ボーダーラインを踏み越えたくなってしまう時間に別れる。
いつも別れてからひどく後悔する。会わなければよかった。声をかけなければよかった。二度とこんな時間を過ごすものか。
「オーダーは?」
ほぼ無意識に通り沿いのカフェに入っていたことに気づく。物思いも大概にするべきだな、と自分を戒めながらコーヒーを頼んだ。
テラス席から仕事を終えた人々が足早に歩く姿を眺め、やがて飽き、新聞を開く。国内有数の大手新聞が報じる記事は今日も手堅く、公平だった。
コーヒーがテーブルに置かれるまでの数分で、質の高い記事を読むことにも飽きる。飽きるというより集中できなかった。集中できない理由を考えようとも思わなかった。
雑踏の中にあの無粋な黒いコートが現れるのではないか。それをまとった傲岸不遜な女が、俺を見た瞬間に遠慮がちに口元をほころばせるのではないだろうか──そんなことを考えているからなどと、改めて考えるまでもなかったのだ。
コーヒーを飲み終えるまでにそんな偶然が起きなければホテルへ帰ろう。そう決め、コートからカメラを出し、ユリがほしがっていた写真を撮るために雑踏へレンズを向ける。あまりブルックリンへ来たことがない妹は、ポストカードのように洒落た写真を部屋に飾りたいのだと言ってこのカメラを押し付けてきた。
我ながら妹に甘いという自覚のあるキリコにとって、それはまあまあ優先するべき命題だ。先ほどの新聞少年の写真のほか、数枚撮ってやってもいいと思った。
「ずいぶん小型だね」
「妹に押し付けられた。──洒落たご夫婦だね」
「ありがとう! 二人とも、ファッションにはこだわりがあってね」
「一枚撮ってもいいかい」
「妻と一緒でいい?」
「もちろん。──ありがとう」
この時代にはまだ珍しい、コンパクトカメラに興味を示した若い夫婦を撮る。最先端のファッションで上から下まで隙なく装備した彼らは、少しカメラについて話をし、被写体になったことに気をよくして雑踏の中へ消えて行った。
いかにも都会で成功した田舎者だな、ブルックリンらしくていい被写体だった、と口には出さず、キリコは煙草を咥えながらフィルムを巻いた。
それから数枚、また雑踏を撮る。テラス席に座ったまま、これといった技術もなく押すだけのシャッターでも、それなりに見栄えのいい写真が撮れる時代になったことはありがたかった。
少しずつ減るコーヒーを気にしていなかったと言えば嘘になる。カップの底にほんの少しだけ残ったコーヒーを飲み干す気にならない自分に嫌気がさす。
だが、この席に座って1時間ほど経つことに気づき、さすがにあきらめる──何を? 言うまでもない! ──ことにした。
最後の1枚、とレンズを覗き、それから──
カメラを下ろすのと、無粋な黒いコートの持ち主と目が合ったのはその瞬間だった。下ろすときに指先がシャッターを押した感触があり、ああ、フィルムが無駄になった、となぜか冷静に思った。
そして、遠慮がちに口元がほころんだ顔を見て、ああ、かわいいな、と思いながら、当たり前のように手招きをする。
数秒もすればきゅっと唇を噛み、それでも足早にここまでBJがやって来ると分かっていたし、そしてその通りになった。
「暇そうなことで結構、結構」
「蓮っ葉な口をきくものじゃないよ、ディア」
それが合図だとお互いに分かっている。合図を出した側は相手が受け入れるだろうかと不安になり、合図を出された側はまたあの時間を過ごせるのだと安堵する瞬間だ。
「──そうね、ダーリン。同じ時間を過ごせるかと思ったら、嬉しくなっちゃって」
同時に笑い──安堵の笑いだと、二人以外には分からない──キリコはカメラをポケットに入れて立ち上がる。
「夕飯には少し早い。美術館にでも行く?」
「ブルックリン美術館? 行ったことないわ」
「じゃあ行くべきだ。見ない人間は損をする場所だからね」
立ち上がって頬にキスをする。BJははにかんだように笑い、それから上目遣いで見上げ、明らかに唇へのキスをねだってみせた。キリコにそれを断る選択肢はなかった。恋人ごっこには必要不可欠、むしろなくてはおかしい演技なのだから。
夕闇に覆われはじめたブルックリンの街並みと雑踏が二人を隠す。ずっと隠れていられればいい、とキリコは思う。
数時間もすれば、自分たちから隠れることをやめ、また後悔する瞬間がやって来てしまうのだと分かっていても。
いつまでこんなことが続くのだろう──いつまで。永遠に?
そうだ、永遠だ。
俺とBJの道が交わることなどないのだから。
「……と、思っていた時期が俺にもありました」
ぼやけた写真を眺め、呟くついでにちらりとBJを見る。案の定、見つけた本に熱中していた。それもかわいいと思った。
あの日々の自分に言ったら頭がおかしいと思われることだろう。──『あと少しすればおまえはあの女とセックスするし、世間じゃ表でも裏でも事実婚として扱われるようになるよ』。
この写真は現像するまで気づかなかった。一体何かと思ったが、すぐに思い出せた。ユリには渡さず、さりとて捨てる気にもならず、先ほどBJが開いた本に挟んでおいたのだ。
捨てる気にもならず──それは仕方ないことだ。ぼやけているとはいえ、ほとんど分からないとはいえ、そこに好きな女が写っているだろうと分かるような黒い色があるのだから。
たまにしか開かない本に入れ、たまにその写真に気づいた振りをして、そしていつもそのたびに思った。
ああ、なんていとおしいのだろう、と。
あの時間を過ごすたびに後悔していたし、今もそれは忘れていない。だが確かに、あの瞬間は──あの時間が始まる瞬間は──嬉しくて、いとおしくてたまらなかった。
こんな写真でもそれを思い出させてくれる。
二度とあの時間を過ごしたいとは思わない。だが、思い出せばいとおしいと噛み締められるのであれば、それは人生において素晴らしい時間だったと言うべきだ。
ろくな写りではない1枚の写真でも、キリコにとっては捨てるべきものではなく、今までのようにたまにしか開かない本へ入れておくべきものだった。
「ねえ」
本に集中していたはずのBJが不意に言う。
「何」
「それ、その写真」
本から顔を上げずに言うBJの耳が、わずかに赤くなっている。
「それ、ブルックリンでしょ」
「──うん?」
「真ん中の黒、わたし」
「こんなので、どうして分かった?」
「あのとき」
読んでもいないページをめくり、BJは小さく言った。
「わたしのこと撮ってくれたのかな、って……思ったから……」
ぜんぜんきれいじゃないから申し訳なかったんだよね。その声は本当に小さくて、キリコは聞こえない振りをしてもいい立場だった。だがそんな振りができるはずもなかった。少し考え、今のふたりによく似合う言葉をすぐに見つける。
「ブルックリン、正解だ。でも、そのあとのそれはいい言葉じゃないよ」
「分かってるけど、でも──あのとき」
もっときれいならよかった、って思ったの。
短いその言葉は、しばらくの沈黙の後、キリコが写真について説明したくなる十分な効果があった。
「これは俺にとって大事な写真だから、処分はできないけど」
「処分しろなんて言ってない」
「分かってる。──大事な写真なのは分かって」
これを見るたびに、おまえのことがいとおしいって思い出していたんだから。
やっと本から顔を上げ、目を合わせたBJの顔がひどくかわいいと思い、キリコは笑った。
「だからこれは、これからもこの本に挟んでおく」
「いらない、そんなの」
「俺が撮った写真だ。おまえの意見は通らない」
「いらない」
「だから──」
「──新しいのにすればいいのに」
おや、とキリコはBJを見る。BJはまた赤くなっている。
「なるほど」
キリコは笑った。
あの日よりも──もっときれいならよかったと思ったあの日よりも──自信をつけた女が、この上なくかわいく、いとおしい。
「なるほど。──なるほど、それはいい提案だ」
「笑わないでよ」
「笑うよ」
「どうして!」
「嬉しいから。──愛してるよ」
途端に言葉に詰まるBJを見て、ああ、かわいい、とまた思う。だから抱き寄せて頬にキスをした。BJはしばらく照れ隠しのようにもがいていたが、やがておとなしくなり、上目遣いで──あの日のように──唇へのキスをねだる。もちろんあの日と同様、キリコに断る選択肢はない。
あの日と同じように、あの日よりは少し丁寧に唇を重ねて、あの日よりも近い場所で甘い言葉を囁く。BJは幸せそうで、それを見たキリコも幸せだった。
写真を撮ろう、と言った。きれいにしなきゃ、と答えが聞こえた。
ああ、幸せだ、いとおしい──何よりもいとおしい女にキスをしながら、キリコはあの写真を本ではなく、アルバムに移そうと決めた。

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