【腐】1は素数に非ず
女体化とは別軸の腐でキリジャです。書きたい雰囲気を書いただけけなので、細かい部分や唐突な展開や書き込み不足はふんわり脳内で補完して頂ければ助かります。何ヶ月振りに小説書いたんだろう…。
ドクター・キリコだ。ご機嫌よう。何かと騒がしい昨今、とご挨拶でもしようと思ったが、俺がベトナムへ行くずっと前から世界ってのはいつも騒がしい。とりあえず互いに健勝であれば重畳。
健勝、つまり健康、すこやか。どんなにメンタルを病んだ人間でもまずは身体が健康であれば大抵の問題はクリアできる。体力でメンタルの問題に目隠しできるからだ。そんな人間を何人も知っているし、俺自身もそのきらいがある。それでいい。
人間は社会で生きる以上、どこかで何らかの折り合いとその折り合いをつけるためのサポートが必要だ。サポートに身体的健康が適しているというだけの話である。身体的健康を損ねるとメンタルを病みやすいという関係性もある。二律背反とはカントもよく言ったものだ。
だがあまりにも完膚なきまでにメンタルが破壊されている人間が多大なる健康を手に入れている場合、地味に、そう、非常に地味に、地味ながらに混乱を招きかねないことも俺は知っている。よく知っている。とてもよく知っている。
「キリコ!」
おいでなすった。完膚なきまでに破壊されたメンタルに多大なる健康を付随させ、地味ながらに混乱を招くクソガキが。
「また人を殺すつもりじゃないだろうな!」
もう聞き飽きた物言いだが、気分が良いものでもない。たまたま俺を見かけただけで叫ぶのはやめろ。俺にも世間体がある。
「俺は人を殺したことなんかないよ、先生」
「よくもそんな口を──」
「お静かに。あまり大きな声を出すような場所でもない」
ホテルのロビーとあらばそれも当然。BJも気付いたのか──叫ぶ前に気付け、この社会不適合者!──うむ、と唸るように呟いて口を閉じる。しかしどう見たって俺を疑っている。周囲の視線も気になることだし、また口を開く前に先手を打つことにした。
「明日の午後、A大学病院の講演会」
「え?」
BJの眉が跳ね上がる。
「小さな席だがね。終末医療と介護について講演会があるんだよ。それを傍聴するだけだ」
「……え」
今度は戸惑った顔になった。俺の答えが予想外だったんだろう。
「俺の学びを邪魔しないでくれ。俺だって生かせる患者は生かしたいんだ。──QOLを伴わせてね」
戸惑った表情が一気に不遜な顔になった。ああ、と俺は思わず漏れそうになった溜息をこらえた。
こいつはいつもこうだ。俺が生命を奪わない可能性に気付くといつもこんな顔になる。
きっと自分でも気付いていないだろう。
こんな顔。
不満そうな顔ってことに。
唐突にその顔が嫌になった。俺は我ながら冷たい声で「では」と言ってチェックインを済ませにレセプションへ向かう。
「……先生」
「うん」
「着いてくる用事でも?」
なぜ俺と並んで歩き始めたのかが理解できない。するとBJは先ほどまでの剣呑さはどこへやら、「ああ、うん」とまるで親しい友人の会話に相槌を打つような声を出した。
ああ、と俺はまた溜息をこらえた。
こいつ、スイッチが入りやがった。
「私もこのホテルに泊まるから、チェックインをするんだ」
こいつは俺に対してよく分からない感情を──本人が言うには恋心を──抱いているらしい。仕事は仕事、恋愛は恋愛。なるほど、ほかの世界で生きる人間が言えば「なんて素晴らしい意識だ、仕事とプライベートは完全な線引きができているなんて」とわざとらしく称賛してやるところだが、いかんせん闇稼業、いかんせん──このクソガキ。
「キリコもここに泊まるなら、嬉しい偶然だと思わないか?」
「素晴らしい偶然だね」
「じゃあ──」
「明日の聴講に備えて調べ物がある。すぐ出かけるから先生の相手はできないよ」
俺の返事に顔を輝かせかけたBJを遮るために手っ取り早く事実を告げる。途端にしゅんとした顔になる。くるくると変わる表情は水商売の女そこのけの人心操作術──と思いきや、こいつは無意識にやっているのが分かるから嫌になる。
本当に嫌になる。
「なら」
妥協案を出す俺が、嫌になる。
「調べ物が終わって俺の気が向いたら、コーヒーくらいご馳走されてあげても構わないよ」
天才外科医だの名医だの、そんな言葉が嘘としか思えない。
俺の言葉ひとつで嬉しそうに笑い、「うん」と頷くガキの姿なんて。
「分かった。20時に部屋に行くよ」
「勝手に決めるな」
「じゃあ19時50分だ。──失礼、予約のクロオ・ハザマです」
俺より早くレセプションに声をかけ、さっさとチェックインを済ませる後ろ姿を眺めながら、俺は今度こそ溜息をついた。
馬鹿なガキだ、と思ったからだ。
馬鹿なガキだよ。
惚れてる男の部屋に自分から来るなんて宣言、少しでも頭が回ればするはずがない。
少しでも頭が──
そうだ。
するはずがないんだ。
少しでも、
少しでも自分の価値を分かっていればするはずがない。
こいつの完膚なきまでに破壊されたメンタルが適切な自己評価を遠ざける、あるいは危機意識を遠ざける。
だから俺はこいつと時間を過ごしたくないんだ。
言いたいことを言い、したいことをする傲慢な天才のくせに、自分の価値だけを理解できない馬鹿なガキなんて、一緒にいたら疲れるだけだろう。
「じゃあ、また後で」
相変わらず嬉しそうに言うBJに「ああ」と低く返し、俺もチェックインを済ませる。俺の部屋番号を確認してからBJはさっさとエレベーターへ向かって行った。俺はこのまま出かけるからどうでも良かった。
惚れてる男の部屋に──まあ、うん。出かける前にロビーの喫煙ブースで煙草をくわえ、煙を吐き出す。惚れてる男の部屋に、という一面に注目しすぎた自分を戒めた。
あのクソガキがそんなことを考えているはずがないからだ。
キリコが気になる、キリコに惚れているかもしれない、多分惚れている、やっぱり惚れているみたいだ。こうやって、実際のところは過去からしっかりと段階を踏んで心を伝えて来られている。かと言って自分から俺と恋愛関係になろうとしているわけでもない。
最初は俺が適当にあしらっているから諦め気味なのか、とはじめは思っていたが、そうでもないと気付くまでにそれほど時間はかからなかった。
あれは──そうだ。
よくあるだろう。主に若いお嬢さんが好きな小説で、ヒロインが顔を赤らめて言う台詞だ。
“あなたと一緒にいるだけで楽しいの!”
ユリもその年頃にはよく読んでいた──というのは今は関係ない。
とにかくそれだ。
BJはまさにそれだ。
いわゆる「はしたないこと」なんてまったく考えちゃいない。
ああ、まったく、俺で良かったな。
夜に惚れていると知られている相手の部屋を訪ねるなんて。
俺で良かったじゃないか。
おまえがそんなことを望んでいるわけじゃないって知っていて。
そうだ、知っていて。
見逃してやろうっていうんだからさ。
俺で良かったな。
馬鹿な坊や。
19時50分、律儀にぴったりの時間にインターフォンが鳴った。さすがにコーヒーを飲む時間ではない。ホテルのバーで1杯付き合えばいいだろうと思っていた俺は外出着のままだった。
その選択を後悔するべきだったのか、それとも称賛するべきだったのか判断に悩む。
あの鬱陶しいコートこそ一応羽織ってはいたが、タイとジレがない。襟元も少し空いている。
不思議だと思った感情がそのまま顔に出てしまったんだろうか、どこか慌てたようなBJが俺の顔を見た後に「ええと」少しうつむく。
「その」
「うん?」
「すまない、こんな格好で。キリコは外出着なのに。そうか、出かけると思っていたのか」
「ああ、いや、──意外ではあるけれど。ラフな先生は珍しいね」
とりあえず部屋に入れた方がいいだろうか。いつまでもドアを開けたままにしておくのも──俺にしては珍しく悩んだ時、BJが絞り出すような声で言った。
「へ、部屋に行く、と言ったのは」
「うん」
何だ、と思った矢先の出来事だった。俺は目を丸くせざるを得なかった。
BJが耳まで真っ赤になったからだ。
俺は咄嗟に内心で素数を数える。いち。いや待て、1は素数に非ず。とにかくどうにかして状況を判断しようとする俺に立て直しの隙を与えたくなかったのか、いや、そんなことすらきっとこいつは考えていない。
言いたいことを言って、したいことをするこのクソガキは。
だから今も言いたいことを言いやがった。
「はしたないことをするつもりだったんだ」
でも迷惑だよな、ごめん、悪かった、今からでも服を──ぽかんとする俺を見て焦ったように立て続けに言葉を発するBJをしばらく眺めていたが、他の部屋のドアが開く音が聞こえ、俺は条件反射のようにBJの腕を強く引いて部屋に入れ、ドアを閉めていた。
「先生」
「あ、うん」
本当は気付いていた。あしらいながら、俺は逃げているだけだって。
「言いたいことは分かったから」
いつも言いたいことを言い、したいことをするクソガキ。
「今度は俺の話を聞いて」
そのクソガキに、俺は色々と話をしなけりゃいけない。
俺が逃げていた意味や、俺たちが恋愛をする意味や、それから、そうだ、最初に大事なことを言わないとまずい。
俺の方が早く、おまえを好きになったということを。
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このときは多分やってない。

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