先生がキリコの声を聴きたかっただけの話
いつも通りのパターンの話です。先生の鬱陶しさは相変わらず書いていて楽しいです。キリコの仕事やブッキング時の感情はこんなの綺麗ごとじゃないですか…って自分で思わなくもないです。
稼業が稼業だ。日本国内だけではなく海外へもよく出かける。呼ばれればどこにでも行く。腕と高額報酬だけではなく、フットワークの軽さも折り紙付きだ。どんな高額でも生命を繋げたいと思う人間はおそらく一般人が考えている以上に多い。お陰で今日も今日とて仕事が舞い込む。
ここ半月ほどは本当に忙しい。明日は他県、明日は他国、陸海空のすべてを渡る。一件終わればまた一件、次の仕事は翌日という日が珍しくないほどの立て込みようだった。国内の仕事にはピノコを連れて行くことも多いが、国外は基本的に連れて行かない。
これだけ忙しければ「彼の顔を半月も見ていないわ!」と仕事と恋のはざまで嘆く女性を気取れるが、実際はそうでもない。
この忙しい時期の最後の仕事になるはずだったその日、ワシントンの仕事先で顔を合わせ、いつものごとく患者とその家族、そして病院のスタッフたちが戸惑うような激戦を繰り広げた。
結果、患者はBJを選んだ。普段ならキリコがそのまま治療のサポートに入ってくれることがほとんどなのだが、今回はタイミングが悪かった。同じワシントンのフォート・デトリックでの定期の仕事が入っていた。
身勝手であるとは分かりながらも機嫌を悪くしたBJに、疑うなら赤毛に確認しろ、とキリコは短く言って、ろくに話せないまま姿を消した。キリコも機嫌が悪かったのだと気付いたのはほどなくしてだった。
キリコはメンタルコントロールに長けた男ではあるが、さすがにブッキングの数が積み重なっている。そのほとんどの患者がBJを選ぶのだから、自身の仕事を神聖なものだと信じ、患者にすべてを捧げるためにどこにでも足を運ぶ医師として、そろそろ割り切れない何かを感じていてもおかしくないはずだ、とBJは不意に思った。
それを理解するべきだったと思いはしたものの、別れのキスさえしてもらえなかった女としては気分が悪く、言われた通りの相手に電話をして八つ当たりをした。電話口で理不尽な言い掛かりをつける女に対し、まじで2人まとめてさっさと死ねばいいのに、と赤毛の少佐は心から言って、それでもこの2人が喧嘩をするとろくな結果にならないと知っているためか、15分ほど──BJが多少落ち着くまで──相手をしてくれた。それで気分が切り替わったのは確かだ。ありがとう、と言う前に電話が叩き切られ、あいつじゃなかったら罪悪感を持つところだった、と自分で自分を誤魔化した。
キリコがフォート・デトリックの定例仕事をする時、ワシントンでBJの仕事が重なればキリコのアパートメントへ行くのが定例だ。だが今回はどうにもばつが悪く、依頼人が用意したホテルに滞在することにした。キリコに連絡はしなかった。探そうと思えば探せるんだから、と拗ねた気持ちであったのも事実だ。
それから1週間、幸いにも──BJからすれば当然の結果として──患者の手術は成功し、予後も順調な方向へ進むだろうと考えられる状態になった。あとは病院のスタッフに引き継げばいい。治療計画書を見た引き継ぎの──もとは主治医だった──医師は嘆息を吐き、何かあれば連絡させてもらいますよ、と言って引き受けてくれた。
これで仕事は終わった。いわばビジネスモードが終了した。更に言えばビジネスモードで自分を誤魔化しきれなくなったとも言える。
明日にはホテルを引き払い、日本へ帰るつもりだ。キリコはまだフォート・デトリックの仕事が数日入るはず。こんな時、通常ならその数日を2人で過ごす。だが今回はどうしても素直にそうしようとは思えなかった。
多少ならずの自己嫌悪があったことも確かだ。あの時もっと別の言い方ができたのではないか。いいや、そもそも仕事なのだから自分に非があるなんて思っていない、でもキリコがあんなに機嫌を悪くしたなんて──ビジネスモードの強い態度で誤魔化しきれなくなった自分が顔を出す。いわば恋愛に対して気弱すぎる、自信のない女になってしまう。
BJは部屋の電話を睨み付けていた。電話に生命があれば怯えるような眼光であったことは間違いない。何度も受話器に手をかけ、フロントに外線を頼もうとした。だが結局受話器を取り上げることができず、手を離しては溜息をつき、うろうろと意味もなく部屋の中を歩き回る。
──だって。
ああ、やめておこう。そう思ったのに思考は勝手に回り出す。恋愛に対して気弱で自信のない、愚かで間抜けな女の思考だ。
──だって、キリコが全然電話をくれない。わたしがどこに泊まっているかなんて調べればすぐ分かるし、……そもそもいつもはあんな別れ方、しないのに。
どんなに急いでいる時でも、どんなに仕事で揉めた時でも、話が終われば溜息をついて軽いキスをくれて、どこのホテルなの、と訊いてくれる男だ。そして当然のように自分が泊まるホテルに連れて行く。次の仕事が入っている時には優しい言葉をくれて、そして滞在先から必ず毎日電話をくれる。
「……ああ、もう」
思わず呻く。その声が我ながら弱々しく、腹が立った。キリコに腹を立てた振りをしたかったが、自分を誤魔化しきれなくなっていた。自分に腹が立っていた。
言い過ぎたかもしれない。もっとキリコの気持ちを慮るべきだったかもしれない。──自分から電話をかけるべきだったかもしれない。そのすべてに腹が立つ。そして、ああ、もしかして、と思ってしまう自分にも腹が立つ。
ああ、もしかして。
もしかして、キリコがこれでわたしと別れたいなんて思ってたらどうしよう!
そんなはずないだろう、と眉をひそめる自分と、でもそうかもしれない、と泣きべそになる自分がいる。冷静に考えれば分かるはずなのだ。それも理解できている。
冷静に考えれば分かる。キリコがこんなことで別れたがるはずがない。その程度には愛してもらえている。別れるにしてもこんな方法を採るはずがない。互いに言葉を尽くして、という手段を選ぶはずだ。
だがどこかで、否、実は自分の根本に根差してしまっている劣等感が顔を出す。わたしなんか。そう思ってしまう。わたしなんか。醜い。素直じゃない。この時代の女性が求められる可愛いこと、女らしいことなんて何もできない、持ってない。
どうしよう。──どうしよう。電話をした方がいいのは分かってる。電話をすればきっとぜんぶ思い過ごしだって分かる。
でも──どうしよう。もしそうならなかったらどうしよう。
ああ、いやだ。心底そう思った。ああ、いや。わたし、自分がいやだ。ぜんぜんうまくできない、なんにもできない。電話ひとつかけられない。この間はごめん、って言えばきっと笑ってくれる、笑ってくれないとしても話ができるってことが分かってるのに、もしそうじゃなかったら、って考えてしまって電話もできない。
それに分かってる。本当に分かってる。こんなふうに考えること自体が、キリコに失礼なんだって。だって疑っているようなものなんだから。わたしが自分に自信がないからっていうのも事実だけど、それを理由に彼を信じ切れないって思われても仕方ない。そんなことないのに。そんなことないけど、でも、そう思われたって言い訳できない。
信じ切れないんじゃなくて、不安なだけなんだ。いつも。わたしは醜い。可愛くない。なのにあんなに素敵な人が。そう思ってしまって不安で不安で──
電話が鳴ったのはその時だった。大げさでなく思わず飛び上がってしまう。フロントからの呼び出しだ。鳴り続けるそれをしばらく凝視していたが、やがて患者からかもしれないと気付いて慌てて受話器を取った。
『ドクター・キリコよりお電話が入っております』
思わず大きな溜息をつき、受話器を持ったまま毛足の長い絨毯に座り込んでしまった。繋いで、と言ったら、ただいまお繋ぎいたしますね、とその女性のフロントスタッフはなぜか少し優しく言ってくれた。
数秒の保留音のあと、低くて甘い声が聞こえた。
『マフィン? 調子は?』
声の背後に喧噪が聞こえる。公衆電話からかけているのだろう。
調子は悪くないよ、と答えたかった。だがどうにも喉が動かず、座り込んだまま頷く。頷いたところで見えるはずがないのに、それしかできなかった。喉が動かないのは声を聴いた途端に安堵して力が抜けてしまったからだ。馬鹿みたいだね、と冷静な自分が呆れ、だって仕方ないよね、と自分に自信のない女が言う。
『マフィン──クロオ?』
好きな男の声が優しい。ああ、怒ってない、わたしと別れたいなんてぜんぜん考えてない。そう思わせてくれる声だった。返事をしようと思ったのにできなかった。座り込んだ膝の上にぬるい感覚がぼたぼたと落ちたが気付きもしなかった。とにかく安心した、とにかく──嬉しかった。
電話の向こうで好きな男の声が優しく笑った。
『ちょっと待ってて』
返事をしないうちに電話が切られた。なにひとつ会話ができなかった。返事すらしなかった。
だが不安を抱きはしなかった。怒っていなかった。それだけで嬉しかった。こんなことで不安がるなんて、嬉しいなんて、本当に馬鹿みたいだね。冷静な自分を押しのけるように、仕方ないじゃない、嬉しいんだから、と気弱な自分が喚いていた。
しばらく座り込んだまま時間を過ごした。安堵のあまりそのまま寝てしまいそうだった。なぜかゆるくなっていた鼻をぐすぐすとやりながら立ち上がり、受話器を置く。
ちょっと待ってて、と言われたことを思い出す。アパートメントに帰ってから改めて電話をくれるのだろうと思った。鼻をかもうとしたが、ドアがノックされたのはその時だ。ルームサービスを頼んだ覚えはないが──するとまたノックの音が響く。
その叩き方に覚えがあった。緊急時に備えて合図のための叩き方を決めたことを思い出した。思い出すと同時にドアへ走り、誰何もせずに開けていた。開けると同時に飛びついて、飛びつく前に抱き締められていた。
好きな男が少し笑いながら、片手で抱いたまま部屋に入り、ドアと鍵を閉めてしまう。しがみついたままのBJは指で顎を持ち上げられて顔を上げ、なぜか苦笑するキリコにキスをされた。
「今、取り次ぎを頼んだらフロントに言われたんだ。おまえが泣いてる、急いであげて下さいって」
何それ、と辛うじて出た言葉が涙声で、自分でひどく驚いた。なるほど、わたしは泣いていたのか! 電話でフロントの声が優しくなった理由と鼻がゆるくなっていた原因が分かり、恥ずかしくなった。
「来るの、早い」
かろうじてそれだけを言うとキリコは笑う。
「そりゃあ、ホテルの目の前の電話からかけたからな」
「どうして」
「迎えに来たはいいが、時間も時間だし。寝てたら可哀想だと思って」
だったらフォート・デトリックを出る前に電話をすればいいのに、だとか、昨日のうちに電話をすればよかったのに、だとか、言いたいことは山ほどある。ほかにも──医者として──だがもう一度くれたキスが心地よくて、今はどうでも良くなった。
帰る、と訊かれた。帰る、と答えた。ここから10分も歩けば着くキリコのアパートメントだ。そんなに近くにいたのに、とおかしくなった。
荷物をまとめてフロントへ降りる。夜番の女性コンシェルジュがBJとキリコに向かって片目をつぶってみせた。きっと彼女が電話を取り次いでくれたのだろう、とBJは思った。
「ずっと立て込んでね。毎日23時過ぎまでフォート・デトリックにいたから」
電話ができなかったんだ、と荷物を持ってくれるキリコが言った。繋いだ手があたたかいと安堵しながらBJは「ふうん」と言う。
「おまえは?」
「え?」
「俺に電話は?」
BJは咄嗟に答えられず、足元に視線を落とす。頭の上で背の高い男が笑った気配がした。悔しかったが何も言えなかった。するとキリコが話し始めた。
「今回、どうしても急ぎで。別れた時、もう軍の迎えが来てたんだよ。どうせおまえを選ぶのは分かってたし、軍の急ぎの理由も知ってたし」
「──え?」
「まあ、軍が急いだ理由は言えないから、そこは勘弁」
「そうじゃなくて──わたしを選ぶのは分かってた、って?」
BJの歩幅と歩調に合わせながら歩き、キリコは少しずつ説明する。BJがまだ混乱から抜け切れていない。頭のいい女だが、こういう時は順序立てて説明した方がいいと知っている。
「俺には手紙で依頼が来たんだ」
「わたしもそうだったよ」
「うん。──で、俺の手紙にはブラック・ジャックにも同時に依頼をしている、って書いてあってね」
どうしても心が決まらない、もしどちらを選んでも依頼料は払う──そう書かれていたと聞き、BJは目を丸くした。自分への依頼の手紙には一切書かれていなかった。それを言うとキリコはふっと笑った。
「だろうな。あの患者は最初からブラック・ジャックの手術を受けたかったんだよ。だから俺の名前なんて書く必要がなかった」
どんなに苦しくても生きたかったんだろう、俺には理解できないけどね、とキリコは静かに言う。
「そんな酔狂な人間の顔を見るのも嫌いじゃないからな。だから行ったんだ」
「だったら」
「うん?」
「あんなに、わたしと議論する必要なかったんじゃない?」
「あったよ」
いつものアパートメントに着き、話は一時中断になる。家に入って厳重に鍵をかけ、2人ともコートを脱いでひと息ついた。キリコはいつも通りの場所にコートをかけ、タイをゆるめて息を吐きながら煙草を口にくわえる。フォート・デトリックから帰宅した時のルーチンだ、とBJが思い出すまでもなく思っている間に、くわえ煙草でウォッシュルームへ行ってしまった。BJもコートを脱いでそれに続く。
「なかったよ」
「うん?」
2人で手を洗いながら話を続ける。壁一面の鏡にいつも通りの2人の姿が映っていた。泣いた跡が分かるBJの顔だけがいつも通りとは少し違う。
「わたしと議論する理由」
「俺はあると思──」
「馬鹿」
くわえ煙草の灰を洗面台に落としたキリコに悪態をつく。キリコは笑い、洗ったばかりの手で灰を片付けた。BJの調子が戻って来たことを喜んだ笑い方だった。洗面台に置いてある灰皿で煙草を揉み消し、BJの髪にキスをする。
「議論する姿を見れば患者は自信を持てる」
「納得?」
「自分の選択に。自分で死神を退けた気分になれただろうさ」
BJはまじまじとキリコを見る。もしかして、もしかしなくても、この人──そう思った。不意に気付いた。
この人、そのためだけにあの患者に会いに行ったんだ。わたしとブッキングしてるって知っていても。自分への依頼は破棄されるって分かっていても。
患者に自信を与えるために。
そのためだけに。
でも──患者にとって何よりも強い力になること。
そのためだけ会いに行ったなんて!
勝手に身体が動いていた。キリコに飛びかかるようにして首にしがみつき、思いきり背伸びして背の高い男にキスをする。驚きはしたものの、キリコは笑って抱き締め返した。それから少し丁寧に、深いキスになる。
勘違いしてた、とBJは言った。自分が思っていたこと、それで怒っているのではないかと心配していたこと──キリコはいちいち頷き、いちいち否定した。そんなことはない、大丈夫だ、何も心配することなんてない、と何度も言って分からせてくれた。こんなに面倒な性質の自分に辛抱強く対応してくれるこの男が本当に好きだ、とBJは思った。
「あのね」
「うん?」
だから安心できる。何でも言える、きっと怒らない。そう信じさせてくれる男が心から好きだ。
「ずっと会えなくて」
「うん」
「声も聴けなかったから」
「うん」
「寂しかった」
「──ごめんね」
互いに不可抗力な事情があったというのに──むしろBJのいらぬ意地が原因の一端であったとしても、まるで自分に非があるように謝罪の言葉を口にする。わたしがそれを理解できるって分かっててくれているからだ、とBJは嬉しくなる。だからまた背伸びをしてキスをする。
「ごめんねって言うなら、埋め合わせが必要だと思うんだけど?」
「おお、怖。お手柔らかに」
キリコが笑ってまたキスをする。何度でもする。BJも笑って言った。
「いっぱいしゃべってよ。キリコの声が聴きたい」
「おまえは可愛いね」
キリコは機嫌よくまた笑って、またキスをした。それから、いいよ、と言った。
「いくらでも。明日はやっと休みだ、喉が枯れても構わないしね」
「わたしもやっと休み」
「帰国は?」
「して欲しい?」
「まさか!」
それからキリコはBJを抱き締め、身体を揺らしながら、いかにBJを愛しているか、いかに可愛いか、いかに会いたかったかと話し始めた。たまに冗談交じりになる話し方でBJを喜ばせ、機嫌よく何回もキスをする。BJはふと洗面台の鏡に目をやり、好きな男の腕の中にいる女がいやに可愛いような気がして、ああ、もう、と恥ずかしくなった。自分はこの男に惚れすぎているのではないか、と思ったのだ。だがそれの何が悪いんだと冷静な自分が言い、うん、何が悪いの、と気弱な自分も言った。それならいいや、と開き直り、ぎゅうぎゅうとキリコに身体を押しつける。
キリコは話し続けてくれている。よくこんなに語彙があるものだとBJを感心させるほど、自分の恋人をいかに愛しているかを話し続ける。半ば感心、半ばうっとりと聞いているBJは、ここがウォッシュルームであり、すぐ背後にはバスルームがあることを忘れている。
ひとつだけの青い瞳に優しく見つめられて嬉しい、たくさん可愛いって言ってくれて嬉しい、と思っているうちに、鏡の中の女が少しずつ服を脱がされていることに気付いていなかった。気付いたのはバスルームへいつの間にか誘導され、シャワーの湯とともに、深い、深いキスが降って来た時だった。
—————-
このあと言葉責めでもしたんじゃないですかね。

最近のコメント