たぶん没

書きかけとか

たぶん没なんだけど一応書きかけとして置いておくやつ。

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 崖の上の家に前触れなくやって来る患者候補はそこまで多くない。だがいないわけではない。
 今日訪れた夫婦はまだ若く、2人ともBJより少し年下の年齢を言った。病状を持つ者は妻の方だった。だが妻は少しも不安げな様子を見せず、見知らぬ場所への好奇心を抑えきれないように視線を診察室の中に彷徨わせている。対して夫は疲れ果てた顔で、絶望の色をありありと湛えていた。
「わたしは元気なんです」
 BJが問診を始める前に妻は言った。BJはやや考え、「そうですか」と言った。とてもそうとは思えなかった。顔色は悪く、土気色に近い。潤いのない肌に痩せた髪がいかにも病人のものだった。だがBJの言を同意と取ったのか、妻は更に言葉を重ねた。
「わたしより夫の方が疲れていて、病気みたいで。仕事が忙しいから過労かもしれません。先生はそういう症状も診て下さるんですか?」
「──自由診療でよろしければね。でも過労だ何だは会社の産業医に相談した方が対処しやすいんじゃないですか」
「先生」
 夫が顔を上げた。BJはその目に真剣な、そして重すぎる苦悩が浮かんでいることを知る。
「私ではなく、どうか妻を。──本人も分かっているはずなのに、向き合ってくれないんです」
 すると妻は困ったように笑った。だって、と言った。
「だって、わたし、死ぬのが楽しみなんですもの」
 何を言ってるんです──BJがそう言おうとした時だった。
「馬鹿を言え!」
 思わずBJが身を竦ませそうになるほど、その声は大きく、怒気にまみれていた。BJは意識的に感覚を医師のものに切り替える。プライベートの自分が男性の大声や怒気に怯える性質だと分かっていた。
「そんなことを言うからここに連れて来たんだ! おまえはおかしい!」
「あなた、そんなこと言わないで」
「本当のことだろうが!」
「ご主人、少しお静かに。私の家族が驚くし、あまり良い流れにならない」
 言った途端、なおざりに扉がノックされ、返事の間も与えずに開けられた。とりあえず静かに開かれたが、BJは溜息を押し殺すはめになる。ほら、あまり良い流れにならなかった。そう思った。
「大丈夫。気にしないで」
「今の大声で?」
 キリコが自分を心配して来てくれたことは分かるが、仕事の時には遠慮して欲しい過保護振りであることは確かだった。アイパッチをつけた銀髪の外国人の登場に驚いたのか、夫は冷静さを取り戻し、妻はそんな夫の背中を撫でる。だが夫はそれを振り払い、俯いた。
「大声を出してすみません」
「いえ、お気になさらず。──彼はドクター・キリコです。今日はたまたまここに」
「そうですか」
 閉めたドアに寄りかかって立つキリコが退室するつもりがないことを見て取り、またBJは溜息を押し殺した。患者候補の病状を聞かれることになる。だがBJの潜在的な男性恐怖症を知っている、かつ長く治療を手がけているキリコがこの状況で席を外すはずがない。仕方なく夫婦に同意を求めることにした。
「彼はおそらく診察室から出て行きません。あなたたちの話を聞かれることになりますが、構いませんか」
「あの、失礼ですが、ドクター・キリコの専門は?」
「あの──そうですね、内科や心療内科とでも」
 安楽死という言葉は遣いたくなかったし、妻が先ほど言った言葉が気になる。『死ぬのが楽しみなんですもの』。妻の病状を理解するまでは伏せておくべきだった。キリコが肩を竦めた姿が見えたが、特に反論されなかったのでそれで良いことにした。
 やがて夫は頷き、妻も困ったように笑ってから頷いた。それから夫は語り出した。
「一年前から、弱ってきているんです」
「誰が?」
「妻です。どんどん身体が弱ってしまって」
 一年前は健康そのものだった。だが少しずつ身体が弱り始めた。寝込む日が増え、外見も病人そのものだ。だがどの病院で検査をしても異常を見つけられなかった。
「でも三ヶ月前、アメリカの──病院で検査をしてもらえて」
「一流の病院ですね」
 金はあるな、とBJは素直に評した。夫が口にした病院はハイレベルだが、それなりに金がある人間でなければ利用できない。
「これが検査結果と所見です。見てもらえませんか」
「もちろん。拝見」
 手渡された書類に目を落とし、BJはしばらく書かれている英文を追う。やがて顔に感情を出さないように注意しながらキリコに視線を送った。気付いたキリコがドアから離れ、そばに立って書類をBJの手から取る。夫は絶望の顔で2人の医師の言葉を待ち、妻はまた困ったように微笑んでいた。
 やがてキリコが無言で書類をBJに返す。BJはまた溜息を押し殺し、夫へ話しかけた。
「ええと──これはおそらく、世界でもまだ数少ない症例でしょう。少なくとも私は初めて聞きました」
「病院でもそう言われました。対症療法しかできないとも」
「なるほどね」
「服薬は何を?」
 キリコが静かに妻へ質問する。妻はようやく困ったような笑い方をおさめ、処方されている薬の名前を言った。それが脳細胞の破壊を遅らせるものだとすぐに思い至り、そうですか、と答えながら、キリコは内心で「厄介だな」と思っていた。BJも同様だった。
 いくつかの質問の後、BJは「はっきり言いますが」と告げた。
「現代医学では非常に難しい。脳細胞の破壊は認知症でよく見られるものですが、奥さんのように作用することはあまりないですし、それに──この検査結果によると」
 言いたくないな、とBJは思う。だが言わざるを得ない。きっと夫が怒鳴ったのはこのせいだ。そう思えた。
「楽しい、嬉しいと思うたびに脳細胞が破壊される──そういうことなんですね」
 夫は唇を噛んで頷き、そのまま俯いた。すべての感情を押し殺そうとしていることは明白で、BJは彼を見られずに妻を見た。妻は微笑んで頷いた。
「そうなんです。不思議な病気でしょう。最近は少し、物忘れも出てきました」
 それから妻は少しだけ声を出して笑った。
「脳細胞がぜんぶ破壊されたら、死んじゃいますよね」
「……そうでしょうね」
 全部破壊される前に死にますよ、とは言わなかった。彼女がそう思いたいのなら医学的に正確な知識など口にしなくていい。
「それまで、どれくらい楽しいことや嬉しいことがあるのかしら、って思うんです」
 BJは言葉を失う。視界の隅で夫が強く拳を握り締めたことを知った。ぶるぶると震えるそれをキリコが軽く抑え、何事かを囁いてから彼を連れて診察室を出て行った。BJは止めなかった。
「すみません」
 妻が初めて笑みを消し、静かに言った。
「さっき、大きな声を夫が出してしまって──驚かれましたよね」
「まあ、仕方ないですよ。あんなことを言われれば」
 酷い言葉を投げつけた夫の姿を思い出す。だが腹は立たなかった。妻の病状を知った以上、支持することはできないものの、彼の行動の意味が分からなくはなかった。
「夫はわたしを喜ばせないように努力しているんです。喜ぶたびに脳細胞が壊れてしまうから」
「……そのようですね」
「分かって下さったんですか?」
「まあ、ええ」
「よかった」
 妻は顔をほころばせた。きっとこれも脳細胞を壊してしまった、とBJは思う。
「よかった。──夫は優しいんです。他の人に誤解されなくて嬉しい」
「この話はここまでで。脳細胞に良くない」
「先生」
「何です?」
「わたしは楽しい話もしちゃいけないんでしょうか?」
 咄嗟に答えることができなかった。だが瞬時に理解した。『死ぬのが楽しみなんですもの』。
 BJは今度こそ堂々と溜息をつき、それから苦笑を漏らした。そして正直に言った。
「苦手なんです」
「何が?」 
「そういう問答。私は医者で、患者を生かすことが仕事だから」
「そうですか。それは──ごめんなさい」
「謝らないで。あなたが喜ぶことで寿命に悪影響が出るのなら、そりゃあ私は楽しい話なんてさせてあげられませんし、聞かせられませんよ」
 妻は頷き、BJの言に同意を示した。それからまた、困ったように笑った。
「自殺なんてしません。死ぬのは楽しみだけど、それは死にたいからじゃないし」
「少しだけ安心しました」
「少しだけ?」
「死ぬのが楽しみなんて言う患者の気持ちを」
 BJはやはり困ったように笑った。目の前の女性と同じ顔になっているだろうと思った。
「医者の私が分かってしまうなんて、問題だと思いません?」

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病気を絡めると一気に難しくなるので手が止まる典型例。