相合い傘
仕事が立て込んだ時の恒例・何か書いてから寝たい病です。書き始めはキリコが鼻歌で「雨に唄えば」を歌う予定だったのに急に作中に使ったネタ(と言っていいものか)を思い出したのでそっちにシフトチェンジしました。やることやる前に夕飯食べろよ…と思いながら書いてました。
アパートメントからフォート・デトリックまでは徒歩圏内だ。キリコは立場的に──監視されているという立場でもあり──運転手つきの車で行き来することもできるのだが、運動と交通渋滞を嫌って徒歩にしている。警備が面倒くさいと赤毛の陸軍少佐にぼやかれたこともあるが、今のところ変更の予定はなかった。
その警備は距離を置いた場所から行われる。警備という名目の監視をされている、という事実に慣れれば存在を忘れられる程度に警備担当の彼らの技術は高い。おかげで1人で歩いている錯覚に陥ることができる。納得して続けている仕事だとはいえ、施設内に1日中、少ないとは言えない人数と関わって仕事をするのはそれなりにストレスだ。退勤後くらいは1人でいたかった。──恋人がアパートメントに来ている時を除けばの話ではあるのだが。
「今日くらい車で帰ってくれない?」
きっかり17時の終業時間を守って帰宅しようとしたキリコに、正面玄関前で警備をしていたグラディスが声をかける。キリコは外を見てその要請の意味を悟った。
雨が降っている。日本で言うなら霧雨程度だが、監視のために外に出なければならないグラディスの部下たちにとって有り難くない天気だろう。だからキリコは言った。
「嫌だね」
「死ね」
「口を縫うぞ」
お互いに罵りを吐く。本音を多分に含んだ挨拶だ。キリコはそのままフォート・デトリックを後にした。
ワシントン、冬の雨はそれなりに冷たい。日本人なら傘をさす降り具合だったが、この国では傘をさす人間の方が少ない程度にすぎない。文化の違いを何となく思い出しながら歩いた。帰ったらまずは風呂に入ろうと決める。それはそれで楽しみだ。冷えた身体が一気に温まるあの感覚は何度経験しても気持ちよく、面白い。
10分ほど歩いて足を止める。そして、今頃俺の監視をしていたデルタ隊員は赤毛に無線を入れてるんだろうか、と思いながら微笑んだ。目の前で足を止めた女ははにかみながらも微笑み返した。
「やっぱり濡れてる」
冬になる前に買ってやったコートとブーツを着込んだ女が先に口を開く。女があの無粋な黒いコートを脱げるのは赤毛の小隊の監視がある時だけだと分かっているキリコは、不意に「今度赤毛に礼を言おうか」と思う。BJはこの国に入国すれば監視対象になる。逆に言えば護衛され、安心して暮らせるという皮肉な結果が生じていた。
「傘がなくても歩いて帰ってくると思った」
「当たりだよ。ありがとう」
迎えに来たBJは自分がさしている傘しか持っていない。だがキリコはその意味が分かり、黙って傘を取る。すぐに身を寄せてきた女にキスをして並んで歩き出した。
濡れた自分のコートがBJをも濡らしてしまうということは分かっていたが、BJがそれを望んでいることも分かっている。朝から1人で待っていた女が甘えたがっているのは明白だ。好きにさせておいた。1つの傘で身を寄せ、並んで歩く時間が心地よいのも確かだった。
「寒いね」
「そうだな」
「ワシントンと日本ってほとんど同じ気温だけど、ワシントンの方がちょっとだけ寒いかも」
「緯度が宮城の仙台と同じくらいだからな」
「そう言えばそうか」
傘にあたる雨粒の音が少し強くなっている。BJが迎えに来てくれて良かったのかもしれない。
「帰ったらお風呂に入りたいと思っている男がいる」
「迎えに来た女も一緒にね」
「先に入れば?」
「俺にくっつく前に言うべきだった。おまえも濡れた。風呂が必要だ」
「大して濡れてないのに。コートがちょっと──」
「そのコート、似合うな」
「……まあね」
反論を封じるために言ったわけではなかったが、結果としてそうなった。ちょうどかわった信号待ちで足を止め、可愛いね、と小さく言ってキスをすると恥ずかしそうに、だが嬉しそうに笑ってみせる。
「何だか」
傘に当たる雨音にBJの声が混ざる。いつもよりもなぜか綺麗な声だとキリコは思う。
BJが言った。
「いつもより、キリコの声がかっこよく聞こえる」
「──奇遇だな。俺もおまえの声がいつもより綺麗だと思ってた」
不思議な偶然にキリコはつい笑い、BJも笑った。もっとしゃべってよ、と笑って言われ、おまえが話せばいだろう、と笑って返した。信号がかわり、2人で笑いながら歩き出した。
「何かしゃべってってば」
「おまえからね」
「じゃあ、えっと──英語で何て言うんだろう」
「何が?」
「しりとり」
「ああ、こっちじゃそういう遊びはないよ」
「え、そうなの。じゃあどうしよう」
「さあ、どうしよう」
キリコは笑う。日本のしりとりは知っているが、そもそもあの話の流れでしりとりをしようと言い出すBJの無粋さがたまらなく可愛いかった。
「だってしりとりならキリコがいっぱいしゃべってくれるし──」
「ふうん?」
「ねえ、しゃべってよ」
傘に当たる雨音の中、BJの声はやはりいつもより綺麗だ。心地よくてたまらなくて、キリコはわざと曖昧な返事をしてはBJに自分の声をねだらせた。ねだる声が本当に綺麗で、たまらなく可愛かった。
アパートメントに着いてすぐに風呂に湯を張り、問答無用でBJを引っ張り込む。えろいことはしないからね、と顔を赤くして言う女にもちろんだともと嘘を答え、嘘つき、と風呂の中で罵られることになる。
ひとしきり罵り、罵られ、ついでにその罵倒の原因を結果として楽しんだ後、湯船の中でゆるやかな時間を過ごす。夕飯は何にしようかとキリコがぼんやりと考えていると、腕の中で甘えていたBJが不意に「そう言えば」と言った。
「何かの本で読んだことがあったかも。雨の日の傘って──」
「うん?」
「人間の声って、雨の時の傘の中で一番綺麗に聞こえるんだって」
「──へえ?」
BJは説明する。人間の声が音波として雨粒に反射し、傘の中で共鳴する。雨の降りがやや強い時ほど共鳴も強くなり、美しく聞こえるのだという話だった。
「相合い傘なんて最高の条件じゃない?」
「なるほど、言われてみるとその原理だな」
「でも思い出さなきゃよかった」
「どうして?」
「せっかくロマンティックだったのに。科学的な原理だったなんて夢がない」
しりとりを仕掛けた女がロマンティックも何も──そう言ってやりたくもなったが、今は開戦を望んでいるわけではない。そうだな、といかにも物わかりのいい男の返事にとどめておいた。
「でも」
ふふ、とBJが笑う。可愛いな、とキリコは思う。
「また雨が降ったら一緒に傘をさして歩こう。その時しか聞かせてもらえないんだから」
ああ、可愛いな、とキリコは思う。だから、そうだね、と言ってキスをした。次に雨が降った時にはどうすればBJをおしゃべりな女にできるだろう、と考えながら。

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