雨とモグリとおばあちゃんと電話
キリジャですがキリジャが絡むシーンが一切ありません。先生と見知らぬおばあちゃんが延々と電話をしているだけの話です。ちょっとオカルト成分注意かも? ものすごくオカルトが苦手な人は注意かも、くらいの。後で肉付けして更新作品にするかもしれないです。もうちょっとゆっくり書きたかった。でも眠いから最後飛ばした。飛ばしすぎた。
予約を入れた民宿に着いた頃にはもう夜で、雨が土砂降りになっていた。車で家を出る前から天気が悪かったので驚きはしなかった。いくつ目かの県境を越えた頃に降り出した時には覚悟していた強さだ。
「お風呂、すぐ入れますから。お食事はその後にお部屋にお持ちしますね。おじいちゃんと旦那が昨日の夜に釣ったのを絞めておいたんです。煮付けと昆布締めにしておきました、美味しいですよ」
「嬉しい。どっちも大好き」
「よかった!」
民宿の主人である老爺とその息子夫婦は、BJの風貌に驚きながらも親切に迎え入れてくれた。女性客には息子の嫁が対応する決まりなのか、老爺と息子は最初の挨拶の後から姿を見せない。
「──の病気を診て下さるんですってね」
「おや、ご存知で」
言いながら、特に不思議ではないとBJは思う。田舎ではよくあることだ。情報の共有が驚くほど早く、プライバシーもどこかに置き去りにされる。だが批判するつもりはなかった。人口が少ない場所では共同体を守り、安全に生きるために必要な手段なのだ。遠くない未来には否定されることかもしれないが、その場で生きない者が口を出すべきことではなかった。
「田舎だから噂が早いんです。失礼だったらごめんなさい」
「別にそんなこと。私は私の仕事ができれば構やしません」
案内された部屋は決して豪華でも上質でもない。だが掃除が行き届き、清潔感と安心感をくれる。障子と窓の向こうからは強い雨の音が聞こえた。窓際には年季の入った文机と、その上にダイヤル式の黒電話がある。
「電話は好きに使って下さい。この雨だから混線しなければいいんだけど」
「ありがとう」
寝る前にピノコに電話をしようと決め、BJは荷物を部屋の隅に置いた。明日は朝一番で患者に会う。疲れを残さないために早々に風呂と食事を済ませ、眠ってしまうことにした。
風呂の後は食事が出され、宣言通りの魚の煮付けと昆布締めに舌鼓を打つ。明日に備えて酒を飲めないことが残念だった。箸休めの小鉢にあった海鮮の酢の物もとても美味しい。
──キリコ、これ好きだ。食べさせてあげたいな。
誰かが聞けば可愛いことを思い、だが数瞬後、自分で自分にむっとして小鉢を一気に空けてしまった。甘めに整えられた酢が喉に引っかかり、思わず噎せる。キリコのせいだ、とここにはいない男に心の中で八つ当たりをした。
──帰ったらしばらく口をきいてやらないんだから。あの野郎、ふざけたこと言いやがって。
要は昨日、喧嘩をした。崖の上の家で大喧嘩になることは珍しい。ピノコに見せるべきではないとキリコが主張し、BJもそれに納得しているからだ。だが昨日はどうしても我慢ができなかった。キリコは今はやめようと何度も言ったが、BJは譲歩できなかった。察したピノコがユリを連れて寝室へ消えた後、キリコの部屋で大喧嘩に至ったわけだ。結局キリコがリビングのソファで眠ると主張して停戦となり、長時間の運転のために気合いで眠ったBJは朝一番で家を出た。
──お土産も買ってやらない。ピノコとユリさんには途中で銘菓でも買って帰るけど、キリコには何も買わないんだから。
「先生、朝ご飯は下で、わたしらと一緒でいいですか。他にお客さんがいる時もそうなんです」
「もちろん構いませんよ。他のお客さんもいるんですか?」
「今日は先生だけ。だから夜は静かです、ゆっくりなさって。朝ご飯は8時です。お部屋に入ってよければわたしが起こしに来ますけど、どうします」
「疲れてるから寝坊するかも。7時にお願いできますか」
「分かりました」
息子の嫁が食べ終えた膳を片付け、就寝の挨拶をして姿を消す。あとは寝るだけだな、とBJは煙草を咥えた。喧嘩を思い出すと腹立たしい。だが明日の患者のために気分を切り替えなければ。起きたら忘れてる、忘れてる──自分に言い聞かせながら煙草を吸い、寝支度をして布団を敷くことにした。
障子と窓の向こうからは相変わらず強い雨音が聞こえる。明日には弱くなっていて欲しいと願いながら受話器を手に取り、ダイヤルを回した。ピノコが寝る前に話しておきたかった。
「もう着いたよ。そっちはどう」
『おつかれさまなのよさ。こっちは霧雨が降ってるのわよ』
「ああ、そう。寒いんじゃないかな、気を付けて」
『ロクターが納戸から羽毛の掛け布団を出してくれたのよさ』
「……何、あいつまだいるの」
『ちぇんちぇいが帰ってくるまではいてくれるってゆってるのわよ。ユリしゃんも。いつも通りなのよさ、ありがたいのよさ』
「……ああ、うん、それなら安心だけど」
何だかんだでピノコを一人にしなくてもいい時間が増えたのはキリコのお陰だ。ピノコを連れていけない仕事で少し長めに家を空ける時、キリコの予定が空いていればユリと一緒に家に泊まってくれるようになっていた。キリコの都合がつかない時にはユリが来る。見た目通りの幼女ではないといえど、いくら仕事とはいえど、やはり一人にするのは心配だ。自分に恩着せがましく提案することもなく、むしろ何も言わずにこうなるように仕向けたキリコと、それに協力してくれるユリには感謝せざるを得ない。
『ところでちぇんちぇい』
「何」
『帰ってきたら仲直りするのよさ。昨日の喧嘩、ちょーっと酷かったのわよ?』
「何、ちょ、何言って──!」
『今謝っちゃうのもありなのよさ。──ロクター、ちぇんちぇいから電話ぁー!』
「いらない! おやすみ!」
可愛い娘は有能すぎる、でも困る! BJは電話を叩き切る。受話器を持って苦笑しているキリコの姿が脳裏をよぎったが、敢えて考えまいと思った。誰もいないのに耳まで熱い。ぴたぴたと両頬を叩いて冷静になるよう自分に命じ、もう寝る、と呟いて敷いた布団へ転がる。
強い雨の音はやがて子守歌のように心地よくなってくる。長時間の運転の疲れが睡魔を呼び、うとうととし始めた時、電話が鳴った。ピノコに民宿の電話番号を教えてはいたが、この部屋の電話の番号ではないはずだ。黒電話では親機、子機といった使い方ができない。
──間違い電話かな。無視しておこう。
再び目を閉じ、電話の音に驚いて姿を消してしまった睡魔を探す。だが電話は鳴り止まず、やがてBJは溜息をついて起き上がった。
「──もしもし」
『あらぁ、みよちゃん? 遅くにごめんねぇ』
電話の向こうには品の良い老婦人がいるようだ。この地域の訛りが強い穏やかな声だった。「みよさん」ではないBJは表情だけで苦笑いをし、できるだけ優しい声で返事をする。
「どちらにおかけです?」
『あ、あら、みよちゃんじゃないのかしら』
「間といいます。みよさんではないですね」
『あら、ごめんなさいね、やだわ、お饅頭が濡れちゃうから明日はいらないわよって言いたかったの』
「ああ、この雨じゃ濡れてしまうかも。──番号を調べて直して、みよさんにもう一度かけてみたらいかがです?」
『そうするわ。こんな時間にごめんなさいね、お恥ずかしいわ』
「お気になさらず。ではおやすみなさい」
『ありがとう。おやすみなさい』
間違い電話などよくある時代だ。仕方ないなと割り切って受話器を置き、また布団へ入ろうとする。だが横たわろうとした瞬間にまた電話が鳴った。嫌な予感しかしなかった。
「……もしもし」
『あ、あら、みよちゃんじゃないわね、間さん?』
「そうですね。番号は確認しましたか?」
『あの、それがね、メモなんかがまったく手元になくってね──』
「ああ、そう。それは不便だ」
老人あるある、とBJは内心で頷きながら諦め、煙草を手に取った。外の雨は相変わらずだ。
「でもこの番号は違うんですよ。ちょうど寝るところでして」
『あら、もう、本当にごめんなさいね。そうよね、朝ご飯は8時だし、お客さんならお疲れよねえ、早く寝なくちゃ』
BJは首を傾げる。この番号が民宿のものだということは分かっているようだ。そして朝食の時間も把握している。でもまあ、と思った。──でもまあ、田舎だし、他に民宿なんてないし、みんな知ってるんだろう。
「ええ、そうなんです。夕飯がとても美味しかったから、朝ご飯も楽しみで。だから早く寝たいと思ってるんです」
『そうね、美味しいでしょう!』
「なるほど、田舎」
『え?』
「いえ、何でも」
田舎に偏見を持っていると言えば持っているのかもしれない。きっと集落の人々はこの民宿の料理を食べたことがあるのだろう、と思ったのだ。人口の少ない場所では経済を回すためにコミュニティ内で金を使う。たまの贅沢か、それとも地域の付き合いか、何らかの理由で地元の集落がこの民宿に泊まっていても不思議ではなかった。
『わたしはねぇ、あの海鮮の酢の物が大好きなの。他では食べられないお味よね』
「ああ、あれは美味しかったですね」
キリコに食べさせてあげたいと思ったことは敢えて忘れ、味についての同意だけを伝える。伝えつつ、なんでこんな世間話をしてるんだろう、と思ってしまった。老婦人の声が穏やかで優しく、そして人懐こいからかもしれない。
『あれは冬ならお土産にもできるのよ。良かったら持って帰ったら?』
「──ああ、そうなんだ?」
ちょうど晩秋、頼めば断られることもなさそうだ。だがキリコが喜ぶだろうと思った自分をまだ受け入れられない。
『甘酢のお味が好きな人ならきっと誰でも好きよ。ご家族に好きな人はいないの?』
「……いや、まあ、いると言えば……」
『じゃあ持って帰りなさいな。絶対喜ぶわ』
「そうですかねえ」
『間違いないわ。──なあに、喧嘩でもしたの?』
老いた女性の慧眼って怖い──含み笑いながら言われたBJは、思わず耳から離した受話器をまじまじと眺めてしまった。
「……わたし、あなたの知り合いじゃないと思うんですけど」
『もう二回も話してるから知り合いでいいわよ。あら、名前を言ってなかった。チエよ』
「チエさん。よろしく」
半ば自棄になって返事をすると、チエは嬉しそうに声を弾ませた。
『お友達が増えて嬉しいわ。会う機会はまだ先だろうけど』
「でしょうね、仕事で来てますし」
『あなた、いくつ?』
「28」
どうしてわたしは素直に答えているんだろう? BJは我ながら不思議でならない。だが嫌な気分でもない。とにかくこの老婦人の声は魅力的で、聴いていても話していても心地よかった。
『若いわねえ! わたしなんて今の場所に来た頃にはもう60だったわ、10年も前!』
「じゃあ今は70歳ですか。まだまだお若い」
『あら、でもあれね、28歳なら結婚は? 都会の人なら独身でも珍しくない時代かしら?』
「うーん、まあ、うん、一応は」
この年代の人間に事実婚が理解してもらえるとは思えないし、独身と言えば面倒な流れになりそうな気がする。とかく女性は20代前半で結婚すべし、25歳を過ぎたら売れ残りだと言われる時代だ。それを聞いたユリが「あと10年もすれば20代前半で結婚する女性の方が少なくなってるわよ」と鼻で笑っていた姿に惚れ惚れしたのはまた別の話である。
『なるほどねえ。旦那さんが酢の物を好きなのねえ』
「そんなこと言ってないけど!」
女の先輩にはかなわない。BJは顔の熱さを自覚する。チエはころころと笑った。優しい笑い方だったが、どこかで女の余裕をうかがわせる笑い方でもあった。本当にかなわない、とBJは早々に白旗を揚げることにした。
「──そう。あれは好きだと思います」
『それなら買って帰ってあげなさいな』
「何だか悔しくて」
『喧嘩したから?』
「──笑わないでよ」
思わず拗ねた声になってしまった。自分でもおかしくなるほど幼い、いじけきった声だ。チエは少しばかり慌てたようだった。
『ごめんなさいね、笑ってしまって。でも馬鹿にしたんじゃないの』
「分かってる。わたしのこと可愛いって思ったんでしょう」
『あら、可愛くない言い方ねえ!』
「どうせ可愛くないし」
『嘘よ、可愛い、可愛い。どうして喧嘩したの?』
チエは楽しそうだ。余裕のある老婦人の声で受話器越しにBJの頭を撫でているようだった。BJは息を吐き、どうして間違い電話なのに延々と話しているんだろうと思ったが、すぐにその考えを捨てた。こんな日があってもいい。相変わらず強い雨の音を遠くに聞きながらチエに言った。
「すっごいつまんない原因」
『そんなことないでしょう』
「本当につまんないの」
『ちょっとくらい教えて頂戴』
興味津々、だが下世話ではない促しに、BJはつい口を滑らせた振りをした。本当は誰かに聞いて欲しかった。
「わたし、T県に住んでいるんだけど、ここまで車で10時間くらいかかるの。今日みたいな雨が降ってたらもっとかかる」
『T県! 遠いところから来てくれたのねえ』
「それで──その、仕事の時は基本的にわたしが自分で運転して来るんだけど、彼が運転するよって言って」
『あら、いい人じゃない。男の人は運転が上手よね』
「そうだけど。──でも彼は仕事の日じゃなくて休みだったから、そんなのしないでいいって言ったら喧嘩になっちゃって」
『──休んで欲しいのに、自分のために休日を潰そうとしてくれたから?』
「……うう」
チエさんは女の達人だ。呻きながらBJは思った。チエは優しく笑った。
『分かるわあ。うちもそんな人』
「旦那さん?」
『ええ。──そんな人でねえ。自分のことなんてお構いなしで、家族のことばっかりで』
「──そう! そうなの! いっつもわたしとか家族のことばっかり!」
『やっぱり! 嬉しいけど困っちゃうわよね、休んで欲しいのに!』
「そうなの、それ!」
およそ40歳差を超えた女の意気投合。それから一気に話が盛り上がった。チエは若い頃にどれだけ夫に優しくされたか、だが優しくされ過ぎてたまに辛かったと話し、今がまさにそれだとBJは頷いてしまう。どれだけ贅沢なことを言っているかは分かっている、とBJが言うと、わたしもあなたくらいの頃はそうだったわ、とチエが同意した。
「昨日の夜だって、仲直りできなかったから──彼はリビングのソファで寝るなんて言って。わたしがそっちで寝るって言ったのに、明日は仕事なんだからベッドで寝ないと駄目だって怒るし」
『うん、うん──あなたの言いたいことも、旦那さんの言うことも分かる気がするわあ』
「彼が正しいのは知ってたけど、でもすごく嫌で。だから朝も、家族が起きる前に家を出てきちゃった」
『そうねえ、そうねえ。──もう喧嘩はやめて一緒に寝ようなんて、女の口からは中々言えないわよねえ』
「そういうわけじゃ──……そういうわけだけど……」
チエ相手には意地や見栄を張っても無駄な気がする。さっさと白状してしまった。
『あなたね、それならますますあの酢の物を持って帰らなくちゃ。他の家族には別のものにして、酢の物は旦那さんにだけあげるのよ』
「どうしてそんなこと」
『特別だから! あなたは特別よって教えてあげるのも必要よ! 元々他人なんだから!』
70を超えた女の達人の言が妙に突き刺さる。元々他人、おっしゃる通り。
『元々他人だから夫婦になれたのよ。』
「それは当たり前だけど──」
『当たり前なんかじゃないのよ、離れたら分かるわよ。まあ、あなたみたいに若い人は当分分からなくっていいけど』
チエの夫はもう他界しているのだろう。話しぶりからBJはそう思った。チエは熱のこもった声で続けた。いつの間にか雨が弱くなり始めていた。
『いつの間にか空気みたいになってて、でも離れて思い出したのよね。他人だったんだ、他人だったのに世界で一番近くにいる人だったんだって。もっと大事にすればよかった。好きにしてもらえばよかった。わたしに優しくしたいなら、したいだけしてもらえばよかった』
チエは泣いてこそいなかったが、何かを思い出して感情を噛み締めていることは確かだった。BJは唇を噛み、このひとの旦那さんはとてもこのひとを愛していただろうと思った。
『当たり前じゃなかったし、特別だったのよねえ。──でも、その特別が当たり前だと思っちゃうくらい、近くにいたのよねえ』
「……そっか」
わたしもいつか──BJは思う。わたしもいつか、こんなふうにキリコを想う時がくるのかな。こんなに、こんなに──本当に愛してるんだって、声からあふれるくらいに想う時が。
「チエさん」
『なあに?』
「あの酢の物は民宿の人に言えば用意してもらえるの?」
『ええ、──ええ、そうよ! 煮沸した瓶が必要だから早めに言わなくちゃ、そうね、明日の朝に言うといいわ!』
「そうする。──彼、きっとあれが好きだから」
『そうねえ、喜んでくれるといいわねえ』
「うん」
我がことのように声を弾ませるチエの夫がどんな人だったかを聞きたくなった。こんなにも優しく、そして可愛らしい女性に愛された男はどんなふうに妻を愛したのだろう。自分はチエのように優しくも可愛くもないに違いないが、なぜか彼女の夫とキリコは少し似ているかもしれないと思った。
「チエさんの旦那さんって──」
『え? あら? ──もしもし?』
「もしもし?」
不意に雑音が入り、チエの声が遠くなる。何度か呼びかけを繰り返したが、雑音は強くなるばかりだ。雨だから混線しちゃったかな、とBJが考えた途端、ぷつりと呆気なく電話は切れてしまった。
チエがかけ直してくるのではないかとしばらく待っていたがその気配はない。時計を見ると午前0時を回っていて驚いた。なるほど、時間に気を遣ってかけ直さなかったか、それともみよちゃんの正しい電話番号を思い出したか──いずれにせよ眠らなくてはならない時間だ。弱くなった雨音を背に、BJは急いで布団に潜り込んだ。明日の朝、この民宿の息子の嫁に言うべき台詞を頭の中で練習しながら。──あの酢の物をお土産にできるって聞いたから、帰る日に用意して欲しいんです、きっと夫が好きだから。
翌朝、7時ちょうどに息子の嫁が起こしに来てくれた。眠気を振り払って起き上がるBJに、「ちょっと空気を入れ換えますね」と言って容赦なく障子と窓を開ける。雨はもうやんでいた。差し込む日差しが今日一日の晴天を予告する。
「5分くらいで閉めますから。着替えはその後で」
「二度寝しちゃいそう」
「何度でも起こしますよ。──あら?」
窓の外を見た息子の嫁は驚いたように声を上げた。
「先生、ゆうべ電話してましたよね?」
「あ、聞こえてました? すみません、遅くまで」
「いいえ、それは構わないんですけど、──じゃあ先生が電話を切った後かしら。電電さん(電電公社、のちのNTT)に連絡しなくっちゃ」
「どうしたんです?」
「この部屋の電話の引き込み線が切れてるんですよ。直すまで使えないです、必要な時には玄関の電話を使って下さいな」
「ありがとう。──難儀なもんですね」
「玄関のが使えるだけよかった。もう古かったし、昨日の雨じゃ仕方ないか──ああ、もう、あんなところに垂れちゃって」
ぶつくさと言いながら息子嫁は部屋を出て行った。BJは寝起きの煙草を咥えながら窓から顔を出し、確かに電話の引き込み線が切れて垂れ下がってしまっている光景を見る。切れた先は地面に落ちている。そこにあったものを見て、BJは思わず目を丸くし、田舎じゃ不思議でもないか、と思うことにした。家の敷地内に墓石がある光景には慣れていなかった。引き込み線はその上に落ちていた。
「先生、おはようございます」
「どうも、おはようございます」
1階へ降りると民宿の主人である老爺が挨拶をくれた。BJも丁寧に挨拶を返す。息子は妻と朝食の用意をしていたが、BJに気付いてやはり挨拶をする。
廊下から見えた居間の中に質素だが手入れのいい仏壇があった。ご先祖さんと妻が入ってまして、と老爺が聞いてもいないのに教えてくれる。宿泊客の立場で手を合わせる義理はないが、礼儀として挨拶くらいしておこうかと思ったら朝食ができたと声をかけられた。
「お義父さん、今日は釣りに行く?」
「ああ、そうなあ、先生は今日も魚でいいですか」
「魚がいいです。美味しかった」
朝食の焼き魚も絶品だ。これも老爺と息子が釣ったのだと聞き、BJは素直に感心した。それから息子の嫁に酢の物のことを話す。彼女は顔を輝かせた。
「いいですよ、もちろん! お義母さんに教わったやつなんですけどね、気に入ってくれる人が多いんです!」
「お義母さん?」
「10年前に亡くなったけど──ちょっとあんた、釣りに行くなら貝も採って来てよ。あの酢の物には貝がいるんだから」
「ったく、お袋と同じこと言いやがる。おまえは饅頭を外に置いてやってくれよ、昨日は雨だったから置けなかっただろう」
10年前。饅頭。BJはやや考える。何かが引っかかるような気がする。息子の嫁は肩を竦めた。
「お義母さん、昨日は夢で電話してこなかった」
「おまえのなんちゃって霊感の話はもういらねえよ」
「何よ!」
「先生、聞いて下さいよ。こいつったらさ、お袋の墓に──庭にあるんですけどね、田舎なもんでね──饅頭を置くのを忘れた日の夜は、お袋が電話してくる夢を見るなんて言うんですよ」
BJはつい息子の嫁を見る。夫に馬鹿にされた息子の嫁は唇を尖らせ、ほんとなんですよ、とBJに言う。BJは曖昧に頷いた。疑っているわけではなかった。繋がったような気がした。
「……みよちゃん?」
「えっ」
息子の嫁が目を丸くする。しばらく考えるような顔をした後に首を傾げた。
「わたし、先生に下の名前言いましたっけ? 美代子ですけど──お客さんに言ったことないんだけどなあ」
「──チエさん?」
三人が動きを止め、まじまじとBJを見た。ことに老爺の視線を強く感じ、BJは彼を見て頷き、そして美代子に言った。
「美代子さん、お義母さんの電話、夢の中ではあの部屋で取っていたんじゃないですか」
「そう、──そう! そうです! 先生が今泊まってる部屋!」
美代子は何度も頷く。老爺が黙って席を立ち、居間へ姿を消した。やがて線香の香りが漂い、リンが優しい音を鳴らした。チエの笑い声のようだった。
それからBJは電話の話をした。息子と美代子はお袋らしい、お義母さんらしいと言って笑い転げ、笑い過ぎて涙が出た、と言い訳をしながら目尻を拭う。息子は釣りの時に父にこの話をしてもいいかと問い、もちろん、とBJは答えた。
部屋で食後の一服、仕事前に一息つきながら窓の外を見る。切れた電話の引き込み線は横にどかされ、美代子が墓石を掃除していた。その前には既に饅頭が置かれていた。
「チエさん、番号を間違えたわけじゃなかったんだ」
引き込み線が切れる前に、どういうわけか違う次元で混線してしまったのかもしれない。そうではなく、BJの思い込みか夢かもしれない。はたまた単なる現実の間違い電話だったのかもしれない。
どれでもいい、とBJは思う。──どれでもいい。この民宿の人たちは幸せな気持ちになって、わたしは楽しい土産話を持って帰れるし、──キリコが絶対好きなお土産を持って帰ろうって気になれた。
みんな幸せだし、崖の上の家で待つ家族たちも話を聞いたらきっと幸せになってくれる。
煙草を消し、いつもの黒いコートと医療鞄を持って立ち上がる。仕事の前に墓の前で手を合わせて行くことにした。ゆうべはありがとう、楽しかった。そう伝えたかった。


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