神様と死神と天才外科医
多分私しか楽しくない話だろうから申し訳ないと思う反面、書いてて楽しかったので満足です。キリコの安楽死完遂ってあまり書きたくない(書いてて色々きつい)のでどうしてもこういう系統になっちゃいますね。これももう「いつものやつ」に入れてもいいような気がしてきた。赤毛は話の回収係です。途中で話がわけわかんなくなったもんで。あとラストはわけわかんないを引きずって諸々を端折った書き方になっています。
その患者はまだ16歳だった。迷いがない目をしていた。死神に会う時には既にこんな目をしている者も多い。その瞬間からキリコは全力で患者に全ての愛を与える。生命の行方を決めた患者の手を取り、違う次元へと案内する日まで、患者が話したいことを聞き、何もかもを受け入れ、時に許しを与える。
患者の家族の多くは患者の選択を認めている。稀に認めない者もいる。だがキリコはそれには干渉しない。目の前にいる患者だけに意識を、心を、愛を与える。患者が穏やかな心で歩み出せるよう、その瞬間まで尽くし続ける。
今日の患者はどの医者からも匙を投げられ、あとは長い苦しみと戦う道を歩むしかないと言われた少年だった。幼い頃から戦い続けた彼は疲れ果て、このまま苦しみ続けるのならと死神を呼んだ。彼の両親は彼の選択を受け入れ、どうか少しでも苦しくない方法を、と涙ながらに死神に縋った。死神は優しく穏やかな声で、何ひとつ苦しみはないと保証した。
サウスカロライナの冬の訪れは早い。できればとても寒くなる前に、と患者は希望した。
「祖父母が高齢なんです。葬式の時に寒かったら可哀想じゃないですか。晴れた日になるといいんだけど」
彼は優しい少年だった。キリコは微笑んで頷き、良い日に、とだけ言った。彼は自分が逝きたい日に逝けるのだと知り、「天気予報を調べなくちゃ」と笑った。
少年一家は敬虔なプロテスタントだった。キリコが産まれた頃から馴染んでいる宗教でもあり、生活習慣や倫理観、宗教への考え方の齟齬を感じることはなかった。これは幸いだった。得てして宗教が患者の希望を阻む時もある。
彼が希望の日を口にするまで、しばらくキリコはその家に通うことになった。カウンセリングだ。死にゆく者へのカウンセリングこそ、安楽死医として重きを置くことだった。何ひとつ迷いがないように。その時に恐れを抱かずに済むように。自分は自分の生を精一杯生きたのだと自信を持てるように。それが死神が患者に与える愛の全てだった。
「小さい頃は病気が治ると思っていたから、夢もあったんです」
「どんな?」
「野球選手になりたかった」
「この辺りならシャーロット・ナイツ?」
「そうです!」
すぐに分かってもらえて嬉しかったのか、患者は満面の笑みになる。キリコは微笑む。しばらく彼の贔屓の野球チームについて話を聞いた。
「いつか俺が入団して、メジャーリーグに昇格させたかった」
「なるほどね」
「でも、それはできないなって分かった日があって」
その頃入院していた病院に、シャーロット・ナイツの選手たちが慰問に来た。そして彼は理解したと言った。
「俺は慰問される側なんだ、って。急に分かっちゃったんです」
「賢い子供だ」
「物は言い様ですね」
彼は楽しそうに笑った。迷いを捨て切った患者はよく笑う傾向にあることをキリコは知っていた。少年でもそれは同様だった。キリコは微笑んで彼の話を聞き続けた。
「とうさんとかあさんは、元気になれば野球選手になれるって言ってくれたけど、野球は小さい頃から頑張らないとね。メジャーリーグなんてリトルリーグからのエリートしかいないじゃないですか」
「例外が少ないことは確かだね」
「だから、俺はちょっと考えを変えたんです。体力をつけて立派な男になろうって。野球は上手くなくても鍛えることはできるし」
「なるほど。次は何に?」
「海兵隊に。ネイビーシールズ!」
キリコは微笑みを深くし、そうか、と言った。この少年は病と闘いながらも健全な精神で成長しているのだと思った。分かりやすいヒーローに憧れるのは健全である証だ。軍事有事で軍人が尊敬されるこの国で、有名な特殊部隊に憧れる子供は決して少なくない。
「でも──まあ、駄目じゃないですか」
少年が少しばかり声のトーンを落とした。キリコは彼が夢を諦めた時の悲しみを思い出さないよう、少し話の舵を取る。
「それはいつ、そう思ったんだろう?」
「つい最近。今まで診てくれていたお医者さんが鎮痛薬の量を増やしてから」
「きみは本当に賢い。その思考能力の高さを誇るべきだ」
「自分が死ぬしかないってことが分かったから?」
「いいや。子供の賢さを誇りに思わない親などいない。きみは賢さでご両親に福音をもたらしていることを知るべきだ」
ベッドの中の少年はしばらく無言でキリコを見つめていたが、やがて嬉しそうに満面の笑みを見せた。キリコも笑い返した。すると少年は言った。
「今まで色んなお医者さんやボランティアの人に会ったんです」
「そう」
「でも、あなたの笑い方が一番好きだな。みんな俺に同情した大人の笑い方をするのに、あなたはしない」
俺のためにじゃなくて、笑いたいから笑ってくれているんでしょう。少年は本当に嬉しそうに言った。キリコは頷いて更に彼を喜ばせた。
「同情なんてしないよ」
真実を告げた。
「きみはきみの生命の行方を自らの意志で決めた、勇気ある男だ。そんな立派な人間の話を聞かせてもらっているのに、同情なんてできるはずがない」
長い闘いで痩せ細った彼の手を取る。野球選手、ネイビーシールズ──どれも諦めざるを得なかった手であっても、自分の生き方を、死に方を自分で決めた男の手は、キリコにとって何よりも敬するべきものだった。
鎮痛剤を点滴する時間になると、ドクターにやって欲しいと言われた。キリコはそれに応え、鎮痛剤に混ぜられた睡眠薬の力で彼が眠ってから部屋を辞した。待っていた両親に彼と話したことを伝え、彼は健全な精神で成長していると告げた。両親は目に涙を浮かべ、ありがとう、と何度もキリコに言った。
あと数日もすれば彼はその日を口にするだろう。キリコにはそれが分かる。その時には持ち得る全ての愛を与えよう。この家の人々が信じる神の御許へ穏やかに送り出そう。
患者の家を出ると、庭にいた彼の幼い弟が声をかけてきた。最初は警戒されていたが、数日の訪問で弟もすっかり死神に慣れた。
「また来るの?」
「また明日、来るよ」
「ぼくもおにいちゃんとお話ししたい」
「していないのかい」
「ぼくはうるさくするから駄目だって、パパとママが」
「──明日、おにいさんの調子が良ければ私から頼んであげるよ。でも調子が悪かったら我慢してくれるかな」
「うん」
難病の兄弟を持つ子供はその環境が原因で聞き分けがいい場合が多い。この子供も例外ではないようだった。キリコは彼の頭を撫で、家を辞した。
翌日、サウスカロライナは急激に寒さを増そうとしていた。鍵を預けたフロントマンに風邪に気を付けるように言われ、礼を言ってホテルを出る。観光客が少ない土地、そしてシーズンオフのせいかキリコは目立ち、金払いもいいことから、ホテルスタッフに厚遇されていた。
中にはあの少年を診る医者だと知っているスタッフもいて、あの子は良い子だ、どうかよく診てあげて欲しいと頼まれた。安楽死医だと言う必要はなく、もちろんだと返事をしておいた。
家に行くと弟が期待に満ちた目で挨拶をして来た。昨日の約束を思い出し、キリコは両親に話をした。両親は彼の状態次第でドクターが決めて欲しいと言った。
「ホテルの従業員がきみのことを知っていた。きみのことを良い子だと褒めていたよ」
「ホテルの──ああ、背が高くて、ブラウンのくせっ毛の?」
「そうだったな。知り合いかい」
「ステラのおにいさんだ。ステラは俺の同級生」
長く闘病していても学校には通っている。それから彼は思い出したように、ステラについて少し話をした。それは明らかに恋をした少年の顔で、キリコはその話も楽しく聞いた。元気だった時に二人で美術館に行ったんだ、楽しかった、と言い、キリコは微笑んで聞き続けた。
やがて弟を部屋に入れてもいいかと問うと、少年はとても喜んだ。ここのところ話をする機会がなかったのだと言う。ほどなくして部屋に招き入れられた弟は、幼い身に不似合いなほど気遣いながら兄をハグし、しばらく動こうとしなかった。やがて両親も部屋に入って来た。
それから家族の時間が過ぎる。キリコは彼らの会話に無理に入ることなく、家族だけの会話を注意深く聞いていた。両親が彼を愛していることは間違いない。だが愛しているがゆえに彼の決断に迷いを与えることを言いかねない。その時には話を誘導する必要がある。両親は安楽死医の意図を感じ取っていたのか、できるだけ言葉を選んで話をしているようだった。弟はいわゆる良い子にしていた。たまにキリコを見て物言いたげな顔をする。それがキリコにはやや気になったが、兄の選択を教えられているとは流石に考えられない。それほどに弟はまだ幼い。
だが遂に弟は意を決したようにキリコに歩み寄った。物言いたげな顔はそのまま、背の高い死神を見上げ、まるで救いを求めるような目を向ける。この弟は患者ではない。ゆえに救ってやる必要はない。だが患者である少年が気付いたように視線を送って来た。キリコは内心の溜息を押し殺し、弟に声をかけた。
「どうしたんだい」
「あの」
「うん」
「おにいちゃんは天国に行けるの?」
キリコは息を呑む両親に目を向けたい衝動を堪えた。彼らを責めても仕方がない。家によっては幼い子供にでも教えることがあるのだろう。初めてのケースだったが、対応できないほどではなかった。
「もちろん。私が責任を持って案内するよ」
「神様の洗礼を受けていなくても?」
母親が喉の奥から悲痛な声を漏らし、父親はよりによって「神よ」と呟き、キリコは言葉を失い、少年は堅く目を閉じた。
「──この家のみんなはプロテスタントだろう? 洗礼を受けていないなんて、そんなことはないよ。きみの記憶違いじゃないかな」
「ぼくも受けてないって、パパに言われてる」
「何だって?」
「ドクター」
思わず父親に非難の目を向けかけたキリコを少年が呼んだ。目を閉じたままだった。
「言わなくてごめんなさい。俺はプロテスタントの洗礼を受けていない」
「そうか」
宗教に根ざしているはずの家では考えられない事態だった。家の中のあちこちや、両親の仕草から敬虔と言えるほどの宗教心を感じていた事実がある。それなのに子供たちに洗礼を受けさせていない──敬虔なプロテスタントとして考えられないことだった。
「でも、とうさんとかあさんを責めないで欲しいんです」
「責めることはないよ。どんな選択でも私が断罪するべきではないし、間違っているなんてとても言えない」
「ありがとう。とうさんとかあさんは、俺に自由をくれたんだ。宗教に捕らわれないで、いつか必要だと思ったときに自分で宗教を選べるように」
「私たちは」
父親が呻いた。
「親が余りにも敬虔すぎて──自由がなかった。嫌だと思ったことはない。でも自分に子供ができた時、不自由だったことを思い出したんです」
「大丈夫です。教えて下さってありがとう。どうか気にしないで」
それ以上聞く必要はなかった。言葉にすれば浅薄にも聞こえてしまうありふれた理由だ。だが一人一人にとっては重すぎる理由であることもキリコはよく知っていた。それほどまでに宗教というものは深く人々の生き様に根差している。
「ドクター」
弟が言った。目に涙を浮かべていた。洗礼を受けていないとはいえ、両親との生活の中で神の教えを自然と学んでいる。兄の魂の行方を案じて不安でたまらないのだ。
「おにいちゃんは天国に行けるんだね? 本当に? 洗礼を受けていなくても、神様は許して下さるの?」
「おにいさんは良い人だ。──神様の子であるおとうさんもおかあさんも。たとえおにいさんやきみが洗礼を受けていなくても」
ご両親が神の子だ。キリコは言った。
神様の教えを守り、子供を愛し、だからこそ洗礼を受けさせなかった。愛しているから。
神様は何をお与えになるだろうか? それは愛だ。神の子らに等しく愛を与え、天国へ迎え入れる。
「人が地上での生を終えた時、神様は天国へ迎え入れるべき魂をお選びになる」
その言葉に弟はまた泣き出しそうに顔を歪める。両親は顔を覆って俯き、ベッドの上の兄は顔を背けた。
だからキリコは静かに続けた。
「神様の愛を受けて育ち、野球選手やネイビーシールズになりたいと思う健全な精神を持って、クラスメイトの女の子と美術館に行って、その女の子のおにいさんに気遣われるような良い人間を」
どうして神様がお許しにならないものか。
キリコはそう言った。部屋中が静まり返った。いくつもの生命を案内した死神の言葉を噛み締めるような静寂がその場を覆っていた。
キリコは尚も言った。
「ご両親は洗礼を受けている。そして愛をもって子供たちを育てている。私はおにいさんが勇気ある人間だと知っているし、とても賢いということも知っている。もちろん神様だってご存知だ。洗礼を受けたご両親が育てたそんな立派な人間を、神様が遠ざけるなんてあるはずがない」
引き攣るような泣き声が生まれた。少年だった。少し遅れて両親も同じような声を漏らし、争うように息子を代わる代わる抱き締めた。弟だけが涙を堪え、そして死神をまた見上げ、何度も頷いた。キリコは微笑み、その髪を撫でた。
玄関のインターフォンが鳴ったのはその時だった。今は誰も応対したくないだろう、留守だと思えば帰るだろう──キリコはそう予想する。
だが予想に反し、インターフォンは何度も押された。ドアを遠慮なく叩く音も響いた。眉をひそめたキリコは立ち上がりかけた父親を制し、玄関へ向かう。今は遠慮して欲しいと伝える予定だった。
だがドアを開けた途端、この、と口から出掛けた罵声を飲み込んだ。家族に聞こえては死神の品性を疑われてしまう。死神の葛藤を見抜いている女はにやりと笑い、高らかに宣言した。
「命の押し売りだ。天才外科医の診察はいかが?」
その後ろには赤毛の少佐が心の底からうんざりした顔で立っている。ここはサウスカロライナ、彼が所属する部隊の本拠地──思い出したキリコは口の中で罵りの言葉を呟いた。
彼女は驚く少年と家族たちに自分の素性を説明し、そして彼の病状は自分なら助けられると断言した。余りにも怪しい訪問だったが、同行している赤毛の軍人の身分証と地位を知り、ついでに彼が「こう見えて名医」とだけ呟いたため、家族たちは取り敢えず信用することにしたようだ。
苦しみを与えるべきではないと口を挟みかけたキリコを制するように少年が先に言った。俺には死ぬ自由もないのか、と。すると女はにんまりと、キリコがろくなことを考えていないと直感するあの笑みを浮かべて言った。
「自由なんて誰にでもある。もちろん生きる自由も」
「だったら俺に自由に選ばせてよ」
「構わないよ。ベッドを降りて野球を見に行く? ネイビーシールズの入隊試験を受ける? ステラとまた美術館に行く? 好きなのを選ぶといいさ」
ああ、とキリコは思った。諦めたと言うべきかもしれない。少年の瞳が揺れたからだ。キリコはこの女が生への執着を患者に呼び起こさせる力を持っている医者なのだと改めて思った。それは彼女自身が生に執着した人生を送り続けたからに他ならない。
「ステラのお兄さんが心配している。妹のボーイフレンドがどんどん悪くなってるって噂を聞いてね」
おそらく全て調べ上げたのだろう。グラディスが調べさせられた可能性はあるが、そもそも自分がサウスカロライナに入った時点でデルタフォースに感知され、調査されていたはずだ。その情報を寄越せと迫ったとしか考えられないほどBJは患者についてよく知っていた。
「死ぬなんていつでもできる。でも生きるチャンスは──正直言って、今しかないと思った方がいい。おまえさんのカルテを見る限りね」
少年よりも先に両親が縋った。既に死神は彼らの視界から消されていた。弟は大人たちの狂乱とも言える状況について行けずに唖然とし、手持ち無沙汰になったキリコはまた彼の髪を撫でてやった。そして、おにいさんは元気になるよ、と囁いてやった。まるで神の啓示を聞いたかのように大きく口を空けた弟は、そのまま大きさに相応しい、大きな悲鳴混じりの声を上げた。
「おにいちゃんが元気になるって! おにいちゃんが! おにいちゃん! まだ神様のところに行かなくていいって!」
ドクターが言ったんだ! 弟は喚き、そして泣きながら兄に飛びついた。少年は呆然としながらその小さな身体を痩せ細った腕で抱き、死神を、それから突然現れた、顔に傷のある女を交互に見る。女と目が合った。今度は優しく微笑まれた。死神に名を呼ばれた。夢心地で返事をした。すると死神は言った。
「苦しい道になる。私はあまり勧めたくはない。でも──士官学校の入学試験のために勉強を始められるかもしれない。遅くても頑張れるなら野球の練習もね」
まだ夢の中にいるようだ。死神の言葉はまさに夢のようだった。すると赤毛の少佐がいかにも忌々しいといった顔で言った。
「ネイビーシールズなんてやめときな。デルタフォースの方がかっこいいから陸軍においでよ」
信じられない。信じられない──それでも言いたいことが不意に浮かんだ。涙も溢れた。
部屋から死神が出て行ったことに気付かず、少年は言葉を絞り出していた。
生きたい。
確かにそう言った。
「いつまで拗ねてんの。早く投薬計画のチェックしてよ」
「拗ねてねえよ。赤毛にどう借りを返すか考えてるんだ」
「放っておけばいいじゃない、あんな奴。あの家に盗聴器を仕掛けたくらいしか仕事してないし」
「通りで野球だのネイビーシールズだの知ってるはずだ。──って、馬鹿、おまえ、デルタに借りを作ったままなんて冗談じゃないぞ。そもそも俺の借りじゃねえ、おまえが自分でやれ」
「やだ、キリコがやって。投薬計画のチェックも」
「クソビッチ!」
「うるさい、早漏!」
「違うって知ってんだろうが!」
当然のようにキリコのホテルの部屋に入り込んだBJは、これまた当然のように手術と治療計画にキリコを巻き込む。キリコはもう諦めるしかないと考える。成功率は0%に等しい。それなのにこの女は自信満々にキリコに手術計画を説明した。
いつもながらキリコが反対を唱える内容ではあったが、患者とその家族が希望するのなら、そして執刀医が自信を持ってできると宣言するのなら、もはや安楽死医としての出番がないことも分かっていた。
「士官学校って何歳で入学?」
「17歳から23歳。言っておくが海も陸も超難関だし浪人も多い。リハビリ期間を入れたら受験準備の間に23歳を超えるんじゃないか?」
「何言ってんの。来年から勉強できるよ」
「神よ」
慣れているつもりでも、あまりにも人智を超えたことを平気で言う天才医師が理解できない瞬間だ。BJは笑った後、プロテスタントは手術の禁止行為はないよね、と確認を求めた。アルコール消毒も輸血も何でもOKだ、とキリコは答えてやった。
彼と弟の洗礼の問題は、いずれまた人生の中で大きく立ちはばかる障壁になるかもしれない。それほどこの国は宗教というものへの回帰心が強い。だが両親の選択はきっと間違いではないだろう。キリコ自身の中にはない選択でも、誰も両親の選択を責めてはならないと分かっていた。そんな時代になっていると知っているのだから。
「マフィン」
「ん?」
「どうして俺が本業だって分かった? しかもここにいるって」
「わたしに何も言わないで海外に行くはずないし、キリコの居場所なんて大抵デルタが知ってる」
「どうして海外だって分かった?」
「パスポートがなかった」
「くそ、次から置き場所を変える」
「どうぞどうぞ。また家探し頑張っちゃう」
楽しそうに笑いながらBJは「汗かいちゃった」と言ってバスルームへ向かう。キリコは患者のために数日我慢していた煙草に火を点け、クソビッチが、と煙と共に呟いた。
それからソファに深くもたれかかり、大きく息を吐く。患者の前で張り詰めていた──傍からはそう見えないだろうが──緊張が一気に解れた。そして疲れていると自覚する。普段は意識しないことが脳裏をよぎったからだ。
あいつなら救える。命を繋ぎ止められる。
では俺なら? 生きたいと彼が言ったなら?
俺はその命をこの世界に繋ぎ止めることが──俺の技術で──俺の──
「キリコ!」
到達しかけたその結論を、女のややヒステリックな声が遮ってくれた。弾けるように身を起こし、また大きく息を吐いてから煙草を灰皿に押しつける。
「どうして一緒に来ないの!? 誘ってるのが分かんないの!?」
好きな女に感謝した。安楽死医としてではない意識が、ひとりの医者としての意識が、普段は敢えて忘れようとしていることに──ブラック・ジャックという天才医師との差に──目を向けかけた意識が、皮肉にも当のブラック・ジャックの声によってまた心の奥深くへ封じ込められていった。
「おまえの誘い方は分かりにくいんだ!」
「そういうこと言う!?」
バスルームで待つ女は俺の女だ。男の誘い方もろくに知らない可愛い女だ。ただそれだけだ。そう思いながら立ち上がり、もう一度息を吐いてバスルームへ向かった。


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