ついていい嘘もあるのよ
先生と同じ空間にいながら違うことをする、だがサポートはする、っていうキリコが何となく書きたかっただけです。あと書いてるうちに先生が蛇っぽくなったところも書きたくなったので書きました。書の字がゲシュタルト崩壊を起こしそうな前置きですみません。
闇のマネージメントサービスが自宅まで来ることは珍しい。玄関先で叩き出したいというのが本音だったが、普段それなりに依頼を融通してもらい、時には相当まずい後始末を頼むこともあるBJとしては無碍にするわけにもいかなかった。
それをしっかり理解しているマネージメントサービスの女は、完璧なメイクで完璧な営業スマイルに少し親しみを混ぜて見せる。──明らかに自宅同様にくつろいでいた服装のキリコに。普段は完璧なスーツ姿しか見せない死神がカジュアルなカーキシャツとデニムとくれば、つい私情が顔を出すのは仕方のないことだった。
「ドクター・キリコがこちらにいらっしゃるのは予想外でしたわ」
「おまえさんたちの予想通りに生活する義理もないんでね」
昨夜、会いたがったBJに言われた通りに会いに来たついでに泊まったのだ。ユリさんも一緒がいいと駄々を捏ねられたので連れて来ている。恋人同士になってからは珍しいことではなくなっていたし、ユリもこの家での女子会が好きで頻繁に顔を出したがるため、問題はなかった。
「おっしゃる通りです。お出迎え頂いたのも予想外ですわね」
「ふうん」
男が家にいる時にインターフォンが鳴ったら男が対応する決まりでね──だがそれを言ってやる必要はない。不機嫌なBJが待つリビングに女を通した。
「マフィン」
「うん」
「ちゃんと話せよ」
「ほっといて」
「そうするさ」
BJと女をリビングに残し、キリコはキッチンへ向かう。つまらなそうにそこへ押し込まれていたピノコとユリは時間外だと言うのにお茶会の準備をしていた。テラスで時間を潰すつもりだ。
「にいさんは行かないんでしょ?」
「まあな」
「コーヒー淹れておいてあげる。三人分」
「俺とクロオのだけでいい」
「あら、あの人の分は?」
「必要ない」
「──分かったわ」
どんな相手にでも基本的に礼儀を尽くす家に育ったキリコとユリだが、現在の家長である兄がそう言うのであればそれでいいと納得した。そして明らかに──ユリは訪問者の正体を知らなかった──BJが嫌がっている相手をこの家でもてなす必要がないことも理解する。何しろ彼女が来たと聞いたピノコが、肩を竦めて「今日はロクターに後でちぇんちぇいのご機嫌取りを任せるのよさ」と言ったのだから。
ポットに淹れた紅茶とありったけのスイーツを持って女二人がテラスへ消えたことを確認し、キリコはユリが用意したコーヒーを持ってリビングへ行く。BJの前にだけカップを置いても、マネージメントサービスの女は全く気にしないようだった。
「先日、お電話でご説明した通りですの。先生にどうしてもお願いしたいという依頼人が──」
「断った通りだ。はるばるのご足労には悪いんだけど、私は請けない」
「そうおっしゃらず」
二人の会話を聞くともなしに聞きながら、あの依頼か、と暖炉に寄りかかってコーヒーを飲みながらキリコは思い出す。最近BJから愚痴混じりに聞いたばかりだ。BJへの依頼に口を挟むつもりは今のところないが、請けないで正解だろうとは思っていた。
「私じゃなくてもできる手術のはずだ。──普段なら美味しいと思う仕事だけどね、今回ばっかりは御免だよ。いくら何でも危なすぎる橋は渡りたくない」
「ブラック・ジャック先生に執刀して欲しいと願う富豪なんていくらでもおりますわ。彼もその一人ということです」
「物見遊山で300万ドル? 金持ちほど道楽にそんな金は遣わない。信用できないね」
今日の円相場なら1億ちょっとか、とおおまかに計算しながらキリコはコーヒーを飲み干した。BJのカップにまだコーヒーが残っていることを確認してからキッチンへ行ってお代わりを注ぐ。マネージメントサービスの女が来たと告げた時のBJの顔を思い出した。心底迷惑そうな顔だった。あれは可愛かった、まあどんな顔をしても可愛いんだが、と死神としては他人に聞かせられないことを思いながらリビングの前へ戻る。
暖炉に寄りかかって立っているのが面倒になったので、テラス窓の前の揺り椅子に腰掛けた。BJの後ろ姿と女の顔がよく見えた。女は染めていることが分かる金髪を緩くまとめている。ビジネススタイルにしてはブラウスが少しばかり胸が空き過ぎていた。豊胸ではなさそうだ、と判断してコーヒーをすする。分かりやすい色気を振りまく女は遊び相手として嫌いではないが、人生最後の女の前でその感情を出すわけにはいかない。
「こちらが依頼人のカルテです。先生ならすぐにお分かりになるって、私の上役が申しておりましたわ」
「あいつか。どうして今日はあいつが来なかったんだ? 私が直接断ったのは彼だよ」
BJの担当者は男性だ。キリコと長い付き合いの担当でもある。二人が事実上の恋人同士となったと知られてすぐにまとめてその男を担当にされたのだ。彼らにとって自分たちはドル箱の1つであり、まとめておいた方が管理しやすいという理由だろう。
「彼は私に経験を積ませようとしているんです。近いうち、先生やドクターのお役に立てるくらいになりたいと思っていて」
「ふうん」
短く返事をしたBJが煙草に火を点けた。キリコには後ろ姿しか見えないが、一気に機嫌を悪くしたこととその原因を看破した。まだまだお役に立てませんね、と心の中で皮肉に呟く。担当者の人選ミスが明らかになった瞬間だった。
「先生のご要望はできるだけお聞きしますし、依頼人との折衝も必要ならやりますわ。もう一度考えて頂きたいんです」
「もう一度って言ったって──あ」
「いいよ」
「ありがと。──とにかく請けたくない」
鳴り響いた電話をコーヒーカップ片手に向かったキリコに任せ、BJは話を続ける。女は頷きながらも考えを変えるつもりはないと顔に書いたままだった。
「はい、──ええ、そうです、間違いありませんよ。どなた?」
電話に出ようとテラスから駆けてきたピノコを手で制して電話に出る。ピノコは可愛らしく両手を合わせて礼に代え、またテラスのお茶会へ戻って行った。
「ブラック・ジャック先生はお取り込み中です。お電話番号を伺えるなら折り返すよう伝えますが」
依頼をしたいと言う日本人男性の電話番号を聞き、電話横のメモ帳に書き付ける。
「ええ、大丈夫です。──失礼ですがどのような症状で? 分かる範囲で結構です」
BJがちらりと視線を寄越したことを知り、視線で「そっちに集中しろ」と合図をする。BJは唇を尖らせ、まだしつこく交渉しようとする女に向き直った。
「なるほど、それならブラック・ジャック先生に診てもらいたいと思うのは当然でしょう。その病院からカルテや画像診断フィルムをもらって、いらっしゃる時にお持ち下さい。主治医に別の病院でセカンドオピニオンをしたいと言えばもらえますから。──え? ──ああ、そうですね、その可能性はあります」
今の主治医が嫌がるのではないかと心配する依頼人候補にあっさり認める。今はまだそんな時代だ。だが彼がその先の不安を口にする前に先手を打った。
「もし主治医の先生に要求することが心苦しければ、ブラック・ジャック先生か私が直接交渉しますよ」
「別料金!」
「別料金になりますがね」
BJが素早く飛ばした指示を忠実に伝えると、男性はほっとしたように「そうして欲しい」と言った。病院のこういう体質が患者を殺すんだよな、と苦々しく思いながら、キリコはその件もメモに書き付ける。
「どちらの病院で? ──ああ、あそこですか。存じておりますよ」
キリコの家からさほど遠くない名門病院だった。それもメモに書いておく。
「先生、お願いです。この依頼を請けて頂ければ、私たち、ずっと先生に感謝することは間違いないですわ」
「そりゃあこの金額の3割がおまえさんたちに入るんだ、感謝は当然だろうけど。でもやらない。今回ばかりは勘弁してもらいたいね、他のことで充分返礼していると思うし」
「もしこの手術を成功させて下さったら──いいえ、きっと簡単に成功させられますわね、先生なら。成功したら先生の評判はもっと上がりますし、私たちもその裏付けに協力させて欲しいと思っています」
はい無理、お疲れ。男性に電話をかけても良い時間帯を聞いてから電話を切ったキリコは、背後から聞こえた女の台詞に心の中で駄目出しをした。案の定、先ほどから不機嫌なBJが更に不機嫌度を増す気配を感じる。ついでに女が焦った様子も感じる。
知ったことではないと思って胸ポケットから煙草の箱を引っ張り出したが、空になっていた。最後の1本を吸った時になぜ補充を考えなかったのかと絶望しながら少し前の自分を呪う。まあいい、頃合いだ、と思ってコーヒーカップを口に運ぶ。二杯目のコーヒーはすっかりぬるくなり、早速酸味が強くなっていた。もったいないがお役御免だ。やはり頃合いであると確信した。
振り返り、BJではなく女に決定事項として通達した。
「ブラック・ジャックと俺のセット売りのみ。米ドルでも円でもいいが円換算で15億、全額前払い」
「──ドクター、助け船には感謝しますわ。でもそれはあまりにも──」
実質断られたも同然の唐突な決定通告に女が混乱を隠しきれないまま立ち上がり、キリコに歩み寄って抗議を始める。キリコは不味いコーヒーをすする振りをして、押し付けられんばかりだったバストをさりげなく一瞥し、「交渉の余地はない」と言って彼女から遠ざかり、キッチンへ消えた。
「というわけで」
キリコを追おうとした女が思わず足を止めるほど、背後からかけられた声は低く冷たく、そして不機嫌で、舌をちらつかせながら地を這う蛇を彷彿とさせるごときものだった。
「お帰りはあちら」
振り返る勇気を持てなかった女は、そうしますわ、ごめんあそばせ、とどうにか言葉だけを口にし、そのまま飛び出すように全力の早足で玄関へ向かう。
家を出た瞬間、キッチンの方からヒステリックな女の絶叫が聞こえたが、何が起きたか、その絶叫がBJのものだったのかを確認する余裕などありはしない。乗って来た車に飛び込み、人生最速とも言える手早さでエンジンキーを回したのだった。
「他の女の胸をガン見するなんて! わたしの前で! わたしの! 前で! 最ッ低!」
「してねえだろ、おまえ、いい加減思い込みで俺にヒステリーを向けるのはやめろ!」
「思い込みじゃないですー!」
「思い込みだ!」
いいえ、思い込みじゃないです。キリコは心の中でBJを肯定する。だが無論、口にも顔にも出すようなミスは犯さない。
「何なの、あの女! キリコの役に立ちたいなんて言っちゃって!」
「俺が言ったわけじゃねえ!」
先生と、ってちゃんと先に言ってたじゃねえか──やはりそれも言わないでおく。言えば言ったで「あの女の言ったことをどうして細かく覚えているのか」と更にエキサイトする。
「わたしなら簡単だとか馬鹿にして! 患者にとって簡単な手術なんてあるもんか!」
「真面目な話、それは担当の方に抗議しとけ」
そこはすっと冷静になる。不意に冷静な顔になったキリコに引きずられるように、ほんの僅かに激情を抑えたBJは、「うん」と言って肩で大きく息を吐いた。よし今だ、とキリコはさっさとBJを両腕で抱き締める。そして機嫌を取るように──要はあやすように──BJごと身体を揺らした。
「おまえ以外の女の胸なんかどうでもいいんだよ、分かれよ」
大嘘だが、時として嘘は真実よりも人を幸せにする。心療内科に秀でているという自負があるからこそ分かる。これはついていい嘘、間違いない。
「でも見てた」
「気のせい。それに、スーツをみっともなく着る女なんて好きじゃない」
これもついていい嘘だと自信を持って言える。だが時として嘘は真実よりも。
「そうなんだ」
「おまえみたいにきちんと着る方が素敵だよ」
「そうなんだ?」
腕の中から上目遣いで見上げて来る女にすかさずキスをする。あと一押しで機嫌取りは終わり、テラスで嵐の通過を待つピノコとユリが戻って来るだろう。
「後で俺から担当に言っておくよ。おまえは依頼人に折り返しで電話をかけておいで。今の時間なら確実に電話に出られるそうだ。奥さんが心臓に問題を抱えているらしくて、聞いた限りだと多分──」
予想した病名を言うとBJはがばりと顔を上げ、物も言わずにリビングの電話へ向かった。緊急を要する病名だったしな、とキリコはその後ろ姿を見送って、胸ポケットの煙草に手を伸ばし、空であることを思い出して再び絶望した。
「ロクター、お疲れ様なのよさ」
「にいさん、少し気を付けてよ。どうせ心当たりがあるくせに」
テラスからティーセットを持って戻って来たピノコとユリがねぎらいと批判を交互にくれた。ピノコには礼と待たせた詫びを、ユリにはうるせえよと言い捨て、元客間、現自室へ着替えに行く。煙草を買うついでにセカンドオピニオンのための資料を回収してくることにした。
行ってくる、と声をかけようとリビングへ行くと、BJはまだ依頼人の男性と話していた。
「ええ、──ええ、大丈夫。とにかく一度診てみましょう。大丈夫」
妻の病状の話と言うよりは、不安な男性本人を宥めているかのような優しい顔を見て、キリコは我知らず微笑んでいた。話の邪魔にならないように髪に静かにキスをし、メモに「出掛ける」と書いてリビングを出る。
エンジンキーを回し、しばらく暖気をする。そろそろ寒くなって来た。この家の海風が冷たくなり始めている。今年もえらく寒いんだろうなと今から覚悟した。この家に来ないという選択肢は、この家にいる誰の中にもなかった。
車のエンジンを暖め終えた頃、コートを片手に持ったBJが玄関から飛び出して来る姿を見て笑う。慌てた顔も可愛い、と思いながら窓を下げて声をかけた。
「行くのかよ。俺だけでいいのに」
「ついでに患者に会っちゃおうかと思って。面会時間内には着くよね?」
滑り込むように助手席に乗り込み、BJはダッシュボードの時計を見る。今ならT県から都心に行っても、一般的な面会時間内には充分に間に合うだろう。
「渋滞がなけりゃな。あと、俺がスムーズに煙草を買えるように祈れ」
「わたしの吸ってれば。軽いのは我慢して」
妥協して1本もらい、火を点けてからサイドブレーキを落としてクラッチを繋ぐ。スムーズに発進してからBJも煙草に火を点け、深く吸って思い切り吐き出す。
「あの女の車に10円パンチしてやればよかった」
冗談とも本気ともつかない──否、確実に本気の声を聞き、キリコは表情筋だけで作った笑顔を浮かべたのだった。
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