晩ご飯デート

SSとか

食事していちゃついてるだけ

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 夕方の青山通りは最悪の渋滞だ。道を選び間違えたと後悔しながらBJ諦めて煙草に火を点けた。こんな時、T県に居を構えていてよかったとしみじみ思う。T県とて渋滞はあるが、事故でもない限りここまでの渋滞は起きない。先を眺めても切れ目が見えない渋滞が自然発生などと、BJには気の狂った光景にしか思えなかった。
 溜息と有害な煙を一緒に吐き出しながら、何の気無しに街並みを見る。いかにもハイクラスな店が立ち並ぶ中、洒落たカフェが目に付いた。ユリさんはああいうとこが好きだよなあ、絶対似合うし、と好きな男の妹を思い出す。あの絶世の美女はとにかく都会の洒落た風景が似合う。
 そんなカフェのオープンエアの席で、仕立てのいいスーツ姿のビジネスマンがシステム手帳を開いていた。忙しそうに何やら書き込んでいる。営業かな、と自分にとってはどうでもいいことを暇潰しに想像しながら、ふとBJは考えた。
 ──キリコって、手帳持ってたっけ?
 移動が多い仕事柄、持っていてもおかしくない。だが自分の前で開いた記憶がどうしても思い出せない。あったかもしれない。なかったかもしれない。
 どっちだっけ、どうだっけ、と考え込んでいたらいつの間にか前の車が少し進んでいた。慌てて半クラッチのまま距離を詰めようとしたら、後ろの車にクラクションを鳴らされた。今動かすところだったのに、と気分を悪くしながら不機嫌に車を進めた。気分直しに好きな男が手帳を開いている姿を想像した。格好いいな、と悦に入った。

 自宅に帰るのが面倒になり、青山通りから比較的近いキリコの自宅兼医院へ向かった。安楽死の患者が訪ねて来ていたらビジネスチャンスだと思ったが、幸か不幸か死神の水先案内所は閑古鳥が鳴いていた。
 キリコの車とバイクがあることを確認し、一緒になって比較的すぐにもらった合鍵を使って勝手に家の中に入る。診察室の方はいつも通り見ない振りをしてリビングへ向かった。キリコはいなかった。
 書斎かな、それともどこかに行ってるのかな、と思って勝手にキッチンでバニラティを淹れる。キリコがBJのために買っておいてくれた茶葉だった。季節ごとに自分が知らない茶を飲ませてくれる男が洒落ていて素敵だとBJはいつも思う。
「何だ、いつ来た?」
 ミルクをたっぷり入れたバニラティがぬるくなり、BJが勝手につけたテレビに飽きる頃、二階の書斎から降りて来たキリコが驚きもせずに言った。
「お茶が温かかった頃の少し前かな」
「そりゃあそうだろうよ」
 ソファに座るBJにキスをし、キリコはコーヒーを淹れにキッチンへ消える。
「夕飯は?」
「食べてない。キリコは?」
「同じく。何時だ、19時? 何か食べに出るか?」
「何もない?」
「ないことはないが作るのが面倒くさい」
「すぐできるのは?」
「マカロニチーズ」
「ごめん、気分じゃない。キリコが食べたい店に連れてって」
「近場に出るか。待ってて」
 キリコが着替えるために二階の寝室へ上がる。やや考え、BJは後を追った。階段で気付いたキリコは振り返り、何だよ、と笑う。BJも少し笑った。
「わたしも着替える」
「何が着たい?」
「キリコがわたしに着せたいやつ」
 コートを手放すことはできないが、その下に着る服はこの家に来た時にはよく変わる。大抵はキリコが勝手に揃えた服だ。ふうん、とキリコは呟き、これから行こうと思っていた店の雰囲気と自分の手持ちの服とのバランスを考え、それほど悩むことなくクロゼットから気軽な夕食に相応しい、裾にドレープがたっぷり入ったロングワンピースを選んだ。
「キリコってワンピース好きだよね」
「そうか?」
「うん」
「おまえに似合う服が好きなんだよ」
 馬鹿じゃないの、と少しくすぐったい気分を紛らわせるために減らず口を叩き、馬鹿で結構とキスと共に返されて、それから二人して笑って着替えを済ませた。
 気温が上がる頃に男が揃えてくれる服は裾の長いものばかりだった。この家の合鍵をもらってから初めて気温が上がった頃、裾が短めの服をクロゼットの中に見付けたBJは、それだけは一度眺めただけで奥に戻した。それ以来、キリコは薄着の季節には長い裾の服ばかりを買ってくれるようになった。脚の傷がね、と言わなくても分かってくれる男がとても好きだと思う。
「どこ行くの」
「裏通りの──」
「あ、ベルギー料理の? あの小さい店」
「そう。何だろうな、ベルジャンが飲みたくて。それとムール貝、白ワインで蒸したのが欲しい」
「分かる。気温が上がると思い出す」
 仕事では絶対に着ないようなノーカラーのシャツとカジュアルなボトムに着替えたキリコと手を繋いで家を出る。BJとしては日本では少し恥ずかしい気がするが、キリコのガイジン文化を言い訳にして手を離さなかった。
 目当ては若い夫婦で経営している小さな店だ。何度か訪れている二人を覚えていた夫婦は快く迎えてくれた。店内は満席とまではいかないが、平日の夕飯時としてはそれなりに繁盛しているようだった。ムール貝がまだ旬には早いとフロア担当の妻に言われ、今日は諦めた。代わりに旬のホワイトアスパラガスを中心に何品かをオーダーする。数度の来店で二人の好みを察していたシェフ兼店主の夫が桜鱒のローストを勧めてくれた。断る理由はなかった。
「青山通りの渋滞が酷すぎて、帰るのが面倒になっちゃって」
「そんな理由で? 先に訊くべきだった。お嬢ちゃんが可哀想じゃないか」
 真っ先にピノコを気にかけた男のことをやはり好きだと思いながら、BJはバターで和えたホワイトアスパラガスを口に入れ、味わってから異論を唱える。
「違う。途中で降りて遅くなるって電話したら、キリコの家へ行けって言ったのはピノコ」
「恋敵の家に?」
「渋滞にはまって帰って来られるとわたしの機嫌が悪くて嫌なんだって」
「ったく、そういうところも。おまえはお嬢ちゃんに甘えすぎだ」
 本気で小言を言う顔になったキリコに、確かにそうかも、とBJは素直に認める。
「少し考える」
「そうしろ。二人のことは二人にしか分からないんだろうが、聞いてると心配になることもあるんだから」
 これが他の人間に言われたのなら反発するところだ。分からないなら黙っていてくれ、私とあの子のことなんだ。だがキリコに言われるのであればそんな気が起こるはずがない。自分とピノコの間に入り込むような真似はしない。だが確かに傍にいる稀有な人間なのだから。
「後で電話貸して。もう一回電話する」
「それがいい。──じゃあ、この話は終わりだ。楽しい話をしよう」
「うん」
 こういう切り替えの早さも好きだ、と思って笑い、ちょうど運ばれて来た桜鱒に手を付ける。香草の香りをまとった温かい身が、まぶされた岩塩の丸い甘みと一緒に舌の上で柔らかく崩れて行く。美味しい、と呟くと、キリコも同じタイミングで美味いと呟いて、つい顔を見合わせて笑った。
 それからは他愛もない話ばかりだ。今日は安い仕事だったとBJが言うと、おまえの金銭感覚はあてにならないよとキリコが言う。そのキリコは一日中書斎に籠っていたが、午後は半分以上うたた寝をしていたと言ってBJを呆れさせた。
「あ、そうだ、キリコ」
「うん?」
「手帳持ってる?」
「今?」
「じゃなくて、普段使う? って意味の持ってる?」
「ああ、そういう意味か。あるにはある」
「あ、そうなんだ」
「どうして?」
 今まで気にされたこともなかったキリコは不思議そうな顔になる。BJは「大した話じゃないよ」と言って、青山通りのカフェで見たビジネスマンの話をした。
「それで、そう言えばキリコが手帳使ってる記憶がないなって思っただけ」
「まあ、ほとんど家から持ち出さないからな」
「え、そうなの」
「うん」
「いつも持ち歩かないなら手帳の意味がない」
「外でメモを取るような仕事じゃないし、取るわけにもいかないだろう」
「そう言えばそうだった、人殺し」
「マフィン、食後のスイーツを食べたければ俺に口を縫いたいと思わせないことだ」
「嫌よ、ハン。ミゼラブルを食べるまではいい子でいるわ」
 他では滅多に見かけない甘味のためなら多少は譲歩する。演技めいた口調で誓いながらも、でもそうだよな、と思った。キリコが手帳を家から持ち出さない理由に納得できた。BJとは違った意味で際どいラインを踏み越えて恨みを買うことも多い仕事だ。面倒を引き寄せないためにも、何かしらの情報が記されたものは外に出ない方がいい。
「手帳なんて早々落としたりしないけど、何かあったらことだしね。特にキリコは」
「その通り。人生何があるか分かったもんじゃないからな」
「本当に。肝臓を切ったり、薬を盗まれて駆けずり回ったり」
「残念でたまらないよ、マフィン。明日はキルフェボンのタルトを買ってあげたかった。もちろんホールでね」
「ハン、まだ間に合うわ、諦めないで!」
 半ば本気で縋るとキリコは笑った。桃とメロンのどっちのタルトがいい、と訊いてくれて、BJはほっとしながら「ピノコは桃が好きだからそっち」と言った。その答えを聞いて頷いたキリコが両方買ってやろうと決めたとは思いもしなかった。
 アーモンド風味のスポンジケーキにバタークリームがたっぷり挟まれた、ミゼラブルと呼ばれるケーキをBJが食べ、キリコがデザート代わりのリキュールを飲み、普段よりも少し贅沢な夕飯が終わる。程よく酒が回ったせいか、キリコと手を繋いでも日本だから恥ずかしいと思わなかった。少し散歩をしてから家に帰った。
「あ、電話。ピノコに」
「お嬢ちゃんが寝る前にしておけよ」
 もっともなことを言い置き、キリコは風呂の準備をしにバスルームへ消える。BJは時計を確認し、ピノコがそろそろ寝てしまう時間だと知って慌ててコールした。辛うじて間に合った。眠そうな声のピノコと少し話をする。ピノコは「夜にわざわざ電話するなんて珍しいわのよねえ」と言ってBJを苦笑させた。これから外泊の時にはするよ、と言うと、そうなの、嬉しい、ロクターにお礼を言わなくちゃ、と返され、愛娘の洞察力にもう苦笑も出なくなった。
 電話を切り、バスルームへ行ったはずのキリコが戻ってこないことに気付く。どこだろうかと考え、他には診察室しかない一階には用がないと思って二階へ上がる。キリコ、と呼びながらまず寝室を覗いたがいなかった。一番奥の書斎はノックをした。どうぞ、と返事が返って来たので遠慮なく中へ入る。
「何でいないの」
「ああ、ごめん。おまえが手帳の話をしたから思い出して」
 キリコが恋人の来訪に気付いていない時以外、この家の中で一人にされるのは嫌いだ。頬を膨らませてみせると、キリコが抱き寄せて髪に唇を落としてくれた。
「手帳? これ?」
「そう。──こら、覗くな」
「人殺しメモ?」
「安楽死。言いにくければ尊厳死でも構わないよ」
「どっちも言いにくくって困っちゃう」
 キリコの手にあった黒革の手帳を奪い、ぱらぱらとめくる。キリコは口ほど咎めず、取り返そうともしなかった。患者の名前や状態が記されているわけではない。仕事を悟らせない数人の連絡先、多少の予定、仕事とは関係ないことでメモをしてあるだけだ。
「うーん、おかしい」
「どうした」
「浮気の予定が書いてない」
「予定がないから書きようがない」
「するような気がするんだよなあ」
「しねえよ。自分で自分を追い詰めるのはやめろ」
 自分で言い出した冗談で機嫌が悪くなりそうだ、と気付いたBJは、素直にキリコの忠告を受け入れることにした。
「違う、わたしが持つんじゃないんだ。キリコに持ってみて欲しいの」
「は?」
「こういうの、キリコが持ってたら格好いいと思って」
「それだけ?」
「他に何か?」
「俺にその質問を返すか?」
「いいから持ってよ」
 呆れ顔のキリコに黒革の手帳を持たせ、うん、やっぱり格好良かった、と一人で満足する。付き合わされたキリコが呆れた顔をしているが、それも格好良いと思えたので構わなかった。
「風呂を見て来る。一緒に入るなら降りて来いよ」
「お湯が溜まってたら呼んで。寝る前に読む本を選んじゃいたいから」
 キリコが階下のバスルームへ降りてから充実した書棚を眺めて回る。あれはまだ読んでない、これは読んだけど面白かったからもう一回読もうかな、そんなことを考えながら一冊を選んだ後、デスクの上に置いたままの黒革の手帳に気付いた。持たせた時の格好よさを思い出してついうふふと笑い、もう一度手に取ってしまう。
「──あれ」
 先程めくった時には気付かなかった。手帳の後半、少し長めに記入ができる場所にところどころ日付と書付がある。見られたくなければ片付けて行ったはずだろうと思い、下世話な興味を抑え切れずに目を通した。そして「ふうん」と思わず声に出して言ってしまう。
 ある日はピノコが苦手な食べ物を知ったこと。ある日はユリが何かでストレスを受けたと察したこと。あるいは新しい彼氏ができたこと、この日は少し字が乱れているのが面白い。
 それから、一点で目を離せなくなった。少し古い日付の書付だった。
【春夏の短い丈は買わない(似合うが)】。
 そっか、と思った。そっか。そうか。──そうか。似合うのか。
 きっとキリコしかそう思わないんだろうけど、と思った。
 キリコしか思わなくてもいいと思えた。
「溜まったぞ。入る?」
 バスルームから呼びに来てくれた男を振り返る。入る、と返事をしながら飛びついた。キリコは驚きながらも抱き止めてくれた。嬉しくて仕方がなくて、首筋に噛り付くように抱き着いた。
「明日」
「うん?」
「服を買ってよ」
「いいけど、どういう風の吹きまわしだ?」
 自分から言うのは珍しいな、とキリコが笑う。BJも笑う。
「どんなのがいいんだ?」
「少し短いの」
「え?」
「わたしに似合うんだよね?」
 顔を見上げて言うと、数瞬の間の後、察したキリコが苦笑した。
「見たな?」
「見た!」
「似合うよ」
「早く言ってよ!」
「──これからは言うよ」
 男の笑みは優しい。そしてどこか嬉しそうだ。それが嬉しくて──わたしのことで嬉しくなってくれるなんて! ──今度は唇に齧り付くようにキスをした。キリコもすぐに応えてくれた。
 風呂が先だ、その気になっちまう。そう言ってくれる男が好きで好きでたまらないと思った。
 だから言った。
 その気になってよ。
 自分でも信じられないほどに甘くとろけた声で言った。イエス以外の返事が聞こえるはずがないと知っていた。

SSとか

Posted by ringorira