多分没にするやつ

書きかけとか

タイトル通り。書いていて「なんかこうじゃないなー」感がすごいので一度手を止めることにした。明日から別の話を書きます。

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 外は季節外れの大嵐だった。20時を過ぎ、村外れの宿泊先に着いた時にはずぶ濡れで、出迎えてくれた老夫妻が慌てて大判のタオルをくれたほどだ。コートを乾かそうと言ってもらえたが、自分で乾かしますと言ってBJは宛がわれた二階の部屋へ向かった。
「ティーセットは窓際よ。朝食は8時、食堂に来てね。他のお客さんと一緒になるわ」
「どうも」
「うちみたいなB&Bでいいの? あなた、すごいお医者さんなんでしょう。うちは歓迎だけど、街へ出ればもっといい宿もあるのに」
「そんなこと言わないで。充分です」
「わざわざ日本からナタリーの病気を診に来てくれたって、村中の噂になってるわ」
「明日、診せてもらう予定ですよ。――バスルームはどこ? 共同でしょう?」
 言外に会話を切り上げたい意思と早くずぶ濡れの身体を何とかしたいという本音を伝えると、夫人は慌ててバスルームの場所を教えて出て行った。あの分じゃ風呂上りに話をさせられそうだな、とBJは覚悟した。だが患者について多少の情報を仕入れておくのも悪くはない。
 B&Bと呼ばれるイギリス名物の宿泊施設は大抵一般家庭の家屋を改造して経営されている。ベッドと少ない家具、ティーセット、そして朝食が提供される。水回りは共同であることがほとんどで、この宿も例外ではない。他の宿泊客が使ってなければいいんだけど、と思いながらBJはバスルームへ向かった。
 バスルームは運良く空いていた。共同のため長く使うことは気が引けるが、雨と風で凍えた身体を温める程度の時間は許してもらおうと思った。
 時代を感じさせる――それもこの宿の売りなのだろう――コックを捻り、熱い湯を頭から被る。イギリス特有の硬い質感の湯が肌を叩き、バスタブへ浸かる気分を消滅させた。髪と肌が傷みそうだ。閉口し、皮膚を温める程度にしておいた。金をケチって安いB&Bなんかにするんじゃなかった、次はもう少し予算を取ろう、と珍しく思った。
 そもそも機嫌が良くない。日本を出る直前の大喧嘩を思い出すだけで気分が悪い。喧嘩はいつものことだ。大抵はキリコが負けた振りをして甘やかしてくれる。だが今回の喧嘩は仕事絡みだった。
 仕事が絡んだ時の喧嘩は互いに一歩も引かない。怒りに任せてキリコを家から追い出したきり、連絡を取っていなかった。
「良かったら暖炉の前で話をしない?」
 バスルームを出ると予想通り夫人に声をかけられた。BJは頷き、一般のホテルで言うならロビーにあたるエントランススペースへ向かった。患者の手術をすることになればしばらく滞在するかもしれない宿だ。無下にしない方がいい。
 年代物の暖炉と敷物を前にソファに腰掛け、先に待っていた宿の主人に挨拶をする。他には数人の宿泊客たちが思い思いに過ごしていた。B&Bならではのアットホームな光景だろう。
「日本人は珍しいんだ。都市部ならともかく、こんな田舎じゃね」
「そうでしょうね。ロンドンを出れば注目の的ですよ。こんな顔だし」
「はっきり言えば、チェックインの時には驚いたよ。でも悪くない、あんたがどこにいてもすぐ分かる」
「確かに! 待ち合わせの時には私を目印にすると便利でしょうね」
 主人は豪快に笑い、夫人は夫の際どい冗談で日本人の女性が怒らなかったことに密かに胸を撫で下ろしながら、そんなことがあるのかしらね、と付き合いで笑ってみせる。BJは彼らを「田舎のイギリス人にしては人種差別意識が低いんだな」と分析した。世界中を飛び回る生活の中、これは珍しいと断言できる。だがそれをわざわざ指摘する必要もない。
「ナタリーのことで来たんだろう? 地主の娘の」
「ええ。まだ会ってないんです、アポイントは明日」
「難しい病気らしくてね。ロンドンの有名な病院でも診てもらったんだが、手の施しようがないと」
「直接診てみなければ何とも言えませんけど、良い結果に繋げる努力はしますよ」
 金次第でね、とは口にしなかった。そして喧嘩の最中、死神に言われた言葉を思い出した。――この状態で手術をするなんて、おまえは余計な苦しみを売りつけるようなものだ。
 思い出しかけた怒りを堪えるように息を吐き、夫人が用意してくれた温かいハーブティを飲む。
「美味しい」
 思いのほか美味しくて、つい口元を綻ばせた。欧米人からすれば表情が少ない日本人女性のその口元を見て、夫人は穏やかに微笑む。
「嬉しいわ。わたしがブレンドしてるのよ」
 外の風雨の音が一層強くなり、窓と扉をがたがたと揺らし始めた。
「ナタリーはまだ15歳だ。小さい頃から身体の弱い子で、いつかこうなるんじゃないかとみんな言っていた」
「そうだったんですか」
「ロンドンの大学に行きたいと言っていて――」
 主人はナタリーについての思い出話を始め、BJは聞き役に徹しながら、患者になる予定の少女の周辺事情を拾い上げて行った。家族関係や周囲の環境を知っておくと治療計画が立てやすい。家族の協力は不可欠であり、良い環境であればあるほど好ましかった。
「誰か来たんじゃない? ドアベルが聞こえた気がしたんだけど」
 エントランス近くでカードに興じていた宿泊客が顔を上げ、主人に声をかける。主人と夫人は首を傾げた。
「予約のお客さんは全員チェックインしてるし、誰も外出していないぞ。雨がドアに当たったんじゃないか?」
 BJも顔を上げ、扉を見た。そしてすぐに「ああ」と言った。
「聞こえますよ」
「耳がいいな!」
 主人は感心しながら立ち上がる。扉に向かって歩く夫の背中を見ながら、夫人がBJに教えるともなく言った。
「この先のホテルに行けなかった人かもしれないわ。嵐の夜にはたまにいるの。バスもタクシーも止まってしまうから」
「ああ、少し先にありましたね、ホテル」
「そう。だからうちでいいの? ってさっき訊いたのよ」
「そのホテルに、こんな素敵な暖炉とあなたのハーブティーはある?」
「ないわね、うちが正解よ。よく来てくれたわ」
 喜んだ夫人はBJを軽くハグし、BJもそれに応える。同時に主人が扉を開けた。そして風雨に負けない大声で「早く入りなさい」と言う。
「あら、タオルを取って来なくちゃ。ずぶ濡れだわ」
 入って来た男を見た夫人が慌てて立ち上がり、家の奥へ姿を消す。BJは男に向かって思い切り眉を跳ね上げてから、深く息を吐いてソファに沈み込んだ。
「この先のホテルを予約していたんですが、ここの手前でバスが止まってしまって」
「よくある話だ。今日はとても歩いて行けるような天気じゃない、災難だったな。部屋は空いてる、40ポンドだ」
「先払いで」
「助かるよ」
「部屋はシングル?」
「ツインとダブルも空いてるが、100ポンドになるよ」
「ダブルで。そこの彼女もそちらに移動します」
「何だって?」
「彼女もそう言いますよ。――ああ、ありがとうございます、お借りします」
 夫人が持って来たタオルを受け取って自分をちらりと見た男の言い草に、BJは日本語で「凍え死ね、早漏」と悪態をつき、違うって一生言わせる気かよ、とキリコを苦笑させたのだった。

 老夫妻だけではなく居合わせた宿泊客にまで「仕事先で偶然会った夫婦」と認識され、部屋を移動することに誰も不審を持たなかった。むしろそうするべきであることが当然のように扱われ、親切な宿泊客たちが荷物の移動の手伝いを申し出てくれたほどだった。
 まだ荷解きをしていないから手間がかからない、大丈夫、ありがとう、と丁重に断って、BJは不本意ながらも移動する。まだ顔を合わせて素直に喜べるほど、キリコへの感情の燻りが消えたわけではなかった。
「独身だと思ってたわ。指輪をしていないから」
「――仕事柄、あまりつけないんです」
「そうなの?」
「外科医だから、手術や処置がそれなりに頻繁でね」
 キリコがシャワーを浴びている間、急いで部屋を整えに来てくれた夫人に言われ、BJは手伝いながらそう答えるに留めた。結婚していないよ、と言おうと思ったが、ここは田舎、そして夫人はそれなりの年齢だ。誤解させておいた方が心証がいいだろう。
 用意を終えた夫人が出て行くのと入れ違いに、シャワーを浴びたキリコがやって来る。窓際のテーブルでそっぽを向いているBJを見て鼻で笑い、「続きでもするか?」と声をかけ、振り返らせることに成功した。
「人殺しと話すことなんかないね」
「人聞きの悪い。俺が人殺しならおまえは拷問者だ」
「私は医者だ、侮辱するな。死神なんぞに言われる筋合いはないよ」
「無免許が何だって? 俺はステイツの栄誉ある退役軍医様だぞ」
「過去の栄光で飯を食う奴なんてろくなもんじゃないってことを体現してくれてありがとう、みっともない」
「アピールポイントにしたことがないんでね、飯の種にはなってない。――言わなくて悪かったよ、明日会うと思ってたし、言う前に家から追い出されたからな」
 BJはしばらくキリコを睨み付けていたが、やがて窓を叩く雨音にも隠し切れないほど大きな溜息をついた。
「『俺にも同じ患者から依頼が来てる』って言えばよかったのに」
「言うタイミングを逃してね。――こっちに来い、風邪をひく」
「エロいことするから嫌だ」
「しねえよ。こんな壁の薄いB&Bでできるほど、おまえが静かにしていられるもんか」
 たちまち顔を真っ赤にするBJを見て笑い、おいで、と休戦を持ちかける。BJは唇をひん曲げてみせてから休戦の申し入れを受け入れ、キリコが腰掛けるベッドに乗り上げた。古き良きキルトケットのパッチワークは明らかに手縫いのもので、これもあの夫人が作ったのだろうかと思った。