アーモンドキャラメルソースのブラウニー

SSとか

単にキリコに「チキータ・デ・モーナ」って言わせたかったのと猿の鳴き真似をさせたかっただけのはずなのに、出だしを間違えてまとまらない話になってしまいました。アーモンドキャラメルソースのブラウニーって字面だけで喉が渇く気がする。

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 患者が選んだのは神の指だった。覚悟がつかなくて二人を呼んでしまって悪かった、と患者が詫びる頃にはもう死神の姿はなく、BJは一人でその言葉を聞いた。患者はそれを酷く気にし、あの彼にきちんと詫びたいと繰り返した。BJは出来る限り困り顔にならないように努めながら、では私から話をしてみましょう、と約束するはめになった。
 病院を出てホテルのチェックインへ向かう。予想はしていた。依頼人である患者が手配したホテルだ、当然と言えば当然かもしれない。レセプションでちょうどチェックインを終えたキリコと目が合い、思わず足を止めた。
「クロオ・ハザマ、私と同じ経由で予約が入っているはず。──そう、彼女だ。彼女と私の荷物を同じ部屋に」
「二部屋分の室料でジュニアスイートにアップグレードができます、いかがなさいます?」
「もちろん」
 当然のようにレセプションで部屋の変更手続きをし、キリコはBJに歩み寄って医療鞄を手に取り、腰を抱いて歩き出した。BJは諦めて溜息をつき、自分の歩調に合わせてくれる男と一緒にエレベーターホールへ向かった。
「患者が」
 エレベーターが動き出して、BJはようやく口を開いた。
「うん?」
「きちんと詫びたいって言ってた。どうする」
「必要ないね。適当に言っておいてくれ」
 案内のホテルマンは、背後の狭い空間の中で恋人にキスをする男の気配など慣れている。今回も彼らがアップグレードした上級ランクの部屋まで丁寧に案内をし、どうぞ良いご滞在を、と笑顔で退室した。
「詫びくらい聞いてやればいいのに。凄く気にしてた」
「俺が気にしていないとでも?」
「思わない。でもそれは私に向けられるべき感情であって、患者は関係ない」
「正論だな」
「分かってるなら──」
「少し黙ろうか、先生?」
 求愛を受けながら直前で袖にされた死神は穏やかに、だが反論を許さない声で天才外科医に言い渡した。滅多にない声と言葉にBJは溜息を堪え、口を噤むことによって受け入れる。
「もっと苦しみたいって言うなら精々苦しませてやれよ。手術前に気が変わったら俺を呼べって言っておけ」
「呼ばせねえよ」
「終わりだ、マフィン。仕事がぽしゃって商売敵を恨んでる恋人を慰めてくれよ」
 この話はもう終わり、二人の時間にしよう──キリコの意思表示に異論はないが、BJはつい眉を顰めた。自分でも意外な感情が産まれていた。その表情に気付いたキリコが「おや」と言いたげな顔をする。
「気に入らない」
「うん?」
「本当はそんなこと思ってないくせに」
「いいや、思ってるね。──やめよう、あの患者はブラック・ジャックの手術を受ける。それが全てだし、それ以外はもう俺にとって意味がない。何を言ったって無駄だ」
「気に入らないって言ってるんだ」
「おまえの気に入ることばっかり言って生きられたらどんなにいい人生だろうな」
「キリコ」
「長旅だったしな、疲れてるだろう。ルームサービスを頼もうか。シャワーは?」
「キリコ!」
「──患者が心変わりしたらどうする」
 諦めたキリコは煙草を咥え、さも面倒だと言わんばかりの顔で言ってから火を点けた。望み通りに話を戻せたというのに、BJは気分が悪くなる。だがその気分の悪さはキリコに向けられたものではなかった。キリコが口にした言葉の現実味が強すぎたからだ。
 生きるか死ぬかの瀬戸際にある患者の心は移ろいやすい。今日は生きようと思っても、翌朝、それとももっと後、再び現れた死神の手を取りたいと願わないとは言い切れなかった。
「患者の決断を俺の存在で変えさせてはいけない。俺を理由にされるのは真っ平だ。生きたいなら生きればいい。だが俺にはもう関わらせるな。俺はおまえと違って、もっと苦しみたがる悪趣味な人間を見て気分が悪くならないほど酔狂にできちゃいないんだ」
「私は苦しませるつもりなんてない。救うんだ」
「いい加減にしろ。何度話した? 平行線だってことは分かってるだろう」
「この患者のことを話すのは初めてだ!」
「じゃあ結論を言ってやる。あの患者はブラック・ジャックが手術をする。以上」
「そうじゃなくて──」
「まだ言いたいことがあれば紙切れにでも書いて燃やすといい。心療内科的にも有効な方法だ」
 激高しかけたBJを言葉で抑え付けるように話を切り上げ、キリコはろくに吸わないうちに短くなった煙草を灰皿で揉み消した。BJは唇を噛み、抑え付けられた感情を持て余してソファに深く沈む。
「俺を怒らせたくなければ紙切れに相談した方がいい」
「怒ってるくせに。馬鹿キリコ」
「怒っちゃいない。──出て来たら可愛がってやるよ、いい子にしてろ」
 罵りながらも勢いを失った女の姿を一瞥し、アスコットタイのノットに指をかけて緩めながら、キリコはバスルームへ向かった。確かに怒ってはいないが面白い気分でもない。このままでは二人の時間が楽しめないかもしれない。気分転換のシャワーが必要だった。
 クロオと違ってすぐ気分を切り替えられる性質で良かった、と思った。意識的にその性質を自分に植え付けることに成功して良かった、とも。

 少し長めのシャワーを終え、バスルームを出る前から、BJの機嫌が回復していないことは予想していた。彼女なりに気分を切り替えようとすればバスルームへ入って来ていたはずだ。
 案の定、世界屈指の天才外科医はコートを床に投げ捨ててソファに仰向けに寝そべり、天井を睨んでいた。何が見えるんだろう、とキリコも天井を見上げたが、宿泊施設として理想的な清潔感を持つ白い色しか見えなかった。
 話し掛けてもどうせ無駄だ。ルームサービスのメニューをめくりながらフロントをコールし、軽食を頼むことにする。夕飯はBJの機嫌が回復すれば外で、しなければ改めてルームサービスを頼めばいい。とにかく空腹は避けたい。女の機嫌が更に悪くなる要因であることは間違いないのだから。
「シャルキュトリーとチーズのプレートと──」
「甘いの。チョコのやつ」
「……フラワーレスチョコレートブラウニーのアーモンドキャラメルソースを」
 不機嫌ながらもしっかりとリクエストされた甘味を伝え、キリコは電話を切った。メニューを読んだだけで口の中が甘ったるくなったような気がした。
 相変わらず天井を睨んでいるBJを振り返る。昔はあれこれと手段を講じたものだが、今はいわば「一周回って」の境地に達していた。要は小細工は不要、シンプルに露骨に機嫌を取ればいい。
「マフィン、そろそろ機嫌を直してくれよ。いい気分で食べた方がブラウニーがきっと美味しい」
「ブラウニーはいつでも美味しい」
「なるほどね」
「あと」
「うん?」
「アーモンドキャラメルって気分じゃなかった」
「オーダーを取り消そうか」
「そこまでじゃない」
「見たらそんな気分になるよ。きっとね」
「うう」
 BJが目を閉じ、眉をひそめる。まだ切り替えが終わらないキリコとの口論の記憶の中に甘いブラウニーとアーモンドキャラメルソースの香りが忍び込み始めている。見抜いたキリコはもう一押しすることにした。
「ストロベリーシャンティのフルーツタルトもあったんだ。そっちにすれば良かったな」
「……チョコのやつって言ったのは私だから」
「なるほど。夜を外で食べるなら似たようなのを探そうか」
 仕事になれば糖分を異様に消費する女だ。先に多少体重が心配になるような食生活をしても何とかなるだろう。キリコは信じた。それは願望だと冷静な自分が言ったが、速やかに聞こえない振りをした。
 うう、とBJが呻いて起き上がった。不機嫌がスイーツに負けようとしている。キリコはほぼ勝利を確信した。BJもそろそろ機嫌を直したいことなど御見通しだ。自分で自分の機嫌の取り方を知らない女は、恋人に甘えたがっていただけだった。
「マフィン」
「うん」
「もう機嫌を直せ。俺を放っておくつもりか」
「放ってない」
「ふうん?」
 BJの隣に腰掛け、キスをしようと肩を抱く。だがBJがキリコの唇を指で抑え、それを阻んだ。
「わたしが放っておかれたんだと思うけど?」
「シャワーを浴びただけだろう」
「でも放っておかれたのは事実だし」
 無茶苦茶と言えば無茶苦茶な言い分だが、キリコはもはや慣れている。なるほどね、としたり顔で頷いてみせた。
「そうか。悪かったよ」
「許さない」
「そう言うなよ」
 もう一度キスをしようと首を傾けて唇を近づけても、強情な女はまた指で阻んだ。スイーツの香りで消えた仕事の不機嫌は、恋人に放っておかれたと思い込んで拗ねた感情にすり替わっていた。面倒な女だ、そこも可愛い、とキリコはしみじみ思う。
 かと言ってこのままにしておきたいわけでもない。互いに良い気分で軽食とスイーツを楽しみたい。さっさと笑わせるに限ると決めた。
「もう許してくれよ、チキータ(かわいこちゃん)?」
「──誤魔化されないけど?」
 手っ取り早く機嫌を取る時に男が口にするスペイン語に、BJは唇を尖らせる。緩んでしまいそうな口元を誤魔化すためだった。この男が少し母国の訛りを混ぜたスペイン語を短く発する声が好きだとは、本人にも教えたことがない。とうに見抜かれているとは思いもよらない。
「誤魔化すって? チキチキチキータ?」
「やめて、馬鹿にしてる」
 やめてと言いながらも笑い出しそうだ。必死で笑いを堪えて失敗し、噴き出してしまう。キリコも笑いながらまたキスを仕掛けたが、あと一歩のところでまた指に阻まれた。
「してないよ。チキータ、チキチキチキータ・デ・モーナ(可愛いおさるちゃん)?」
「何それ!」
 スペイン語の「猿」が愛しい相手に向けられる単語だと知っているBJは、今度こそ機嫌よく笑い出した。どうせ日本猿ですよと本音ではない自虐を言いながら身を捩り、キリコのキスから逃れようとふざけ始める。
「モノ、駄目、キスはしない」
「どうして?」
 同じくスペイン語で男性形の「猿」を口にして笑う女を抱き寄せる。BJはまだ往生際の悪さを見せ、今度は自分の唇を隠した。
「まだ全部は許せないから」
「謝ったのに。悪かったよ、チキータ・デ・モーナ、シャワーに誘わなくて悪かった。それからアーモンドキャラメルソース、あれも悪かったんだな、チキータ・デ・モーナ、チキータ?」
「もうやめて、笑っちゃうから!」
 気分が良すぎて笑ってしまう。額を合わせて一緒に笑ってくれる男が愛しい。
「モノ」
「うん?」
「キスは禁止」
「それは酷い。どうして?」
「反省は猿でもできるって、日本で言うのを知ってる?」
「どっちの猿が?」
「モノ。キリコ」
「ooh aah!」
「やめてったら!」
 キリコの猿の鳴き真似にまた大笑いした。それから抱きすくめられ、笑っている顔中、唇以外に何度もキスをされる。
 とにかく大笑いした。唇だけにはキスをしない男を馬鹿じゃないのと罵りながらもまた笑う。
「キスは禁止だって!」
「してない。こんなのキスじゃないだろう」
「キスだってば、この猿!」
「ooh aah!」
「もうやめて、お腹痛い!」
 散々笑い転げた後、ルームサービスの到着を告げるインターフォンが鳴る。ホテルマンを中に入れるために笑いながらキリコが身を離そうとした途端、BJがぐいと男の身体を引き寄せて唇に思い切りキスをした。キリコは笑った。
「禁止じゃなかったのか?」
「キリコがわたしにするのが禁止。わたしは禁止されてない」
「バナナを禁止された方がよっぽどましだ、ooh aah!」
「やめてー!」
 また笑い出すBJの唇に禁止されているはずのキスをして、再び鳴ったインターフォンに呼ばれたキリコはソファを離れた。
 BJは何とか笑いを収め、息を吐き、このままの気分でいようと決めた。それなら仕事の話をすっかり忘れた振りができる。患者にもう一度だけでも会ってあげて、と危険な言葉を言わなくていい。
 俺を理由にされるのは真っ平だ。そう言われたあの瞬間の自己嫌悪を忘れたかった。
 患者の決断を俺の存在で変えさせてはいけない。そう言われたあの瞬間の敬意を忘れたくないとも思った。
 何度考えたか、何度議論したか、きっとこれからも何度も繰り返すだろう。平行線が交わることはないだろう。知っているからこそ思うのだ。
 知っている。あの死神が何よりも一番に考えること、それはあくまで患者の意志、その先にあるはずの選択と後悔のない道だということを。
 今は考えたくなかった。笑っていたかった。キスをして欲しかった。
「マフィン?」
 僅かに物思いに耽りかけたBJに、ソファに戻ったキリコが声を掛ける。はっとして顔を上げた。それから、ホテルマンが目の前のテーブルにセッティングする軽食と甘いチョコレートのスイーツを見て、軽く唇を噛んでから、わざと明るい声を出してみせた。
「アーモンドキャラメルソースも悪くない気がしてきた」
「言っただろう。見たらそんな気分になるって」
「なってきた」
「それは良かった」
「いい気分だから、キス禁止はもう終わりにしていいよ」
 キスをして欲しいと言うことだと、男に分からないはずがない。キリコはふっと笑い、それから唇に優しいキスを落とした。
 今は考えるのをやめよう、やめたい、と同時に思っていた。平行線であるようでいて本当は生命に同じく添っているはずの、それでも手を取り合うことはできない道を進み続ける、それを忘れてしまう瞬間を、今は忘れていたかった。
 人前でするには少しばかり丁寧すぎるキスを見ないように努めながら、素早く、だが完璧にテーブルセッティングを終えたホテルマンは、チップを諦めて静かに部屋を出た。

SSとか

Posted by ringorira