モブ視点

SSとか

寝たり起きたりして書いてたらよく分からない話になり果てました。いつものことか。そうか。若いヤクザが先生に依頼をする話。キリコはラストに出ます。私自身は今の社会のヤクザを肯定できないんですが、創作物、フィクションとしての任侠ヤクザやいわゆる極道は好きです。大抵かっこいいから。リアルではノーサンキューですね。

「3000万で命が買えるんだ。安いもんでしょうに」
 相手が誰であろうと強気で傲慢な顔を崩さない。噂に聞いてはいたが、かなり難物と言えそうだ。俺の事務所──聞こえはいいが要はヤクザの巣だ──でソファにふんぞり返り、脚を組む女は蓮っ葉な態度を貫いていた。ハッタリかどうかは判断できない。それくらい堂々たるものだった。
「言っちゃ何だが、3000万円ってのは決して安い金額じゃないだろう。はいそうですかって出せるものじゃない」
 俺はできるだけ穏やかに交渉を進めた。最近のヤクザはこんなもんだ。聞こえのいい任侠の気概を持ったヤクザなんぞほとんどいない。今やドがつく底辺のチンピラの集まりか、俺の組のようにインテリ方面へ舵を取るのが精々だった。俺の舎弟たちも一応そんなもんだが、俺も舎弟たちも根っ子は所詮任侠を忘れた現代ヤクザ、暴力団だって自覚はある。
 それを目の前の女は知らないんだろうか。仲介人の話じゃ相当の修羅場をくぐっていて、海外のマフィアのボスも一目置いてるだとか何だとか。強気なのはそのせいかもしれないが、少なくとも今の時代、まだ海外のマフィアが日本のヤクザに影響力をもたらせるものじゃない。要は俺たちからすれば大して用心するような相手じゃなかった。
「馬鹿言っちゃあいけない。3000万円で私の手術が受けられるんだ。それだけで破格ですよ」
「随分な自信だな。証明は?」
「あんたが手術させたい患者が治れば証明できるでしょうな」
 俺は目の前のモグリの女医を睨まないように気を付けながら話をする。後ろの舎弟たちの目がどうなっているかは知らないが、少なくとも俺より短気な連中であることは確かだ。
「順番がおかしいな」
「ご不満なら他の医者に頼むといい。私は慈善事業をやっているわけじゃないんだ」
「あんたが手術しないとなると、俺の舎弟の命はどうなる?」
「カルテを見た限り、半年で腸が腐る。そこからは長くない」
「見捨てるのか」
「とんでもない。3000万で責任を持って手術をするし、その後の経過もしっかり見ますよ」
「それが破格か?」
「破格。アフターケア込みで私の腕が買える」
「あんたの言い値だろう。もう少し利口になる気はないか」
「私の値段は私が決める。利口になるのはおまえさんだよ」
 後ろの舎弟たちの導火線がじりじりと焼け焦げて行く音が聞こえる、ような気がする。正面から見えているこの女に分からないはずがない。ところが不遜な態度は変わりやしない、むしろにんまり笑って小馬鹿にしているのを隠そうともしない。
「先生」
 俺は一応、親切心を見せておくことにした。こんな成りでも一応女だし、気を付けるべきことは自覚させておいてやった方がいい。むしろ傷や肌で見逃す奴も多そうだが、この女、かなりいい女だ。こんな態度で闇を生きて来たって? どうせ何度も痛い目を見ているだろうに、学習してないんだろうか。女に言うことを聞かせるのなんざ簡単だって。
「あまり強気に出ない方がいい。散々痛い目を見てるんじゃないか?」
「さあ? ただ、今のおまえさんと同じことを言いたがる三下を散々見て来たことは確かだね」
 後ろの一人が動こうとした。俺が軽く手を挙げたら止まったが、明らかにこの女を敵だと認識した。インテリぶったって暴力団、こんなもんだ。
「単刀直入に言うんだが」
「どうぞ」
「俺はあまり、女が可哀想な目に遭うのが好きじゃないんだ」
「そう言う男は多いね。よく知ってる。口だけだってことも」
「俺が何を言ってるのかも分かってるんじゃないか?」
「私をレイプして言うことを聞かせたいんだろう。覚醒剤でも打つかい?」
 女はにやにや笑っている。頭がおかしいんじゃないだろうか。それとも慣れ切ってるだけなのか。どっちにしろまともじゃない。
「うちは薬だけはやらないんでね。女はともかく」
「だろうね。そうじゃなきゃ──との繋がりなんかとっくに切れてるだろうさ」
 俺は耳を疑った。舎弟たちも同じだ。全員息を呑んだと言ってもいい。今、この女は信じられない名前を口にした。
「あそこの親分は薬だけは許さないからね。まあ、女への暴力も相当厳しくしてるらしいが」
 日本最大の任侠ヤクザ、昔ながらの極道が集まる組を統率する、俺たちの間じゃ伝説のような男の名前だ。
 いいや、ハッタリだ。いいや、この女なら有り得る。俺は顔に出さないように必死で自分を抑えながら迷いに迷った。もしハッタリなら許されない、どんな目に遭わせたって誰も文句は言わない。
 だがもし本当だったら──たった一人、女の身でここにいる女が、一気に俺たちの上位に立ったことになる。
「あんた、ハッタリだったら俺たちに何をされても文句は言えねえぞ」
「おや、本性が出なすった。最初からそう言やあいいのに」
「はぐらかすな。あの人の名前を交渉に使おうなんざ、この世界で許されると思ってんのか」
「何ならここで電話してやろうか」
「馬鹿言うんじゃねえ。ハッタリもいい加減にしろ」
「朝、少し話をしたよ」
「何だって?」
 女はにんまり笑う。その瞬間、俺は本能で察した。動揺した。
 負けた。
 負けたんだ。この女の手回しと人脈は俺の想像を超えていた。
「おまえさんの事務所へ行くって話をね。ここまでの道が分からなかったから、あの人ならご存知かと思って」
 俺は思い出そうと必死で考える。とにかく考える。冷や汗を通り越して脂汗が噴き出ていた。俺の動揺を見た後ろの舎弟たちが慌てる気配が分かる。
 まずい。──まずい。思い出せ。この女はどうやってこの事務所に来た?
 そうだ、ここに来た時、どうやって来たんだって俺は訊いた。別に深い意味はなかった。世間話のようなものだった。歩いて来たのか車で来たのか、そんな程度の話だった。あの時、この女は──そうだ、この女が答えたのは──
「車で来たんだ」
 そうだ、同じことを言った。車で来たんだ。それから、──そうだ。
「運転手付きのね」
 同じことを言った。あの時、俺は適当に返事をしておいた。闇医者ってのは運転手を雇えるくらいに儲かるんだな、程度の返事だった。気付くべきだった。
 脂汗が止まらない俺に、女は笑った。今度は勝利を確信した、邪悪で醜悪な笑みだった。
「道が分からないって言ったら、わざわざ車を出してくれてね。──言い忘れてた。私が無傷でこの事務所を出なければ、運転して来てくれた若い衆が様子を見に来ることになってる」
 元々あるツギハギの傷はカウント外だよ、と女は笑った。くそ、と俺は呻いた。女はまた笑った。俺の脂汗は引くことがなかった。スーツの下のワイシャツどころか、上着までじっとり濡らして行く。女が親切めいた声を出した。
「具合でも悪いのか? 10万で診てやるよ。舎弟の手術の信用お試しにどうぞ」
「いい気になりやがって。あの人の笠を着てるだけじゃねえか」
「そうとも。でも忘れちゃあいけない、笠を借りたのは私が出した結果だよ」
「何をした」
「守秘義務ってものがあるんでね」
 それで大体分かった。この女はあの人かその身内の、他の医者では手に負えない病気か怪我を治したんだろう。あの人なら死ぬまで恩人として扱うはずだ。
「あの人からも3000万、奪ったのか」
「それよりいいものを」
「何をもらった」
「おまえさんも今見てるじゃあないか」
「何?」
「笠」
「患者の命を盾にして奪った笠か」
「さあねえ?」
 俺はまた、くそ、と呻いた。女が楽しそうに声を上げて笑った。それからまた、にやにやとした笑みを浮かべて俺を見た。このクソ女、本気でむかつく顔をしやがる。
「おまえさんからは借りる笠もない」
「はっきり言ってんじゃねえ」
「だから金なのさ。金以外の対価を示せるなら聞くよ」
「ねえよ」
「正直で結構」
「3000万だな」
 舎弟たちはまだ動揺していたが、俺が手を打った──手首を掴まれて無理矢理打たされたようなもんだ──と知るや、今度は別の動揺が広がっていた。だが良くも悪くも俺に全ての判断を任せているこいつらは、それ以上何もしなかった。
 すると女は不意ににやついた顔を収め、俺に静かに言った。
「カルテを。それから早急に本人に会う必要がある。はっきり言ってあまり時間がない症状だと考えて欲しい。全て急ぎになる」
 俺の脂汗が、今度は一気に引いた。俺の目の前にいる女が医者の顔をしていた。急に理解できた。この女なら救ってくれる。俺の舎弟を必ず救ってくれる。俺の舎弟、──俺の弟を。
 親に捨てられてからずっと、この道に生きるしかなくなってもずっと、一緒に生きて来た俺の弟を、この女なら救ってくれる。
「先生」
 笠に着てたんじゃない。急に、本当に急に理解した。その医者の顔を見ただけで理解できた。本能。やっぱり本能かもしれない。でも俺は確かに理解した。
 奪った笠を着てたんじゃない。
 あの人が、笠を貸したんだ。
 考えてみれば当然だ。いくら命を救われたとしても、あの伝説のような人が、日本最大の組の威厳にも関わるような笠を奪われるはずがない。奪われるくらいならいくらでも金を払うはずだ。
 目の前の女は、それほどの医者なんだ。
「よろしくお願いします」
 俺は深く頭を下げた。後ろの舎弟たちが戸惑った後、それでも頭を下げたことが分かった。
 女が言った。
「全力でやりますよ。心配しなさんな」
 俺も舎弟たちも頭を上げられなかった。もういいよ、と女が困った声を出したから、やっと上げられた。女の困った顔を見て、俺は少し驚いた。変な言い方なんだが、何て言えばいいのか──可愛い顔、って言えばいいのか。あの傲慢で強気だった女の顔じゃなくて、そこら辺の、もしかしたらそこら辺の女よりも可愛いらしい表情だ。
「──あのね、ちょっとわたし、限界なのよ。やっぱりヤクザって怖くって」
 深く息を吐いて嘘のようなことを言う。嘘だろう、馬鹿にしてんのか、と思った俺は一瞬で消えた。はっきり言えば焦った。本気で焦った。俺だけじゃなかった、後ろの舎弟たちも一斉に大慌てだった。
 何だ、この女。信じられねえ。さっきまでの顔はどこに行った。本気で俺たちを焦らせるなんてとんでもねえ。
「あ、その──いや、先生、悪かった、すまなかった」
「いいけど。でもちょっと休ませて。落ち着きたいから」
「ああ、うん、もちろん──お茶は? コーヒー? 甘い物が欲しければ──」
 我ながら理解できないほど慌てている。舎弟たちもどたばたと動き始める。この女が怖がってる、って思ったら、急に酷いことをしたような気分になってしまっていた。
 そうだ、慣れてないんだ。俺たちはこういう女に慣れていない。普段から相手にする女は、強気なヤクザの女や媚びる女ばかりで、そうだ、こういう──何て言えばいいんだろう。こういう、「そこらへんの普通の女」に慣れてないんだ。
「でもよかった、親分の言った通りだったわ」
「あの人が? 何を?」
「信用できる若い奴らだって。親分がそう言わなかったら来なかったわよ、まったく」
「それは──」
 また俺は必死になる。今度は嬉しさの余りにやけそうな口元を抑えるためだ。一度だけ、組を超えた集まりで言葉を交わした。それだけなのに、あの伝説の人が俺たちをそんなふうに思っていてくれていたなんて。
 女は──ブラック・ジャックはにこりと笑った。
「電話を貸して。親分に連絡したいの。きっと心配してるから」
 わたしと、あなたの弟さんのことをね。そう言って笑う女が驚くほど綺麗に見えた。
 それからBJはあの人に本当に電話をかけて、信じられないくらい親しく話していた。もっと信じられないことに俺に受話器を渡した。俺だけじゃなくて舎弟たちまで緊張した。
『先生が引き受けてくれたそうだな。良かったじゃないか。必ず良くなる』
 伝説の男に言われた俺は目頭が熱くなる。笑うな、ヤクザなんてこんなもんだ。世間から避けられる存在でも、俺たちの世界は俺たちが必死で作って必死で守って、憧れを支えにすることだってある。
「ありがとうございます。先生を怖がらせてしまって、それが申し訳なくて」
『怖がらせたか、そうか』
 受話器の向こうで伝説の男が大笑いした。俺たちの未熟振りを笑われてるんだ、と俺は思った。でもそうじゃなかった。
『そりゃあ演技だよ。あの先生はな、使い道のない男の前じゃそういう振りをする。堂々と利用されるようになったら一人前だ。可愛く甘える振りをしてくれるぞ』
「……え」
『おまえさんたちはまだ、利用する価値もないって先生に思われてるだけだ』
 借りる笠もない。そう言い切った傲慢な顔を思い出した。──くそ、畜生、冗談じゃねえくらいに悔しい。
 それはともかく丁重に礼を言い、俺は電話を切った。舎弟が急いで買って来たケーキを可愛い顔でぱくついてる女を振り返る。
「あの人が言ってた」
「あら、何を」
「利用する価値もねえ男の前じゃ怖がる振りをするんだって?」
 BJは俺をしばらく眺めた後、思い切り溜息をついて、ケーキを手掴みで口に押し込んだ。あっという間に可愛い顔は消え去って、またあの傲慢な顔になる。口元と指をケーキについていた紙ナプキンで綺麗に拭い、それから飄々と言った。
「なあんだ。親分ったら、あっさりバラしたんだ」
「少しは悪びれる顔でもしてみろよ」
「親分がおまえさんたちに期待してるってことだよ、馬鹿」
「ああ?」
 眉を跳ね上げた、我ながら凶悪な俺の顔に怯みもしない。くそ、本当に騙しやがったのか。
「この遊びが分からない奴は男としても三流ってことだ。分かる男はいい男だし、笠を借りたくなるもんだよ。親分と話す機会があったら訊いてみるといい」
「あのな、そう簡単に話せる相手じゃ──」
「簡単じゃなくても話す機会を作れよ。私を出汁にすりゃあいいだろう。親分ともっと話してみたいくせに」
 俺は言葉に詰まる。確かにその通りだ。BJは続けた。
「あの人と話せたらいい勉強になるよ」
「忙しい人なんだし、俺なんかが──」
「言い訳をつけて、できることをしないのは自分の成長を妨げるだけだ。そんな男、スタートラインにも立っちゃいない」
「説教なら結構だ」
 言いながら、俺は電話をしようと決めていた。あの番号にかけるのは凄まじく緊張するだろうが、この女を出汁にすれば話せることがあるんだ。
「利用したいくらい、いい男になれよ。それまでは私を利用すればいい。利用料は3000万の中に入れておいてやるよ。初回の特別サービスだ」
 BJが楽しそうに笑った。俺は苦笑した。他にどうすればいいのか分からなかった。この女に利用されるくらいにいい男になれば、苦笑する以外にできることがあるのかもしれない。
「組長、先生の運転手が来て──」
 事務所を中々出て来ないBJを心配したのか。途中で舎弟の出入り──ケーキを買いに走らせた──があったから余計に疑われたかもしれない。
「ああ、入れろ。何もするなよ」
「はい。それと、もう一人いて」
「もう一人?」
「ガイジンなんですよ。運転手が言うには先生の旦那って──」
「結婚してない」
 BJが微妙に訂正した。
「何だ、早いな。あの早漏め。もういっこケーキ食べたかったのに」
 咄嗟に理解できない俺の前でBJは残念そうに呟き、箱の中のケーキを覗く。呆れた俺は言うしかなかった。
「持って帰れよ」
「やった、ありがと。話が分かるね、おまえさん」
「愛人?」
「私の最後の男」
「ふうん」
 ガイジンの恋人か。綺麗な顔立ちだが傷だらけの女と付き合う男ってどんな奴なんだろう。あと、早漏って聞こえたような気がしたが気のせいか。
 ちょっと興味を持った時、運転手役のあの人の組の若い男と、それから、俺の人生ではあまりお目にかかれないような、隻眼の白人男が入って来た。背が高い。
「マフィン、いつまでかかるんだ」
 日本語が上手い。BJと歳が離れてるのは分かる。ひとつだけの目は綺麗な青だ。髪は銀、ここまで完全な銀髪は初めて見た。それから悔しいことに、随分といい男だと思った。要は美形だ。映画俳優みたいな男だった。
「もう帰る。ケーキもらった」
「脂肪の友かよ」
「うるさい、馬鹿」
 BJから鞄を当然のように受け取りながらキスをする。なるほど、ガイジン男だ。着ているスーツは仕立てがいい。ピンクのネクタイなんてけったいな物をしているのに、洒落ていると思わせる着こなしは到底真似できそうになかった。
「じゃあまた。明日までにカルテと患者に会う手配を頼むよ」
「分かった。──本当に怖がってなかったんだな?」
「気にしてんのか」
「まあ、一応な」
「全然。借りる笠もなけりゃ怖がらせる威もありゃしない三下が自惚れなさんな」
「くそ、今に見てろ」
「じゃあね」
 BJが笑いながら出て行く。銀髪の男が後から歩き出し、すぐに止まって、それから俺を振り返った。
 息を呑んだ。
 認めたくなかった。だが俺は速やかに認めた。認めるべきだ、と本能がまた言ったからだ。底辺から組を持つまで生き延びられた理由は、少しばかり本能が鋭かったからだと思ってる。その本能が言っている。
 いいや、叫んでる。
 こいつは危険だ。
「怖がらせた?」
 こいつには勝てない。
「怖がる振りをされた。演技だ」
「ふうん」
 また脂汗が出た。ひとつだけの青い目が、俺を無機質に見詰めていた。
 認めたくなかった。それでも速やかに認める。
 怖い。──この男が怖い。
「あの組の親分に確認してくれていい。何もしてない」
 こいつはきっと、俺を簡単に殺す。
 敵に回してはいけない。本能的にそう思った。
 男はそれ以上何も言わず、俺をしばらく見詰めるだけだった。時間にすればほんの数秒かもしれなかった。だが俺には数分にも、数時間にも感じられた。舎弟たちが動くこともできず、息を呑んで見ていることが分かった。
「そうか」
 男がそう言った瞬間、俺は本気で息を吐いていた。舎弟の手前、あまり見せたい姿じゃなかった。だがどうしても我慢できなかった。男から危険な色が消えたからだ。殺されない。そう思えた。
 それから、男は薄い笑みを口元に浮かべてみせた。品のある笑みは多くの人間を魅了するだろう。今の俺には死神の微笑みにしか見えないとしても。
「良い患者と良いご家族であるように」
「──そうする予定だよ」
「お大事に」
 男は静かに言い置き、やっと部屋を出て行った。
 俺は深く深く息を吐いてソファに沈む。今日は脂汗をかいてばかりだ。このワイシャツもスーツももう捨ててしまおう。
「組長、大丈夫ですか」
 舎弟が声を掛けてくる。明らかに男に呑まれた声だったが、責める気になれるはずがなかった。男に怯えた俺にはその資格もない。
 急に悔しくなった。
 あの女にくれてやる笠もない。利用される価値すらない。殺されると怯えた。たった一日でいくつもの屈辱を立て続けに味わった。
 俺の弟は助かる。それはきっと間違いない。
 そして俺は3000万をあの女に払う。代わりにくれてやれる笠がないのだから、そうするしかない。
 悔しくなった。こんな悔しさは久し振りだった。
「利用される男に」
「え?」
「あの女に、利用される男になりてえなあ」
 心底から言った俺に、舎弟は少し困ったような顔をした後、遠慮がちに言った。
「惚れたんすか?」
「──馬鹿野郎、冗談でも言うんじゃねえ」
 特にあの銀髪のガイジンの前では。あの男はきっと、敵と認識した人間を排除していく。そんな目をしていた。──排除していける目をしていた。俺たちより余程ヤクザのような真似が似合いそうだった。ガイジンならマフィアか。
 死神のようなあの微笑で、きっと惚れた女を守るために、もしくは惚れた女に手を出そうとしたオスを視界から消すために、あの男は簡単に俺を、敵を排除するだろう。
 俺はもう一度呟いた。電話をしようと思いながら。
「利用される男になりてえなあ」
 いい男に。あの女にくれてやる笠を持てる男に。
 銀髪の死神を、恐ろしいと思わなくてもいい男に。

SSとか

Posted by ringorira