余裕のない朝にコーヒーを淹れられても

SSとか

殴り書き。「チキチキチキータ」をキリコに言わせたかっただけかもしれない。

 大幅な寝坊と言うほどではないが、少し急がなければ予定に遅れそうな時間に目が覚めた。普段なら俺がそれなりにこだわって作り上げた朝のルーチンを楽しむところでも、時計が気になる時にはやめておいた方がいい。まだ眠っているBJをベッドに残してバスルームへ行った。
 シャワーから出るとBJも起きていて、珍しくコーヒーを淹れてくれた。ありがとう、後で飲むよと言い置いて寝室へ戻って着替えをする。
 BJもキッチンから上がって来て、もたもたと着替えを始めた。こいつは今日、予定がない。お嬢ちゃんに土産を買って家に帰るだけのはずだ。俺は本業が入っている。
 BJには今日の仕事が安楽死だと言っていない。今日は話を聞くだけの予定だし、患者の状態次第では患者にブラック・ジャックへの依頼を勧めるかもしれないが、それは俺の判断だ。まだBJに言う必要はなかった。
 寝室から続くウォークインクロゼットでスーツを選んでいると、ねえ、と呼ばれた。決めたスーツを持って寝室に戻り、何、と返事をする。あまり時間がないな、と時計を見て思った。
「どっち?」
「うん?」
 BJが呑気にリボンタイを2本示す。俺の家にはBJの私物も随分と増えた。特に何かを言うつもりはなかった。元々俺は恋人の私物が家の中に増えて行くことが好きなたちだった。
「どっちがいいかな」
 紅と青、両手に持って見せて来る。どっちでもいいだろうと思ったが、少し言い方を変えておいた。
「どっちも似合うよ」
 さて、本当に時間がない。ドレスシャツを着込み、スーツのボトムを履いてアスコットタイを手に取る。BJはまだ悩んでいる。
「どっちかなあ」
 本気で悩んでいるようだ。そう言えばどちらも誂えたばかりだったはずだ。この家に置いておきたいからわざわざ新調したと聞いた。可愛い奴だと思ったものだ。
「キリコ」
「うん」
「どっち?」
 だからどっちでもいいだろう、俺は忙しいんだ、見れば分かるだろう。そう思ったが、やっぱり少し言い方を変えた。
「気分で決めるといい」
「うーん」
 アスコットタイを締め始め、俺がアンダーウエアだけの時からタイで悩んでいる奴より早く締め終わりそうだと予想した。それは正しかった。俺がアスコットタイを締め終えても、BJはまだ2本のリボンタイで悩んでいた。
「キリコ」
「うん」
「選んでよ」
「どっちでもいいよ」
 スーツの上着を着込みながら、変えきれなかった言い方が終わらないうちに内心で溜息をついていた。俺の馬鹿め、やらかしちまった。急いでいたのにこれはない。日本語で何て言ったかな、そうだ、急がば回れ。
「マフィン」
「いいよ」
「悪かった」
「どっちでもいいもん」
 たちまち顔を曇らせていじける女の空気の読めなさ、身勝手さ、恋愛への幼さたるや。
「マフィン」
「コーヒーも飲まないし」
「悪かった。出る前に飲むつもりだったんだ」
 正直に言えばお手上げだ。可愛くて。ああ、盲目で結構だとも。
 本当に時間がないのに放っておけないことになる。こんな顔をさせておきながらそのまま放って出掛けられるほど、俺は勇気のある男ではいられなかった。
 こんな時のお約束より少し手っ取り早い方法で機嫌を取りに行く。もちろんBJには決して手っ取り早いなどと知られてはいけない。最低と言うなかれ、恋人と何もかも分かり合うことと、恋人に何もかもバレるということは、全く別の次元の話である。
「マフィン」
 返事をしない。想定済みだ。さて、現実として時間がない。滅多に使わないスペイン語にご助力頂こう。
「チキータ、チキチキチキータ?」
 小さいお嬢ちゃん、超すごいかわいこちゃん? 後半は声を高くしてふざけて呼んだ。スペイン語独特の発音が転がるように聞こえて面白がられる発声だ。単語の意味も合わせてかBJが噴き出した。よし、ご機嫌取りほぼ完了。
「何それ」
「悪かった、キスしてくれよ、チキータ?」
 スペイン語で俺が言えば、はいはいと笑い混じりのスペイン語で返って来る。互いの母国語ではない言語を挟むと思考作業が一段階増えるせいか、冷静になりやすい女だった。
 それはともかく、ご機嫌取りの続行だ。少し丁寧なキスをすればあっという間に機嫌を直す。俺も大概慣れたものだ。
 すぐに機嫌を損ねる女のご機嫌取り。BJと一緒になるまでは、まさか自分がこんな男になるなんて想像もしていなかった。それを思った以上に幸せだと思う自分がいたことも。
「よし、マフィン、今日は青だ」
「青?」
「タイを見るたびに俺を思い出せる。Bleh!」
 右目の下瞼を指で下げて瞳の色を強調し、日本で言うところのアッカンベェとばかりに軽く舌を出してみせると、BJは笑って「じゃあ青にする」と言いながら紅のタイをしまう。
 時間がない。それでも丁寧に青いリボンタイを整えて、それから仕上げのキスをした。ふふ、と機嫌よく笑いながらBJが俺にキスを返す。これにてご機嫌取り完了。完璧。いや、最後にひとつ。
「ステンレスマグに移さないと」
「何?」
「コーヒー。飲んで行く時間がないから車で飲むよ」
 出る前に飲むつもりだったが、予定外のご機嫌取りがその時間を奪った。俺の申し出がお気に召した女はまた笑う。
「私がやるから車を温めに行けば?」
「最高だ、チキチキチキータ!」
「それやめて、面白すぎる」
 笑い転げながらBJは寝室を出て、コーヒーの用意をしに階段を降りて行く。俺は密かに安堵の溜息をついた。これにて本当に完了。
 さあ、本当に時間がない。コートを着てアイパッチをつけ、速足でガレージに行き、車のキーを回してエンジンを温め始めると、マグを持ったBJが家から出て来た。
「ハン、言い忘れてたの。許してくれる?」
「許すって? 何を?」
 珍しく俺をペットネームで可愛らしく呼ぶ恋人にキスをしてマグを受け取る。するとBJはにんまり笑った。俺の感性からすれば「ろくなことを考えていない笑顔」だ。
「今日の安楽死の依頼、昨日の夜に電話して私がもらった」
「──クソビッチ」
 依頼の手紙を見やがったのか。書斎に置きっぱなしにしていた自分を恨む。それにしてももう手を回したって? ふざけやがって、このモグリの無免許医。
 口論前の沸き上がる激情を近所の手前どうにか堪える。
「だったら早く言え、手間かけさせやがって」
「おまえさんが私に話を振るのを待っていてやったんだ。いつまでも言いやしないし。行動が遅いんだよ、早漏のくせに」
「早漏じゃねえ。家に入れ、話がある」
 怒鳴りたい気分を必死で抑えて呻いた俺の我慢強さは、もっと積極的に世界から称賛されるべきじゃないだろうか。
「午後にアポイント。暇になったんだから送ってくれるでしょ、ハン?」
 天才外科医の傲慢な顔でBJは笑い、そのくせわざとらしい甘え声を出してみせる。
 心底腹が立つ。
 それでも心底可愛いと思うんだから、俺も大概末期ってやつか。

SSとか

Posted by ringorira