いい兄さんの日の書きかけ
高校時代のユリから見た休暇での帰省中のおにいちゃん。思ったより長くなりそうなネタになったので間に合う気がしなくなり途中まで。ベトナム戦争が始まる直前あたりですね。祖先の出身地とか所属師団とかメディカルスクール云々とか全部捏造です。続きはいずれ。
冷え込みに辟易し始める日々が始まっている。昨夜の燻りをかき混ぜて探し出し、リビングの暖炉に火を入れると、ユリは冷え込んだ家の空気をものともせずにバスルームへ駆け込んだ。どんなに寒い日でも登校前のシャワーは欠かせない。絶対わたしに似合ってる、と信じているソープのシリーズで全身を洗い上げ、充分に温まってからバスルームを出た。途端に寒気に襲われる。急いで服を着てドライヤーを引っ掴み、そろそろ温まっているリビングへ急いだ。
父はもう起きている。規則正しい生活をする父は、髪はランドリールームで乾かすようにと朝一番の小言を言った。明日からそうするわと返事をし、ユリは暖炉の前に座り込んでドライヤーを使うという、何とも贅沢な真似をする。
「にいさんは? もう帰って来たんでしょう?」
「23時過ぎにね。おまえはよく寝ていたが」
「軍隊の時間表記なんて嫌いよ」
「夜の11時だ。──キリーの前で言ってはいけないよ」
「そんなの分かってる」
兄が軍から一時帰宅することはいつも嬉しい。だが家の中に軍の気配を持ち込まれるのは嫌いだ。アメリカで軍人になることは家の誉れ、国の誇りといえど、ユリはどうしても素直に賛否する気になれない。ハイスクールで最近仲の良いクラスメイトが軍事力を理路整然と批判するからかもしれなかった。
髪を乾かしてから二階の自室へ駆け戻り──父の小言が飛んだような気がしたが聞こえないことにした──クローゼットをひっくり返して服を探す。
大きな襟が印象的な上品なワンピースを引っ張り出し、素早く着替え、メイクを終えてから姿見に映して細部をチェックした。他の女の子より全然綺麗、と自画自賛した。それは実際に正しいことであり、自画自賛よりも客観的な評価と言った方が正しいのかもしれない。
「ジャッキーだってわたしほど綺麗じゃないわ」
鏡の中の自分に嘯いてみたが、自分しかいない空間でありながら、それはちょっと言い過ぎたかもしれないわね、とすぐに苦笑するはめになった。時の大統領夫人に対抗しようなどと、少々自惚れが過ぎる。
身支度を整えて一階に降りると、家政婦が用意してくれた朝食を前に、父が娘を待っていてくれた。
「先に食べればいいのに」
「事情もないのにそんなことをする必要はないさ。それに、おまえは目を離すとすぐにお祈りを忘れる」
「目の前のご馳走が信仰心を吹き飛ばしちゃうのよね」
父と共に食事への祈りを済ませ、いつも通りの朝食に手を付ける。祖先の出身地である北欧風の朝食は子供の頃から変わらない。トーストした薄い穀物パンにレバーペーストを塗って齧り付き、ダイエットを気にしてサーモンはいらないと家政婦に言った。心得た彼女は微笑んで頷いてくれたが、父は難しい顔をしていた。
「にいさん、起きないのかしら」
「帰って来た翌朝くらいは寝かせておいてやるんだな。軍医はハードな仕事だ」
「ふうん」
厳格な父の譲歩に、ユリは曖昧な返事をしておいた。メディカルスクールを出て、後は医者として一生安泰だったはずの兄が、なぜわざわざ軍医の道を選んだのか分からない。その件で入軍する直前まで父と延々と口論していたことは知っていた。
父は兄に家業の医院を継いで欲しいはずだということも知っている。ただ、いまだハイスクールの学生の身分にすぎない自分が口を出して良い問題ではないと思っていた。この家はそういう家だ。納得して生きているし、いつか自分で看護師として身を立てた時、きっと父や兄の口論に混ざることができる。
「ただいま。おはよう」
半分眠った声で、正しいのか正しくないのか判断しかねる挨拶をしながら兄が食堂へ現れた。ユリは満面の笑顔で「おかえりなさい」と言った。兄は笑い、妹にキスをしてから自分の席につく。家政婦がすぐに一人分の朝食を用意した。
「いつ帰ってきたか分からなかった。寝てたから」
「遅かったからな。11時も過ぎてたし」
「23時?」
「入軍するなら口を利いてやるよ」
「いやあだ」
ユリはちらりと壁時計を見る。そろそろ学校へ行く時間だったが、兄が起きて来たのなら遅刻をしたくなった。数ヶ月振りに会うのだから構わないはずだ。本当なら一ヶ月後のクリスマス休暇まで帰ってこないはずなのに突然帰って来ると聞いた時には、驚きと喜びで文字通り飛び上がったものだった。
「いつまでいられるの?」
「一週間くらいかな」
「急な休暇よね。びっくりしちゃった」
普段は離れた駐屯地にいる兄が目の前にいると、嬉しくてつい話してしまう。クラスメイトの女子にブラザー・コンプレックスと言われる程度には、ユリは兄が好きでたまらない。──格好よくって頼りになって、たまに意地悪だけど、いつだってわたしの味方でいてくれるんだから。
「クリスマスは? 今帰ってきたら──」
「ユリ、時間だ」
父が穏やかに、だが厳しい声で行った。もう学校へ行く時間だ。だがユリは、今日くらい、と父に反抗したくなる。反抗したところで無駄であることは分かっていても、どうしても言いたかった。だが先に兄が言った。
「送ってやる。あと15分くらい構わないよ」
「──不戦勝だわ!」
飛び上がるほど嬉しくてたまらない。不戦敗を突きつけられた父は厳格な顔を保つことに失敗し、やがて苦笑して、「今日だけだ」と宣言した。彼の子供たちにとっては珍しすぎる勝利だった。
兄の話を聞くと言うよりも、ユリの近況を話すばかりだった。それでも兄はうん、うんとずっと聞いてくれて、いつの間にか朝食を平らげていた。今度こそ時間を言い渡されたユリは父に感謝のキスをし、派手に飾り付けたスクールバッグを持って兄の車に乗り込む。
何かと誘ってくるクラスメイトの少年たちが誰も持っていないような洒落たオープンカーで、スクールバスを追い越して学校へ行くのは悪くない。バスの中から親友のミリヤが手を振ってきて、得意げに振り返しておいた。
信号待ちでバスと並ぶと同時に窓が開き、ミリヤが「ユリ!」と笑顔で怒鳴る。
「あんたの自慢のおにいさん!? 帰って来たの!? めっちゃかっこよくない!?」
「帰って来たの! かっこいいでしょ! ミリヤ、狙うなら痩せなさいよ!」
「かっこいいけどさ、あたしの趣味じゃないわよ!」
「何ですって!? あり得なくない!?」
運転席の兄は苦笑するばかりだ。スクールバスからの視線を集めたまま、信号が変わると同時にアクセルを踏んだ。シートベルトを締めていなかったユリは慣性でシートに沈み込み、ワンピースの裾が乱れ、最低なんだけど、と呟きながら直したのだった。兄はまた苦笑して、ハンドルを片手にタバコに火を点けた。わたしを好きって言う男の子もこれくらい格好よければいいのに、と思った。
正面玄関前で車を降りる。ユリはその美少女振りが学校でも有名で、ただでさえ目立つと言うのに今日は格別だ。登校する生徒たちは漏れなく学校一の美少女とその兄に注目し、警備員は溜息をついてから近寄って来る。
「おはよう、ユリ」
「おはよう。兄よ。送ってもらったの」
「きみが嘘をついているなんて思わないが、俺の仕事でね。──社会保障番号が分かるものを見せてもらえる?」
形式通りの要求をすると、兄は「ここ」と微笑んでから胸ポケットを指で示した。警備員は頷き、そこに銃がないと確認したよと言う意志を伝え、やっと兄はカードを見せた。この国の人間なら持っていて当然の、そしてお決まりのやり取りだ。
「仕事は?」
「警備員は警察がやってるのかい」
「きみの妹はこの学校のクイーンなんだ。不安要素は調べておかないとね」
「軍医。第4歩兵師団」
「──失礼を許してくれ。仕事なものでね」
「何も問題ないよ」
「一昨年、第7師団を退役したんだ。よく分かってる」
「ありがたいね」
第4歩兵師団、そして軍医の地位を知る元軍人の警備員は、学校の女王様の兄を無害だと断定した。士官学校卒、叩き上げに関わらず、この時代のエリートが揃う師団の軍医ともなれば別格だ。
返された身分証明書を再びしまい、車から飛び降りるユリのスカートの裾の翻り方に眉を顰めながら、兄は「迎えは?」と問う。ユリは破顔した。嬉しくてたまらなかった。
「3時半にここに来て。ミリヤも乗るかも!」
「分かったよ。ちゃんと勉強しろよ」
「少しくらいならね」
兄に家族のキスをする。周囲の視線が心地よいほど自尊心を満たしてくれて、ユリは笑顔で兄の車を見送ったのだった。
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